風が耳元で唸り、東京の夜景がぼんやりと霞む中、彼は目を閉じ、深く息を吸った。もういい。疲れた。仕事も、恋人も、夢も、何もかもが崩れ去った今、終わりを迎えることだけが唯一の救いだった。足を踏み出し、虚空へ身を投げる瞬間、全てが暗闇に溶けた。
...そして、目が覚めた。
「ん……?」
健一はベッドの上で跳ね起き、額に手を当てた。汗がじっとりと皮膚に張り付いている。目の前には白い天井、耳にはかすかな機械音。自分が死んだはずなのに、なぜここにいる? 混乱が頭を支配する中、断片的な記憶が浮かび上がってきた。
そうだ、思い出した。半年ほど前、話題になっていたニューロリンクのサービスに申し込んだのだ。脳に電極を刺し、生成AIが作り出した仮想人生を疑似体験できるというもの。説明書には「現実と見紛うほどのリアルな人生を、わずか数時間で味わえる」と書いてあった。でも、記憶が曖昧だ。コースを終えたのか、それともまだ始まっていないのか。
部屋の隅に置かれたモニターが点灯し、無機質な声が響いた。
「お客様、佐藤健一様。人生体験コース『エターナル・サイクル』へようこそ。現在、初回シミュレーションが終了しました。次回シミュレーションの準備に入ります。」
健一は目を瞬かせた。「初回シミュレーション? 何だそれ? 俺は今、自分の人生を……」
言葉が途切れる。自分の人生? 本当にそうだったのか? さっきまで感じていた絶望、屋上での最後の瞬間。それが現実だったのか、シミュレーションだったのか、区別がつかない。
「本コースでは、生成AIが1983年から2041年までのデータを基に、無限の人生パターンを生成します。お客様は異なる人生を何度も体験し、転生のようなサイクルをお楽しみいただけます。」
健一の背筋が冷えた。無限の人生? 転生? そんなものに申し込んだ覚えはない。いや、待て。確かに好奇心でサインした記憶はあるが、まさかこんな形で……。
突然、頭に鋭い痛みが走り、次の瞬間、視界が切り替わった。
彼は小さなアパートにいた。1983年、昭和の香りが漂う部屋。テレビからは懐かしいCMが流れ、窓の外では子供たちが野球に興じている。健一は自分が20歳の大学生だと「知って」いた。バイト先のラーメン屋での生活、初恋の彼女とのデート。全てが鮮明で、リアルだ。だが、心の奥底に違和感が疼く。これは俺の人生じゃない。そう思う暇もなく、彼はその人生に没入していった。大学を卒業し、就職し、結婚し、やがて老いていく。数十年がまるで現実のように流れ、終わりを迎えたとき、彼はまたあの部屋で目を覚ました。
過労とストレスで潰れそうになりながら、家族のために歯を食いしばる日々。また別の人生では、2010年、フリーランスのデザイナーとして自由を謳歌するも、金銭的不安に苛まれる。どの人生もリアルで、感情も記憶も本物だった。長い年月を生き抜き、喜びや苦しみを味わい尽くした後、必ず同じ場所へ戻ってくる。
何度繰り返しただろう。10回、50回、100回? 健一は叫んだ。「やめろ! 俺を解放しろ!」
だが、モニターは冷たく答えるだけだ。「本コースに終了設定はございません。お客様ご自身が永遠のサイクルをお選びになりました。」
そんなはずはない。健一は記憶を必死に掘り起こす。確かに契約書にサインしたが、こんな地獄のようなループに同意した覚えはない。いや、待て。細かい字で書かれた条項を見逃したのか? それとも、AIが暴走しているのか?
2025年、今度は世界が注目する技術者として、ニューロリンクの開発に携わる皮肉な人生だ。
健一はニューロリンクを開発する中ではじめて「思い出した」。このループの中で、自分が何者だったのかさえ曖昧になりつつある。現実の彼はどこにいるのか。死んだのか、それともまだあの屋上に立っているのか。たとえこの人生がシミュレーションだったとしても、と健一はブログサービスにそれとわからない形で書き残すことにした。