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都市計画学会賞!

本日はうれしい受賞のニュース。気仙沼市内湾地区の「迎/ムカエル」や「創/ウマレル」など一連の復興施設デザインが、日本都市計画学会/学会賞のひとつ「計画設計賞」を受賞しました。一昨日5月27日に市からの発表がありました。

市の発表資料や学会サイトから、受賞概要を紹介します。

◎受賞作品名
気仙沼内湾ウォーターフロントの地域主体による復興デザイン−−港町の景観・文化の継承と安全性の確保を両立した都市デザインの実現

◎対象施設
「迎(ムカエル)」、気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザ「創(ウマレル)」(pier7)、気仙沼漁港南町公園、防潮堤

◎受賞団体
内湾地区復興まちづくり協議会、早稲田大学都市・地域研究所、内湾ウォーターフロント設計チーム(住まい・まちづくりデザインワークス、アール・アイ・エー、オンサイト計画設計事務所、ぼんぼり光環境計画)、宮城県、気仙沼市

市の発表資料にあった資料画像はつぎのとおりです。全体像がよくわかります。


全体

断面

両画像とも5月27日付け気仙沼市発表資料より

日本都市計画学会は、1951年に創立された都市計画や地方計画に関しての歴史ある学会で、年に1度、学会賞として「石川賞」「論文賞」「計画設計賞」などの表彰をおこなっているそうです。

同学会の初代会長は、内田祥三(よしかず)。東京大学大講堂(安田講堂)の設計でも知られています。

初代副会長は、「石川賞」にその名をとどめている石川栄耀(ひであき)で、当時の都市計画におけるリーダー的存在であったようです。都市における盛り場の研究でも知られ、新宿歌舞伎町の生みの親で命名者でもあるとのこと。

戦後、東京の復興事業のひとつとして、新宿に歌舞伎の演舞場をつくろうとし、地区名を「歌舞伎町」にしたという話は知っていましたが、その計画をおこない名付け親でもあったのが石川栄耀だったのですね。こうした〈こぼれ話〉にであうととてもうれしい。今回の受賞がぐっと身近に感じられてきます。

今回の受賞施設群は、昨年10月に2019年度グッドデザイン賞を受賞しています。このたびの日本都市計画学会賞/計画設計賞の受賞は、それに続いてのうれしい評価となりましたね。

この記事のはじめに受賞団体名を掲げましたが、それぞれに、さまざまな苦労があったことと思います。それだけに、内湾地区復興まちづくり協議会メンバーをはじめ、多くの関係者の皆様にお祝いを申し上げたく。

日本都市計画学会賞「計画設計賞」受賞、おめでとうございました。


グッドデザイン賞受賞についてはつぎのブログにて。

2019年10月11日ブログ「グッドデザイン賞」
2019年11月5日ブログ「文化の日の展覧会」

「創(ウマレル)」の設計を担当した株式会社アール・アイ・エーについてはこちらです。お手すきのときにでも。

2019年4月17日ブログ「気仙沼交流プラザ」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 日本都市計画学会ムカエルウマレル

気仙沼が朝ドラに

2021年春から放送予定のNHK朝ドラ「おかえりモネ」の物語の舞台のひとつが気仙沼にとのニュースには本当に驚きました。私は昨日16時すぎに気仙沼市のLINEで知りました。NHKの発表にあわせて広報が解禁になったのでしょう。


NHKドラマ番組サイト

この「おかえりモネ」について、NHKのサイトではつぎのように紹介しています。

〈“朝ドラ”第104作は、今を生きるすべての人に捧げたい、「現代ドラマ」です!「海の町」宮城県・気仙沼で生まれ育ち、「森の町」同・登米(とめ)で青春を送るヒロインが、“気象予報”という「天気」にとことん向き合う仕事を通じて、人々に幸せな「未来」を届けてゆく、希望の物語。安達奈緒子さんの脚本による、オリジナル作品です。〉

そして、気象予報士という仕事にとりくむヒロインと気仙沼の関係についてはつぎのように。

〈その根っこにあるのは、故郷・気仙沼と、家族への思い。ヒロインのふるさとは、気仙沼湾沖に浮かぶ緑豊かな島。嵐の夜、産気づいた母を皆が命がけで船で運び、なんとか生まれたヒロインは、島が大好きでした。しかし「3.11」の時、気仙沼は大きな被害を受けました。その日、ある理由で島を離れていた彼女は「自分は何も出来なかった」と後ろめたさを抱き、やがて内陸の登米(とめ)へと移り住みます。以来、ずっと誰かの役に立ちたいと思っていた彼女は、生き方を模索する中で、天気予報の可能性と出会うのです。

懸命に努力して、気象予報士の資格を獲得したヒロイン。東京の気象予報会社に飛び込み、「空の未来を予測して、人々を笑顔にすること」の魅力を知りながら、経験を積んでいきます。時を経て、一人前の気象予報士となった彼女は「気仙沼にかつての活気を取り戻したい」との目標を胸に、故郷の島へ。予報士ならではのアイデアで、家族や幼なじみたちと力を合わせ、ふるさとに貢献する道を探します。〉(引用は以上)

ヒロイン永浦百音(ながうら ももね)役は清原果耶(きよはら かや)さんです。2019年度前期放送の朝ドラ「なつぞら」で、広瀬すずさんが演ずる「奥原なつ」の生き別れになった妹「千遥(ちはる)」役でした。登場回数は多くはありませんでしたが、なんというか特別感がありました。所属事務所はアミューズ。雑誌「Seventeen」のモデルとしても活躍しているとのことです。アミューズにとって次世代のスター候補でしょう。

しかし本当に驚いた。この気仙沼を舞台のひとつとするNHK朝ドラの話は、気仙沼でどれくらい知られていたのでしょうか。少なくともうわさとしてはあったと思うのですが。

たとえば、〈あんだだげに教えでおぐけんと、だれにも言うんすなよ〉みたいな話が、かなり蔓延していたとか(笑)。

この「おかえりモネ」に関する話がこれからいろいろ聞こえてくることでしょう。とても楽しみです。本日はとりあえずの速報ということで。
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : おかえりモネ朝ドラ

日本財団のご支援

5月15日のブログ「『nendo』と昭福丸」で、臼福本店の遠洋マグロはえ縄漁船「第1昭福丸」の内外装デザインなど、nendoの仕事を紹介させてもらいました。

その第1昭福丸が気仙沼市朝日町の「みらい造船」で進水式をおこなったのは、昨年11月22日のことでした。昨年11月29日のブログでも紹介しました。本日はその株式会社みらい造船についての話です。

2019年11月29日ブログ「第1昭福丸」進水

みらい造船は、簡単にいえば気仙沼の浪板地区にあった吉田造船鉄工所、木戸浦造船、小鯖造船鉄工所、澤田造船所4社が合併した会社です。その設立の経緯や同社新工場完成については、上記ブログで紹介しました。その記事を書いたときに、関連記事として原稿をまとめたのですが、ちょっと長いし、なんかしつこい感じもあってブログ掲載せずにおりましたが、少し加筆修正したうえで本日紹介することにしたしました。


◎みらい造船への補助金や助成金

昨年9月11日のブログで、みらい造船の新工場完成を紹介しました。

2019年9月11日ブログ「みらい造船新工場」

このブログで引用した河北新報の記事に、みらい造船の〈事業費は約106億円で、うち70億円は国土交通省の補助金を活用した〉との記述があったのですが、私はちょっとあっさりしているなと感じました。

9月6日の三陸新報はもう少し詳しく〈総事業費は105億5千万円。このうち約70億円は国道交通省の補助金を活用したほか、日本財団からの助成金や市の補助金、融資などを充てた〉と紹介していたからです。その紙面はこんな感じ。

みらい造船

三陸新報2019年9月6日記事の一部イメージ


◎市の記者発表資料

この三陸新報の記事にあった日本財団からの助成金や市の補助金については、気仙沼市の2019年9月3日付け記者発表資料に詳しく記されていました。その内容を整理してみます。

まず知っておきたいのは、朝日町造船施設整備事業は、①市がおこなう用地造成事業と②みらい造船がおこなう造船施設整備事業のふたつから構成されています。

①用地造成は、朝日町津波復興拠点用地造成事業として、今回の造船施設だけでなく今年9月から本格稼働した燃油タンク/気仙沼商会気仙沼油槽所の用地造成も含んでいます。この事業費が約26億7000万円です。財源は、東日本大震災復興交付金。油槽所も造船所も、その土地は気仙沼市が造成したもの。

