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序盤…だったと思うんだけど。
ターニャ率いる部隊が窮地一転、敵軍を蹂躙(までではなかったか)するシーン。
隣の席の高校3年生か大学1年生くらいの男子が堪えきれなかったように笑っていたのが恐かった…。
確かにターニャの機転が通じたシーンだけど、え、でも割と真面目なシーンでない、これ?
戦闘シーンでしょ…。

というカンジで、入りの部分から隣席の男子が気になってしまいました。

ちなみにこの男子。
終盤での戦いでも、塹壕に切り込まれたシーンでも笑ってたわ。
こわぁ…。

ターニャの機転がその場では功を奏するも、次の展開ではより窮地に持ち込まれるという、今作の骨子がしっかりと守られていて良かったです。
しかし、自分は原作未読なので不明なのですが、導入の展開はやはりそういうことなのでしょうか。
その辺の仕掛けが今劇場版だけでは活かされてないのが不満といえば不満。
不要と言えば不要。
もちろん、現実の歴史をなぞると考えればそれも当然なのですが、しかしそれでも創作物としての有り様ってあると考えるので。

そのあたり、義勇軍のメアリーは、そうなるであろうことは理解できるのですが、しかしどうにも過剰な演出ではないかなぁ…と思わないでもなかったです。
この辺りは劇場版としての尺の問題かなあ。
乱暴でもそこへと運ばなければいけないというような。
そして彼女のラストにもいまいち納得がいかないのですが。
うーん…。
あの状況で?て。

オチにはTV版のED曲も流れて良かったですね。
あの曲と画、好き。

そしてまだまだいくらでも先が描けそうな終幕で、期待してしまいますねえ。


ところで。
今作を見ながら考えてたのですが、やはり敵味方入り乱れての空戦というのは派手ですねえ。
今期TV放映中の「コトブキ飛行隊」に不評が出るのも視聴者としては致し方ないのかなと。
見た目、地味すぎるんですもん。
そして評価する人は飛行機の空中機動とか音とか搭乗者にかかる負担とかの描写にリアルなものを感じて「おお!」と感じ入りますし、監督やスタッフが狙ったのはもちろんそのリアル。

しかし耳にするんですよね。
「リアルな描写にこだわったっていうけど、こだわるのはそこじゃねえんじゃね?」っていう。
ここ、評価する人と評価しない人の分岐点なんだろうなーって考えます。
監督他スタッフが狙った描写は出来ている。
だけれどもそれが万民受けするポイントであったかは別。

お話に関しても、何か軸があるかないかで是非を言う声を耳にしました。
これも「あの飛行機が飛んでいる」という部分を見るか見ないかだと思うんですよね。
飛んでいるということだけて色々と思い巡らせられる人と、そうではない人の。
これは鑑賞センスの優劣ではなく、単に有無、趣味の差だと考えますが。

ああ、自分は「コトブキ飛行隊」好きですよ。
ああいうの、趣味なんです-。
自分がそうだ…とかではなく、現象に対しての理由を考察している体で。

映画、というジャンルについて。

流行っているか流行っていないかいろいろ言われてるなかでも、低調なトレンドにあると受け取ります。
「いや、流行ってるよ!」とおっしゃる方はそのままで結構なので、これからも愉しんでください。
今回、語りたいのは「何故、流行っていないのか。流行らなくなったのか」なので。

1つには鑑賞料金の高さが言われます。
でも、一概に「高い」と言われても今の時代よく分からないですよね。
ソシャゲで数十万、数百万円と散在する人が珍しくない時代ですし。

考えられるとしたら「投資した金額に対してのリターンが少ない」ことを「高い」と言うのでしょう。
(ソシャゲではレア率でそのリターンを表現できますよね)

映画鑑賞で求められるのは2000円弱ですから、ちょっとシャレオツなランチくらいでしょうか。
あの青山でも語られる値段?
それでそのリターンが作品の満足度というか出来不出来というか。
ランチなら味はともかく、お腹はふくれますよね。
それも店によるかな? まあ、ここは少しでもお腹に入るモノがあったという最低限のリターンがあったということで…。

でも映画は、気に入らなければゼロどころかマイナスですよね。気分として。
「この時間を返せ!」て言いたくなる。

てことはです。
実際には金額に文句が主としてあるのではなく、愉しむ為に必要とされる拘束時間が疎まれるのかなあ…て。
またソシャゲの話になりますけど、ソシャゲなら一瞬か、あるいは小さな成功体験がチマチマと積み重なっていきますよね。
あれが金額の多さに対する固執を解かすのではないかなとか…。
(お財布の中のお金も溶けていきますけどね!)

