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物語とは物騙り「パラダイス・モーテル」

 狂気のなかに置き去りにされる恐怖。

パラダイス・モーテル 物語がさしだされ、受け取る。"ふつうの物語"では、語り手は後ずさりしながら去っていったり、なれなれしく近づいてきて同化しようとしたりする。ところが本書は、受け取った物語をあらためているうちに、語り手は忽然と消えてしまう。かなりグロテスクな物語を、信頼できない語り手が紡いでいるなぁという第一印象はかき消えて、狂った世界に取り残される。

 読む前と世界は一緒なのに、見るわたしが異質化したような感覚。これは嫌だ。

 「お話」そのものは、よくできている。ある日、ある町のこと。四人の兄弟姉妹が学校で腹痛を訴える。様子があまりにもおかしいので、診たところ、体に何か埋め込まれている。それは、バラバラにされた彼らの母の体の一部だった。そして埋め込んだのは、その夫、つまり四人の父である外科医だった―――という語り。

 だがこれは、本書の語り手=主人公が祖父から聞いたというお話。その祖父も、若い頃に知人から聞いたというお話……と入れ子構造となっている。しかも、主人公はこの語りの真実性を求め、四人の兄弟姉妹の行く末を探し出そうとする。そこで見いだされる、それぞれの「お話」が多重の語りとしてさしだされる。

 たとえば、車にはねられて記憶を失った女が、創作された偽の記憶を信じる話―――ここまでは「ありがちな都市伝説」として済むかもしれない。が、この偽の記憶は本物だったという話。彼女が"思い出し"た「夫」「家」「職場(教師)」は、確かに実在していた―――しかし、誰も彼女のことを知らなかった。と二重三重に語りに騙される。

 あるいは、未開の部族に捕らえられた男の話。そのシャーマンによって、体中に小さな孔を開けられ、そこに苗木を埋め込まれ、ジャングルに放置される。苗木は男の体液を吸って成長し、男はジャングルと一体化する至福を味わうが―――しかし、誰がその語りを聞いているのか。すべては伝聞という形でいったんは示されるが、中の語りは「わたし」で統一される。誰かが語りを騙っているのか―――多重の入れ子によって虚構性が強調されるが、どこまでが語りで、どこからが騙りなのか分からない。

 異常なキャラクターたちは、すべて語り手に収束する。モノローグでありつつ、別の視線でもって自らを眺め、描写する異様な視線は、あのシャーマンのようだ。補足すると、先で紹介したシャーマンの片目は頭の後ろに結わえられている。子どもの頃から十年の歳月をかけ、左目を眼窩からひっぱりだす。じわじわと視神経をのばしていって、ついには眼球が左耳の後ろにくるようにするという。だから、前後ろを一緒に見ることも可能だし、あるものを見つつ、同時に見ている自分を見ることも可能になる。このシャーマンの"気持ち悪さ"を上書きするような読書。

 真実と、もっともらしい作り話とのあいだの壁が薄くなり、たやすくとっぱらわれる。世界の統一性は一瞬のうちにぐらつく。物語は虚構だと分かっていればいるほど、その虚構につきあっている自らが危うくなる。そんな読書をどうぞ。

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