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魚町のチンドン屋

2か月前の9月29日、三陸新報につぎの記事が掲載されていました。同月27日に気仙沼市立面瀬公民館で開催された「なつかしい昭和 昔を語る会」の紹介記事です。


昭和の気仙沼
三陸新報9月29日記事の一部イメージ


おどろきました。スクリーンに投影されている写真をこのブログでも紹介したことがあったのです。そして、そこに小学生のときの私がうつっています。その写真の一部を拡大してみましょう。学帽をかぶってカメラのほうを見ているのが幼かりしオダ君です。

拡大

2013年のブログを以下に再掲します。


2013年11月22日ブログ再掲

魚町のチンドン屋

先週15日のブログで、気仙沼の魚町で水を飲む昭和の子供を紹介しました。あれは昭和33年。今日はその2年後、昭和35年の魚町海岸での一風景をご紹介。

表紙
左側の裏表紙写真が気仙沼の魚町海岸

ちんどん屋
同じ写真が、本文頁では見開きで(クリックで拡大)


この写真集は『昭和の仙台〜懐かしの宮城県あの街この街』(アーカイブス出版編集部編・西潟正人 著)2007年刊。ネット上の解説には〈宮城スウィート・メモリーズ。街には市電が行き交い、港はサンマの水揚げ日本一を記録、子どもたちは路上で元気に遊んでいた。そんな時代の思い出写真集〉とありました。

これは、私の兄が仙台の県立図書館で借りてきたのですが、弟らしき子供が写っていてびっくり。母に見せたら〈間違いない〉。チンドン屋の先頭のおじさんの後ろ、カメラの方を向いてちょっと笑っているのが私です。魚町海岸をお神明さん方向に歩いています。

チンドン屋さんが持つノボリには〈気仙沼スーパー〉、そし小さな文字で〈皆様の台所と暮らしのセンター〉。気仙沼スーパー(後のハマダ)の開店は、『気仙沼文化史年表』によれば1960(昭和35)年10月6日。私が気仙沼小学校3年生のときのことです。

写真左下のキャプションには〈スーパーの大安売りや、パチンコ店の新装開店には、チンドン屋が付き物だった。意味がわからぬまま、たのしげな楽団に子どもたちは付いて歩いた。気仙沼港にて(昭和35年)〉とあります。〈意味がわからぬまま〉ってのがいいね。実際、綿入れを着たりしている〈ちゃっこい〉女の子が、わけもわからないままはしゃいでいるように見えます。もらったチラシはカアちゃんにちゃんと見セダベガ(笑)。

魚町海岸の道路はアスファルトではなくコンクリートだったように思います。岸壁沿いは未舗装だったので、石を拾って海に浮かぶ電球を割ったりできました。そして船は木造だし、左にはダイハツのミゼット。先日の魚町の水飲みの写真もそうでしたが、そこに写る細部がそれぞれに懐かしい。

この写真の時から53年が経ちました。しかし、カネや太鼓の音を聞くと、わけもわからずついていきたくなる性格は、今でも変わっていないように思います。

11月15日ブログ「水を飲む昭和の子」


再掲内容は以上。

9月27日の「なつかしい昭和 昔を語る会」は、3回シリーズの初回だったそうです。8ミリフィルムを中心とした昭和の映像や写真、音声を収集し、上映会を開いている団体「20世紀アーカイブ」(坂本英紀理事長)が主催しました。

上に紹介した写真は「気仙沼スーパー」の開店を宣伝するチンドン屋さんです。昔を語る会では、多くの客が訪れている気仙沼スーパーの写真なども紹介されたのでしょう。

チンドン屋さんと一緒に海岸を歩いていく私たち。60年前の魚町の子供たちです。
 

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コスタリカとのご縁

11月27日のサッカーワールドカップ日本対コスタリカ戦は、残念ながら日本代表の勝利とはなりませんでした。

同日の三陸新報「萬有流転」でもワールドカップの話をとりあげていました。その中に、私がはじめて知ることが書いてあり驚きました。コスタリカのプンタレナス市が気仙沼市の姉妹都市であるというのです。


地図

外務省サイトおよびWikipediaでの画像を合成



気仙沼市のサイトに関連記事がありましたので紹介します。

市サイト「姉妹都市」より

◎姉妹都市コスタリカ共和国プンタレナス市

・ 姉妹都市協定の締結

昭和52(1977)年5月、新漁港建設のため、プンタレナス市の技術者が気仙沼市を視察に訪れたことが契機となり、同年9月、プンタレナス市長から姉妹都市の提携について書簡が届きました。

同市は、本市の遠洋漁船が補給基地として寄港することが多かったことなどから、昭和53(1978)年5月、本市はこの申し出を受け入れ、市長、議長が同市を訪問して姉妹都市の締結を行いました。

昭和60、63年には、同国の大使らを気仙沼みなとまつりに招待しています。

・ コスタリカ共和国について

コスタリカ共和国は、中米の国には珍しい国軍を持たない平和国家であり、熱帯林を国立公園として整備するなど、自然保護に力を入れた観光立国でもあります。
地域の環境や生活、文化などを破壊しないように、生態系の維持と保護を念頭に置いた自然や文化に触れる旅行や滞在型観光である「エコツーリズム」は、コスタリカ共和国から生まれました。

引用は以上です。

Wikipediaには、「プンタレナス」とは「砂地」の意味と記してありました。また、「コスタリカ」とはスペイン語で「豊かな(Rica)海岸(Costa)」の意味であり、クリストファー・コロンブスがこの地に上陸した時に、遭遇したインディヘナが金細工の装飾品を身につけていたことからこの名前がついたとも。英語でいえば、Rich Coastですね。「インディヘナ」は先住民の呼称。

三陸新報「萬有流転」の末尾は、「(コスタリカは)市民にとっては〝戦いたくない相手〟だが、日本は目標の8強以上も夢ではないだけに、応援せずにはいられない」とありました。

対スペイン戦での勝利を願いつつも、なんというか〈今となっては〉ちょっと複雑な心境です。
 

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tag : プンタレナスコスタリカ

青顔さんのなげき

前回11月25日のブログで、小山東助/鼎浦について、〈没後1世紀以上が過ぎ、存在が忘れかけられているのも事実だ〉と記した三陸新報「論説」の記事を紹介しました。


論説

三陸新報8月25日記事の一部イメージ


これは本年8月25日の記事でしたが、ちょうど 60年前の1962年(昭和37年)8月25日の三陸新報「萬有流転」にも、鼎浦を知らぬ気仙沼人が増えていることをなげく文章が掲載されていました。当時の筆者はもちろん、菅野青顔さん。気仙沼図書館の初代専任館長でした。

三陸新報社刊『菅野青顔の萬有流転』〈上〉p179に、小山鼎浦に関するつぎの記述があります。青顔さんは鼎浦のことをどのように書いていたのだろうかと思い調べていて見つけました。以下に引用します。

冒頭は、鼎浦の著書『久遠のキリスト教』を紹介しています。青顔さんは同著を「我が小山鼎浦34歳のときの著述である」と記し、引用部分へと続けます。


◎小山鼎浦

(前略)

 この郷党の大先達を〝哲人政治家〟として敬慕している人もあるが、青少年になると、ほとんど知るものがない。気仙沼市立図書館に備えられている幾組もの「鼎浦全集」を眺めて、「カナエウラ全集とは何ぞや?」と奇異の眼をするものさえある。〝哲人政治家〟を云う大人たちでも、気仙沼が生んだ小山東助が「詩人として、文章家として、宗教家として、政治家として、雄弁家として、また単に、人として、いずれの方面から見ても偉大であった」ことを、どれだけ知っているかが疑問である。

 東洋一の魚市場を誇るもいい。百億の水揚げを語るも自由である。しかし、それだけでは、気仙沼文化のよりよき進展は望めまい。郷土が生んだ偉大な精神を失ってはならぬ。鼎浦の如き大人物があったということを忘れてはならぬ。全集三冊を軽うじて(全集刊行が順調に進めば、六冊になるのだが、関東大震災で原稿焼失せり)収められている鼎浦の抱負、経綸、識見のほどを、しんから知るものがあったら、更に善き政治がなされるのではないか。

鼎浦が、東京帝大哲学科出なるが故に〝哲人政治家〟をもってするのもいいが、彼の偉大なる遺産たる「全集」の一ページも読まないで、それを誇るは鼎浦の冒涜でもある。

「幽谷生芳樹。碧海宿黙雷。鼎湖秀山水。何日出高才」と、後進のために詠じた小山鼎浦は、大正8年8月、41歳で病没した。すなわち、今25日は44年目の祥月命日である。

昭37(1962)・8・25

引用は以上です。

引用されている鼎浦の漢詩はつぎのとおりです。

幽谷生芳樹
碧海宿黙雷
鼎湖秀山水
何日出高才

幽谷 碧海 黙雷 鼎湖 山水。気仙沼の自然を思わせる言葉がならんでいますね。

これについてはまたあらためて。気仙沼市史にも鼎浦に関する詳しい記述がありますので、回をわけての紹介にしたく。

本日は、60年前の気仙沼でも鼎浦に関して同じようなことが語られていたのだなあという驚きというか〈詠嘆〉でブログを終えることにいたします。

11月25日ブログ 小山東助の「経歴」
2016年5月20日ブログ「菅野青顔図書館長」

 

