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『虚数の情緒』はスゴ本

Kyosuu

 一言なら鈍器。二言なら前代未聞の独学書。中学の数学レベルから、電卓を片手に、虚数を軸として世界をどこまで知ることができるかを追求した一冊。

 「スゴ本」とは凄い本のこと。知識や見解のみならず、思考や人生をアップデートするような凄い本を指す。ページは1000を超え、重さは1kgを超え、中味は数学物理学文学哲学野球と多岐に渡る。中高生のとき出合っていたら、間違いなく人生を変えるスゴ本になっていただろう。

 ざっと見渡しても、自然数、整数、小数、有理数と無理数、無理数、素数、虚数、複素数、三角関数、指数、関数と方程式、確率、微分と積分、オイラーの公式、力学、振動、電磁気学、サイクロイド、フーリエ級数、フーコーの振り子、波動方程式、マックスウェルの方程式、シュレーディンガー方程式、相対性理論、量子力学、場の量子論を展開し、文学、音楽、天文学、哲学、野球に応用する、膨大な知識と情熱が、みっちり詰め込まれている。

 それも、教科書的な解説とは180度ちがう。日本の知力と品性を憂い、勉学の喜びを熱く語り、あらゆることに疑問を持ち、学び考えよと説く。「本書を疑い、自分自身を疑え」とまで言い切る。大上段な振りかぶりと、時折はさむオヤジギャグが鼻につくが、これほどエネルギッシュな独学書は初めてだ。

 最初の動機付けとして何ページも費やし、なぜ勉強するのか、いかに勉強するのかを力説する様に触れているうち、よっしゃこの1000ページ、踏破してやろうじゃないのとヤル気になってくる。

 最もユニークなのは、「電卓を使え」と言うところ。中学生なら手計算を重視するという考えこそが有害で、電卓を駆使せよと命じてくる。単純計算でできる部分は電卓に任せ、手を使わなければならないところでは手を使えという。

 その理由は序盤ですぐに分かる。ピタゴラスの定理を扱うにあたり、無理数を電卓で計算させてくる。当然、普通の電卓では桁落ちが生じる。ここが重要だ。電卓に任せられる有効数字と、その先を知る必要があるのなら容赦なく手を使わせる。つまり、どこまで知りたいかによって、電卓で済ませるか、式変形で桁落ちを回避するか、戦略が生じてくる。その見極めがもの凄く上手い。

 そうやって電卓を叩いて表を作り、手計算で項をまとめ式変形をする。そんな実際的な計算を続けていくうち、虚数という存在や輪郭が、次第次第に明瞭なものとなり、手で触れるぐらいの近しいものとなってくるという仕掛け。数学と天文学と物理学の歴史を振り返りながら、人類が世界をどのように抽象化していったかを、きわめて具体的な計算によって炙り出す。それが、本書の狙いなのだ。

 ど真ん中が圧巻だ。全数学の合流点として、自然対数eの虚数乗を求め、虚数単位を指数で表す。虚数の虚数乗を求め、幾何学との関係を探り、三角関数を経てオイラーの公式につなげる。人類の至宝とも呼ばれるオイラーの公式eiπ=-1を、電卓で捻じ伏せるところなんて凄まじい。本書のクライマックスといってもいい。

 類がないユニークさと、具体性と面白さを兼ねている一方、疑問点も沸いてくる。

 たとえば厳密さ。式や計算について厳密さを求める一方で、自論の粗に気づかない。数学と文学が混交するテーマとして、「言葉はどれくらい存在するのか」という問題を取り上げる。言葉を文字数で分解し、それぞれ階乗との関係から調べてゆく。いろは歌が48文字だから、全ての言葉の数は次の合計となるという。

 1文字の場合 48語
 2文字の場合 48*47語
 3文字の場合 48*47*46語
 ……

 あれ? 「い」一つとっても、井、胃、異と大量にあるが、同音異義語を一つに丸めているのがいただけない。さらに、1語は1回限りの制限をかけ、濁音、拗音、撥音を無視している。数学的には厳密さを追求する代わりに、日本語への雑さが目立つ。遊びとしては面白いが、意味がなく、中途半端感だけが残される。

 あるいは、数学や物理学の実在性について。振り子やサイクロイドの振動から得られるデータを元に計算を重ねると、そこにπやiが登場する。その不思議さには、もう驚かない。なぜなら、円や方程式を扱い計算を重ね、一定の式に収束させる以上、円や虚数解を示すための何か(=πやiなどの記号)が必要だから。

 したがって、様々な物理現象を計算させ、どこかで見たことのある式が浮かび上がってきても、それは既に分かっていることの確かめ算にすぎない。物理学の本質は、観測対象のモデル化である。数学はそのモデリング言語である。

 だから、「観測できる」「計算できる」対象を抽出して式変形したものは、その過程が複雑であればあるほど不思議だが、驚きはない。薔薇を「薔薇」という言葉で「薔薇だ」と言っているに過ぎない。薔薇と「薔薇」の間には沢山の言い換えがあったとしても、指しているものは人に把握できる範疇のモデルなのだから。

 世界に対して人が把握できるものを選択し、観測し、形式化したもののうち、再現性のあり有用な(技術に活用できる・他のモデルと合併できる・過去のモデルを包含している)モデルが、物理学なのだ。つまり、物理学と数学への理解を深めることが、「人が分かることのできる世界」を拡張することになる。

 そんな自問自答を抱えながら、1000ページを駆け抜ける。実をいうと、後半はほとんど理解できていない。「電卓を叩け」と言っているが、痛勤員電車では無理というもの。計算結果がそうなるのかと確認する程度で、ヘトヘトになりながら、かろうじて最後までたどり着いたといったところ。

 たとえば、「光は波か粒子か」といった問いが出てくる。著者は、複素ベクトルを用いて波動方程式を説明し、ヤングの実験で示された結果を、波のベクトルとして式にする。本書をきちんと理解しながら読み、電卓を叩き、手を動かしてきた者であれば、難なく分かるだろう。だが、手を動かすのをさぼったわたしには、どこかで聞きかじった知識レベルでとどまっている。

 だから時を措いて再読しよう。試験もレポートもない。知はいつでも待っていてくれるのだから。

 最後に。本書は、404 Blog Not Found の小飼弾さんの[伝われ、i - 書評 - 虚数の情緒]で俄然読む気になり、挑戦と挫折を繰り返し、よしおかさんの[虚数の情緒読了:バーチャル読書会やりたい]でブーストして、ようやく最後まで行けた。小飼さん、よしおかさん、ありがとうございます。こんなすごい本にめぐりあい、知る喜び(と苦しみ?)を味わうことができ、本当に感謝しています。いつかこの本について、いろいろお話を伺いたいです。

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