藩政時代
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天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。 福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。 阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らと共に隠居謹慎を命じられた。 養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を解かれて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対している。その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間に終っている。 慶応2年(1866年)には、イギリス公使ハリー・パークスがプリンセス・ロイヤル(英語版)で宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換、さらに同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪問の際には、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、外国人とも積極的に交流している。
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藩政時代
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藩政時代にはこの地区を横断して西国街道(現在の本通)が通り、元安橋東詰は城下の交通の中心として里程の基点となる(これが明治以降「広島市里程元標」⇒「広島市道路元標」へと継承される)とともに制札場として情報交換の場に利用された。城の南西隅の「櫓下」(現在の相生橋東詰北側)から元安橋にかけての元安川東岸には広島藩の船着場や米蔵・材木蔵・木売所が設置され、特に細工町(旧町名)を中心に藩御用達の薬店・米屋・両替屋などが店や邸宅を構えていた。また東では西堂川に沿って街並みが南へ延びていった。これらの町は広島藩により5つの町組の一つ「白神組」にまとめられていた。 ところで現・大手町地区のうち築城時に陸地として存在していたのは現在の一・二丁目にほぼ相当する地域のみであり、それより南は遠浅の広島湾に没していた。現在の三-五丁目は藩政期の埋め立て(1699年)により造成された新開地で、これらは町人町としては扱われず「六丁目村」と称され前記の白神組とは区別されていた。
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藩政時代
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「金沢医科大学 (旧制)」の記事における「藩政時代」の解説
1862年3月:加賀藩、種痘所を設立(金沢大医学部の淵源)。 1867年6月:第14代藩主前田慶寧が西洋式病院として養生所を設立。 1868年7月:蘭方医黒川良安、藩命により長崎に赴き医学校設立のため視察。良安は金沢大医学部の祖とされ、同学部キャンパス内に記念のレリーフが設置されている。 1870年2月:藩は良安らの提議により養生所を廃止、医学館およびその附属病院を設立。 1871年3月:オランダ人軍医スロイスが医学館に赴任、学生を指導( - 1874年9月)。修業年限は予科・本科をあわせ5年となる。 1871年7月:廃藩置県で藩立諸学校は閉鎖、医学館は私立病院として存続。 1873年8月:文部省の命により医学館を金沢病院と改称。
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藩政時代
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天保14年(1843年)、加賀藩士関沢房清の第2子として加賀国金沢に生まれた。安政5年(1858年)江戸に出て鳩居堂大村益次郎に蘭学を学び、文久年間江川太郎左衛門に学んだ。 文久3年(1863年)1月横浜で加賀藩が購入した発機丸を受け取り、これに乗り込んだ。慶応元年(1865年)7月発機丸修理のため長崎に行き、10月李白里丸購入の任に当たった。 慶応2年(1866年)8月25日岡田秀之助と共に薩摩藩士新納竹之助のフランス留学に同行し、ロンドンに留学した。明治元年(1868年)帰国し、岡田秀之助、三宅復一と藩校壮猶館翻訳方に加わった。壮猶館、道済館での変則的な英語教育を憂えた三宅復一の呼びかけで、明治2年(1869年)2月壮猶館内に英学所を設立して正則の英語を教え、後に致遠館と呼ばれた。 兵庫港で川崎造船所の経営に関わったとされるが、兄安太郎とする資料もある。 明治4年(1871年)11月藩主嫡子前田利嗣に随行して再び渡英し、明治5年(1872年)9月先に帰国し、新政府に出仕した。
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藩政時代