②造船施設整備の事業費は105億5000万円。このうち約70億3000万円は国の補助金です。ここまでは三陸新報の記事にもありました。そしてここからが本日のテーマである助成金や補助金についてです。まず市の補助金は1億5000万円です。そして日本財団からの助成金はなんと8億円です。これだけ大きな助成金だったとは知りませんでした。


◎造船復興みらい基金

日本財団からの支援については、同財団/2019年9月17日付けニュースリリースにつぎの主旨の記述がありました。

日本財団では、建設費114億円のうち、助成金8億円、災害支援無利子融資33億円の他、「造船復興みらい基金」から70億円の支援を行ないました。

「造船復興みらい基金」は、日本財団が、国(国土交通省)の補助金を得て、2013年度から実施していた被災造船業等復興支援事業。基金からは、これまでに石巻市、大船渡市などで7件の造船所復興事業への補助を行ない、8件目となる今回気仙沼市での補助対象施設完成により、予定していた補助事業は全て完了し、基金は2019年度中に閉鎖・清算予定。

以上がリリースからの内容。なるほど、市の発表資料で〈約70億3000万円は国の補助金〉とされていたのは、日本財団を通じての補助だったのですね。

◎災害支援無利子融資

日本財団のリリースにあった災害支援無利子融資33億円については、2016年の新造船所起工式の翌日10月22日の三陸新報記事に関連記述がありました。〈建設資金確保のために、8金融機関(みずほ銀行、七十七銀行、東北銀行、商工中金、岩手銀行、北日本銀行、仙台銀行、気仙沼信用金庫)による33億6000万円の協調融資が決まり契約を締結した〉と。日本財団は、この協調融資においても支援しているということだと思います。


◎日本船舶振興会

公益財団法人 日本財団の以前の名称は公益財団法人日本船舶振興会です。創立者で初代会長の笹川(ささかわ)良一さんについては皆さんよくご存じのことでしょう。同財団は、モーターボート競争/競艇(ボートレース)の収益金をもとに活動を展開しています。

笹川良一さんは、いわゆる〈右翼〉としての顔とともに〈社会奉仕活動家〉との面をもっていました。テレビCMでの「一日一善」「人類みな兄弟」のメッセージをなつかしく思い出す人も多いでしょう。その一方で、にがにがしい思いをあらたにする方もいらっしゃるかと。

◎新型コロナ対応施設

東京お台場の「船の科学館」は、その笹川良一さん/日本船舶振興会きもいりの施設といってよいでしょう。運営にあたってはいまも日本財団が助成しています。

その船の科学館周辺に、日本財団が新型コロナ感染の軽症者向け施設を建設するという報道があったのは4月初旬のことでした。このニュースを聞いたときに私はちょっと意外な感じを受けました。しかし、調べてみると笹川良一さんには、天然痘やハンセン病などとの深く長い関わりがありました。

日本財団の資料サイトによれば、天然痘根絶事業に関して、昭和50~54年度の5年間の協力援助金286万ドルは、当時の民間団体による協力援助としては世界最高を記録したといいます。また、1961年にWHOがハンセン病予防ワクチンの試薬を完成した際、笹川良一さんはその第一号接種者になるなど、後半生のかなりの時間をハンセン病とのかかわりに費やしたとのこと。

日本財団の会長は、初代笹川良一さんのあとを受けての2代会長が小説家の曽野綾子さん。そして現在の3代目会長が笹川良一さんの三男、笹川陽平さんです。陽平会長も父親の遺志を継ぎ、ハンセン病の制圧やこの病による差別の撤廃にとりくんでいます。

こうした経緯を知れば、今回の新型コロナウイルス感染問題に対応して日本財団が施設建設をおこなうということはとても自然な流れといってよいでしょう。

◎感謝と御礼

このブログ記事は、冒頭にも記したように、気仙沼の造船事業復興への日本財団さんの多大なるご支援をお伝えしようと昨年に書き始めたものですが、追記した後半の締めくくりが新型コロナの話になるとは思ってもみませんでした。

日本財団さんは、気仙沼の造船事業だけでなく、たとえば5月22日のブログ「海とみどりの大島」で紹介した大島未来チームをはじめ、気仙沼の震災復興に関わるさまざまな活動を支援くださっています。このブログで紹介したものでいえば、気仙沼鹿折加工協同組合に対するキリングループさんの支援も日本財団を通してのものでした。気仙沼メカジキブランド化推進プロジェクトについても同様です。

いろいろとありがとうございます。あらためて、日本財団さんのご支援に対して心から御礼を申し上げます。
 

テーマ : 気仙沼
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関東同窓会の中止

きのう5月25日、新型コロナ緊急事態宣言が全国で解除されたことになります。とはいえ、以前の日常がすぐにもどってくるわけではありません。様子を見ながら徐々にということでしょう。

7月に予定されていた気仙沼高等学校関東同窓会の総会・懇親会は、新型コロナウイルス感染症予防の観点から中止となっています。

きのう、自宅に届いた関東同窓会からの案内には、つぎのお知らせが記されていました。関東同窓会サイトでも同様の告知がなされています。

同窓会


このお知らせのタイトル部の上に、6校の名前が並んでいます。気仙沼高校関東同窓会は、これらの同窓生によって構成されています。

「気仙沼実科高等女学校」「気仙沼高等女学校」は「鼎が浦高等学校」(女子校)の前身。「旧制気仙沼中学校」は「旧気仙沼高等学校」(男子校)の前身です。

そして2005年、気仙沼高校と鼎が浦高校が統合して新気仙沼高等学校(男女共学)となりました。さらに2018年4月に気仙沼西高校(1985年4月開校)が気仙沼高校に統合し現在に至っています。

なお、総会のあとの懇親会は、いつも気仙沼向洋高校(旧気仙沼水産高校)関東同窓会と合同で開催されていました。たしかな情報が確認できませんでしたが、気仙沼高校と同様に、今年の総会・懇親会の開催はなしになったと思います。

年に一回お会いする方々も多く楽しみにしておりましたが、新型コロナへの対応ということであれば、いたしかたなし。来年の開催を楽しみにすることにしましょう。五輪前の7月3日(土)で予定しているとのことです。


同窓会の役員、事務局の皆さんは、いろいろと大変だったことでしょう。お礼を申し上げます。ありがとうございました。
 

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鼎雪の 「渾身の鰹」

本田鼎雪さんの作品が、5月21日の三陸新報に掲載されていました。気仙沼市古町の古美術骨董店「車屋」さんの広告です。

本田鼎雪
三陸新報5月21日掲載広告より


「車屋」さんの広告に登場した本田鼎雪さんの「鰹」という作品を紹介したことがあります。2016年12月5日のブログです。そして、その記事を読んでくださった三重県の「くらげ」さんという方からご連絡をいただいた話を翌年2月に「カツオがつなぐ縁」として紹介させてもらいました。

そうした記事のなかで記した本田鼎雪さんについて、ざっとおさらいしておきましょう。

本田鼎雪(ほんだ ていせつ)さんは、気仙沼で多くの絵を残した日本画家です。私たち気中20回生にとっては同級生の洋子さん(3年3組)のお父様。魚を画題とした絵も得意としていました。気仙沼市史第6巻「教育・文化編」の紹介文を以下に引用します。

◎本田 鼎雪(1910~1982)

 本名禎太郎。明治43年1月14日生まれ。昭和7年第1回東北美術展(河北美術展の前身)に「神濤」を出品し入選。昭和14から16年まで盛岡市および東北各地に居住し、この間、岩手県護国神社の壁画を作製した。帰郷して第6回、第8回海洋美術展に「蒼浪」「魚河岸」を出品入選したが、戦時中、資材入手困難のため一時画業を中断した。
 太平洋戦争後、美術界に復帰し、昭和24年、岩手美術連盟日本画幹事、宮城県美術連盟結成委員となり、第1回岩手県芸術祭美術展に当選、森口多里賞を受けた。昭和30年、日本芸術会会員の中村岳陵の指導を受け、仏画の研究に専念する。同43年には第29回日本画院展に「桜島黎明」を出品して入選し、以後連続して入選した。
 昭和52年、本田画塾水墨画教室を開設し、後進の指導にも当たり、日本画院に所属し、宮城県芸術協会会員、市文化財保護委員も務めた。
 鰹をはじめ、水産物の画も多く、その画風は静岡・高知・鹿児島にも名が知られ、後援会や展覧会が持たれた。
 昭和57年10月2日72歳で没。代表作には記述のほか、「叢竹」「忿怒群像」「立葵」「端午」がある。(引用は以上)