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tag : 小山東助小山鼎浦菅野青顔

小山東助の「経歴」

3か月前の話になりますが、8月25日は103回目の「鼎浦忌」でした。1919年(大正8年)8月25日。「鼎浦」を号とした小山東助(おやまとうすけ)の祥月命日です。同日の三陸新報「論説」がそのことを伝えていました。表題は「鼎浦 小山東助 偉業を伝えつづけよう」。


8:25論説
三陸新報8月25日記事より



小山東助(号:鼎浦/ていほ)は、1879年(明治12年)11月24日に当時の気仙沼町三日町(みっかまち)で誕生。生家は「寺路」(てらみち)と呼ばれていました。少林寺への参道入口にあったからではないかと推測しています。

三陸新報記事には「仙台二高」とありますが、これはちょっと誤解を生みますね。明治時代の話ですから、これを書くなら(旧制)第二高等学校でしょう。旧制二高は仙台にありましたが「仙台二高」とは略称しません。現在の宮城県仙台第二高等学校を連想した方がいるかもしれません。もしかすると「仙台の二高」の「の」が抜けてしまったのかも。

これを機会に小山東助/鼎浦の学歴/経歴をまとめてみました。

東助は1879年に誕生後、まずは気仙沼尋常高等小学校に入学します。気仙沼尋常高等小学校は、現在の気仙沼市役所の裏側にあたる場所にありました。震災後もこの旧校舎が第二庁舎として使われているとの情報もありましたが、いまどうなっているのかはわかりません。

小学校卒業後は、宮城県尋常中学校に進みます。気仙沼から仙台に出たのですね。

宮城県尋常中学校はその後、宮城県仙台第二中学校などを経て現在の(新制)宮城県仙台第一高等学校となっています。『鼎浦全集 第三巻』を出典とするWikipedia記述では「宮城県立尋常中学校」としていますが、「宮城県尋常中学校」が正しいようです。

宮城県尋常中学校のあとは、1897年(明治30)に(旧制)第二高等学校に入学します。同級に吉野作造が在籍していました。

そして1900年(明治33)に第二高等学校を卒業し、東京帝国大学文科哲学科(社会学専攻)に入学します。1903年(明治36年)に卒業。

以上が「学歴」です。

ここからの経歴は、『鼎浦全集 第三巻』を出典とするWikipedia記述を引用しておきましょう。


東助
小山鼎浦(東助)wikipediaより

〈大学を卒業すると、島田(三郎)が経営する東京毎日新聞社に入社した。その後、東京日日新聞に移り、また早稲田大学講師として倫理学・新聞学を担当した。1913年(大正2年)、関西学院高等学部文科長に招かれた。

1915年(大正4年)、関西学院を辞して、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。議員活動のかたわら、横浜貿易新報主筆や東京毎日新聞主筆を務めた。第13回衆議院議員総選挙でも再選されたが、在任中に病のため死去した。〉

引用は以上です。

第12回衆議院議員総選挙の投票日は、1917年(大正6年)4月20日です。小山東助は宮城県郡部6名の当選者のひとり。所属は憲政会でした。

亡くなったのが1919年(大正8年)8月25日ですから、39歳ということですね。衆議院議員となったのは、37歳のときです。若すぎる。

時代も若かったのでしょう。

小山東助の墓は観音寺にあります。三陸新報論説には〈墓誌は、生涯にわたって親交のあった、大正デモクラシーの中心的論客として活躍した吉野作造が書いた〉と。

論説の筆者が〈しかし、没後1世紀以上が過ぎ、存在が忘れかけられているのも事実だ〉というように、小山東助の名を知らぬ気仙沼人が増えています。そんな現状のなかで意味のある論説の掲載だったように思います。全文引用とさせていただいたことをご了承いただければ幸いです。


◎「カネサ」斎藤家とのご縁

2014年8月のブログにも書きましたが、魚町にあった私の実家の隣家、「カネサ」斎藤家が小山東助との縁がありました。いっこ上の気中19回生だったのがセイちゃんこと斎藤静恵壱さん。その妹がいまは佐々木徹君の奥さんとなっている喜代子さんです。

そのセイちゃん兄妹のお母さんの実家が寺路だったのです。東助はお母さんの祖父にあたるのではないかなあ。つまり、徹君夫妻のお子さんは小山鼎浦の血筋ということになりますね。そんなことを考えると、小山東助/鼎浦がちょっと身近に感じられてきます。

(11/27追記:佐々木徹君にあらためて聞いたところ、東助は4兄弟の長男で、四男の清之助の娘が「カネサ」斉藤家に嫁いだ梅子さんとのこと。梅子さんにとって東助は、祖父ではなく伯父さんということになりますね。この小山4兄弟についてはあらためて紹介しようと思います)

きょうは11月25日。このブログの概略は8月末には書いていたのですが、なんやかやで本日の掲載となってしまいました。そんな書きかけの話が結構あるなあ。そんなことを思いながら。

2014年8月20日ブログ「三日町の小山鼎浦」

 

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tag : 小山東助鼎浦

船頭さんの胸の内

気仙沼がいろいろとお世話になっている東京海洋大学の勝川俊雄先生が11月14日にTwitterでつぎのように投稿していました。


これは勝川先生が11月11日にYouTubeで公開した「カツオ一本釣り漁船(81号 由丸)の見学」の紹介です。由丸は〈よしまる〉。

約10分の映像ですが、とても興味深い内容でした。こうしたカツオ一本釣り漁船の内部を動画で紹介というのも案外なかったのではないかと。

詳細は映像をご覧いただくとして、私がなんというかうれしく感じたのは、勝川先生に大変なことはなんですかと問われての船頭(せんどう)の言葉です。

〈大変なところはやっぱり、海に出て長いときには私の船では2週間とか、ぜんぜん陸(おか)のほうに帰れないんですけど、地元が宮崎県なんですけど、漁によって、気仙沼とかに来たときには、まあ、お家のほうには帰れないと。それがちょっと厳しいところではあるんですけど、ま、だけど、みんな一生懸命、家族のために、カツオを食べているみんなのために、頑張ってるとこですね〉

勝川先生が、「船頭(イケメン)」と書いている、笑顔もなかなかのハンサム船頭さんは守山佳洋さんです。

私は守山船頭の、たぶん家族を思い浮かべながらの受け答えに、以前に書いたブログを思い出しました。気仙沼市がおこなっている「かつお一本釣漁船乗組員子弟招致事業」についての話です。2019年7月31日ブログを再掲します。



2019年7月31日ブログ再掲

◎漁船員子弟の招待

気仙沼港にカツオを水揚げする父親や祖父との再会。(2019年)7月25日に三陸新報や河北新報が、なんというか心があたたかくなる話を紹介していました。下は河北新報の配信記事画像。


招致事業

河北新報7月25日配信記事の一部イメージ



宮崎県のカツオ一本釣り船で働く漁船員の子どもたち25人が7月24日に気仙沼を訪問しました。

河北新報の記事によれば、写真にうつるのは、日南市南郷小5年の中野朱乃(しゅの)さん(10)。日南市の一本釣り船「第73真海丸」の漁労長を務める父慎三さんと3カ月ぶりに対面しました。水揚げ作業中だった慎三さんが見学に訪れた朱乃さんに駆け寄り「身長高くなったなあ」などと声を掛けると、朱乃さんは照れくさそうに笑ったとのこと。とてもいい写真です。三陸新報の記事でもこの中野さん父娘の写真を掲載していました。

市の7月18日付け記者発表資料によれば、この「かつお一本釣漁船乗組員子弟招致事業」は、他港漁船の誘致を推進するため、気仙沼市魚市場に水揚げしているかつお一本釣り漁船の乗組員の子どもたちを気仙沼市に招待しています。高知県・宮崎県・三重県の3県の小学4~6年生を輪番制で対象とし、今回は宮崎県日南市の小学生25名と引率者5名の総勢30名を招待しました。

3泊4日の滞在期間中、子どもたちは、出漁期間中に対面する機会のない乗組員と面会するとともに、魚市場・水産関連施設等の見学を通じて、かつお一本釣り船が気仙沼の産業に大きく関わっていることや水産業の現状等について理解を深めます。

この事業は平成8年度より実施し、今回が23回目となるそうです。毎年、カツオのシーズンに同様の記事を見ていた記憶がありますが、23回も続いているとは思いませんでした。

今回の招致対象となったのは、宮崎県船籍の12隻です。気仙沼港へのカツオ水揚げに感謝しながら、各船名を以下に。いつもありがとうございます。

第5萬漁丸(4人)・第5清龍丸(3人) ・第8喜與丸(2人)・81号清龍丸(3人)・第3神徳丸(1人) ・第18事代丸(1人)・第88正 丸(2人) ・竜喜丸(3人)・第73真海丸(1人) ・第78福徳丸(3人) ・第15事代丸(1人) ・8号三代丸(1人)