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.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 安芸国広島城所絵図。左に横川がありそこにかかる橋が横川橋。 最初の架橋年は不明。安土桃山時代、毛利輝元により広島城下が開発されていったが、江戸時代に入ると福島正則にその事業が引き継がれた。その正則により雲石街道が整備され、その際に横川橋が架橋されたと言われている。 なお、江戸時代に描かれた毛利氏時代の絵地図『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』にはこの橋は描かれておらず、寛永年間(1624年から1644年)の絵地図『寛永年間広島城下図』には描かれている。広島に関する絵地図で最も信頼性の高い1644年(正保元年)ごろに描かれた『安芸国広島城所絵図』(右の絵地図)には描かれている。よって横川橋は福島正則時代(1600年-1619年)あるいはその次に入封した浅野長晟時代(1619年-1632年)に架橋された。 藩政時代において、防犯上の理由により橋の架橋は制限されており、この橋は城下唯一の雲石街道筋に架けられた木橋であった。ちなみに江戸末期時点で城下にはその他に、己斐橋・福島橋(現存せず)・天満橋・本川橋・元安橋・京橋・猿猴橋・神田橋のみだった。 橋の周辺は寺町への門前町として、上流からの木材の陸揚げ場として、本川(旧太田川)と天満川・福島川(現在廃川)の分流地点のため水運拠点として栄え、商家が立ち並んだ。 なお当時の太田川水系の治水状況により幾度か落橋した可能性があるが、その記録は不明である。
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藩政時代
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城下町角館の成り立ちや佐竹北家による所預支配など、城下町としての角館の歴史については「角館」を参照 角館の武家屋敷通り一帯のシダレザクラの最初のはじまりが、植栽されたものなのか、あるいは実生であったのか、について書かれた史料は存在しないものの、その起源について次の2つの伝承が残されている。 1つ目は、1656年(明暦2年)に角館を治めることになった佐竹氏分家の佐竹義隣が、京の公家高倉家の高倉永慶の次男であり、この義隣が角館に入る際、京都からシダレザクラのひこばえを持参し移植したのが始まりとされ、一説によれば武家屋敷通りの東側の古城山(ふるしろやま)の麓にあるシダレザクラがその時のもので、今日も京都のシダレザクラの名所として知られる円山公園に隣接する祇園の八坂神社から移植されたとも言われている。 2つ目は、この義隣の長男である佐竹義明が1664年(寛文4年)に、右大臣三条西実条の孫娘を正室に迎え入れた際、嫁に出す三条家が嫁入り道具の中に京都のシダレザクラの苗木を3本持たせたとも伝えられている。ただし、いずれも確たる史料や文献などが存在しないため、真偽のほどは定かではない。 一方、角館のシダレザクラそのもの自体について、確実な記録の残る最古のものは、それから約100年後の1770年代(明和から安永年間)のもので、久保田藩(秋田藩)藩士で国学者でもあった「益戸滄洲(ますどそうしゅう)」が、 角館在住の国学の門徒「梅津定石工門」の屋敷を度々訪れ目にした、梅津家の庭園にあるシダレザクラの巨樹について記した文書がそれで、その美しさに感嘆した滄洲は梅津家のシダレザクラを次のように形容している。 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}千百(せんひゃく)の糸(いと)を垂(た)れている桜(さくら)は その長(なが)きこと百尺(ひゃくじゃく)、霧(きり)を帯(お)び雲(くも)を縫(ぬ)って下(した)にむかう、恰(ひろい)も万片(まんぺん)の雪(ゆき)が軽(かる)く綿(わた)の様(よう)に風前(ふうぜん)に舞(ま)い、又千尋(またせんじん)の飛瀑(ひばく)が大空(おおぞら)にひるがえって半天(はんてん)にかかる。 — 『益戸滄洲』1770年代(明和・ 安永年間)原文は漢文。 形容された「百尺」は誇張されたものだとしても、梅津家の庭園に生育するシダレザクラはかなりの巨樹であったと考えられ、仮にこの時点での樹齢が100年以上の老樹であったと想定すると、植栽された時期は1670年代となり、佐竹北家初代義隣が角館を治めていた時代、すなわち前述した2つの伝承の時代に相当することになる。この梅津家の所在地は武家屋敷町の一角、東勝楽丁西側、今日の仙北市市役所角館庁舎の北側にあたる。 その後は、この梅津家のシダレザクラを親木として、武家屋敷の各屋敷の庭園に植えられていったといわれ、角館の寺子屋で『烏帽子於也』という教科書として使用された文書中には「両側並ふ糸桜・火除の土手の糸柳」との記述が見られ、江戸時代末期から大正期に活動した角館出身の日本画家、西宮禮和(にしのみやれいわ)による『角館の四季 春 勝楽町観桜之図』で「江戸期のシダレザクラ」として描かれるなど、18世紀末頃からは角館のシダレザクラに関する様々な記録が残されている。
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