きん‐しん【謹慎】
謹慎
謹慎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 11:53 UTC 版)
慶喜は東海道鎮撫総督府に約束していた江戸退去日時の4月10日に下痢を起こしたため、一日延期されて4月11日明け方に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった。随行責任者は浅野氏祐であり、他に新村猛雄(彼はこの後も長く慶喜家の家扶を務める)、中島鍬次郎、玉村教七、西周ら側近、戸塚文海や坪井信良ら医師、中条景昭や高橋泥舟など精鋭隊士・遊撃隊士の護衛が共をした。松戸、藤代、土浦、片倉を経由して4月15日に二十数年ぶりに水戸に到着した。水戸では弘道館の至善堂にて謹慎した。 慶喜が水戸に到着して1か月半後の閏4月29日に政府は田安亀之助こと徳川家達に徳川宗家を相続させることを決定し、5月24日に家達の領地は駿府藩70万石に決定された。 慶喜が水戸へやって来た頃、水戸藩内では激しい藩内抗争があり、明治天皇の勅書と慶喜の支持を得て力を増した尊皇攘夷派の天狗党が佐幕派の反天狗党派を藩から追った直後だったが、会津へ逃亡していった反天狗党がいつ戻ってくるか分からず、政情不安定な水戸での謹慎は望ましくなく、政府は家達の後見人松平確堂からの進言を容れ、7月10日に慶喜の駿府(静岡)への転居を命じた。 慶喜は7月19日に水戸を発ち、海路で那珂湊まで行き、そこから陸路で鉾田へ行き、再び海路で銚子に到着。21日に銚子の波崎から海路で駿府へ向かい、23日に清水港に上陸した。同日夕方には宝台院に入った。ここで1年2カ月の謹慎生活を送ることになる。また慶喜は家達の養父として徳川宗家の籍に置かれることになった。 慶喜の後年の談によれば宝台院での謹慎中、外出をはばかって中島鍬次郎から油絵を学んだという。 明治元年(1868年)10月に榎本武揚一党が函館五稜郭を占領して立てこもった後、大久保利通や勝海舟は慶喜の謹慎を解除して榎本一党の征討を命じることを提案したが、三条実美の反対で沙汰止みとなった。明治2年(1869年)5月に榎本一党の降伏をもって戊辰戦争は終結した。勝海舟や大久保一翁ら旧臣が三条実美や大久保利通など政府高官に働きかけた結果、9月には慶喜の謹慎が解除された。
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謹慎
「謹慎」の例文・使い方・用例・文例
- ひどく不謹慎な行為
- 何か不謹慎なことがあったのならおわびします。
- 不謹慎な行動に対する弁解を述べる.
- 彼は学校から家へ帰された 《謹慎などのため》.
- 彼は無分別[不謹慎]にもその金を受け取った.
- 彼は喫煙の現場を見つかり 1 週間の自宅謹慎を学校長から言いわたされた.
- 閣僚の一人が不謹慎にも政府の決定を新聞記者に洩らした.
- アメリカでは学生がコーヒーやコーラを教室に持ち込んでノートを取りながら飲んでも誰も不謹慎だとは思わない.
- 彼は謹慎な人だ
- 謹慎な女だ
- 彼は罪を悔いて深く謹慎を表している
- 謹慎中の美人
- 謹慎を命ずる
- 彼は謹慎中
- それから彼はたいそう謹慎になった
- 謹慎すること
- 江戸時代の,謹慎という刑罰
- 処罰によって謹慎する
- 江戸時代の,両手を鎖でつなぎある期間謹慎させた刑罰
- (不行跡などのため)寺で謹慎する
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