TVで番組を見て入れば、時間はかかったとしても「拘束」はされませんもんね。
読書についてもそう。
愉しむ為に2時間3時間は我慢しろ!っていう趣味、なかなか無いのでは?
釣り?
でもあれはエサや釣り場や仕掛けなど、試行錯誤する余地があると思うんですよね。

で、本編だけでそれだけ拘束されるにも関わらず、実際には開場前の時間がシビアですよね。
だいたい「上映の10分前に開場いたします」じゃないですか?
え? それまでどうすればいいんですか??ですよ。
飛行機のチェックインか!

大概の映画館のロビーなんて1つのスクリーンに入る人員を収められる程度の広さもありません。
なのでロビーで過ごすことは難しくて、別の場所で時間をつぶしたり…。
そこまでして時間を費やした挙げ句に本編が気に入らなかったときには、もう二度と見るか!て考えても不思議では無い…?

加えると今の映画館って入れ替え制が主流…なのかな。
大昔みたいに席の確保に勤しまなくていいのは良いですけど(昭和の匂い)、「ぶらっと映画を見る」システムじゃないと考えるのです。
まさに「あの作品を見よう!」て気持ちにならないと映画館には足を運ばないシステム。

まあそりゃ、どの映画にも魅力があって、いつ行ってもそのとき上映が始まる作品を見れば良いじゃないか…って話もできますけど。
だからその、そもそもの作品の魅力が担保されてないんだっつー話です。

ここまで打ってて自分の中にはある程度解がまとまってきています。
ひとつには、作品の魅力が担保されないのだったら、料金は後払いにする。
最善は「あなたが思う金額を投げてください」なんですが…。
もうひとつは映画館という施設ひとつで問題を解決するのではなく、施設周辺でしっかりと回遊や消費ができるよう循環サイクルを用意する。
早めに来た人もゆっくりできるような。
ここで買い物とか「映画鑑賞以外の消費」を強いると、たぶん違う話になるでしょうなあ。

そんなことをして、どうやって映画館が利益を得るんだ! 映画を作る人が報われるんだ!
…っていう話に関しては、これはもう「映画では儲からない」としか見えてこないですなあ。
ごめん、頼りにならなくて。
だからもういっそそこは割切って、公的資金で芸術保護だとか、一般会社のメセナとか、そういう篤志家に期待する分野なのかもしれませんなぁ…という身も蓋もない意見に収まって今回おわります。
まとまってないし、この手の考察は幾多の先人が既に綴ったトコロであるのは承知の助。
そこのトコロはご容赦を。

先日「ヤマノススメ 登頂記念パーティ」へ参加してきたのですよ。
イベント自体はとても楽しく、自分のイベント参加歴のなかでも指折りの名イベントでした。

イベント後に自分と同じような参加者や、「ヤマノススメ」を好きな人たちの感想を巡っているうちに、やぱし出てきた「聖地問題」。
今回はそれほど厳しいものではなかったですけれど、「作品が終了してからも聖地で居られるのは、関係者の努力があってこそ」みたいなものがありましたかねー。
んで、その背後にあるのは「あの作品」の失敗例。

自分もあの作品の「聖地」表現を成功・不成功を軸に語るのならば「成功しなかった」としか言えませんけども。

んでも、ここ今回のイベント会場、作品舞台でもある飯能市を比較して成功例なのかっていうと、それはそれであまり実感しなかったな~って印象を持つのです。
地元の人に言わせるとアニメ化以前に当地を舞台としているということで注目していた/されていた…ってことらしいんですけれど、街を歩いてみると一部に限定されていたなあ、と。
もちろんその一部の盛り上がりでも自分程度は楽しかったのですが、しかし殊更に成功例と言うものなんだろうかと疑問も抱きます。

しかしもちろん不成功とは言えません。
じゃあ「あの作品」とここと何が違うのかなー…って考えたのか今回の話(前振り長い)。

結果から言えば「キャラの息吹を感じられるかどうか」ではないかという、これまた曖昧模糊とした考察に。

例えば土地の名跡をキャラとともに登場させれば、そこへ趣くことで私たちは追体験できる。
それもキャラの生活圏であることを真っ当に活かした場所であるのは当然として。
だからこそ私たちはキャラの足跡をたどることができるワケで。

そういう意味では今回、お寺に水着姿のひなたのPOPがあったのは違和感をおぼえたトコロなのですが。
「おい! お寺で水着になるほど、ひなたは痴女なのかよ!」…って。
はい、そうかもしれませんね! その非日常性に興奮します/しました!
ありがとうございます神様…お寺ですから仏様ですか!!!