( )内の数字が、対象児童数です。この数字をながめていると、小学生を子や孫にもつ各船の漁船員さんの喜ぶ顔も思い浮かびます。これからも長く続けてほしい事業だなと感じました。

再掲内容は以上です。

勝川先生、カツオ一本釣り漁船内部の映像、そして守山船頭さんの胸のうち紹介、ありがとうございました。
 

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tag : 81由丸カツオ一本釣り漁船

千田会長の「剣歴」

千田健一さんが日本フェンシング協会の会長に就任したことは11月21日のブログでも紹介しています。その記事では、千田さんのフェンシングの世界での経歴を紹介することができませんでした。本日は、きのう11月22日の三陸新報の記事内容をもとに千田会長の〈剣歴〉を紹介します。


千田会長

三陸新報11月22日記事の一部イメージ


記事によれば千田健一さんは10歳からフェンシングを始め、気仙沼高校時代には全国高校総合体育大会(インターハイ)で2度の団体優勝、同校初の個人優勝を果たしました。そして中央大学時代には関東学生選手権大会で個人優勝。卒業後の教員時代に、1980年のモスクワ五輪代表に選ばれています。いわゆる「幻の日本代表」です。

指導者としては、鼎が浦高校で1984年度のインターハイ個人・団体優勝をはじめ、選抜も含めて5度の全国制覇を成し遂げ、2005年度には気仙沼高校でインターハイ団体優勝を果たしました。

この2005年4月には、旧鼎が浦高校(女子校)と旧気仙沼高校(男子校)が統合しましたから、新気仙沼高校として初めてのインターハイ団体優勝ということになるでしょう。

そして千田さんはジュニアを中心に国体チーム、日本代表の監督、コーチも務めたそうです。長男・健太さんが、ロンドン五輪フルーレ団体の銀メダリストであることはあらためて言うまでもないでしょう。千田健太さんも10年間の日本代表を経て、2017年度に日本フェンシング協会の理事を経験しています。

記事には役職についても紹介されていました。気仙沼フェンシング協会の会長、東北フェンシング連盟評議員、宮城県フェンシング協会副会長をつとめているとのことですが、このたびの日本フェンシング協会の会長就任での変更などがあるかもしれませんね。

なお、記事には今回の日本フェンシング協会の役員改選では、気仙沼出身の小野寺利浩さんと千田健一さんの教え子でもある菅原智恵子さんも理事に就任したと記されていました。

菅原智恵子さんは、鼎が浦高校から日本体育大学へ。そして2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンとオリンピック3大会連続で日本代表となりました。

日本フェンシング協会のニュースリリースによれば、菅原智恵子さんはいま日本代表コーチをつとめており再任、小野寺利浩さんは国際医療福祉大学大学院(院生)で新任とのこと。ただ、小野寺さんについて調べてみると、明治大学フェンシング部でエペの選手として活躍し、2022年度の助監督との情報もありました。

16名の理事中3名が気仙沼出身者ということになります。三陸新報記事の千田さんの言葉にも「気仙沼出身者で日本のフェンシングを盛り上げたい」とありました。そして、「世界と対等に渡り合える競技レベルの維持、競技の普及・発展に軸足をおいて協会運営に尽力していきたい」と続けていました。

千田健一会長、そして菅原智恵子理事、小野寺利浩理事、どうぞよろしくお願いいたします。

11月21日ブログ「新会長は千田先生」

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tag : 千田健一菅原智恵子小野寺利浩

市長選挙2006

11月18日の三陸新報1面コラム「萬有流転」は、大船渡市の市長選挙に関する話でした。11月27日が投票日のこの選挙に5人が立候補するらしい。


市長選
三陸新報11月18日記事の一部イメージ


この記事の後半につぎの記述がありました。引用します。

〈わが気仙沼市で、5人の立候補というのは、新市になって1度あった。2006年4月である。旧気仙沼市と唐桑町の合併に伴う初の選挙。顔ぶれは、旧市・旧町の〝現職〟、旧市議、会社経営者で、個人演説会も盛んであった〉(引用は以上)

この選挙は、2006年(平成18年)3月31日に気仙沼市と唐桑町が合併したことに伴う市長選です。鈴木昇さんが当選したのはおぼえているのですが、ほかの4人が誰だったろう。市のサイトではわからず、ネットの「選挙ドットコム」で調べてみました。


気仙沼市長選挙
投票日2006年4月30日
有権者数54,520人
投票率78.43%

・選挙結果
 鈴木昇     62歳12,939票(当選)
 尾形和優  55歳 9,619 票
 佐藤和則  55歳 8,544 票
 守屋守武  46歳 6,534 票
 秋山善治郎 57歳 4,793 票

当選は合併前の市長であった鈴木昇さんです。鈴木さんは1997年6月に小野寺信雄市長の後を受けて、旧気仙沼市5代目の市長に就任。3期(第12・13・14代)にわたり市長をつとめました。

次点は市内南町「丸和」の尾形和優さんでした。私たちの1年先輩気中19回生/気高21回生。お父さんの尾形和市さんも市長選に立候補したことがあります。たしか私の父も応援していましたが当選はかなわず。

そして三陸新報記事にもあった旧唐桑町の町長をつとめていたのが佐藤和則さんです。尾形さんと同じ55歳とあったので、気仙沼高校の同窓会名簿をみてみると、やはり同じ気高21回生でした。東京歯科大学を卒業し、唐桑で歯科医院を。尾形さんも慶應大学でしたから、ご両人とも気仙沼/唐桑から東京、そしてまた帰郷というパターンですね。

守屋守武さんは気仙沼市議会議員をつとめた後、現在は宮城県の県会議員です。地元は鈴木昇さんと同じく階上地区だったように思います。毎年の目黒のさんま祭にも顔を見せており、今年10月9日にも会場で言葉を交わすことができました。

秋山さんは、日本共産党所属の気仙沼市議会議員をながくつとめています。気高19回生ですから3年先輩。地元は松岩地区でしょう。私は日本共産党所属の市議会議員というと、徳仙丈のツツジの保護活動に尽力した佐々木梅吉さんを思い出します。日本共産党の支持基盤は強く、長年にわたりその議席を確保しているようですね。佐々木さんについては、2013年6月5日のブログでも書きました。

以上が2006年4月の市長選挙立候補者の顔ぶれです。16年前のことになります。こうして名前をあげれば、いろいろと思い出す人も多いことでしょう。

参考まで記しておくと、鈴木昇さんは合併後の新気仙沼市長として1期つとめて退任。2010年4月30日投票の選挙で境恒春候補をやぶって当選したのが現在4期目の菅原茂市長です。この選挙から1年も経たないうちに大震災の津波が気仙沼をおそったのです。
 

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新会長は千田先生

日本フェンシング協会の次期会長に千田健一さんが選出されました。任期満了で退任となった武井壮会長の後任です。まずは11月19日のサンケイスポーツ配信記事から。


千田健一さんが、鼎が浦高校(現在は気仙沼高校と統合)の教員であったことは知っておりましたが、Wikipediaの記述では気仙沼高校での教員経験もあるのですね。

その千田先生には、関東気仙沼高校同窓会での気仙沼向洋高校との合同懇親会で何度かお目にかかりました。千田さんは向洋高校の校長として出席されていました。

以前のブログにも書きましたが、私たちが座るテーブル近くにいらしたときにお声がけしたことがあります。気仙沼高校でフェンシングをやっていた同級生の名を何人か告げてその仲間ですと伝えると、とてもなつかしそうにしていました。千田健一さんは5学年下の気高27回生。

2015年5月22日ブログ「気仙沼/剣の源流」では、気仙沼でフェンシングが盛んな理由について歴史をさかのぼって紹介しました。

2015年5月22日ブログ「気仙沼/剣の源流」

そのなかで若いころの千田健一さんがうつる気仙沼市史掲載の写真を紹介していますので再掲します。


鼎フェンシング部

『気仙沼市史 補遺編/スポーツ・芸術編』より
左端は佐藤美代子先生、右端はコーチをつとめていた千田健一さんでしょう。(追記2017年7月10日:この写真当時、美代子先生はすでに引退され、千田先生はコーチではなく監督であったとのご指摘がありました)


1996年度の写真。右端が千田健一先生、左端は当時すでに引退されていたようですが佐藤美代子先生です。

2015年4月22日ブログ「美代子先生の訃報」

千田健一さんの息子さんが2012年ロンドンオリンピック男子フルーレ団体の銀メダリスト千田健太さんであることは皆さんご承知のとおり。その建太さんがテレビ朝日系列「じゅん散歩」に登場したときの様子はつぎのブログで紹介しました。