今回の広告の絵「渾身の鰹」は、タイトルからすると海中を渾身(こんしん)の力でおよぐカツオということでしょうか。2016年のブログのなかで気仙沼小学校の作法室に飾ってあった鼎雪さんの鰹の絵のことを書きました。その絵がちょうどこれと同じような感じだったような気がするのですが、なにせ60年以上前の記憶なのであてになりません。

郷土の画家の作品をその地元の人が大切にしているというのはとてもいい。そしてそれを手放すことがあっても、またほかの誰かがそれを受け継いでいければなによりのことです。

絵のサイズは「12号」と記してあります。たぶんP12号/606 X 455 mmだと思います。ご自宅のリビングあるいは書斎の壁にいかがでしょうか。

いったい価格はいくらぐらいなのか。私にはまったくわかりませんが、どうぞ関心のある方は車屋/菅原さんにお問い合わせください。どうぞよろしく。

2016年12月5日ブログ「日本画家 本田鼎雪」
2017年2月1日ブログ「カツオがつなぐ縁」
2018年月26日ブログ「車屋の菅原さん」
  

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ジャンル : 地域情報

tag : 本田鼎雪

海とみどりの大島

今週のブログは、月曜に気仙沼大島PR映像を、火曜に水上不二の解説板と、大島の話が続きましたが、本日も気仙沼大島の話です。

このブログで2013年11月に紹介した「輝け!海とみどりの大島宣言」をご記憶でしょうか。

この宣言内容は、気仙沼市の大島地区振興協議会(柴田君子会長)の役員会で承認されたあと、2013年11月4日の「大島公民館まつり」で、大島中学1年の菊地海成さんと菅原碧さんが読み上げ、来場者の大拍手で採択が承認されました。その様子を当時の三陸新報記事が伝えています。


  大島宣言

  三陸新報2013年11月6日記事の一部イメージ


まずはこの三陸新報記事に紹介されていた宣言内容を紹介しましょう。


◎ 輝け!海とみどりの大島宣言

1.大島の海と緑を守っていきます

 大島には、詩人・水上不二がかつて「緑の真珠」と喩えたように、美しい海と緑に囲まれた自然環境があります。震災では自然からきびしい試練を与えられました。でも、そのことで自然を恨むのではなく、傷ついた海と緑の自然環境を再生し、再び美しい大島を取り戻します。再生した大島を守っていくことを私たちの使命とします。
 私たちは大島の自然再生から復興へ向けて一歩ずつ踏み出すことをここに宣言します。

2.大島を日本一安心・安全な島にします

 震災では壮絶な経験をしました。その経験を次の世代に引き継ぎ、再び自然災害が襲ってきたときには被害を最小限に食い止める知恵に活かします。震災では地域や人のつながりの大切さに気づかされました。地域ぐるみの自主防災の仕組みを作り上げていくことも大切です。震災の経験と地域のつながりを将来の防災に活かし、大島を日本一安心・安全な島にしていきます。

3.大島の人と地域のつながりを大事にします

 大島は、地域でつながった島民がお互いの家族のように支え合い、助け合ってきました。このような地域のつながりはだんだん薄れていく時代にありますが、震災はそのことの大切さを気づかせてくれました。安心・安全な島にするため、また高齢社会を支え合いによって乗り切っていくため、地域・世代を超えて人と地域のつながりを大切にしていきます。

4.大島の歴史と文化を伝えていきます

 大島には離島ゆえの古くからの歴史や文化があり、島民はそれを受け継いできました。その中には自然災害の記録を伝えるものもありました。大島の歴史と文化を守り、次の世代へ、そして大島を訪れる人たちへもそれを伝え、地域のつながりや産業の復興に役立てていきます。

5.大島をもてなしの心で元気にします

 大島の中心産業は水産業と観光です。これは大島の人と自然、大島でとれた物を好きでひいきにしてくれる人たち(ファン)がいて、成り立つものです。震災でもこれまで大島を訪れてきた多くの大島ファンの人たちに、助けられ勇気づけられました。これからも大島を訪れる人たちにもてなしと感謝の気持ちをもって、愛される島となるように努めます。そのことを通じて大島を元気にしていきます。


◎気仙沼大島未来チーム

宣言内容の検討にあたっては、大学教員や学生による〈気仙沼大島未来チーム〉の支援がありました。

気仙沼大島未来チームは、この活動をサポートしてくださった日本財団学生ボランティアセンターのサイトによれば、神戸大学、神奈川大学、信州大学、関西学院大学の4大学連携で活動をおこないました。

この「輝け!海とみどりの大島宣言」のほか、2015年度までは島内で月1回の「大島のみらいを考える会」の開催や「大島みらい新聞」発行などをおこなってきました。その後も、ワークショップの開催や、活動ホームページの作成、運営を行っています。

気仙沼大島未来チームの代表は、関西学院大総合政策学部教授で副学長のひとりでもある長峯純一さんです。長峯さんは気仙沼出身。気中26回/気高28回生で三日町にあった愛耕幼稚園/バプテスト気仙沼教会が〈実家〉のようなもの。お父様が同教会の牧師をつとめていました。

ひとつ付け加えれば、神戸大学の槻橋修准教授もメンバーのひとりです。槻橋さんは2018年に気仙沼市の復興祈念公園のコンペで優秀賞を受賞し、その提案を核として基本設計が計画されました。


◎大島の未来ビジョン

採択承認から6年半を経たいま、この宣言はどのように扱われているのでしょうか。

私は仕事で、企業ビジョンの策定をお手伝いすることがあります。ワークショップなど社員のグループワークを重ね、幹部/マネジメントとも協議して経営としての意思決定とするまでには結構な時間と手間がかかります。そして、その内容を企業の構成員全体に浸透させるためにはさらなる工夫と労力が必要です。

そうしたことを経験しているだけに、せっかく大島の皆さんが意見をかわし知恵をしぼって策定したこの大島宣言を活用しないのはもったいないなと思うのです。

5つの宣言は主文と副文からなっています。全文は上に紹介したとおりですが、主文のみにするとつぎのようになります。簡潔表示版として以下に。


◎ 輝け!海とみどりの大島宣言

1.大島の海と緑を守っていきます
2.大島を日本一安心・安全な島にします
3.大島の人と地域のつながりを大事にします
4.大島の歴史と文化を伝えていきます
5.大島をもてなしの心で元気にします

気仙沼大島ウェルカムターミナル施設のどこかに掲げられているといいな。小さくてもいいから。たとえば、水上不二さんの紹介パネルと並べてとか。

〈オダに言われなくてもとっくにやってるよ〉と叱られるぐらいだとうれしいのですが。ちょっと心配になったもので。ちょっと長くなりましたが、どうぞよろしく。今週はこれにて。

2013年11月19日ブログ「海と緑の大島宣言」

 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : 輝け!海とみどりの大島宣言気仙沼大島

「あたみ屋」再出発

きのう5月20日の朝、あさひ鮨の佐々木徹君(3年1組)からメール着信。

〈同級生の大友つき子さんの店「あたみ屋」が、一昨日5月18日(月)に開店しました。店舗前の写真と、店内の写真を送りますのでご覧ください〉ということで2枚の写真が添付されていました。まずはその写真から。


正面

内部


◎スローストリート「ユワエル」

場所がどこかわからなかったのでネットで調べてみました。まだ情報が少なかったのですが、内湾前にできた商業施設、スローストリート「ユワエル」のなかの一店としてのオープンだと思います。「ムカエル」と南町紫神社商店街のあさまれたエリア。

昨年12月20日に内湾地区の商業施設「拓/ヒラケル」がプレオープンしたときの三陸新報記事に、ヒラケルの向かい側には一部テナントの営業が始まっている商業施設「結/ユワエル」の整備が進められており、すべての施設の完成は来年3月下旬ごろになるということが記されていました。新型コロナの関係で、全施設そろってのグランドオープン行事などは、もう少し先のことになるでしょう。

