シェルの貝殻物語
私は、企業のアイデンティティやブランディングといったことを仕事のテーマのひとつとしています。そんなことで、シェル石油のマークの歴史についてはある程度知っておりました。たとえば、英国シェルのサイトに掲載されているつぎの変遷図など。
シェル英国サイトより
本日はこのマークの歴史を簡単に紹介しようと思っていたのですが、シェル石油の創始者といってよいマーカス・サミュエルのことを調べていたら、これがとても面白い。シェルの貝殻は日本にルーツをもつものであったのです。
ロンドンのユダヤ人の家に生まれたマーカス・サミュエルは、18歳のときに5ポンド(現在の5万円程度)だけをもち横浜にやってきます。三等船室の片道切符で。そして湘南の三浦海岸できれいな貝殻を集めて加工し父親に送ります。この貝製品の商いは大成功し、ロンドンでの商いを広げていきました。
1876年、マーカスが23歳のとき、横浜にサミュエル商会を開業します。貝殻の輸出にはじまった事業は、工業製品の輸入やアジア各国への米や石炭の輸出、そしてインドネシア/ボルネオ島での石油採掘事業へと発展していくのです。
1897年、44歳のマーカスは、ロンドンに本社をおくタンカー会社に「シェル」の名を使いました。シェル・トランスポート&トレーディング・カンパニー。日本の海岸で貝殻をひろっていた時代を忘れないためにとのこと。マークは当初ムール貝でしたが、1904年にホタテ貝に変更しました。出資者の家紋がヨーロッパホタテであったこととも関係しているようです。
1900年、石油を日本で販売するため設立した会社がライジングサン石油です。日本国内では照明用の灯油などを販売しました。そして世界ではじめてとなるタンカー船をつくります。その船名は「ミュレックス号」。アッキ貝のことだそうです。その後のタンカー船にも日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけたとか。
1907年(明治40年)には、シェルとロスチャイルド・フランス家のロイヤル・ダッチが合併し、「ロイヤル・ダッチ・シェル石油」が生まれました。
以上、かなり複雑な内容を簡単にまとめました。また、日清戦争のときのサミュエル商会の役割などについても、話が長くなるので割愛しました。
話を戻しましょう。サミュエル商会から生まれたサンライズ石油が気仙沼に油槽所をつくったのは1929年のことでした。気仙沼の石油タンクに、冒頭の変遷図上段中央のマークが表示されていたかもしれません。
そしてマーカスがその生涯を閉じたのが1927年。74歳でした。
マーカス・サミュエルが72歳ぐらいのときに、Kesennuma/気仙沼の名を聞いていたかもしれないというのが、きょうのブログのポイントなのですが、ちょっと話がしつこくなりました。
シェルのマークを見たときに、日本の湘南海岸にゆかりがあることをちょっと思い出していただければ幸いです。今週はこれにて。
6月27日ブログ「シェル石油との縁」
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