2022年5月17日ブログ「千田健太さん近況」

こうした気仙沼におけるフェンシングの歴史年表に、「日本フェンシング協会の会長に千田健一氏が就任」という項目が加わりましたね。

協会の会長という職務は大きな役割と責任を負っていることと思います。いろいろと大変なことも多いことでしょう。〈おめでとうございます〉というお祝いの言葉と同時に〈大変だろうけど、どうぞ頑張って〉という応援の気持ちをいだく気仙沼の人も多いことでしょう。

きょうは月曜日で地元紙「三陸新報」休刊日。明日の紙面にいろいろと紹介されることと思います。

千田健一さんの日本フェンシング協会会長としての頑張りに大いに期待しております。どうぞよろしくお願いいたします。
 

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tag : 千田健一フェンシング

男山本店110周年

11月15日のブログ「鹿折金山の貯蔵酒」で、気仙沼の酒蔵「男山本店」さんが創業110周年を迎えたこともお伝えしました。本日はその話。

まずは、11月11日の男山本店さんのFacebook投稿から。




この投稿のなかで同社の菅原昭彦社長は、「創業100年からの10年間に復興事業の進展とともに地域は大きく変貌を遂げ、また近年は新型コロナ感染症の影響を大きく受けるなど目まぐるしく環境が変化しました」と記しています。創業100周年は、2012年11月11日。震災後の混乱がまだおさまらない時だったでしょう。

「創業110年」。つまり大正元年(1912年)の創業です。私は、古かったのではないかと感じました。明治時代の創業であると、このブログで書いたことがあったようなないような。

調べてみたら、2020年12月21日のブログ「男山の花婿さんは」にその記述がありました。気仙沼市史を引用して、「男山は明治10年の創業で、初代菅原嘉吉は、気仙沼町八日町に居をかまえ、石灰業を主業としていた」と。

つまり明治10年(1877年)は、男山菅原家の初代嘉吉が石灰業を主業として創業した年なのですね。そこから数えると、今年2022年で創業145年となります。

そして大正元年(1912年)は、2代目にあたる菅原昭治さんが現在の醸造所がある入沢(いりさわ)に酒蔵を建てての清酒醸造創業年です。

参考まで2020年のブログを再掲しておきましょう。



2020年12月21日ブログ再掲

◎男山の花婿さんは

前回12月18日のブログの続きです。「目で見る気仙沼の歴史」に紹介されていた嫁入行列の行き先についてです。行列の写真を再掲しておきます。


嫁入行列

「目で見る気仙沼の歴史」p148より


12月18日ブログ「男山への嫁入行列」

斉直商店を出た花嫁が向かう先は男山本店ですが、花婿はどなたなのか。前回のブログでは、男山本店の現代表、菅原昭彦さんの祖父にあたる菅原克己さん、つまり、気仙沼市長もつとめた菅原雅(まさし)さんのお父様ではないか、と記しました。それは、気仙沼市史の記述からの推測でした。

気仙沼市史第5巻「産業編(上)」の「醸造業の変遷」(p393)での男山菅原家に関する記述を引用します。

◇男山菅原家 (現 (株)男山本店)

男山は明治10年の創業で、初代菅原嘉吉は、気仙沼町八日町に居をかまえ、石灰業を主業としていた。

2代目昭治は石灰業の行き先に不安を感じ、山の権利を譲渡して酒造業に転換して行く。明治36年あたりから酒小売業を営んでいたが、明治41年に濁酒製造免許を受けて醸造を始めた。そして大正元年町内入沢に酒蔵を建て清酒醸造に乗り出した。(この後の、屋号、酒銘にもなっている「男山」の由来は略します)

昭和20年に3代目(酒造の2代目)克己が免許を継承、経営の伸長に努め、4代目雅が気仙沼市長を勤めた48年から現役に復帰して第一線の指揮をとったこともあった。

現在は4代目雅である。(以下略。市史引用は以上)

つまり、菅原家は、嘉吉〜昭治〜克己〜雅、そして現在の社長である昭彦さんへと継承されてきたことになります。

ということになると、昭和3、4年に斉直商店からお嫁さんをもらうとなると、昭治さんでは古すぎるし、雅さんでもないし。そんなことから、お婿さんは、菅原克己さんに決定。

とはいうものの、なにか勘違いしている可能性もありますね。どなたか、菅原昭彦さんにお会いしたら、こうたずねてもらえませんでしょうか。

〈あんだいのお祖母さんは、斉直さんからだったべが〉

どうぞよろしく。

2020年12月21日ブログ再掲内容は以上です。


益々の盛業と発展を祈りつつ、男山本店さん創業110周年のお祝いを申し上げたく。おめでとうございます。
 

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白石隆一作品2点

千厩(せんまや)町出身の画家、白石隆一については何度が紹介してきました。本日は、紹介が遅れていた気仙沼の古美術骨董店「車屋」さんの7月と10月の広告を紹介します。

まずは「岩手山」(いわてさん)15号です。岩手山は千厩から見ることはできませんから、麓などに出かけての写生でしょうか。


岩手山
三陸新報7月5日掲載広告


つぎは「三陸の魚」30号です。第4回光風展出品作品とのこと。めずらしくカラー掲載でした。


三陸の魚
三陸新報10月12日掲載広告


ひらめ、めぬけ、かれいといったところでしょうか。この「三陸の魚」、「気仙沼の魚」であってほしいと思う人も多いことでしょう。

車屋さんの広告を見て、いつもこれらの絵画の値段はいくらなのだろうと思います。店主の菅原さんと電話で話す機会があっても、あえて価格については聞かないようにしています。

もうひとつ思うことは、いったいどんな人々が所蔵していた作品なのだろうということ。画家の手を離れてからの絵画の旅路。いま気仙沼の車屋さんで一休みといったところでしょうか。

これまで白石隆一作品4点についてはつぎのブログにて紹介しています。

2019年6月21日ブログ「千厩町の白石隆一」
6月30日ブログ「車屋」の新聞広告
8月22日ブログ「武山櫻光さんの書」

11月4日の三陸新報には同じく車屋さんの広告で、熊谷登久平の作品3点が紹介されていました。これについてはまたあらためて。
 

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安波山頂上の紅葉

きのう11月15日、気中同級生の佐々木徹君(3年1組)からLINEで写真が届きました。


安波山

2022年11月15日 佐々木徹君撮影


安波山(あんばさん)頂上から内湾を。早朝の気仙沼湾の眺めと紅葉のコントラストがとてもきれいです。徹君は週に2〜3回は安波山頂上まで上っているそうです。先月末には気嵐(けあらし)の内湾写真も送ってくれました。

◎山形大学同窓生

昨日は、ブログで齋藤益男君の瑞宝双光章受章を紹介しました。その日の夕方に益男君にその報告も兼ねて電話して久しぶりに話すことができました。元気な様子でなにより。

実は、益男君も徹君も私も、気仙沼高校3年6組/理科系の同級生なのです。そして徹君と益男君はともに国立山形大学の卒業生。徹君は理学部、益男君は教育学部です。

私が知る山形大学の卒業生がもうひとりいます。石川電装社長の石川勇人さんです。いっこ下の気中21回生。きのう徹君との電話で聞いたら、同じ理学部化学専攻だったとのことです。

2018年4月12日ブログ「石川電装 勇人社長」

安波山山頂の紅葉から、話が山形にとんでしまいましたね。

そんなことも含めての、気仙沼の友からとどいた季節の便り。本日はそのお裾分けです。
 

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鹿折金山の貯蔵酒

気仙沼の酒蔵「角星」さんの純米大吟醸酒を魚問屋「小野健商店」さんの土蔵にある金庫で貯蔵するというプロジェクトを紹介したのは今年2月のことでした。

2月15日ブログ「金庫貯蔵の特別酒」

これに続いて、「男山本店」さんの新しい貯蔵酒の試みが始まりました。男山は「金庫」ではなく「金山」です。

11月12日の三陸新報がつぎのように伝えています。

金山酒

三陸新報11月12日記事の一部イメージ


この試みは、気仙沼市の鹿折(ししおり)金山跡の坑道に「蒼天伝 特別純米酒」を貯蔵するものです。同社の創業110周年にちなんで一升瓶110本にしたとのこと。

貯蔵は来年10月ごろまで続け、その後に4合瓶に詰め替えて販売します。売上の一部は鹿折金山資料館の運営費として寄付するとのこと。

記事のなかに、〈昨年9月に亡くなった菅原社長の父で前会長の雅さん(享年90)が、金山跡の保存活動に力を入れていたことも計画を後押しした〉とありました。

私は、菅原雅さんは気仙沼市長をつとめていたことが抜けていることを物足りなく感じました。菅原雅さんは、1973年から1993年までの5期20年にわたって気仙沼市長をつとめました。詳細はつぎのブログにて。

2021年9月20日ブログ「菅原雅さんの訃報」

記事にもありましたが、男山本店さんは、2006年から唐桑の鮪立漁港沖で日本酒を熟成させる海中貯蔵もおこなっています。今回の金山跡での貯蔵の試験的な取り組みもそうした地域資源を活用した取り組みのひとつです。