「迎:ムカエル/創:ウマレル/拓:ヒラケル/結:ユワエル」の位置関係を以下に。今年1月、スローマーケット「拓」(ヒラケル)内に「宮川商店/MIYAKAWA」さんが移転オープンしたときの広告にあった地図がとてもわかりやすかったので、これをお借りして少し加工させてもらいました。

ユワエル地図

◎階上「五右エ門ラーメン」

あたみ屋の前身は、市内階上(はしかみ)地区の国道45号線沿いで40年近く営業していた「五右エ門ラーメン」ですが、東日本大震災の津波で店舗を流されました。60歳の誕生日のこと。

つきちゃんは私と同じ3月生まれですから、気仙沼小学校のときは1年2年とも8組の同級生。高宮富士子先生が担任でした。つまり小さなころからよく知っているのです。

◎復興屋台村「気仙沼横丁」

そして震災から半年後の9月に復興屋台村「気仙沼横丁」が南町にオープンすることを知り、店名を「ラーメンあたみ屋」に改めて再スタートを切ったのです。

しかし2017年3月20日には、あたみ屋を含め〈復興屋台村 気仙沼横丁〉全店の営業が終了し〈閉村〉しました。

◎新「あたみ屋」

それから3年2か月。内湾地区での再出発を果たすことができました。ここまで多くの苦労があったことと思いますが、本当にすばらしい。

徹君が送ってくれた写真を見ると、札幌ラーメンや餃子ののぼりがあります。入口脇の看板には〈拉麺のみ処〉の文字も。ラーメンだけでなくいろいろつまみながら一杯やれるようなお店なのでしょう。

店ののれんに「感謝と笑顔で商い中」とありますね。〈あたみ屋〉の〈あたみ〉は「明るく、楽しく、未来の気仙沼」の頭文字からとられたという話を思い出しました。

つき子さん、あたみ屋さんの再出発、本当におめでとう。心からお祝いを申し上げます。今年10月の気中20回生古希祝いで会えるのを楽しみにしています。まずは取り急ぎ。

2017年3月1日ブログ「仮設からの旅立ち」
2015年1月28日ブログ「ラーメンあたみ屋」
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : あたみ屋ユワエル

気仙沼「ホヤデリ!」

きのう5月19日の三陸新報に、こんな広告が掲載されていました。


ホヤデリ
三陸新報5月19日掲載広告より


気仙沼市タクシーデリバリー「ホヤデリ!」。市内飲食店のテイクアウト品を、タクシー会社が4kmまで無料でお客様にデリバリーするというサービスです。

市の5月10日付けの発表資料によれば、新型コロナ感染拡大に伴う消費落ち込み対策として、市が宮城県タクシー協会気仙沼支部(市内8社)と協力しておこなうもので、5月13日に開始されました。

5月10日には、三陸新報に飲食店応援商品券「ホヤチケ!」などの支援施策を含めての市からの広告が掲載され、16日はホヤデリのみの紹介記事として同紙で紹介されています。

段取りとしてはつぎのようなこと。

①登録された飲食店にデリバリーを注文(税込1000円以上)
②注文を受けた店がタクシー会社に配車を依頼
③タクシー乗務員が店舗で注文品の受け取りと代金の立替え払い
④タクシーがお客様に配達し、代金を受け取り
⑤その後、市が申請を受け、デリバリー件数に応じてタクシー会社に対して補助金を支払い

5月11日から始まった参加飲食店は、18日現在で55店。参加募集は5月22日(金)までとなっています。申し込み先は宮城県タクシー協会気仙沼支部になります。

参加飲食店や申し込みなど詳細は、下記の市サイトにて。

気仙沼市タクシーデリバリー「ホヤデリ!」のご案内(5月18日付)

本サービスを提供しているタクシー会社はつぎの8社です。

気仙沼観光タクシー/気仙沼ハイタク/五十番タクシー/ししおり・きはんせんタクシー/なすやタクシー/ミナトタクシー/本吉タクシー(本吉)/ワコータクシー(本吉)

気仙沼の人は三陸新報などを通じてすでにご存じのことですが、離れてくらしている方々に、気仙沼ではこんなこともやってますよということを知っていただきたく紹介しました。

フレー!フレー!地元!

4月7日ブログ「フレーフレー地元」
 
 

テーマ : 気仙沼
ジャンル : 地域情報

tag : ホヤチケ

水上不二の解説板

きのうに続き、気仙沼大島に関する話。大島出身の水上不二についてです。

水上不二(みずかみ ふじ/1904〜1965)は、気仙沼大島出身の詩人・童話作家です。水上不二がその詩文のなかに記した〈みどりの真珠〉という言葉は、いまや大島のキャッチフレーズといってもよいでしょう。

ちょっと前の話題になりますが、1月31日の三陸新報に、水上不二の生涯を伝える解説板が島内に設置されたことを伝える記事が掲載されていました。


1:31水上不二

三陸新報1月31日記事の一部イメージ


この解説板を製作、設置したのは大島の水上不二研究会(菊田榮四郎会長)で、設置場所は亀山中腹、大島神社の裏側にある「海はいのちのみなもと」詩碑(1961年建立)の脇とのことです。

解説板では、水上不二が大島の長崎地区で生まれ、中央文壇での活躍を目指して上京したエピソードや、1930年の処女詩集「私の内在」の刊行、童話童謡雑誌「昆虫列車」創刊、そして母校の大島中学校をはじめ9校の校歌を作詞したことなどを記しているとのこと。

なお、三陸新報の記事では、「(水上不二の)母校の大島中学校」としていますが、これは誤記だと思います。大島中は不二の母校ではありません。

大島中学は昭和22年/1947年4月に大島村立大島中学校として開校しました。開校時に不二は43歳ぐらいのはず。あくまで記事の誤りで解説板の記述に間違いはないと思いますが、念のため記しておきます。

不二の母校は大島中学校ではなく、現在の大島小学校の前身である大島尋常高等小学校だと思います。大島小学校では平成17年/2005年に「水上不二100周年記念事業」をおこないました。同校卒業生としての記念事業だったのでしょう。

母校ではありませんが、水上不二が大島中学の校歌を作詞したことは事実です。昭和32年/1957年4月に制定されました。作曲は著名作曲家芥川也寸志(やすし)さん。小説家 芥川龍之介の息子さんですね。

なお、大島小学校の校歌は、同校サイトによれば水上不二の作詞ではなく、芦田惠之助によるものです。明治30年制定。芦田惠之助は著名な国語教育・作文教育家とのこと。

最後に、解説板わきの詩碑に刻まれている詩文を紹介しておきます。改行は碑文表記にしたがいました。


海はいのちのみなもと
波はいのちのかがやき
大島よ
永遠にみどりの真珠であれ


「緑の真珠」と表記されることも多いようですが、碑文は「みどりの真珠」となっています。また、Wikipediaの「水上不二」の記事に、〈「永遠」は、「とこしえ」と読むと、生前、不二が語っていた記録が残っている〉との記述がありました。その記録の出典は不明ですが、ご参考まで。

きのう紹介した気仙沼大島観光PR映像は、「大島ウェルカムターミナル」内のディスプレーで流されるとのことですが、2017年11月時点での基本計画には、水上不二に関する展示もおこなうなどの案が示されていました。

ウェルカムターミナルは、新型コロナ感染拡大防止のため、5月31日まで休館期間を延長しているそうです。そうしたこともあり、落成を記念してのオープン行事などはさらに先のことになるかもしれませんね。

今後のことになるかもしれませんが、水上不二に関する基本的な情報や詩碑への道案内などはぜひ実現してほしいと願っています。

2014年12月3日ブログ「水上不二 記念詩集」
 
 

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気仙沼大島PR映像

気仙沼大島の〈海の玄関口〉ともいうべき浦の浜地区に整備されたウェルカム施設は3月8日に供用を開始しました。しかし、新型コロナ感染予防のため、予定されていたオープンイベントは中止となり、関係者の皆さんはさぞかし残念だったことでしょう。

この施設は市が整備した観光拠点「大島ウェルカムターミナル」エリアに建設されました。同エリアには、民間の観光集客施設「野杜海(のどか)」が昨年7月にオープンしています。