まあ、これは例外か。

アチラの批判に見る「畑の中にただPOPを立てただけじゃあ」っての。
自分はそうかもしれないけれど、イメージの間口としてはアリなんじゃないかなぁ…って考えます。
要はそこにそのキャラが居てもおかしくないって思わせられれば勝ちなワケで。
キャラとのマッチングで是非を問わなければ、「ただの店先」に等身大POPを置いたことが受け入れられることの理由が付かないと思うのです。

だからお寺に水着姿のひなたがいるのはアリなのです(おい

もちろん作中のシーンを再現できればそれにこしたことは無いのでしょうけれど。
しかしなかなか物語の進みとして用意も容易ではないワケで。
日常系でもないかぎりそうそう街中だけで物語を進めるのは難しいかな、と。

「ガールズ&パンツァー」でも実際のところ中盤以降の大会試合になってしまうと大洗の街から離れてしまっているワケで、あの作品の舞台が宇宙へ飛んでいってしまったことと大差ないように考えるのですよね。
ただし「ガルパン」は最後に「大洗へ帰る」という描きかたをした。
この「帰る」というのはかなり大きな違いなのかなーって考えます。
離れていてもキャラの居場所がそこに守られている。
物理的にも、そして精神的にも。


そうした次第で、作品の聖地と認めることや、そこが聖地化していくことの過程や要件などを考えたワケでした。


余談。
あの作品と当地の関係者の努力は認めますが、そもそも作品が聖地化のコンセプトには向いていなかったと思うのです(出来不出来とは別の話)。
だから今後はもうそうした「成功しなかった」ことも歴史と受け止めた上で、あらためてコンセプト作品を追い求めてみたらどうなのかなーって考えます。
京都や鎌倉など有名観光地を別にしたら、複数作品で舞台になるって例はそう多くは無いと思うので。
まして前例を受け入れたという事案は無いのでは?

そうして考えてみても、あのNHKの番組のまとめかたは変だったというか的を外していたんじゃないかなぁ…って今更ですが。
ひさしぶりに。

先日終了した「ソードアート・オンライン」マザーズロザリオ編。

終盤、容態の急変したユウキのことをアスナへ報せる手段がメールだったのですが、それを「電話しろよ」と批判の声があったので考えてしまったので、それについて。

緊急時にメールでは無くて電話というのは間違いではないのですけれど、あそこでアニメとしてそれは望まれることなのかと。
電話で急変が伝えられたら、それをアスナが受ける状況が用意されなければいけません。
就寝時はもちろん、学校の授業中などではアスナが受けることができません。
そうなったときは留守電に入れることになるでしょうけれど、だったらメールと同じだよなあ…と。

アスナが電話を受け取れる状況にあったとして、それが何の意味──表現上の利点になるのか。
自分には利点が無いなあ…と感じるのです。
担当医が電話をかける→アスナが受ける→急変を伝える→アスナの描写→…
正直、長すぎ。
それをメールで表現したあの場面では、視聴者は状況を一目で理解できたのです。

現場としてもそんな「メールで代用できる」場面に対して声優さんを拘束するようなことは無駄ではないでしょうか。

簡単にですが、以上のような考えのもとに、あの場面、メールでの伝達は十分に理解できるものだと。
そんな描写は無かったかもですが、担当医のことですから電話も入れてみたんじゃないんですかね。
でもつながらなかったからメールにした。
あるいは担当医と彼女は連絡を取り合う間柄にはなっていたけれど、時間を問わずに電話連絡をするようにまでは関係が深まってなかった。
そんなことも考えます。

理屈と膏薬はどこでもつくかもしれませんが、何故そうあったのか考えてみることも大切だと思った批判でした。
自分には良いきっかけでした。
「AKB0048」stage25でアキバスターの人たちの行動が納得いかなかったので自分なりに解いてみたー。

