しまづ‐ひさみつ【島津久光】
島津久光 しまづ ひさみつ
鹿児島生まれ。父は鹿児島藩主島津斉興。斉興の長子、斉彬との家督争いに敗れるが、安政5年(1858)に斉彬が没し、自身の長子忠義が襲封すると、国父として藩の実権を握る。公武合体運動の中心的な存在となり、文久2年(1862)藩兵千余を率いて上京。尊攘激派を抑える一方、江戸へ下り幕政改革を推進。帰途、生麦事件を起こし、薩英戦争の引金となる。後、西郷隆盛や大久保利通が台頭すると、かれらに政局をゆだねた。維新後、左大臣に迎えられるが、政府の欧化政策に反対し辞官、郷里に隠棲。
キーワード | 公家・旧大名 |
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島津久光
島津久光
島津久光(しまづ ひさみつ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 18:13 UTC 版)
「SIDOOH/士道」の記事における「島津久光(しまづ ひさみつ)」の解説
薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬の弟。藩の実権を握り公武合体を唱えた。1862(文久2)年京都の伏見の船宿「寺田屋」で薩摩急進派藩士が京都所司代・酒井忠義と関白・九条尚忠の暗殺を企てていた所を襲撃し、10人以上が死亡した(寺田屋事件)だが、倒幕への流れは止まることを知らず過激化し、尊皇攘夷急進派のテロや暗殺が横行した。本編には名前のみ登場。
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