ウェルカム施設のオープンを伝える3月10日の三陸新報の記事に〈東日本大震災の記憶や観光情報の発信をおこなうモニターも設置され、気仙沼市出身で東京都在住の若手クリエイターや島民が共同で制作したPR動画を流す〉とありました。どのような動画だろうと思っておりましたが、本日紹介するのがたぶんその映像でしょう。YouTubeでウェルカム施設オープンの前日、3月7日に公開されています。「気仙沼大島観光PR ~夏秋~」。3分18秒の映像です。





YouTubeの説明文を以下に引用させてもらいます。

〈宮城県気仙沼にある大島は「緑の真珠」と呼ばれ、気仙沼湾に浮かぶ東北最大の離島です。2019年気仙沼大島大橋(鶴亀大橋)が開通し、気軽に大島に渡ることが出来るようになりました。

気仙沼大島は自然が織り成す美しい景色と人のあたたかさが魅力です。

おすすめの観光スポットは、環境省が制定した快水浴場百選に選ばれた「小田の浜海水浴場」。南国の雰囲気が漂う青く透き通った美しい砂浜のビーチです。夏は海水浴を楽しむ人で賑わい、SUPやカヤックのアクティビティを楽しむことができます。

また気仙沼大島は釣りのスポットとしても人気が高く、毎年大規模な釣りの大会も開催されます。漁業が盛んで季節ごとに、新鮮な海鮮を味わうことができます。

大島の北側に位置する「亀山」は、山頂の展望台から、リアス式海岸が大パノラマで望むことができます。美しい日の出や夕日、夜には満天の星が広がり、天の川や流れ星を見ることができます。自然が創り出す絶景を眺めながら、キャンプや山歩き をするのも大島の醍醐味です。

海での暮らし、ゆるやかな時間、島ならではのあたたかい人柄が魅力の大島。気仙沼大島でこころおどるときを感じてみてください。〉

Produce by Team83~kesennuma creators~
Producer.Director _ Rina Sasaki
Movie.Drone operator _ Fumiaki Omori

引用は以上。

上記内容の末尾に制作クレジットが示されていました。TEAM83は、気仙沼出身のクリエイターチームとのこと。クレジットに英文で記されていたお二人は、佐々木理奈さんと大森文暁(ふみあき)さん。同チームのサイトによれば、1983年生まれの同級生を中心に活動しているそうです。チーム名にある 「83」は1983なのですね。

沖縄料理店TEN(T) の熊谷泰平さん、石渡商店常務の石渡康宏さん、階上(はしかみ)地区のいちご農家/三浦拓也さん、パティシェ畠山和也さんらのお名前がありました。

沖縄料理店「TEN(T)(テント)」は、魚市場前の「みしおね横丁」のなかにあります。そして熊谷泰平さんがシンガーソングライター熊谷育美さんのご主人であることは皆さんご存じのとおりです。

そうしたことなどを知ったうえで、このPR映像を見てみると、気仙沼で育ったいろんな人が、〈気仙沼〉というステージでいろんなことをやっているんだなあと感じます。

今回の映像は、夏秋篇。大島の冬と春をどのように見せてくれるのか、それも楽しみです。TEAM83の皆様、どうぞよろしく。

3月17日ブログ「大島にウェルカム」

 

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「nendo」と昭福丸

きのうに続き、本日も気仙沼の臼福本店さんの話。

臼福本店の遠洋マグロはえ縄漁船「第1昭福丸」の進水式は、昨年/2019年11月22日に気仙沼市朝日町の「みらい造船」でおこなわれました。

そして艤装なども完了し市内岸壁でお披露目されたが本年2月でした。間近でご覧になったり、内部を見学された方も多いのではないでしょうか。

◎「nendo」の「作品」

同船の内外装を担当したのが、世界的にも高い評価を得ている佐藤オオキさんが率いるデザインオフィス「nendo(ネンド)」であることは何度か紹介してきました。

「第1昭福丸」は、「人が集まる魅力ある船」をコンセプトに、居住環境や労働環境の改善にさまざまな工夫がされているということで、多くのメディアで紹介されました。従来の漁船ではありえなかったような斬新な外装デザインには、気仙沼の人もおどろかされたことでしょう。

私もそうした新造船の紹介記事を興味深く読んだひとりですが、臼福の屋号紋「チガイヤマ ホシ イチ」をモチーフとした外装/グラフィックデザインだけでなく、nendoの本領ともいうべき内装/インテリアデザインをさらに詳しく知りたいと思っておりました。

本日紹介するのは、nendoさん自身のサイト「作品」ページで紹介された「第1昭福丸」です。素晴らしい写真とともにデザインの背景などが詳しく解説されています。タイトルは〈「陸上の安心感」を取り入れたマグロ漁船のデザイン」〉。

n e n d o | 第1昭福丸

写真もすばらしい。たとえばこれ。

昭福丸
Photographer:Takumi Ota


写真のなかに、船舶模型/モデルシップも紹介されているのですが、海上での写真もこの模型を使った合成ではないかとも。実際はどうかよくわかりません。それほどに美しい。

私がnendoの仕事らしいなと感じたのは、神棚です。漁船においての神棚の扱いはとても重要です。第1昭福丸の食堂スペースの神棚も、サイズはコンパクトながらとても大事に、そしてシンボリックに扱われています。きれいです。

神棚
Photographer:Takumi Ota


なお、今回のデザインでnendoさんが目指したのは、「直線」「不均質」「重量感」という3つのキーワードを通じて、「陸上がもつ安心感」を取り入れたデザインとのこと。また、国内のマグロ船では初となるWi-Fi設備の完備や、従来より船内の天井を高くし、寝台など一人あたりの占有面積を拡大しているそうです。

さらに、マグロを魚倉にスムーズに移動できるスロープの設置など、様々な機能上の改善も講じられており、少しでも乗組員の身体的そして心理的な負担を軽減することに配慮したデザインとなっています。

詳しい内容は、どうぞ上記のnendoサイトをご覧ください。

◎ローソンの仕事

この「昭福丸」の仕事がnendoのサイト/作品ページに掲載されたのは先月/4月ですが、同月には、コンビニチェーン「ローソン」のプライベートブランド(PB)のロゴとパッケージデザインも紹介されています。同社に対する高い評価、期待の証しといってよいでしょう。

n e n d o | ローソン事例

この事例を紹介したのは、グラッフィクデザインのアプローチが昭福丸とにかよっていたからです。担当責任者が同じではないかと感じました。

これらはnendoさんの新しいデザイン領域かなとも思っているのですが、このローソンの仕事は、ブランディングとかマーケティング関係者のあいだでちょっとした話題になっています。

PB商品のカテゴリー展開など、なかなかやっかいな課題にとりくんでいるのですが、私もお客様の反応がどう出るか関心をもってみています。

◎第1昭福丸のいま

話を戻します。第1昭福丸のFacebookには、出港以降の船上の様子が連日報告されています。それを見ると、3月3日に気仙沼を出港した第1昭福丸はバリ島/ベノアを経て4月8日には南アフリカ共和国ケープタウンに入港。現在は大西洋上で操業を続けています。

遠洋マグロはえ縄船の洋上での日常、操業の様子がこうしてネットを通じてかいま見ることができるというのは、昔なら考えられなかったことですね。こうしたことも「人が集まる魅力ある船」のための方策のひとつでしょう。

こうした新しい試みを随所に盛り込んだ、まさに〈次世代型遠洋マグロ船〉第1昭福丸。その航海安全と大漁満船を願っております。

2019年11月29日ブログ「第1昭福丸」進水
5月14日ブログ「臼福本店新築落成」
 

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臼福本店新築落成

気仙沼市魚町の臼福(うすふく)本店さん新築社屋が落成し、5月12日に業務を開始したそうです。同日の三陸新報に、施工会社はじめ協力会社による協賛広告が掲載されていました。


臼福本店
三陸新報5月12日掲載広告の一部イメージ


挨拶文に〈創業の地であります魚町へ戻る〉とありました。道路そのもののとりつけが変わっているかもしれませんが、以前とほぼ同じ場所。広告中の地図はつぎのとおりです。蛇足ながら、震災前の我が家は右側の信号の赤丸の上あたりにありました。

地図


以前の臼福さんの建物は、私がうまれたときからそこにありましたからよく知っています。と、書いたのですが細部を思い出そうとするとかなりあやしい。壁面が銅板でふいてあり、緑青(ろくしょう)の渋いグリーンが印象に残っているのですが。

