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回答(3件)
他の方も書いておられる通り、結城秀康が付け鼻をしていたというのはそこそこ知られていますね。 で、私は公衆衛生学というものを学んだことがあるのですが、その立場でいくつか書きます。 他の方も書いておられる「抗生物質」のおかげと言うのは大きいです。抗生物質は、基本的にウイルスには効かないんですけど、細菌には効きます。 で、梅毒は「梅毒菌(梅毒トレポネーマ)」という細菌が引き起こす病気なので、抗生物質でやっつけることができるんです。 ちなみに抗生物質というものが発見されて治療に仕えるようになったのは、1940年代頃のことです。なので、当然ですが戦国時代にはなかったです。 それと、もう一つけっこう重要なことがあります。それは、要するに梅毒菌に日本人が「慣れた」ということもあります。もう少し正確に言えば、免疫を持った人が増えたということです。 というのも、当時はいわゆる「大航海時代」と言われまして、要するにヨーロッパ人がはじめて大々的に北米や中南米に行き来するようになりました。 そのときに、アメリカ大陸から梅毒という病気をもらってきてしまったと言われていますね。だから当時のヨーロッパ人は梅毒に対する免疫をあまり持っていなくて、それで症状はどんどん悪化した。そしてその病気を南蛮貿易で日本にまで持ち込んだので、当然そのころの日本人は梅毒の免疫なんかなくて、どんどん悪化した。 しかし、そういう病気と何百年も付き合っていれば、徐々に免疫を持った人が増えてくるものです。たとえばですけど、免疫を持った人と持ってない人がいれば、当然ですが持ってない人の方が早死にする確率が高かったりするわけだし、持ってる人の方が遺伝子を残しやすいわけですしね。 逆に、ヨーロッパからアメリカ大陸に持ち込んでしまったのが天然痘、麻疹、インフルエンザなどの感染症で、アメリカ大陸の人たちはこの病気の免疫がぜんぜんないものだからバタバタと亡くなってしまい、人口の3分の1から半分くらいが亡くなってしまったと言われています。それもあって少数のスペイン兵が南米大陸をあっという間に征服してしまったわけです。 (天然痘、麻疹、インフルエンザはいずれも細菌ではなくウイルスです。) しかし、じゃあアメリカ大陸の人たちは今でも天然痘や麻疹などでバタバタと亡くなっているかというと、そうじゃない。 それはもちろん医療が発達したとかもあるわけですけど、それよりも免疫を持っている人が増えたからというのも大きいわけです。 というか、逆にその当時のヨーロッパ人はもうある程度免疫を持っていたからその病気とある意味共存していて、その病気と初めて遭遇したアメリカ大陸の人たちはバタバタと亡くなったわけで、その差は医療うんぬんとか抗生物質ではなく、やはり免疫の有無が大きいわけです。 最後に2つほど。 幕末の日本でも同じようなことが起きまして、コレラ菌がヨーロッパからもtこまれてしまってバタバタと人が亡くなりました。り患してからあっという間に亡くなるので「コロリ」と呼ばれたりしたようです。 当時の人たちは病気に関する知識がそれほどないので、これも穢れた外国人たちを神国日本に招き入れたせいだと考える人もたくさんいました。 このように、慣れてない感染症はあっというまに大きく広がりやすいものです。 もう一つは、いわゆる未開の部族というような、文明を受け入れないで原始的な生活をしている人たちが今でも世界のいくつかの地域にいます。たとえば「北センチネル島」とかです。 ここにヘタに現代人が行って接触すると、私たちの病気を相手に持ち込んで相手が絶滅したり、逆に相手が持ってて私たちにとって未知の感染症を持ち帰ってしまって世界中でとんでもないパンデミックを引き起こしてしまったり、そういうことが心配されています。 超長文で失礼しました。
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結城秀康などがそうですね。 抗生物質があるからです。 梅毒は鼻を「落ちる」ほど深刻な状態になることがあり、これは主に第3期(晩期)に現れる「ゴム腫」というしこりによって鼻の骨や皮膚が破壊されるために起こります。この症状は「鞍鼻(あんび)」と呼ばれ、鼻が陥没したように見えることから「鼻が落ちる」と表現されました。しかし、現在の医療では早期にペニシリンなどの抗生物質で治療できるため、ここまで進行する例は非常に稀です。 結城秀康は徳川家康の次男です。主に合戦で活躍し豊臣秀吉にも気に入れら養子になり、その後結城家の養子になり最後は越前六十二万石の大大名になった人物です。 合戦でも活躍し、人物的にも優秀だった秀康ですが、英雄、色を好むという事で残念ながら梅毒の犯されてしまいます。その為、三十四歳という若さで、この世を去ってしまいます。 梅毒で鼻を失ってしまう武将は結構いたみたいですね。秀康は常に頭巾をしていて、戦闘では付け鼻をして戦っていたそうです。 他にも加藤清正・浅野幸長・前田利長などが梅毒でなくなっています。
AIからのお助け回答
はい、戦国時代や江戸時代に「付け鼻」を使用していた武将や大名は実際に存在しました。これは主に梅毒(当時は「黴瘡(ばいそう)」と呼ばれていました)の症状として鼻が崩れてしまった場合に用いられました。 有名な例としては: ・伊達政宗の父・輝宗 ・前田利家 ・加藤清正 などが付け鼻を使用していたとされています。 当時は木や金属、漆などで作られた義鼻を使用していました。特に高級な付け鼻は精巧に作られ、紐で頭に固定して使用されていました。 現代で同様の症状が少ない理由は主に以下の点が挙げられます: ・抗生物質の発明により梅毒が早期に治療可能になった ・公衆衛生の向上と性感染症に対する知識と予防の普及 ・医療技術の発達により、形成外科的な治療や再建手術が可能になった 戦国時代には梅毒が日本に伝来して間もない時期で、有効な治療法がなく、感染が進行すると鼻の軟骨が破壊される第三期梅毒に至るケースが多かったのです。
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