藩政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 04:01 UTC 版)
豊前中津藩の奥平氏における家老衆「大身衆」(戦国期の七族五老から呼称変更)の一つである中金奥平家に生まれる。母は、長崎代官・高木作右衛門の第五子。家老職に就くまでは十学と称す。 藩校・進脩館にて野本白厳の下で皇漢の学を修め、藩内で頭角をあらわすと文政12年(1829年)に家督を相続した。下級藩士の福澤諭吉は十歳年下である。 しかし天保における藩内の改革で、野本真城(号は白岩)の門下生である福澤諭吉ら下級藩士の改革が潰されると、師の野本はその貴任を負い宇佐郡白岩村に退去させられ、帆足万里の流れを受ける塾もそこに移った。福沢諭吉や奥平壱岐もそこに移らんと試みたが頓挫している。安政2年(1855年)に奥平昌高が死去すると、藩内の実権を掌握。島津祐太郎らと共に漢学の素養を基準に藩の首脳部を揃えたため、一時は福沢とは不和になった。 のち長崎に出て、砲術家・高島秋帆に入門。桶屋町の光永寺に寄宿し、壱岐が砲術家・高島秋帆の門人である山本物次郎に福沢諭吉を紹介し、更に築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch 1852年)を貸し出した。安政5年(1858年)、奥平昌服から江戸家老に召し出される。文久元年(1861年)と文久3年(1863年)の昌服上京にも従い、宇和島藩の伊達宗城の子・昌邁を養子に迎えることを進言。佐久間象山を迎えて砲台建設にも関わるなど西洋軍事技術採用を推進。 江戸詰の老中となり見識も聡明であったが、福沢のオランダ語の上達を妬むなど嫉妬心が深く、強権的な政治手腕から「狡猾な人物」として藩内での人望に乏しかった。そこへ尊王攘夷派の圧力が加わると、洋学に明るい壱岐は罷免追放される。更に妻は切腹させられた。 なお家史「中津藩史」によると、倒幕の機運が高まる頃には、壱岐の見識を見込んだ薩摩藩から招かれる所を、慌てた藩庁によって復職させられたという。
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