たしか正面には〈帳場〉というか、事務空間があって、その奥に座敷が見えたような見えなかったような。正面右側の通りに面して住居部への玄関がしつらえてありました。

2018年11月6日のブログ「臼福ファミリー」で、同年10月19日の三陸新報記事「わが社の屋号/臼福本店」を紹介しました。そのなかに、臼福さんが提供したと思われる次の写真が掲載されています。

旧臼福本店
1937(昭和12)年ごろの臼福本店(三陸新報2018年10月19日記事より)


これは現社長の臼井壯太朗さんのお祖父さんにあたる臼井福治さん(襲名前は壯志(たけし)さん)の出征歓送の写真です。

建物の角が斜めになっていたんですね。すっかり忘れておりました。白黒写真で色はわかりませんが、壁にふかれた銅板の質感は想像できると思います。屋根上部のパラペットと思われる部分にほどこされた連続的な三角形の意匠もなかなかのもの。当時はモダンなデザインだったでしょう。

話を新築社屋に戻します。この壁も銅板ですね。旧社屋(であり家屋)の仕上げを引用して、その歴史を記憶にとどめようとする配慮だと思います。

臼福さんの創業は明治15年/1882年。今年で138年になります。現社長の壯太朗さんは5代目。その舵取りによっていま、臼福本店の新しい歴史が刻まれています。新社屋の銅板も見事な緑青色へと変化していくことでしょう。

臼福本店新社屋落成のお祝いを申し上げます。おめでとうございました。

2018年11月6日ブログ「臼福ファミリー」
 

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tag : 臼福本店

第7光洋丸の回航

きのう5月12日のブログで遠洋マグロはえ縄船「第7光洋丸」の気仙沼港への回航をお伝えしました。本日5月13日の三陸新報には、入港した同船の写真とともに、関係者の歓迎を伝える記事が掲載されています。

きのう12日、私のツイッター/タイムラインのなかに、第7光洋丸の姿がありました。

まずは菅原市長のツイートを紹介します。


つぎは、ラヂオ気仙沼のツイートです。以前のこのブログでも紹介した気仙沼つばき会さんによる簡易防護服製作の話とともに。GOODDAY2(グッデイグッデイ)担当 横田真美子さんによる投稿だと思います。



これらは、私がフォローしているツイッターアカウント/タイムラインに登場したのがこのふたつだったということなのですが、偶然にも共通点がありました。

ひとつは、菅原市長と真美子さんが同じ気中26回生だということ。私たちの6つ下になります。これはクイズとしては簡単でしょう。

二つ目はちょっと難しいかな。答は、実家というか家業が船主/漁業経営だったということです。

菅原市長のお祖父さん菅原長之助さんが社長をつとめていたカクダイ/菅長水産は、同じ魚町でしたからよく知っています。私が小学生だったとき、カクダイさん前(いまでいえば「福よし」さん前)の岸壁に「長功丸」の新造船が係留されて祝いの餅がまかれたのを覚えています。

私が中学生だったころは、気仙沼の遠洋漁業の最盛期といってよいのではないでしょうか。町全体の景気がよかった。しかしそれも、少しずつ下降線をたどっていきます。カクダイさんも漁業の事業を閉じることになりますが、菅原市長はその最後の経営的な処理をおこないました。活躍の場を政治の世界にうつすのはその後のこと。

真美子さんも同様に、気仙沼の漁船漁業の変化を間近に見てきたことと思います。そうしたお二人ですから、福来旗(ふらいき/大漁旗)を掲げて母港に回航してきた新造船をながめるときの心境には格別のものがあったのではないかと。

そんな私の勝手な想像をちょっとお伝えしたく、ブログに記しました。

なお、本日の三陸新報記事によれば、第7光洋丸は大西洋での操業を予定しています。しかし、新型コロナ感染拡大防止のための入国規制によりインドネシア乗員が来日できず、出航日は未定とのことです。

菅原市長のツイートはつぎのように結ばれています。気仙沼の多くの人の思いでしょう。

「本船の行く手には様々な環境変化もあるでしょう。そんな中でも、水産日本の担い手として力強く進んで欲しいと願います」

5月12日ブログ「祝 第7光洋丸竣工」
  

テーマ : 気仙沼
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tag : 第7光洋丸鶴本商店

祝 第7光洋丸竣工

新造船が竣工して母港でお披露目する。それは、船主さんにとってはもちろんのこと、その航海安全と大漁を願ってお祝いする関係者にとっても、非常に晴れやかでうれしい祝いごとでしょう。

しかし、それを新型コロナ感染拡大防止のために自粛するとの広告が、一昨日5月10日の三陸新報に掲載されていました(本日12日にも同様の広告が掲載されました)。


光洋丸
三陸新報5月10日掲載広告より


勝手ながら広告の文章を引用させていただきます。

◎第7光洋丸竣工ご挨拶とお知らせ

この度、全国遠洋かつお・まぐろ漁業者協会の指導の下、長期代船計画に基づき水産庁の「もうかる漁業創設支援事業」の認定を受け、新潟造船株式会社で建造しておりました第7光洋丸が、お陰様を持ちまして、この度完成し、5月12日に気仙沼港に廻航して参る運びとなりました。

改めましてご協力を頂きました関係者の皆様には、厚く御礼を申し上げます。

本来であれば、入港時に祝い餅をまき、皆様方に本船のお披露目をするところではございますが、4月16日に「新型コロナウイルス感染拡大に伴う国の緊急事態宣言」が発令されておりますことから、感染拡大防止の為、やむなく本船の竣工披露など、お祝い事を自粛することと致しました。

当日は、皆様方から頂戴しました福来旗を掲げて入港いたしますが、本船への乗船、見学などは事情をご賢察の上、お見合わせくださいますようお願い申し上げます。

大変心苦しく甚だ勝手なお願いで恐縮ではございますが、ご理解ご協力を賜りますよう何卒宜しくお願い致します。


有限会社 鶴本商店


引用は以上です。書き写していても、やるせなさというかせつなさというか、なんともいえない気持ちが伝わってきます。

〈本来であれば、入港時に祝い餅をまき、皆様方に本船のお披露目をするところ〉 〈やむなく本船の竣工披露など、お祝い事を自粛することと致しました〉 しかし 〈当日は、皆様方から頂戴しました福来旗を掲げて入港いたします〉 と。

気仙沼市港町の鶴本商店の代表は鶴本正輝さんだったと思います。私の兄の同級生。4つ上の気中16回生のはずです。

きょう廻航してくるのは気仙沼港のどこの岸壁にだろう。何時だろうか。気仙沼の人は先刻ご承知のことでしょう。

私はブログにて、たくさんの福来旗を掲げて入港する新造船を思い浮かべながらお祝いを申し上げます。

「第7光洋丸」ご竣工、おめでとうございます。航海安全と大漁満船を心から祈っております。
 

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24年前の気中空撮

前回/5月8日のブログ「市民運動公園造成」では、いま「気仙沼公園(市民グラウンド)」と呼ばれている市民運動公園が、陸上自衛隊第9師団の皆さんの奉仕活動によって造成されたという話を紹介しました。

そのブログ末尾に〈しかし念のためと思い、陸上自衛隊第9師団などについて調べてみると、(新制)気仙沼中学卒業生の話だとすると、ちょっと時代が合わないような気もするのですが〉と記しました。本日はその話を。

◎齋藤稔 第9師団長

三陸新報の2月26日論説記事のなかでは、斉藤武雄さんの実弟の稔さんと記してあるだけで、姓がはっきりとはしませんが、Wikipediaの陸上自衛隊第9師団の記述のなかに「齋藤稔」さんに関する記述がありました。1966年7月1日から 1969年7月1日まで、第4代目となる第9師団長をつとめています。階級は陸将です。大日本帝国陸軍でいえば中将相当。

なお、前回ブログで記した造成時期1966年1〜3月が正しければ、齋藤稔師団長の前職「北部方面総監部幕僚長(陸将補)北部方面総監部幕僚長 兼 札幌駐とん地司令」のときかもしれません。

