「疫病と世界史」はスゴ本
感染症から世界史を説きなおしたスゴ本。
目に見えるものから過去を再現するのはたやすい。事実、書簡や道具から過去を再構成することが歴史家の仕事だった。が、この一冊でひっくり返った。「目に見えなかったが確かに存在していたもの」こそが、人類史を条件付けていたことが、この一冊で明らかになった。
著者はウィリアム・マクニール、名著「世界史」で有名だが、本書では、感染症という観点から世界史を照らす。欠けている部分は推理と計算を駆使し、見てきたかのような想像力を見せつける。それは、面白いだけでなく、状況証拠を示すことで強力な説得力を併せ持つ。
本書の結論はこうだ。
人類の出現以前から存在した感染症は、人類と同じだけ生き続けるに違いない。人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続ける。
本書は、宿主である人と病原菌の間の移り変わる均衡に生じた顕著な出来事を探っていく。帝国や文明の勃興・衰亡レベルで影響を与えていた微生物の侵入経路を暴き、手記の間にこぼれ落ちそうなトリビアルも、疾病の観点からピックアップする。それぞれのエピソードが劇的につながっており、ページを繰る手が止まらない。人類史とは疫病史、ヒトが病気を飼いならす歴史なのだと改めて認識させてくれる。
ただし、著者が冒頭で告白するとおり、マクニールが敢えてした断定や示唆の多くは、試案・仮説の域を出ない。その病気が何であるかを、書かれたものから同定するのは困難だ。しかも、宗教的プロパガンダにより、なんでもかんでも疫病を「黒死病」という名に丸めることで、特定をより困難にしている。古い文書から、人に危害を加える微生物や寄生生物が何であったかを探り出すことは、ほとんど望み薄だから。
著者は、この難問に「移動手段の発達」と「疫病の地域性」というツールを使う。当時の移動手段(徒歩、馬、帆船)でどれくらいの人数がどこまで到達できるか、というアプローチをとる。例えば、帆船時代は、海があまりにも広すぎたがため、ペスト菌が拡散するより前に宿主を殺してしまっていた。汽船の出現が船脚と容量を増すことにより、感染が長時間循環できるようになり、海は突然、かつてないほど通過しやすい場所になったという。
また、1817年インドにおけるコレラ流行の真相を突き止める。それまで風土病として徒歩圏内に留まっていたパターンが、イギリスによって押し付けられた通商上・軍事上の移動パターンと交差したからだと解き明かす。それまでは、感染して歩けなくなったというヒトの肉体的な限界が、コレラを封じ込めていたのだ。
さらに、病気の地域性が、文化や制度を条件付けていたことまで踏み込む。カースト制度が発生した原因は、いわば疫学的疎隔意識とでもいうべきものがあったのではないかと考察する。これは、天然痘など文明に伴う病気が好例となる。小児病として感染し免疫のあるアーリア人の侵入者が、インド東南部の高温多湿ではびこっている風土病への耐性を獲得していた土着の「森の種族」と出会ったときを想像する。そこに生じた、互いに相手を避けようとする態度が一般化したのだという論考は、検証しようのないものの、なるほどと思わせる。
著者は、「記述がない」ことの重要性を指摘する。ただ一つの記録しかない場合は無理だが、複数のソースを手繰りながら、この「あぶりだし」は使える。この手法で、三世紀にローマ帝国の諸民族を荒廃せしめたこの病気の正体を「天然痘」と「はしか」だと結論づける。
「天然痘」と「はしか」に罹ったならば、体の外側に劇的な症状が出る。ところが、ヒポクラテスやその後継者の著作には、その痕跡すら見つかっていない。症状を正確に記述している著作にそれがないとなると、ヒポクラテスはこの病に出会っていないはずだ―――このように、「ない」を積み重ね、「あった」と突き合わせていく様は、推理小説の謎解きのように楽しい。
ペストがどのような経路をたどって中世ヨーロッパを襲ったかの検証は、ユーラシア大陸を股にかけている。著者は欧州ではなく、まず中国に目をつける。中国に災厄がもたらされた時期と、十数年の時間差を経て欧州に到ったことを考える。そして、仲介役はフビライ汗が率いる騎馬民族と、ヨーロッパ~イスラム圏の海上輸送手段だと結論づける。
この、イーグルアイからグローバルな見方と、数十年数百年をワシ掴みにする把握力は、「銃・病原菌・鉄」を思い出す。いわば"人類の格差"をテーマにしたスゴ本だ。この著者ジャレ・ド・ダイアモンドは、ひょっとしてマクニールの本書を読んでいたんじゃないかと思わせる箇所もある。