来年の冬には、〈金の蒼天伝〉を味わうことができることでしょう。

なお男山本店さんの創業110周年についてはまたあらためての紹介といたします。

2016年9月9日ブログ「モンスターGOLD」
2016年9月12日ブログ「怪物金塊諸説紹介」
 

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齋藤益男君の受章

11月3日の三陸新報に、気仙沼・本吉地方の秋の叙勲受章者9氏が紹介されていました。そのなかに気仙沼高校で同級生だった齋藤益男君も。教育功労で瑞宝双光章を受章しました。


受章


三陸新報11月3日記事の一部イメージ



益男君は松岩中学出身です。気仙沼高校3年のときに私と同じクラスでした。当時の気高は1学年6クラスあって、1〜2組が商業科で、3〜6組が普通科。そして3年生で3〜5組が文化系、6組が理科系に分かれました。私と益男君は理科系3年6組の同級生です。

記事によれば、気仙沼高校から山形大学に進み、数学教師として鹿折中、旧月立中、条南中などに勤務。気仙沼中で教頭、県教育庁義務教育課指導主事などを務め、気仙沼小校長を最後に退職したそうです。気仙沼小校長時代に東日本大震災を経験しています。退職後は気仙沼市教育委員会の教育長を務めました。

益男君が新制度での教育長に就任したときには次のブログで紹介しました。

2016年4月28日ブログ「益男君が教育長に」

このブログのなかで、益男君もうつる気仙沼高校美術部員の写真を紹介しました。本日はその写真紹介部分を抜粋して紹介します。


◎2016年4月28日ブログより抜粋

(前略)ちょっと懐かしい思いがして高校の卒業アルバムを開いてみました。


美術部

気仙沼高校22回生卒業アルバムより


美術部員の写真。前列左端が益男君、後列右端がわたくし小田です。前列右端が美術担当教師でもあった斉藤克己先生。以前、斉藤先生が亡くなったということを聞き、お元気なうちに近況をお知らせしておけばよかったと悔やみました。大変お世話になったのです。

美術部の写真は美術室で撮影しました。いまはもうないのでしょうが、カットしたバウムクーヘンみたいに机が半円形に並べられていました。後方にはデッサン用の石膏像が収められた戸棚が。ヴィーナス、ブルータス、アグリッパなどの像名を思い出します。高校を卒業してから46年。美術部のみんなとも長いあいだ会っていませんが、元気にやっていることでしょう。

(2016年ブログ引用は以上)

写真にうつる気高の木造校舎はすでにありません。そして高校3年生だった益男君も私もすでに70歳となりました。

益男君には、おめでとうございますという言葉よりも、ご苦労さまでしたという言葉のほうがしっくりときます。このたびの瑞宝双光章にも、そんなメッセージがこめられているのではないかと。

益男君、ますます元気にお過ごしください。


教育長退任についてはこちらにて。

2019年5月29日ブログ「齋藤教育長の退任」

 

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tag : 齋藤益男瑞宝双光章教育長

渡辺謙さんの心情

きょうは11月11日。東日本大震災から11年8か月経ったことになりますね。

気仙沼市港町、内湾に面する渡辺謙さんのカフェ「K-port」が9周年を迎えました。10月29日の謙さんのツイートを紹介します。11月からは謙さんの新たな撮影が始まってしまうため、今年度最後の「K-portで朝食を」開催だったそうです。


同じく10月29日の菅原市長のツイート。



この気中20ブログで、K-portのことを紹介したのはいつだったのだろうと思って調べてみると、2013年10月23日ブログ「謙さんカフェ完成」でした。この年10月20日にK-portの完成披露会が開催されたのです。

2013年10月23日ブログ「謙さんカフェ完成」

「K-port」の完成からは9年ですが、渡辺謙さんが震災直後から気仙沼をはじめ被災地に暮らす人々に対してさまざまな形で心を配っていることは皆さんご承知のとおりです。この機会に、2021年に記したふたつのブログ記事から、謙さんの活動を振り返ってみます。いずれも、NHK「明日へ つなげよう〜渡辺謙 僕に、できること」シリーズの放送内容紹介です。


①2021年1月8日ブログ「渡辺謙さんと震災」より    

2012年4月4日に始まったシリーズ「渡辺謙 僕に、できること」については、このブログでも紹介してきました。過去4回の放送内容を簡単にふりかってみることにいたします。

◎第1回「世界に震災を伝える」
2012年4月4日放送

シリーズの初回。渡辺さんが、2011年11月にニューヨークの被災地支援オークションで朗読した「雨ニモマケズ」や、年明け2012年1月に開催されたダボス会議でのスピーチが紹介されました。

◎第2回「ただひたすら被災地へ」
2012年4月15日放送

前半が気仙沼関連の紹介。男山本店の菅原昭彦さんや磯屋水産の安藤竜司さんなどと、魚町「福よし」でお酒を飲みながら復興について語り合いました。

また、磯屋水産の安藤竜司さんは、内湾に面した約430坪の土地での店舗再建計画などを語ります。その中の防潮堤計画に関する話をつぎのブログで紹介しました。

2012年4月16日ブログ「安藤さんの言葉」

◎第3回「復興を見つめた2年」
2013年4月7日放送

福島の葛尾村、宮城の気仙沼、岩手の陸前高田と釜石など、1年目に訪ねた被災地を再訪し、震災2年目の復興の状況を確かめます。

第4回「再会」
2016年6月12日放送

冒頭15分が気仙沼関連の映像でした。謙さんは、気仙沼魚市場や阿部長商店の新しい加工場をたずねたあと、入沢にある「男山」の酒蔵をたずねます。そしてその後は、朝日町地区の防潮堤建設現場に向かいます。案内するのは、(株)男山本店の社長で気仙沼商工会議所会頭でもある菅原昭彦さん。

つぎのブログで詳しく紹介しました。

2016年6月16日ブログ「謙さんの見た堤防」



②2021年1月21日ブログ「渡辺謙さんの言葉より   

1月8日のブログで紹介した「渡辺謙 僕に、できること」の第5回目 「見つめ続けた震災10年」は、当初予定より1週間遅れて1月17日に放送されました。本日は気仙沼の紹介部分を放送画面で簡単に紹介します。

話のはじまりは2011年の被災現場映像から。

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震災後に整備された新魚市場(C・D棟)の高度衛生型市場低温室が紹介されます。

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男山本店の菅原昭彦さんが登場。

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菅原さんの案内で内湾商業施設「ないわん」へ。

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ないわん「拓(ヒラケル)」のクラフトビールの醸造所「BLACK TIDE BREWING」へ。米国ポートランドから来日した醸造家ジェームズ・ワトニーさんが紹介されます。

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ワトニーさんはつぎのように語ってくれました。「不思議なことですが、災難があると人々は悲観的になるのでは? と思いますよね。でも、この町にはビジョンがあったので希望と可能性が芽生えました。10年前に震災を経験した気仙沼から、それを私は伝えたいです」

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そしてつぎは、唐桑町鮪立(しびたち)の「唐桑御殿つなかん」に菅野一代さんを訪ねます。

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2012年12月の取材映像には、その後2017年3月の海難事故で行方不明になった一代さんのご主人和享(やすたか)さんの姿も。

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番組全体のラスト、気仙沼の高台から気仙沼湾横断橋や大島方面をながめます。あまり見かけないアングル。南が丘からでしょうか。この風景をうつしながら、渡辺謙さんのナレーションが流れます。〈各地をたずね、見つめ続けたこの10年。多くの方々とお会いして僕が感じたこと〉。

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そして、牡蠣いかだがうつる唐桑と思われる海を背景にして渡辺謙さんの言葉が続きます。




〈やっぱり、今日一日をどうやって生きていくかということを考え続けた…そういう、まあ、日々の積み重ねっていうのかな……それがやっぱり、10年という歳月に積みあがっていたんだろうなって気がするし。だから、僕たちも、10年だからっていう区切りだけではなくてね。一歩一歩あゆんでいる姿に、どうこれからさらに寄り添っていけるのかということを、常に考え続けなければいけない10年目なんだなということを、あらためて意識させられた感じがしますね〉

これはあらかじめ台本に記された言葉ではないでしょう。いろんなことを思い出しながら、言葉を選びながら発せられた言葉です。そこには謙さんの〈実感〉がありました。

渡辺謙さん、ありがとうございました。

なお、番組最後のクレジットに制作統括者として以前のブログでも紹介したNHKエンタープライズ エグゼクティブプロデューサー小山靖史(こやまやすし)さんのお名前が小原美和さんとともに。お二人をはじめNHKの関係者の皆様にも御礼を申し上げます。

2つのブログ引用内容は以上です。




ニューヨークで、被災地支援のためのオークションがおこなわれたのは2011年11月9日。今月はニューヨークでの「雨ニモマケズ」朗読から11年ということになるのですね。

