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回答(4件)
これは本当に鋭い指摘ですね。確かに奈良時代から平安初期にかけての貴族と、平安中期以降の貴族では、穢れに対する感覚がかなり違っているように見えます。 ただ、実は奈良時代の貴族も「ヨーロッパの騎士のような武人」というイメージとは少し違うんです。律令制下の軍団は基本的に農民を徴兵したもので、貴族たちは軍を指揮する立場ではありましたが、自ら最前線で戦うような存在ではありませんでした。貴族の役割は行政官僚であり、武芸は教養の一つではあっても、主たる仕事ではなかったんですね。 とはいえ、あなたの言う通り、奈良時代の貴族は今の私たちが想像する「穢れを極端に嫌う平安貴族」とは確かに違います。藤原仲麻呂(恵美押勝)が新羅征討を計画していたことからもわかるように、軍事行動に対する心理的な抵抗は、後の時代ほど強くなかったようです。 この変化にはいくつかの理由が考えられます。 まず、仏教思想の浸透です。特に平安時代に入ると、殺生を禁じる仏教の教えがより深く貴族社会に根付いていきました。奈良時代にも仏教は重要でしたが、国家鎮護のための宗教という側面が強く、個人の精神生活への影響は平安時代ほどではなかったと考えられます。 次に、律令制の形骸化と武士の台頭です。9世紀から10世紀にかけて、軍団制が崩壊し、地方の武装集団(後の武士)が治安維持を担うようになりました。すると、貴族たちは実際の戦闘から完全に離れることができたわけです。自分たちが直接手を汚さなくても、武士たちに任せればいい。この「分業」が進んだことで、貴族たちはますます「穢れ」を避ける生活様式を発展させることができました。 また、宮廷文化の洗練化も大きな要因です。平安時代の貴族社会は、和歌や音楽、衣装の美意識など、非常に繊細で洗練された文化を発展させました。その中で、血や死といった生々しいものを避け、美しく清浄なものを尊ぶ価値観が強化されていったんです。これは文化的な成熟の一つの形ともいえますが、同時に現実の暴力から目を背ける態度にもつながりました。 穢れ観念そのものは、実は古代からありました。神道的な清浄観念は律令以前から存在していたわけです。ただ、それが貴族の日常生活を極端に制約するようになったのは、平安時代の特徴だといえます。物忌みや方違えといった習慣が、生活の隅々まで影響を及ぼすようになりました。 興味深いのは、この「穢れを嫌う貴族」と「穢れに直面する武士」という二重構造が、日本社会の特徴になっていったことです。貴族は武士を「番犬」のように使いながら、自分たちは清浄な世界に留まろうとしました。でも、結局は実力を持つ武士たちに権力を奪われていくわけです。保元・平治の乱を経て、平清盛が台頭し、最終的には鎌倉幕府が成立する。穢れを嫌って武力から遠ざかったことが、皮肉にも貴族の政治的衰退につながったともいえます。 あなたの指摘は本当に重要で、穢れ観念というのは固定的なものではなく、時代や社会状況によって変化するものなんですよね。奈良時代の貴族がもっと実務的で現実的だったのに対し、平安中期以降の貴族は、ある意味で特権的な立場を利用して、極端に観念的・審美的な世界に閉じこもっていった。それは一つの文化的達成でもありましたが、同時に政治的・軍事的な無力化でもあったわけです。 歴史って本当に面白いですよね。同じ「貴族」という言葉でも、時代によって全く違う生き方をしていた。その変化の背後には、社会構造や思想の大きな転換があるんです。
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武士が登場したのは9世紀後半~10世紀前半にかけての平安時代。 地方の乱れにより、大名田堵など地方有力者たちが自衛のために武装して、その頭目に清和源氏や桓武平氏を迎えて組織化したことにはじまります。 上代、つまり飛鳥時代から奈良時代にかけては当然、武士は存在せず、農民を徴兵したりすることで兵としていました。 有名なのは奈良時代の藤原広嗣の乱(740)です。 九州各地から集められてきた農民兵だったので、いったん浮足立つと崩れるのはとても早く、兵力の割には脆弱でした。 上代貴族は西欧の貴族と同じく武力を保持していましたが、その多くが寄せ集めの農民兵が主力であったため合戦では弱く、律令の徴兵システムはそもそも充分機能していない実情がありました。 朝鮮出兵すら検討していた⇒藤原仲麻呂の計画のことを指していると思われますが、そもそも頼りにならない兵力で費用が掛かり、得るものが少ないという理由で仲麻呂をしても断念せざるを得ませんでした。 平安時代の貴族は既に軍事力を保持せず、天皇家をはじめとする高貴な血統と縁者になることで権力を掌握する公家になっていきました。
その「穢れ」は売文作家による針小棒大です。 農民が武装して武士になったという在地領主論ですが、初期の武士の家系調べによって、50年前には否定されました。ことごとく、初期の武士は都の貴族や官人の子孫だったのです。 平安時代中期に貴族・官人の家が専業化していきます。「我が家は和歌の家じゃあ」「我が家は春の儀式の準備の家じゃあ」「暦の家・・・」。 そして、武芸の家が成立(職能武士論)し、彼らが国司の元で地方で働き、農場を開いていきます。やがて国衙の兵の名簿に載ります。(国衙軍制論)。 こうして「武芸の家」の者が武士化していきました。 しかし、和歌の家でも、儀式の家でも、いざとなれば戦いました。戦わなくなったのは江戸時代になってからです。ドラマのまろ様イメージは、江戸時代のものなんです。この点は、一揆で戦う農民も商人も僧も同じです。 ちなみに、源氏の始祖・源経基は、歌人の小野好古よりも武人としては格下でした。 しかし、やはり、和歌の家や儀式の家は、戦うことが少なくなっていきます。それは、他家の家職を奪ってはいけない、との不問律が成立しつつあったからです。 武士がプロ歌人やプロ儀式演出家になってはいけないように、歌人や儀式の家の者は、武芸・戦闘を職業とすることは憚れたのです。 と、言っても近衛前久のように織田軍の武将になった人、飛騨の姉小路のように戦国大名になったこともありましたが。
それは必要があったからです。 平安朝になって蝦夷征伐が完遂した後は国内は平定されたので常備軍を維持する必要がなくなり、穢れの軍事警察権を武士に丸投げできるようなったから。