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2014年8月10日 (日)

長崎市主催原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での被爆者代表「平和への誓い」動画と忠実テキスト起こし。

20140809 長崎平和祈念式典 被爆者代表 城臺美弥子さんの『平和への誓い』
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https://www.dailymotion.com/video/x5lo58k

20140809 長崎平和祈念式典 被爆者代表 城臺美弥子さんの『平和への誓い』 投稿者 osanpodeonigiri

 

「憲法踏みにじる暴挙」 長崎、集団的自衛権に怒り
2014年8月9日 13時56分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014080990135521.html
→魚拓

↓↑SOBA:上記リンク先、東京新聞のテキスト起こしがあまりにも違う箇所が多いので、この元動画を見ながら忠実にテキスト起こしをしました(上記リンク先記事と、その記事を添削したのを末尾で採録しました)※

※たとえば、東京新聞記事で『魔のサイレンが鳴りました。』となっているのは『あのサイレンが鳴りました。』だし、『「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」』は『「空襲警報よ!」「はよう山までいかんば!」』だし、『立山町の防空壕(ごう)へ行きました。』は『立山町の防空壕へ登りました。』です。違いだらけ。

 

被爆者代表「平和への誓い」全文

 一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。

 八月九日の朝、ようやく目が覚めたころ、あのサイレンが鳴りました。

 「空襲警報よ!」「はよう山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕へ登りました。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。

 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入していたのです。

 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣の同級生トミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間キラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのとき何もけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。

 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなる、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにはならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界から一刻も早くなくすことです。

 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているじゃありませんか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。平和の保障をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。

 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討してください。

 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生さえも私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場へ送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。

 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩きましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。

 平成二十六年八月九日

 被爆者代表 城台美弥子

 

4分2秒は、城臺美彌子さんの「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった」の直後、片目をつぶり、右目で城臺さんをにらむ安倍晋三。岸信介の外孫、おじいちゃんコンプレックスの固まり、品性がなく頭がいかれていてうすら馬鹿なのが良く分かる顔。落ち着きのなさは右側の人物と比べれば一目瞭然。
(↓すべてクリックすると拡大します)
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403_4分3秒は、続きで 日本国憲法を踏みにじった暴挙です」の後、左目をつぶり右目は薄目の安倍晋三。


411_4分11秒は、「日本が戦争ができる国になり、」直後、目をつぶる安倍晋三。


4分15秒は、「日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか」の直後、両目で城臺美弥子さんをにらむ安倍晋三。
415_

4分19秒、城臺さんの「武器製造、武器輸出は戦争への」で、再度目をつぶり狸寝入りするかのような安倍晋三。
419_

4分23秒、城臺さんの「一旦戦争が始まると」直後の安倍晋三。
423_

4分25秒、城臺さんの「戦争は戦争を呼びます。」直後、また両目でにらむ安倍晋三。
425_

429_ 4分29秒、城臺さんの「歴史が証明しているじゃありませんか。」直後、また目をつぶる安倍晋三。


4分33秒直後、城臺さんの「日本の未来を担う若者や、子どもたちを」直後、左目をつぶり、右目で会場の方を見る安倍晋三。
433_

4分36秒は、上記の続き「日本の未来を担う若者や、子どもたちを脅かさないで下さい。」直後に、両目をあけ迷惑そうな顔で城臺さんをにらむケツメドA(略してKMA。安倍のおちょぼ口がバッチい肛門に似ているのと、その安倍に集まるマスコミのおべんちゃら記者は糞にたかる「クソバエ」だと、辺見庸さんが略称&命名
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437_4分37秒は、「平和の保障をしてください。」直後、一瞬ふて腐れるような安倍晋三ケツメドA。


4分38秒、国民の目を意識したのか、TVカメラの方に目を向けるケツメドA。
438_

4分41秒は、「被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。」の直後、あごをあげ馬鹿にしたような表情のケツメドA。
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↑以上、長崎平和祈念式典中継の動画と要所のキャプチャ終わり。

 この動画については、辺見庸さんが私事片々(2014/08/10)で言及しています。

 

 以下、資料として採録。間違いだらけの元記事と、その記事中の間違い箇所が分かるように添削した記事。

「憲法踏みにじる暴挙」 長崎、集団的自衛権に怒り
2014年8月9日 13時56分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014080990135521.html
→魚拓

2014080999135521 「平和への誓い」を読み上げる被爆者代表の城台美弥子さん=9日、長崎市の平和公園で(梅津忠之撮影)

 長崎は九日、被爆から六十九年の原爆の日を迎え、長崎市松山町の平和公園で市主催の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。出席した安倍晋三首相の目の前で、被爆者代表の城台(じょうだい)美弥子さん(75)が「憲法を踏みにじる暴挙」と集団的自衛権の行使容認を痛烈に批判した。田上富久(たうえとみひさ)市長も平和宣言で「平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が急ぐ議論の中で生まれている」と指摘。政府の姿勢に対する被爆地の懸念があらわになった。

◆被爆者代表「平和への誓い」全文 

 一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。

 八月九日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。

 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。

 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。

 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。

 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。

 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。

 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。

 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。

 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。

 平成二十六年八月九日

 被爆者代表 城台美弥子

(東京新聞)

↑↓以下、間違い箇所を添削

「憲法踏みにじる暴挙」 長崎、集団的自衛権に怒り
2014年8月9日 13時56分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014080990135521.html
→魚拓

2014080999135521 「平和への誓い」を読み上げる被爆者代表の城台美弥子さん=9日、長崎市の平和公園で(梅津忠之撮影)