気仙沼の震災後11年間は渡辺謙さんの11年でもあるわけです。冒頭に紹介した謙さんのツイートには〈長い様であっという間の年月〉と。

10月末の気仙沼での2日間。ご自身の11年と重ねあわせ、どのようなことを感じていたのか。

その心情を思いつつ、渡辺謙さんの気仙沼に対するご厚情に心からの御礼を申し上げます。

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tag : 渡辺謙K-port

インカ少年隊 小史

気仙沼市本町の小中高生で組織していた「インカ少年隊」の70周年の記念誌が完成したそうです。11月1日の三陸新報が伝えてくれました。


11:1インカ少年隊

三陸新報11月1日記事の一部イメージ


この記事に、11月6日には発刊記念の懇親会を本吉町「はまなす海洋館」で開くとも記されていました。その懇親会について、11月8日の三陸新報はつぎのように伝えています。


懇親会
三陸新報11月8日記事の一部イメージ



インカ少年隊は、1949年(昭和24年)8月15日に「インカ少年帝国」として結成されました。昨年2021年9月17日のブログでその沿革をまとめています。以下にその記事を再掲します。


2021年9月17日ブログ再掲

◎インカ少年隊 小史

9月9日のブログで、吉越宏一君(3年5組)の三陸新報「リレー随想」に記された気仙沼市本町(もとまち)「インカ少年隊」についての話を紹介しました。

9月9日ブログ「吉越宏一君の随想」

本日は吉越君の情報をベースにして、「インカ少年隊」の歴史を追ってみようと思います。


①インカ少年隊 沿革

吉越君の記述から、「インカ少年帝国」に始まる「インカ少年隊」結成当時のことを年表形式で整理します。それは1949年/昭和24年8月15日に始まります。


・昭和24年8月15日
 12人で「インカ少年帝国」結成
・昭和29年
 「インカ少年隊」に改称
 志津川愛鳥会と交流開始
・昭和33年
 日本野鳥の会に入会
・昭和34年
 宮城県野鳥保護部門で第1位獲得
 (授賞団体が不明ですが日本野鳥の会関連でしょうか)


この後については、「気仙沼文化史年表」(荒木英夫著)の記述を整理します。

・昭和34年3月1日
 愛鳥グループのインカ少年隊が「小さな天使」刊
・昭和34年5月10日
 インカ少年隊(吉越進平)日本野鳥保護連盟と文部大臣より表彰
・昭和34年9月4日
 愛鳥運動のインカ少年隊、ポーランド放送に紹介される
・昭和35年4月11日
 インカ少年隊の愛鳥活動がNHKから放送
・昭和43年5月15日
 野鳥保護活動のインカ少年隊に県知事賞

この昭和43年のことについては吉越君のつぎの記述がありました。

・昭和43年
 日本鳥類保護連盟から野鳥鳥獣保護功労者賞を受賞

記事では、「野鳥鳥獣保護功労者賞」となっていましたが、これは「野生鳥獣保護功労者賞」かもしれません。現在では 日本鳥類保護連盟と環境庁による「野生生物保護功労賞」となっているようです。この頃に吉越宏一君が入隊しています。

・昭和44年5月10日
 インカ少年隊が発足20周年記念野鳥会を開く

昭和34年5月の項目に、この時期の隊長としてだと思うのですが、吉越進平さんのお名前がありました。進平さんは、宏一君の叔父さんです。お父さんの弟さん。菊田裕美君(3年1組)に確認したところ、在京気仙沼高校同窓会の会長をつとめていたことがあるとのこと。宏一君は小さなころから進平さんのインカ少年隊活動を身近に見ていたのでしょう。


②ニュース映画「毎日世界ニュース」

ネットでの検索で、1959年/昭和34年に「毎日世界ニュース」がインカ少年隊のことを報じていることがわかりました。

当時のニュース映画「毎日世界ニュース」は、毎日新聞社提供で大映が配給していたようです。インカ少年隊のニュース映像はいま、横浜にある放送番組アーカイブ施設「放送ライブラリー」に保存され、視聴もできるとのことです。放送ライブラリーのサイトから、ニュース映像内容を引用します。

◎毎日世界ニュース405 「みちのくの愛鳥少年隊」

上映日:1959年5月13日
秒数:140秒
放送ライブラリーサイト

東北の港町、宮城県気仙沼市の山頂にある、ぼくたちの「インカ少年連合国」は、夢と希望にあふれた子供たちだけの集まりである。今日は新入隊員の歓迎式。先輩の激励の拍手を浴びたあと、インカ国の守り神、聖なる太陽に向かって誓いを新たにする。ぼくたちで建設したお城は「むくどり図書館」。中では首脳会議が開かれて、隊長たちの胸に花をかたどった階級章がついている。ぼくたちの大事業の一つは、野鳥の保護観察。野鳥講座はいつも熱心な隊員で一杯だ。5月10日のバードデーには小鳥のお墓参りのあと、舟で橋の下の「いわつばめ」の数調べ。毎朝顔を合わすぼくたちの友だちだ。それぞれ有り合わせの板切れで作った手製の巣箱を持って、山では「むくどり」の家造りと観察。もう今では巣箱が600戸になった。また新しい「むくどり」が1羽住み着いたようだ。傷ついた小鳥も、ぼくたちインカ少年隊の愛情によって大空に帰って行く。(引用は以上)


「インカ少年帝国」が、ここでは「インカ少年連合国」となっています。面白いですね。毎日新聞側が「帝国」の名をきらって「連合国」としたのでしょうか。


③菅野青顔さんの「インカ少年隊」

以上の情報のなかには、インカ少年帝国/インカ少年隊の創始者情報がありません。その名は、菅野青顔さんによる『三陸新報』コラム「萬有流転」のなかにありました。初代隊長は朝田信治さんです。


萬有流転

『菅野青顔の萬有流転(上)』より



『菅野青顔の萬有流転(上)』(三陸新報社刊)から引用します。


◎インカ少年隊

『三陸新報』昭和35年(1960)年5月11日掲載

地方の紹介記事で、近来とくに気持ちよく感じたのは、毎日新聞に掲載された「気仙沼インカ少年隊」の活躍ぶりだ。これは単にインカ少年隊の誇りだけでなく、気仙沼全市の誇りとしてもいいものだ。インカ少年隊の生みの親である初代隊長朝田信治君の語る「ジャッキーの死」を読んで、涙ぐましくなったのは筆者だけのことであろうか。恐らくそうではあるまい。野鳥楽園の建設を悲願として、たゆまぬ努力を続けている少年たちに頭がさがるばかりだ。

(中略)

「ものいはぬ よものけだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子をおもふ」という実朝の歌の意を汲めば、おろそかには、トリケダモノの生命は絶たれぬものだ。とまれ、気仙沼インカ少年隊の輝かしき業績。全市全国の少年たちにマネて貰いたいものだと念願する。

引用は以上です。

朝田信治さんは、気仙沼高校同窓会名簿によれば気高9回生。吉越進平さんが同14回生ですから5コ違い。吉越宏一君をはじめ私たちは気高22回生です。

文中にある源実朝(さねとも)の和歌は、「もの言はぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ」。

ネット情報を総合すれば、〈ものを言わず、あちこちにいる獣でさえも、その親が子を思うさまは、しみじみと胸に迫る〉というようなことらしい。

青顔さんの語る鳥に託した親子の愛情。私はそこにも、しみじみとしたものを感じます。


④隊歌「希望の仲間」

今年8月15日で結成から72年となった気仙沼「インカ少年隊」。吉越宏一君は、三陸新報「リレー随想」でつぎのように語っています。

〈時が過ぎ、子供達も忙しくなってインカ少年隊も存続できなくなり、寂しい限りです。今ではOBが年に1度、創立日に会うだけになってしまいました。〉

宏一君、しかたがないよ。かつての少年隊員吉越君もすでに古希だもの。どうぞ、忘れないうちにみんなで歌う隊歌を録音しておいてください。とりあえず三陸新報「リレー随想」で宏一君が紹介していた隊歌「希望の仲間」の一節を記しておきます。

みんな仲良く 手を組めば
歌声高くこだまして
明るい希望の仲間が出来る
みんなみんな 手を組んで
朝かぜ 夕焼け 探鳥の
思いを語らうこの集い

以上、ネット上に気仙沼「インカ少年隊」の名を刻んでおければと。

2011年8月19日ブログ「謎のインカ少年隊」

 
再掲内容は以上です。

10月31日の三陸新報には、懇親会の開催や70周年記念誌の案内広告が掲載されていました。私は早速、広告に名のあったOB会の菊田幸雄さんに電話したのち、購入を申し込みました。

記念誌に記された内容と当方の上記記事にはいろいろと違いもあるのではないかと思っております。そんなこともまた楽しみのひとつですね。なお、先日には隊員OBのひとり吉越宏一君(3年5組)にも電話しました。宏一君は6日の懇親会は気仙沼南ロータリークラブの会合と重なって残念ながら参加できないと語っていました。

このたび発刊された記念誌は70周年記念誌ですが、結成された1949年8月15日から数えると今年73周年です。

インカ少年隊の隊員たちも今はまさにオールドボーイ/OB。その皆さんがこうして記念誌発刊と73周年を祝うことができたのはなによりのことです。

記念誌の発刊、そして懇親会の開催、おめでとうございます。
 

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皆既月食の味わい

昨夜の皆既月食、ご覧になったかたも多いことでしょう。私は仕事場の窓からは見えなかったものの、仕事をおえて井の頭通りに出ると、渋谷/NHK方面の夜空に8分ほど欠けた月がくっきりと見えました。

