「チベット旅行記」はスゴ本というより、スゴい人の冒険譚
著者は、河口慧海(えかい)。明治時代の坊さんで、鎖国中のチベットに単独で入国した最初の日本人だそうな。ロクな装備もないのに、氷がゴロゴロする河を泳ぎ、ヒマラヤ超えをする様子は、「旅行記」ではなく「冒険記」だな。
ではこの坊さん、どうしてチベットまで行かなければならなかったのか?
慧海が25歳のとき、漢訳の一切経を読んでいて、ある疑問に突きあたったという。漢訳の経典を日本語に翻訳したところで、はたして正しいものであるのか? サンスクリットの原典は一つなのに、漢訳の経文は幾つもある。同じ訳もあれば、異なる意味に訳されているものもある。酷いのになると、まったく逆の意義になっている。
サンスクリット語の原典 → 漢訳 → 日本語訳
翻訳をくりかえすうちに、本来の意義から隔たってしまっているのではないか? それなら原典にあたろうというわけ。インドは小乗だし支那はアテにならん、だから行くという。
まるで三蔵法師!こいつバカスギー笑いながら読む読む。住職を投げ打ち、資金をつくり、チベット語を学び始める。周囲はキチガイ扱いするが、本人はいたって真剣。しかも、普通に行ったら泥棒や強盗に遭うだろうから、乞食をしていくという。
この実行力がスゴい。最初は唖然とし、次に憤然としているうちに、だんだんと慧海そのひとに引き込まれる。これはスゴい人だ、と気づく頃には夢中になっている。ヒマラヤの雪山でただ一人、「午後は食事をしない」戒律を守る。阿呆か、遭難しかかってるんだって!吹雪のまま夜を迎え、仕方がないから雪中座禅を組む。死ぬよ!
と、前半がツッコミどころ満載のボウケンジャーで、後半はチベット入国後のハラハラドキドキ話になる。というのも、支那の僧に化けているため、いつバレやしないかとヒヤヒヤものだから。捕まれば死刑。
さらに、学識もあり医術の腕もたつので、周囲がほうっておかない。ラサの大学に入学し、評判を聞きつけたダライ・ラマに会うことになる。身一つでここまでくるとは… どこかの立身出世物語を読むみたい(実話だけど)。
チベット文化の紹介もスゴい、というかヒドい。今はもちろん改まっているだろうが、当時は――
- 体を洗い清めないことが至上とされた。「一度も体を洗ったことがない」が自慢話になる。だから、垢で真黒な顔をしている
- けれども、手のひらだけは白い。なぜか? チベットでは、麦こがし団子が主食だから
- 団子を作るとき、それぞれ、手のひらで練って丸める
- つまり、麦こがし団子には少なからず垢が練りこまれている、という寸法
しかし、そんな日々も終わりがくる。日本人であることがバレて…とここから急展開する。追っ手を逃れ、5つの関所を知恵と勇気で突破する脱出譚は、ハラハラドキドキ、手に汗握る。にもかかわらず、自分のことなのに恬淡と書いている。とぼけているというよりも、腹括っているんだろうねぇ… 器の大きさをしみじみ実感する一冊なり。
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コメント
記事と全く関係ない話題で申し訳ないが、個人的にスゴいと思った本を紹介しておきます。
去年発売された「紗央里ちゃんの家」という本で、パラサイトイヴなどと同じ、日本ホラー小説大賞の応募作です。特別グロかったりしたわけではないのですが、出てくる人間や文体がとにかく「イって」ます。
ストーリー的にはたいした面白みがないにも関わらず、なぜか背筋が震え、肌寒さを覚える小説でした。
もしかしたら既読かもしれませんが、サイト内検索で引っかからなかったので、一応挙げておきます。
投稿: フライングスパゲッティモンスター | 2007.10.15 16:23
>> フライングスパゲッティモンスター さん
オススメありがとうございます、記事の内容如何にかかわらず、どこでもオススメしちゃってください。
> ストーリー的にはたいした面白みがないにも関わらず、
> なぜか背筋が震え、肌寒さを覚える
ここに惹かれました、ぜひ「紗央里ちゃんの家」を読んでみようかと。
投稿: Dain | 2007.10.17 06:07
>> フライングスパゲッティモンスター さん
Dainです
読みました…が、期待しすぎたのかもしれません
「イッ」てる度合いや肌寒さは、ふつうでした
(姉との会話は楽しかったです)
選考委員のコメントで、荒俣宏がH.ジェイムズを引き合いにしたのは誉めすぎでしょう
ちょっと刺激が強いかもしれませんが、一人称の「イッ」てるものなら、
「夏の滴」(桐生祐狩)
「ポップ1280」(ジム・トンプスン)
あたりをオススメします
もっと狂った感じがほしければ、(王道ですが)「ドグラ・マグラ」がいいかも…
投稿: フライングスパゲッティモンスターさんへ | 2007.10.23 00:03