DESの攻撃にさらされたアキバスターは、占領されたのちにプロパガンダで芸能にそして00に対して反感を抱くようになってます。
……はて?
アキバスターの人たちは芸能を愛しているんじゃなかったの?
そんな簡単に変節しちゃうの?ていう疑問が。

stage21「決戦アキバスター」のアバンで、13代目あっちゃんは言いました。

「アキバスターは過去に戦禍によって廃墟となってしまった星だった。
 それでも人々はこの星を愛し、長い時間をかけて地下都市を作り上げた。
 どんな苦しい状況も悲しい想いも受け止め、新たな希望を生み出せる場所を。
 だからこそここに集まる人々は芸能を愛してくれる。
 アキバスター、そして0048劇場は私たちにとってどこよりも大切で神聖な場所」


あっちゃんの言葉を信じるなら、かつてのアキバスターの人たちはそうであったのでしょう。
でも、いまはどうか?

DESの急襲に遭い、奮闘するもアキバスターを守れなかったことに悔しさを噛みしめながら撤退を決めた00。
「よくもいまさら!」と憤る人たちはその姿をアキバスターの人たちは目にしていなかったのでしょうか?
「この裏切り者が!」と罵る人たちはDESに襲われたとき何をしていたのでしょうか?

…いかに戦おうが自分たちを守ってくれなかったという結果のみを真実とし、裏切り者とののしる。
そんな彼らの姿にかつてのアキバスターの人たちの姿は見えません。

彼らは「本当に芸能を伝える者」である00たちを差し置いて、そうした者を守ってきた自分たちこそが芸能の担い手だと勘違いしてきたのではないでしょうか?


D.G.T.Oの芸能統制には星々によってレベル差があるそうです。
アキバスターはその中でも芸能が謳歌されていた星ですが、しかしそのうえで今回のDESの強襲に遭ってしまえば、実はそんな自由もあっけなく散ってしまうものだったことが明らかになっています。

武力で抗っても勝ち得ない。
であるならおそらくはD.G.T.O内でも政治力学による戦いがあったのではないかと推測できます。
D.G.T.Oの思想的には「芸能禁止」の理想は外せません。
しかし凪沙パパが上申したように芸能の効果は労働生産性の向上に付与することがわかっています。
また芸能という娯楽が表立って禁止されている裏では、カジノを開催しているベガスターのような「芸能に由来した娯楽を提供」している星もあります。

D.G.T.Oは「芸能禁止」のお題目を掲げるも、その実、芸能をコントロールしているのではないでしょうか。


話を戻します。
D.G.T.Oは本気を出せばアキバスターを掌握することもできた。
しかしそれをこの機まで行ってこなかった。
それにはアキバスターの歴史から強い反抗が起こりうる可能性も考慮しつつ、00という芸能の担い手を完全には殲滅しようとはしてこなかったと思われます。
(智恵理パパの暗殺。もしかしたらこのあたりの力学から行われたのかも…とは飛躍かなあ(^^;))


そんなD.G.T.Oの思惑にも考え及ばず、自分たちこそが芸能の中心であると驕るようになってしまった存在がいまのアキバスターの住民なのではないでしょうか。
彼らのなかではすでに00メンバーなどは「自分たちが伝えていく芸能を表現しているだけの存在」に堕ちていたのではないでしょうか。
主は自分たちであり、表現者である彼女たちは従にすぎない……と。

そうであるならば彼の変節ぶりも納得できるものです。
従者が主人を見捨てて戦いの場から逃げおおせ、時を置いてのこのこと舞い戻ってきたのですから。


……以上がアキバスターの住民に関しての考察です。
合っているかどうかは分かりませんけれど、これくらい考えていないとあのクズっぷりには怒りが収まらないので。

もちろんあの状況でそうした考えを抱く人、変節する人が全く出ないとは思いません。
んでも、そうした中でも00を信じ続ける人が同じくらいいても良かったんじゃないかって思うのです。
悲しいかな、彼女たちを信じて、彼女たちが聖地アキバスターへ戻ってきてくれたことを「シアターの女神たちの降臨だ!」と喜んでくれたのは、芸能禁止の星でレジスタンスを続けてきたランカスターの人間であったのです。

誰が芸能を守ってきたのか。
誰が芸能を伝えてきたのか。
考えさせられた展開でした。

00メンバーはそんな不忠者の心へ届くようなステージを見せなければならない。
それがどれほど大変なことか。

stage26での彼女たちの歌声が最高のものであると願っています。

テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

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