第9師団は現在、北東北3県(青森県、岩手県、秋田県)の防衛警備、災害派遣を任務とするほか、民生協力及び国際貢献活動を行っているそうです。

余談になりますが、齋藤稔さんの出身校をみると京都帝国大学の卒業です。陸軍士官学校から陸軍大学校という経歴の方々がいならぶなかで異色といってよいのでは。

こうした戦前の学歴をもつ人が、新制気仙沼中学校の卒業生のはずがありません。そのお兄さんについても同様。新制気仙沼中学校は1947年/昭和22年4月の開校です。

なお、新制気仙沼中学ではなく旧制気仙沼中学(現 県立気仙沼高校)ではないかと思い、卒業生名簿を見てみましたが、それらしい人を見つけることができませんでした。

以上が、〈ちょっと時代が合わないような気が〉した私からの報告です。ここまでにしておきます。

たぶん、情報がどこかで少しくいちがっているのだと思います。いずれにしても陸上自衛隊第9師団の皆さんによる市民運動公園の敷地造成という事実に変わりはないでしょう。

◎24年前1996年の空撮写真

最後に、手元にある「気仙沼中学校 創立五十周年記念誌」(1996年11月 気仙沼市立気仙沼中学校 発行)の表紙を紹介します。気仙沼中学校の校舎や校庭の左下が市民運動公園です。裏表紙のほうの右下に市民会館がうつっています。

気中校庭
「気仙沼中学校 創立五十周年記念誌」より

校庭に人文字で50の文字と校章をかたちづくっていますので、1996年撮影と推測できます。気中の校舎は私たちが在学していたころとは違いますが、体育館は変わりなし。私たちと同じく、老化の兆しがあるかもね(笑)。

この記念誌は、各年度の学校市長(生徒会長)らによる「回想と思い出」に寄稿した関係でご恵贈いただきました。なかなか興味深い話がたくさんありますので、また機会をみて紹介することにいたします。市民運動公園の話は以上です。

5月8日ブログ「市民運動公園造成」
  

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tag : 市民運動公園

市民運動公園造成

5月4日のブログで、条南中学校18回生の物故祭中止のお知らせ広告を紹介しました。その文章を書きながら、書きかけの記事があることを思い出しました。本日のブログはその話を。

2月23日の三陸新報に、「気仙沼・条南中 統合問題に関連して」と題する論説が掲載されました。


統合問題
三陸新報2月26日記事の一部イメージ


この論説のテーマは両校の統合計画に関連して、条南中学の敷地利用に関する課題ですが、私の興味をひいたのは冒頭に記されていた市民運動公園についてです。

この市民運動公園はいま、気仙沼公園(市民グラウンド)と呼ばれています。この公園は気仙沼中学校の校庭の下方に隣接するかたちで造成されました。論説の冒頭を以下に引用します。

〈気仙沼市立気仙沼中学校(笹が陣)の校舎新築工事と、新設の市民運動公園の造成工事が行われたのは広野善兵衛市長時代のこと。その造成工事に携わったのが自衛隊第9師団(青森県)。もちろん、すべてが奉仕作業だった。

広野市長にとって、思いがけなかった自衛隊の奉仕作業。古里の発展を願う気仙沼中学校の一人の卒業生の働きがあったことは同校の学校史にしっかりと刻まれている。

当時、気仙沼市内で土木請負業を営んでいたのが斉武組(斉藤武雄さん・住建工業の前身)。実弟の稔さんが自衛隊第9師団長の要職にあり、母校の隣接地に市民のための運動公園造成工事が計画されていることを知り、師団の奉仕作業を申し入れた。

この造成工事で出た大量の土石は、気仙沼魚市場周辺の埋め立てに使われ、一度に二つの大事業が進んだ。主に草野球の場として親しまれた市民運動公園は、東日本大震災後、被災者の応急仮設住宅のスペースとなった。当時を知る市民は、自衛隊の奉仕作業に思いをはせていると思う。〉(引用は以上)


公園の造成工事にこうしたバックストーリーがあることを初めて知りましたが、この工事に関しては、なんとなく記憶があるのです。しかし、論説の文中に、市民運動公園の造成がいつおこなわれたかの記述がありません。気仙沼文化史年表(荒木英夫著)を調べてみましょう。ありました。

昭和41/1966年1月21日「市民運動公園造成工事開始」、同年3月31日「市民運動公園竣工する」

やっぱりね。私たち気中20回生が中学2年生だったときのことです。

気中校庭から斜面をくだるとこの運動公園です。気中の運動部などが練習に使っていたので、気中の第2グラウンドのようなイメージでしたね。公園からさらに下方、南が丘方向への斜面というか崖になったところからは化石がとれたとかいう話もあったような気がするのですが。

引用した文章の末尾に〈主に草野球の場として親しまれた市民運動公園は、東日本大震災後、被災者の応急仮設住宅のスペースとなった〉とありました。

東日本震災後、市民運動公園/気仙沼公園は、反松公園とともに今年まで入居が続いていました(昨年末時点で2団地計5世帯)。しかし、両団地とも順次、退居が進み、本年3月26日に全世帯の退去が完了したのです。

もう一つ付け加えておけば、気仙沼市の新庁舎建設の最終候補地は、現在地、市立病院跡地、そして気仙沼公園の3カ所でした。たしか市当局として気仙沼公園は難しいとしていましたが、なぜ候補から外すのかという意見が市議会から出て候補に残ったという経緯があったと記憶しています。

市民運動公園竣工が1966年ということは、今年で54年。あの場所は、今後どのような時を重ねていくのでしょうか。

末尾になりましたが、造成工事当時、大変お世話になった陸上自衛隊第9師団の皆様にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

なお、気中の校舎と校庭の工事については、つぎのブログにて。

1月21日ブログ「1958の気中校舎」

以上、いったんは文章をおえたのです。しかし念のためと思い、陸上自衛隊第9師団などについて調べてみると、(新制)気仙沼中学卒業生の話だとすると、ちょっと時代が合わないような気もするのですが。

これについてはまたあらためて。今週はこれにて。
 

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県の休業要請解除

宮城県が遊興施設や飲食店など42業種に求めていた休業要請は、当初の予定通り6日で解除されました。ただし、県境をまたいだ移動や接待を伴う飲食店などへの外出自粛要請は継続。これを踏まえ、気仙沼市も県の方針にしたがうことを6日に発表しています。本日5月7日の三陸新報1面を紹介します。


要請解除

5月7日記事の一部イメージ


細かなことは省きますが、気仙沼の人は〈やっと〉との思いでしょうね。東京に暮らす身としてはちょっとうらやましい。

休業や営業時間短縮などをしていた店舗では営業再開のために忙しいことでしょう。ただ、お客様がすぐに戻ってきてくれるかどうかはまた別の話。しばらくは心労が絶えない日が続きそうですね。

宮城県での新型コロナ感染者は88人で東北最多です。しかり、4月29日からはゼロの日が続いています。気仙沼市では、4月5日に40代の男性ひとりの感染が発表されましたが、すでにその方は退院しています。その後の感染者はありません。楽観してはいけませんが、まずは一安心といったところでしょう。

きょうの東京は晴天。気仙沼も同じようによい天気だと思います。天気がいいと気持ちも晴れ晴れとしますね。この気分が続いてくれればなと思っています。
 

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tag : 新型コロナ

テークアウト 希望

新型コロナウイルス感染拡大予防のため、気仙沼でも多くの飲食店が営業を自粛するなどの対応をおこなっています。そんななか、三陸新報さんが、「お薦めのテークアウト」と題し、市内店舗のメニュー紹介記事を連載中です。

5月2日掲載の第13回目に登場したのは、気仙沼図書館内のcafeエスポアールでした。

エスポアール
三陸新報5月2日記事より


おすすめは、スパゲティポーク。記事に〈旧店舗の復興メニューが人気〉とありました。

旧店舗というのは「喫茶エスポアール」のことでしょう。同店については、同級生が経営するお店ということで何度か紹介してきました。要約すればつぎのようなことです。

喫茶エスポアールは1976年に気仙沼市内の南郷で営業を開始しました。齋藤(広沢)高史君(3年8組)が代表で店長は奥様のみき子さん。1986年には高史君が店の隣に「K&B スポーツジム」を開いてトレーナーに専念し、喫茶店はみき子さんに任せました。

その喫茶店もジムも震災による津波で被災しました。しかし、2011年12月に喫茶店は仮設商店街「福幸小町田谷通り」で、ジムは利府町で「THE ZEN CLUB K&B GYM」として再開することができたのです。

気仙沼図書館内にcafeエスポアールがオープンしたのは、2018年3月31日のことです。このときには、福幸小町の店も営業していましたが、同年10月にはこの店舗を一時閉店に。これは、仮設商店街としての貸与期間終了に伴うものだったと思います。

