化粧坂近辺の風景
2月20日の三陸新報1面トップ記事。「化粧坂ほぼ直線に」という見出しです。
三陸新報2月20日記事の一部イメージ
あらためて説明するまでもないのですが、気仙沼の化粧坂(けしょうざか)は本町(もとまち)と新町(あらまち)や三日町を結ぶ道路です。記事によれば、県道気仙沼唐桑線の一部。その道路改良工事が始まりました。
記事の写真がわかりやすいですね。下方向が本町や田中前方向、右上部が新町・三日町方向です。大きくカーブしていたのを直線にする計画であることがよくわかります。
気仙沼の人から笑われそうですが、本町橋が新しくなったのに伴い、道路の取り付けも変わっているのですね。写真下部の左側に気仙沼中央交番と記してあるあたりが旧道でしょう。
私が気仙沼高校に通っていたころは、魚町からこの化粧坂を通ってほとんど歩いて通学していました。ですからこの付近の風景をよく覚えています。旧道と新道の間、坂の下には卓球センターがありましたね。また、この写真の左下角のあたりで、菊池福治郎さんが立ち、道行く人に頭を下げていました。
Wikipediaによれば、菊池福治郎さんは1963年に衆院選旧宮城2区に立候補するも、落選。その後も負けても負けても立候補を繰り返し、4回目の落選後は「登米郡の票の伸びが芳しくなかった」と、登米郡の街頭に1年365日毎日立って手を振り、人呼んで「人間地蔵」と評されるまでになったとのこと。
登米郡の街頭だけでなく、本町橋の近くでもということだったのでしょう。しかし、挑戦5回目の1976年(昭和51年)、新自由クラブの公認を得て初当選。その後、離党した同党幹事長・西岡武夫の後を追って離党、自由民主党に移籍し鈴木派に所属。その後、落選も経験しましたが当選7回を果たしました。
菊池福治郎さんは、2004年(平成16年)、心不全により神奈川県逗子市の自宅で死去したとのことです。78歳でした。気仙沼の漁業・水産業の振興に尽くしてくださいました。あらためてご冥福をお祈りいたします。
話を戻しましょう。この化粧坂の工事ですが、県としては7月までに工事用道路を整備して山の切り土を進め、完了時期ははっきりとしないものの2022年度内には通行可能にしたい考えとのことです。
卓球センターや菊池福治郎さんの記憶もすでに半世紀前のこととなりました。私の知らぬ間に、化粧坂近辺の風景も大きく変わっていきます。
三陸新報2月20日記事の一部イメージ
あらためて説明するまでもないのですが、気仙沼の化粧坂(けしょうざか)は本町(もとまち)と新町(あらまち)や三日町を結ぶ道路です。記事によれば、県道気仙沼唐桑線の一部。その道路改良工事が始まりました。
記事の写真がわかりやすいですね。下方向が本町や田中前方向、右上部が新町・三日町方向です。大きくカーブしていたのを直線にする計画であることがよくわかります。
気仙沼の人から笑われそうですが、本町橋が新しくなったのに伴い、道路の取り付けも変わっているのですね。写真下部の左側に気仙沼中央交番と記してあるあたりが旧道でしょう。
私が気仙沼高校に通っていたころは、魚町からこの化粧坂を通ってほとんど歩いて通学していました。ですからこの付近の風景をよく覚えています。旧道と新道の間、坂の下には卓球センターがありましたね。また、この写真の左下角のあたりで、菊池福治郎さんが立ち、道行く人に頭を下げていました。
Wikipediaによれば、菊池福治郎さんは1963年に衆院選旧宮城2区に立候補するも、落選。その後も負けても負けても立候補を繰り返し、4回目の落選後は「登米郡の票の伸びが芳しくなかった」と、登米郡の街頭に1年365日毎日立って手を振り、人呼んで「人間地蔵」と評されるまでになったとのこと。
登米郡の街頭だけでなく、本町橋の近くでもということだったのでしょう。しかし、挑戦5回目の1976年(昭和51年)、新自由クラブの公認を得て初当選。その後、離党した同党幹事長・西岡武夫の後を追って離党、自由民主党に移籍し鈴木派に所属。その後、落選も経験しましたが当選7回を果たしました。
菊池福治郎さんは、2004年(平成16年)、心不全により神奈川県逗子市の自宅で死去したとのことです。78歳でした。気仙沼の漁業・水産業の振興に尽くしてくださいました。あらためてご冥福をお祈りいたします。
話を戻しましょう。この化粧坂の工事ですが、県としては7月までに工事用道路を整備して山の切り土を進め、完了時期ははっきりとしないものの2022年度内には通行可能にしたい考えとのことです。
卓球センターや菊池福治郎さんの記憶もすでに半世紀前のこととなりました。私の知らぬ間に、化粧坂近辺の風景も大きく変わっていきます。