そして自宅への帰路では赤銅色の月。日記がわりに写真を一枚。撮影時刻は19:49。

自宅

どうってことのない写真と思っていましたが、あとで拡大してみると、なんかそれなりの味わい。

拡大


皆既月食と惑星食が同時に見られるのは日本では442年ぶりとのこと。月日のレベルが違いすぎてわけがわかりません。

〈月日〉ということで思いついたので計算してみました。442×12=5304。

442年ぶりは、5300月ぶりということですね。だからどうしたといわれそうですが。

本日はこれにて。
 

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葛原冷蔵 市史記述

きのう11月7日のブログでは、気仙沼市南町の柏崎下にあった「冷蔵庫創業の地」記念碑の脇に観光案内解説板が設置されたことを紹介しました。

またその「冷蔵庫創業の地」記念碑の再設置については、10月21日のブログで紹介しております。

10月21日ブログ「冷蔵庫創業の地」

本日は、その10月21日ブログ記事で引用した「気仙沼市史」第4巻 近代・現代編での葛原冷蔵に関する記述を紹介します。資料としてご覧いただければと。


葛原冷蔵

市史p327掲載写真「葛原冷蔵(大正9年)」


以下、「気仙沼市史」第4巻 近代・現代編p327・328よりの引用です。
漢数字の洋数字への変換や改行後1行あけは当方による修正です。



葛原冷蔵の出現

日本で初の本格的な凍結設備を持つ冷凍工場が建設されたのは気仙沼と北海道の噴火湾に臨む森町で、大正9年のことである。気仙沼で南町柏崎下に建設された葛原冷蔵気仙沼工場で、森町も葛原猪平の創設である。

冷蔵庫は米フリック社製の冷却機で日産10トン、冷蔵能力500トンあった。冷却方法はアンモニア気化作用を利用し、塩化カルシウム溶液をクーラー内で冷やし、それを室内に循環するものであった。断熱材はレンガ状の軽石で、大型貨物船が入港してその石材を海中に次々と投下した。海上に浮かんでいるのを見ていた郡立水産学校西条盛(鹿折・西中才)は翌年この工場に入社したという。製氷の歴史は明治14年、函館から天然氷を運んでいた渡島舎代表畠山政七らがストン・ブリッキと共同で製氷事業を起こしたのが初めという。これは氷水用が主で36年、横浜に個人で畠山製氷会社を起こすなど生涯製氷事業で活躍した。

葛原は明治22年、東京高等商業学校在学中に農商務省の海外練習生として渡米、ペンシルバニア大学、ウイスコンシン大学に学び、シカゴ、ニューヨーク貿易会社に勤め41年に帰国して貿易事業の葛原商会を設立。大正3年に出身地の山口県に山口電灯会社を設立した。その後同6年、欧州大戦下に渡米。波止場で固結した冷凍類を見て、同7年冷凍技術者2名を雇い入れて帰国したという。三崎で米国式冷凍設備を設けて試験研究して9年に成功。同年、気仙沼と北海道森町に産地冷蔵庫を建設した。

葛原は続いて台湾・朝鮮・ソ連沿海州などに産地冷蔵庫、東京・青森・大阪に市場冷蔵庫を造り、大正11年に655トンの冷蔵船江の浦丸も所有した。日本の冷蔵界をリードした人物であった。葛原は昭和3年衆議院議員となったが同17年に死去した。

葛原冷蔵気仙沼工場は12年に増築したが、鮮魚が豊富なことと凍魚の利用が始まったばかりで需要が少なかった。気仙沼でも社債を募るなど資金づくりまでした。同14年解散整理に入り、重役の木下が継いで木下冷蔵庫となった。

昭和4年(1929)、北海道森町では日本冷凍事業発祥地の記念碑を建立した。(引用は以上)


引用は以上です。上記市史該当頁2見開き画像も示しておきます。

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「気仙沼市史」第4巻 近代・現代編p326・327


「気仙沼市史」第4巻 近代・現代編p328・329

以上、10月21日ブログの参考資料として紹介しました。
 

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観光案内の解説板

気仙沼市南町の柏崎下にあった「冷蔵庫創業の地」記念碑が10月18日に再設置されました。これについては10月21日のブログでもお伝えしました。そして11月3日、リアス・アーク美術館の山内宏泰館長が、この記念碑の脇に解説イラスト板が設置されたことをツイートしていましたので紹介します。


内湾エリアの観光案内板は、2003年に17カ所に設置されました。しかし東日本大震災の津波でほとんどが被災したため、災害復旧事業によって再設置されることになったのです。

2021年3月5日の三陸新報では、「内湾エリアに観光案内の解説板」という論説記事を掲載していました。


論説

三陸新報2021年3月5日


この論説の末尾にはつぎのように記されています。

〈解説板がお目見えした2003年5月、市と市観光推進会議(当時)が、「港まち恋人スクエア・内湾ウオーク」と銘打ったイベントを企画した。市職員がガイド役になって解説板を説明しながら、内湾一帯を巡った。

解説板が完成したら、移住者、復興支援などで来市している人たちを対象にした街歩きイベントを開いて欲しい。〉(引用は以上)


この新しい解説板の活用策については、すでにいろいろと検討されていることでしょう。私の希望を記しておくと、全17枚の解説板を気仙沼市か観光協会などのサイトでもまとめて閲覧できるようにしてほしい。内湾エリアの楽しい観光案内になると思います。

ひとつ付け加えると、このブログを書いていて気になったのが、この案内板/解説板の市としての正式名称がなにかということ。

三陸新報の記事では内湾港町「観光案内板」とか「内湾エリアの解説板」、山内さんは「内湾解説イラスト看板」と書いていました。観光客の皆さんに解説板のことを紹介するにあたっては、予算案策定時の名称にはこだわらず、統一的な名称があったほうがよいのではないかと。すでにあったら、ごめんなさい。

話を戻します。これで全17か所の案内板が設置されたということですね。山内さんをはじめ関係者の皆さま、いろいろご苦労があったことと思いますが、ご苦労さまでした。気仙沼を訪れたときにでも、ゆっくりと拝見させてもらいます。ありがとうございました。

2021年3月19日ブログ「案内板の右の奥に」
 
 

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tag : 案内板山内宏泰

漁師 山﨑風雅さん

3年前2019年11月1日は、「気仙沼のほぼ日」さん〈お開き〉の日でした。2011年11月1日の事務所開設からちょうど8年。この日、地元紙「三陸新報」には〈ありがとうございました 「気仙沼のほぼ日」さん〉という有志による感謝の広告が掲載されました。つぎのブログで紹介しています。

2019年11月1日ブログ 今日は「出船送り」

そして今年の11月1日、ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼ日)さんで「気仙沼に暮らす、若者たち。」という新連載がスタートしました。ほぼ日乗組員のハサダさんが、3人の若者に話を聞きます。

その一人目/第1部は、神奈川から気仙沼に移住して定置網「日門網」(ひかどあみ)の漁師として働く山﨑風雅(やまざきふうが)さんです。本日11月4日で連載4回目/第1部最終回となります。


◎2023年版漁師カレンダー5月の写真

第1回目の記事のなかで、山﨑さんが2023年版漁師カレンダーの写真にうつっていることが紹介されています。ほぼ日のハサダさんは、〈漁師カレンダーを制作している竹内順平さんに「気仙沼で唯一の女性の漁師さんが、20代でIターンの方ですよ」と聞いて、お会いしたかったんです〉と。

山﨑さんがうつっているのは5月の写真です。漁師カレンダー公式サイトでもその画像を見ることができますが、ここでは漁師カレンダーのプロデュースを担当しているBambooCutさんのプレスリリースから。

  5月

  (株)バンブーカット/プレスリリースより


10月13日に浅草の「梅と星」で2023年版漁師カレンダーの写真家公文健太郎さんのトークイベントがありました。そこで公文さんが5月の写真についても語っていました。

山﨑さんが先輩漁師からその動きのことかなにかで叱られたそうです。写真はその後に撮ったもの。山﨑さんは船上のちょっと陰になるところで、綱の結び方の練習を繰り返していたと。公文さんはそれをすかさずというかさりげなく撮影したらしい。

カレンダーにも各月写真の説明文がありました。その5月の一部を引用します。

〈三年前、女性が船に乗ることを良しとしないしきたりが長かった漁師の世界に飛び込んだ。その日、海は荒れ、立っているのもやっとの中、定置網の引き上げ作業で、先輩船員に怒鳴られた。漁の帰り道。一人ロープの結びを反復する姿は強い意志の表れのようだった。たくさんの若い悔し涙が流れる五月、海の上にもそれはある。〉