その後、喫茶エスポアールがカフェとは別に新店舗をオープンしたのかどうかはよくわかりませんでした。しかし、5月2日の三陸新報記事に〈旧店舗〉としてあったことからすれば、いまは図書館内のカフェのみということなのでしょう。

以上、同店の44年にわたるストーリーということで。

営業時間は午前11時〜午後3時(日・月曜・祝日定休)。注文は午前10時から午後2時30分まで電話で受け付けます。一部メニューは前日までの予約制です。なお、図書館は現在休館中のため、商品は屋外で手渡しとなります。

本日のブログタイトルは、エスポアールがフランス語で〈希望〉を意味することから。しゃれたつもりだったのですが、ちょっとわかりにくかったかも。

きょうまでは祝日定休だと思いますが、明日からは連休明けの営業だと思います。電話では〈テークアウト希望〉とお伝えいただければ幸いです(笑)。

2018年6月26日ブログ「エスポアール姉妹」

 

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tag : エスポアール

江戸時代の本町橋

気仙沼の本町(もとまち)から三日町・新町(あらまち)を結ぶ県道途中にある「化粧坂」が道路改良工事によってほぼ直線になると紹介したのは、2月26日のブログ「化粧坂近辺の風景」でした。

そこで紹介したのは三陸新報2月20日の記事ですが、3月2日の同紙論説にも化粧坂に関する記述がありました。見出しは「化粧坂改良 一日も早く難所解消を」。



三陸新報3月1日記事の一部イメージ


論説記事のテーマは、安全第一に、一日も早い工事完了を願うものでしたが、そのなかに旧本町橋に関する記述がありました。

〈化粧坂は、旧本町橋が完成した1934年当時から、勾配や幅員はほとんど変わっていないとされる。戦前生まれの人の中には「子供の頃から変わっていない道路」と語る人は多い〉と。また、県が本町橋の掛け替えに着手したのは2002年。しかし、完成が見えてきた時に東日本大震災があり、供用を開始したのは2013年2月になったそうです。

旧本町橋が完成した1934年/昭和9年はいまから86年前。それ以前はどうなっていたのだろうか。

例によって「気仙沼文化史年表」(荒木英夫著)を調べてみると、1934年/昭和9年8月4日に「本町橋がコンクリート架橋となった」と記されていました。それまで木造だった橋をコンクリート造にしたということでしょう。

そうだとすれば、その木造橋はいつできたのだろう。そう思い文化史年表をさらに調べてみると、享保15年/1730年10月に「本町川に橋をかける」との記載がありました。出典は気仙沼町誌です。本町川は大川のことだと思います。架橋の場所が定かではありませんが、現本町橋近辺と考えるのが自然でしょう。

これは290年前、江戸幕府は8代将軍 徳川吉宗の時代。この年には本居宣長が誕生しています。文化史年表には、2年後の享保17年「鹿折村に藩直営製鉄業開始」との記述もありました。出典は市史第4巻。仙台藩(伊達藩)直営の製鉄所ということなのか。

江戸時代、300年近く前の本町橋はいったいどんな橋だったのか。気仙沼の町から橋をわたった向こう岸、今でいえば田中前、それ以前には〈ごんぼ土手(ごぼう土手)〉の先にはどのような風景がひろがっていたのでしょう。ちょっとのぞいてみたいような気がします。

昨今のコロナ禍、なかなか先が見えません。ここはひとつ、300年前の気仙沼に思いをはせてみるのも一興かと。

2015年4月29日ブログ「五十年前の田中前」
 

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tag : 本町橋

物故祭の中止広告

きのう5月3日の三陸新報に、条南中学校18回生の皆様へという広告が掲載されていました。


物故祭
三陸新報5月3日掲載広告より


本年8月に予定していた「物故者慰霊法要」を新型コロナウイルス感染防止の観点から中止するとのお知らせです。実行委員のみで法要をおこなうことにしたのこと。

気仙沼市立条南中学校18回生の皆さんは、昭和55年4月〜56年3月生まれということなので、私たちの29学年下ということになりますね。39〜40歳。気中49回生と同年になります。

「物故者慰霊法要」は「物故祭」とも呼び、亡くなった同級生を慰霊します。今年の8月に物故祭ということは、来年2月とかに〈歳祝い〉が予定されているでしょう。

〈歳祝い〉は気仙沼をはじめ三陸地方などで行われる厄払いなどを目的とした同年同窓会です。

以前にもご紹介しましたが、私たち気中20回生もこれまで歳祝いや厄払いを開催してきました。震災の1ヵ月前、2011年2月12日には還暦祝い(&厄払い)、前年8月には物故者慰霊法要をおこなっています。それ以前には、33歳、42歳、49歳、55歳の年に厄除けや歳祝いなどをおこなってきました。また、震災後では、2012年11月3日に「還暦祝い後1年・震災復興支援感謝の集い」をおこないました。そして2016年9月24日には気中を卒業してから50年ということでの「あれから50年同年会」も。


条南中18回生の皆さんも物故祭のためにいろいろと準備を重ねてきたはずです。それだけに、今回の中止はまさに苦渋の決断だったでしょう。8月までにはあと3か月ありますしね。

でもね、年明けの歳祝いを楽しみにしましょう。その頃には、なんとか落ち着きを取り戻しているでしょう。是非そうあって欲しい。

というのも、この物故祭の中止は、私たち気中20回生にとって他人事(ひとごと)ではないのです。なぜならば、本年10月24日(土)には気仙沼ホテル観洋で「古稀を祝う会」開催が予定されていいます。あと半年後。

全8学級の各クラス委員からなる実行委員会の皆さんが気をもんでいることと思いますが、ひとつお願いがあります。東京とか市外あるいは県外の人の参加を禁止しないでね。

感染拡大が止まらない東京で暮らす同級生は〈来ないでけらいん〉あるいは〈くんすな〉とか。そんなことは言わないでね。お願いだから(笑)。
 

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tag : 物故祭歳祝い条南中学

浮見堂の再建工事

気仙沼市魚町の神明崎(しんめいさき)/浮見堂の再建工事が大詰めとのこと。菅原市長が4月28日のツイートで紹介しています。

昨年/2019年2月15日のブログで浮見堂や海上遊歩道の復旧計画について紹介しました。下は、その時に紹介した同年1月の三陸新報の記事。

浮見堂復旧
三陸新報2019年1月11日の一部イメージ


この三陸新報記事によれば、浮見堂の大きさは一回り大きく、遊歩道の幅も約2倍となります。設計などを含めた総事業費は約2億7600万円で、国の震災復興交付金などを充てますが、このうちの2500万円は市内在住者と気仙沼出身者からの寄付金が活用されます。

この気仙沼出身者から寄付金については、2017年9月1日のブログでも紹介しました。気仙沼市浪板(なみいた)出身で東京都在住の熊谷寿夫さんから2千万円が寄付されたのです。熊谷さんは木戸浦造船で船大工として働いた後、1969年に都内に建設会社「気仙沼建設」を設立し、住宅建築や不動産経営に携わってきた方です。

市長のツイート画像には、3代目となる恵比寿さまもブルーシートに包まれてはいるものの、台座に置かれたようです。この3代目恵比寿像の建立についても、「ヱビスビール」のご縁でサッポロホールディングスさんが支援金530万円を贈呈してくださいました。

こうした多くの方々のご支援とご協力を得ての浮見堂再建です。あらためて皆様に御礼を申し上げます。

市長のツイートによれば浮見堂の完成は5月末とのことですが、県が管理する魚浜町側の遊歩道工事や新型コロナのことなどもあり、お披露目はまだ先のことになるそうです。

浮見堂が、地元魚町の青年有志の努力で完成したのは、気仙沼市史によれば昭和7年/1932年6月のこと。88周年か。人の数え年でいうと米寿。うれしいこと、悲しいこと、いろんなことがありました。戦争も津波も、そしてコロナもね。といったところでしょうか。

2017年9月1日ブログ「浮見堂の再建」
2018年7月9日ブログ「来夏に浮見堂復活」

 

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tag : 浮見堂

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気中20/小田

Author:気中20/小田
このブログは、東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/72~73歳)たちを支援する首都圏在住者「気中20回生支援会」ブログとして始めました。いまは、気仙沼出身東京在住者による気仙沼情報ブログとして、魚町育ちの小田(気中3年8組)が書いています。

Twitter: @kechu20

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