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パパはときどき、おおかみの姿をしてやってくる

「本当は恐ろしい子どもの本」の続き。離婚してパパがいない家の子はどんな風に「パパ」を感じるのかを、「アカネちゃんとお客さんのパパ」を読みながら考えてみる。

「モモちゃんとアカネちゃんの本」シリーズ5冊目。アカネちゃん3才、モモちゃん10才、パパとママは、アカネちゃんが赤ちゃんだったときに「おわかれ」をしている。

結論。どこにも書いていない←どうして「おわかれ」することになったのかも。ふたりの娘にどう説明したのかも、一切書いていないし、娘も問わない。「どうしてうちにパパがいないの?」ってね。きっと禁忌なのだろう。

そして、パパはときどき、おおかみの姿をしてやってくる

(アカネちゃんがひとりでお留守番していると…)
ピンポーン。
チャイムが鳴りました
「はい、らっちゃいませ」 はいってきたのはおおかみでした。
「パパでしょ、パパおおかみ」
「そうだよ、アカネちゃん、おたんじょう日、おめでとう」
パパおおかみは、パパの声でいうと、段ボールのおうちで、あぐらをかきました

自分が最も信頼しているオトナである「ママ」の言うことは絶対だろう。どーいう風に「パパのこと」を説明したかは分からないけれど、アカネちゃんは「パパ」をおおかみだと受け取っている。ママの感情的なわだかまりが「おおかみ」に比喩化したんじゃぁないかと。しかし、童話にでてくるおそろしいオオカミではない。パパの声をして、ママの子守唄と同じ唄を歌ってくれる、やさしいおおかみ。

パパは、実はおおかみの皮を被っている。「羊の皮を被ったオオカミ」ではなくて、オオカミの皮を被ったパパ。その証拠にパパは、アカネちゃんのリクエストで皮を脱いだりしてみせる。たとえオオカミの姿をしていても、お客さんのパパでも、パパはパパ。アカネちゃんはママにこういう。

「お客さんのパパね」
「え?」
「アカネちゃんのパパも、お客さんのパパだよ」
「え? そう?」
「あのね、アカネちゃんのパパ、おおかみになってくるよ。お口をすこしあけて、さびしいおおかみなの。おー、おー、こういう声でお話するの」
ママはだまって、きいていました。
「でも、よそのおうちのパパ、お客さんじゃないよ。いつもいるよ。アカネちゃんおパパも、いつもいてほしいの
「……」
「ママ、パパにいってね」

でも、それからずっと後になってもパパはアカネちゃんのうちに帰ってくることはない。父親がいないことがデフォルトの日常。父親不在の「理由」を問うことは許されない。それは「パパとママとのあいだのこと」なのだから。お姉さんのモモちゃんのほうがよく分かっている。この長いお話の中で全く父親のことを言及していない。パパは「お客さん」でしかないのだから。ユーゴスラビア映画で、強制収容所送りにされた父親を「パパは、出張中」と言いつくろう母の話があったっけ。

その不在の理由が「死」であったとしても、同じように比喩化されるのだろう… よくある会話として「旅に出た」「もう帰ってこない旅に」「でもアナタのことを嫌いになったわけじゃない」「いまでも愛しているはず」「そして遠くで、見守っている」

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つけたし。「日曜日の学校で」の章はコワイ。淡々と怖い。新耳袋の比じゃねぇ。途中でオチは分かるんだが、それでも怖い。「吉備津の釜」はラストが分かっていても怖い話であることと同様。これは作者の筆力ナリ。

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