 長崎は九日、被爆から六十九年の原爆の日を迎え、長崎市松山町の平和公園で市主催の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。出席した安倍晋三首相の目の前で、被爆者代表の城台(じょうだい)美弥子さん(75)が「憲法を踏みにじる暴挙」と集団的自衛権の行使容認を痛烈に批判した。田上富久(たうえとみひさ)市長も平和宣言で「平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が急ぐ議論の中で生まれている」と指摘。政府の姿勢に対する被爆地の懸念があらわになった。

◆被爆者代表「平和への誓い」全文 

 一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。

 八月九日(の)朝、ようやく目が覚めたころ、魔の(あの)サイレンが鳴りました。

 「空襲警報よ!」「今日は(はよう)山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました(登りました)。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。

 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです(いたのです)。

 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣の(同級生←が漏れ)トミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空が(←言っていない)キラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません(おりません)。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのとき(なにも←が漏れ)けがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。

 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり(なくなる)、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことに(は←が漏れ)ならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から(世界から)一刻も早くなくすことです。

 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる(踏みにじった)暴挙です。日本が戦争できるようになり(戦争ができる国になり)、日本が平和を(←が抜けている)武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか(じゃありませんか)。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。平和の保障をしてください(←が漏れ)。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。

 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が(大勢←が漏れ)おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を(原発輸出←が抜け)行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です(未解決です)。早急に廃炉を含め検討すべきです(廃炉を検討してください)。

 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も(保育園生さえも)私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に(戦場へ)送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。

 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう(歩きましょう)。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。

 平成二十六年八月九日

 被爆者代表 城台美弥子

(東京新聞)

 

 以下、平和を考える上での関連動画を一つご紹介。広島にある“巨大弾薬庫”の話題です。

記者が遭遇 爆音と火柱 知られざる“巨大弾薬庫”
お散歩
https://www.dailymotion.com/video/x5lnoiu

知られざる“巨大弾薬庫” 投稿者 osanpodeonigiri

2014/08/06 の放送

概要:被爆地として世界に知られる広島ですが、県内には、アメリカ軍の巨大な弾薬庫が存在し、朝鮮半島や中東有事の際の、弾薬供給を担っていることは、ほとんど知られていません。現地を取材したJNN記者が爆音と火柱に遭遇しました。

↑↓上記動画の記事

記者が遭遇 爆音と火柱 知られざる“巨大弾薬庫”
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2268165.html

 被爆地として世界に知られる広島ですが、県内には、アメリカ軍の巨大な弾薬庫が存在し、朝鮮半島や中東有事の際の、弾薬供給を担っていることは、ほとんど知られていません。現地を取材したJNN記者が爆音と火柱に遭遇しました。

 「なんか、あそこに、あれヤバイです」(記者)
 「あれも写してください。写してください」(香谷和子さん)

 取材中、偶然目撃した火柱。在日アメリカ軍の基地の中で上がったものです。広島市から車で1時間ほどの東広島市にある川上弾薬庫。球場50個分以上、極東一の大きさで、国内のみならず、朝鮮半島や中東で有事があった場合も、ここから弾薬が運び出されるといいます。

 弾薬庫は、太平洋戦争中、日本軍がつくったものです。山あいの敷地には、専用の鉄道線まで敷かれていました。

 「もう弾薬庫になります。そこのフェンスから向こうはね」(香谷和子さん)

 香谷和子さん。弾薬庫のすぐ横の家で暮らしています。

 「竹が見えますね。竹の向こう側にフェンスがありますからね。そのフェンスの向こう側に(かつての)家があった」(香谷和子さん)

 香谷さんの家は、もともと弾薬庫の敷地の中にありました。日本軍の指示で、半ば強制的に立ち退かされ、幼かった香谷さんは、家族とともに今の家に移ったのです。

 戦後、弾薬庫は、アメリカ軍が接収し、住民は元の家に戻ることはできませんでした。

 弾薬庫から響く不気味な音。周辺住民は、長く騒音被害に直面しています。中国四国防衛局によりますと、音は古くなった弾薬を焼却処分する弾薬処理施設から鳴り響いています。焼却する際、銃弾などが飛びはね、音が出るといいます。

 「(弾薬処理施設が)できるという説明はなかった」(住民)
 「病院に入れない人や赤ちゃんは、ひきつけを起こす」(住民)

 住民の苦情を受けて、国が騒音調査などを行い、去年末、1億2000万円をかけて、高さ15メートルの防音壁を整備。騒音のレベルは総じて下がったといいますが、住民の不安は残ったままです。

 「今まではドーンと響いていたが、今度は金属音がする。キーンと胸を刺すような音。今は低音ですけど、まだまだきつい音がしますのでね」(香谷和子さん)

 インタビュー中、JNNの記者が驚くべきものを目にしました。

 「また音がしましたね。なんか、あそこに、やばい」(記者)
 「あれも写してください。写してください」(香谷和子さん)

 弾薬庫の中で上がった火柱。慌てる記者とは対照的に、香谷さんは落ち着いていました。関係者の話によれば、火柱は、火薬の残骸を燃やす際に上がったものとみられ、珍しいことではないといいます。

 被ばく地のすぐ横に存在する在日アメリカ軍の巨大な弾薬庫。かつて生家の立ち退きを強いられた香谷さんは、騒音と事故の不安を抱えた日々を送っています。

 「豊かな土地を汚されて、安心して暮らせる一生ではないような気がします」(香谷和子さん)
(06日14:14)

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知事抹殺 つくられた福島県汚職事件 佐藤 栄佐久

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隠される原子力・核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ 小出 裕章

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