たとえば、免疫を身につけるため必要な過程を、人口の稠密化にしているところ。一人から別の一人へと感染が広がっていくほど、人の出会いが頻繁に行われるためには、共同体がいわゆる文明化されている必要がある。つまり、規模が大きく、複雑な組織を有し、人口密度が高く、都市を中心とした共同体が条件だという。そこでは、中間宿主なしに、病原菌が直接ヒトからヒトへ移動する。はしか、おたふく風邪、百日咳、天然痘など、普通の小児病として罹っているからこそ、耐性が生じるというのだ。
そして、メキシコ文明やアンデスの諸文明に壊滅的な打撃を与えたのは、征服者たちの武器ではなく、彼らが持ち込んだ病気だという。子どもの頃に感染し、免疫があるスペイン人は、一方的に神の恩寵に浴しているとみなされていたに違いない。インディオがあれほどやすやすと恭順の意を示し、キリスト教に同化していったか、推して知ることができる。この展開、マクニールとダイアモンドは同じに見える。
だが、ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」において、この展開に乗せる前提条件のあぶりだしが面白い。大陸の陸塊の形態から考察している。Google Earth のような人類史「銃・病原菌・鉄」を参照してほしい。
いっぽう、マクニールはメタファーがユニークだ。微生物がヒトの体内で生息する様を「ミクロ寄生」と呼び、ヒトが地表で都市を築く「マクロ寄生」として対照化させている。地表を開拓し、住み良い環境に作り変えようとする人類の営みと、肥沃だが危険を孕んだ人体に寄生しようという病原菌の営みが、オーバーラップしてくる。世代を経て"賢く"なりながら、寄生先から搾取をすることは、ミクロでもマクロでも変わらない。
「面白い」は不謹慎かもしれないが、本書がもたらした視座がとてもユニークだ。ともすると、過去に「今」を見ることができる。「移動手段の発達」が、徒歩、馬、帆船、汽船、そして飛行機と進むにつれ、ほとんど爆発するように感染域が拡大する。飛行機に乗ったトリインフルエンザは、これまでの疫病とは比べ物にならないスピードを誇って良い。
同時に、感染サイクルが二極化しているように見える。これまで1週間の潜伏期間が数日で発症する感染症にとって代わったのは、稠密化されたところまで数日でたどり着けるから。このままだと、感染して数時間で発症するようなウィルスでも、文明化された地域でなら「やっていける」だろう。また、ヒト側の対策も充実している「数日~数週間サイクル」を捨てて、何年も潜伏するような戦略をとるウィルスもでてくる(たとえばHIV)。エイズについては、本書の冒頭にあてている(というのも、執筆された1976年は知られてなかったから。それくらい「新しい」疫病なのだ)。
エイズについてのマクニールの見解は、過去のものに見える。曰く、「ゲイの性的乱交の増加、静脈注射による麻薬使用者がHIVを広めた」といい、今後は小数の向こう見ずな個人だけが危険だという。社会階層の両極端―――富裕層の自分には関係ないと信じている若者と、極貧の落ちぶれた人―――に分化して集中すると予想する。梅毒について起こったことと同じことが起こりつつあるというのだ。
だが、この予想とは裏腹に、社会全層にわたって広がり、新規HIV感染者数は年々増加傾向にある。また、Wikipedia:後天性免疫不全症候群を見る限り、全世界的な問題だろう。一時期は、「激増」「爆発的」といった表現も使われたが、これも当たらない。無症状期間が5~10年と長期にわたるため、気づかれないまま広まって、HIVにとっての収穫期が「今」なのだろう。
本書の大部分は、疫病が人類を規定する様が語られる。人と疫病は、あるバランスの上で"共存共栄"してきたともいえる。WHOが天然痘の根絶宣言をしても、エボラ出血熱やSARSなど、新しい疫病が待ちかまえている。ヒトという、ウィルスにとって"肥沃な"場所がある限り、感染症は、人類にとっての基本的なパラメーターなのだ。
本書の読了後、Wikipedia:感染症の歴史を読むとスゴい。「ペスト」や「コレラ」や「インフルエンザ」など、感染症ごとに歴史をまとめている。「疫病と世界史」が、より人類史的なマクロ視座である一方、百科全書的Wikipediaも興味深く読める。
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