4月に新社会人となった若者を意識した文章。いいですね。

このトークイベントのなかで、過去の漁師カレンダー写真に対する印象を聞かれた公文さんの話もおぼえています。そこで(もちろんほめながらですが)広告で活躍されている写真家も多く「かっこよすぎる」と語っていなかったかなあ。そして私の5月の写真に対する印象は「かっこよすぎる」です。

そして5月だけでなくあらためて全体の写真をながめてみると、2023年版の写真はきわめて〈広告写真的〉ではないかとの印象をもちました。それはデザインを担当した日本デザインセンターの神田彩子さんの優れた仕事のおかげでもあるのでしょう。


◎NHK「もういちど、日本」

ほぼ日の連載が始まった11月1日、NHK総合テレビ「もういちど、日本」でも、山﨑風雅さんが紹介されることを知りました。土曜日の早朝の5分間番組。予約録画しようと思っています。


もういちど日本


NHK総合テレビ「もういちど、日本」
11月5日(土)午前5:10〜5:15(5分間)
画像クリックで番組紹介サイトへ

番組紹介文にはつぎのように記されています。「日本有数の水揚げを誇る港町、宮城県気仙沼市。300年の歴史を持つ日門漁港でただ一人の女性の漁師に密着。震災をきっかけに移住した彼女の3年目の定置網漁を追った。」

◎TRITON JOBコラム

一般社団法人フィッシャーマン・ジャパンさんの「TRITON JOB」コラムでも、山﨑さんをふくむ第28喜久丸の皆さんを紹介しています。2020年8月の取材記事ですので、2年前の山﨑風雅さんです。

「TRITON JOB」コラム

こうして山﨑さんの話をつなげて紹介してみると、なんかすごいです。ただ、何事にもプラスとマイナスの両面が。こうして注目されることがよいことばかりではないということをご本人はもとより、周辺の人も思っているのではないでしょうか。大事に育てている/育てられている感じがしますしね。山﨑さんが、なにごともよい経験ととらえて、成長の糧にしてくれることを願っています。

最後になりましたが、ほぼ日さんにも感謝を。「気仙沼に暮らす、若者たち。」第1部連載4回を毎回興味深く読みました。第2部のアフロ巧業/伊藤誠さん、第3部の気仙沼地域戦略/玉川千晴さんの話も楽しみです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

◎参考情報

なんかリンクが多くなってしまいますが、2023年版気仙沼漁師カレンダーについてはつぎのブログにて。

10月14日ブログ「写真家 公文健太郎」
10月18日ブログ「公文健太郎トーク」
 

テーマ : 気仙沼
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tag : 山﨑風雅第28喜久丸日門網

特急ひばりの時代

東北線の特急「ひばり」「はつかり」「つばさ」などで首都圏と東北各地を結んだ485系が年内に運行を終えるそうです。10月26日の河北新報配信記事が伝えてくれました。


記事によれば、東北新幹線開業まで一時代を築いた485系車両は、定期運航終了後もイベント列車として各地で運航されていましたが、それも年内で終了するとのこと。

半世紀前に始まる私の大学生時代、夏と冬の東京から気仙沼への帰省は、特急「ひばり」を使っていました。仙台からは準急「むろね」号で一関を経由し気仙沼へ。午後6時半ごろの仙台発車で3時間かけて気仙沼。午後9時半ごろの到着でしたね。

その後、「ひばり」の速度があがり仙台までは4時間ぐらいになったでしょう。それでも上野から気仙沼へは7時間以上かかったわけです。遠かった。でもそれが普通のことでした。

調べてみると特急「ひばり」の定期運転ラストランは40年前の1982年11月14日です。翌日の11月15日には上越新幹線の大宮~新潟間が開業。東北新幹線の大宮~盛岡間開業は同年6月23日となります。新幹線にとってかわられました。

485系は1964年に登場し、東北では1965年10月に東北線仙台〜盛岡間の電化に合わせ運行を始めたそうです。上野〜仙台間の「ひばり」所要時間は4時間35分。1967年10月からは一部が東京駅まで乗り入れるようになったとのこと。

河北新報記事の写真にうつる特急「ひばり」の写真をみると、国鉄(現JR)上野駅の東北本線/東北線ホームを思い出します。プラットホームは6本ぐらいあったでしょうか。発着車両の案内札がぶら下がっている改札口をはいると、いくつかの番線には最後尾車両が見えていました。

この当時の上野駅、イメージとしては、以前の東急東横線渋谷駅地上ホームが似ています。このホームは2013年3月16日に営業を終了しました。

特急「ひばり」の運航開始時に4時間半かかった上野〜仙台間は今、東北新幹線「はやぶさ」を使うと1時間半。

早さでいえばやっぱ雲雀よりも隼ということでしょうかね。しかし雲雀の趣も捨て難し。今更のことになりますが、当時お世話になった国鉄の特急「ひばり」に御礼を。ありがとうございました。
 

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5回目のワクチン

先週なかばに新型コロナワクチン5回目の接種をおえました。1回目が昨年5月末、2回目が同年6月中旬、3回目が本年1月末、4回目が7月初頭でした。ワクチン接種により季節の移り変わりを知る今日この頃です。


ワクチン
予防接種済み証イメージ(QRなど一部画像加工)


私は接種にあたって考慮しなければならない持病なども特になく、これまで4回の接種でも副反応はおだやかなものでした。今回5回目も微熱とか倦怠感などはあったものの問題なし。倦怠感は4日ぐらいと以前よりも長かったかも。

今回接種したのはオミクロン株対応2価ワクチンです。ファイザー。私は東京で受けたわけですが、気仙沼でも60歳以上などを先行して実施されています。第1グループは本日11月2日から。予約開始は10月24日ですから、すでに予約した気中同級生も多いのではないかと。

気仙沼市公式サイトでの同ワクチンに関する説明を引用します。

市サイト/オミクロン株対応2価ワクチンの接種について


◎オミクロン株対応2価ワクチンについて

・オミクロン株対応2価ワクチンは、従来株とオミクロン株の2つに対応するワクチンが含まれており、重症化予防はもとより、短い期間である可能性はあるものの、発症予防効果や感染予防効果も期待されるワクチンです。

・現時点における国の方針では、オミクロン株2価対応ワクチンは、BA.1対応型、BA.4-5対応型に関わらず、1人1回限りの接種となります。

注:BA.1対応型を接種し、その3か月後にBA.4-5対応型を接種すること等、複数回接種することは認められていませんので,ご注意ください。

・気仙沼市事業期間:令和5年3月31日まで

★BA.1対応型、BA.4-5対応型のワクチンは、オミクロン株の中での種類(BA.1とBA.4-5)の差は大きくないと考えられており、また、どちらも従来型ワクチンを上回る効果が期待されています。

引用内容は以上です。

新型コロナワクチンの接種については、持病などそれぞれの条件や事情をはじめ、さまざまな意見があることを承知しております。

それを踏まえたうえでの参考情報として記しました。なお、インフルエンザワクチンもすでに接種済み。準備は万端ということで。どうぞよろしく。
 

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tag : 新型コロナワクチン

梶原監督オンライン

11月3日に「おかえりモネ」の演出陣のおひとり、梶原登城(かじわらとき)さんの気仙沼でのトークイベントについて10月25日のブログでもお伝えしました。


イメージ5


日時: 11月3日(木・祝) 13:00〜15:00
場所:気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザ(PIER7)2階 軽運動場
スピーカー:NHK 第3制作センター エキスパート 梶原登城氏


ブログ紹介時点で定員100名はすでに埋まり申し込みが締め切られていましたが、リアルタイム限定でのオンライン配信がおこなわれることになりました。私は既に申し込み完了。

オンライン配信の定員は500名ということなのですが、現時点で定員オーバーかどうかは確認できず。まずはお申し込みをということでの紹介です。詳細は「気仙沼さ来てけらいん」にて。

「気仙沼さ来てけらいん」でのオンライン配信案内文を引用します。

オンライン配信のお申込み受付を開始しました!

現地開催分の満員御礼に加え、全国のモネファンの皆様よりモネ愛溢れるお声を多くいただき、リアルタイム限定でのオンライン配信が決まりました!以下の内容をご了承いただいた上で、お申込み、ご参加くださいませ。

・先着500名様限定での配信となります
・参加者様による録画行為は禁止とさせていただきます
(主催者のみ、記録用に録画させていただきます)
・質疑応答にはオンライン配信からは参加できません
・アーカイブは残りません(見逃し配信無し)

オンライン配信/ウェビナー登録のお申込みはこちらをクリック

引用は以上です。

梶原登城さんはどんな方なのだろう。どんな声でどんな話をしてくれるのだろう。楽しみです。申し込み多数ということで、オンライン配信もされることになりました。おかげで東京でも梶原さんのお話を聴くことができます。

当初の予定にはないことでいろいろと大変だったことでしょう。梶原さんはじめ関係者の皆さまにお礼を申し上げます。

11月3日、文化の日。よろしくお願いいたします。
 

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tag : 梶原登城おかえりモネ

プロフィール

気中20/小田

Author:気中20/小田
このブログは、東日本大震災で被災した気仙沼中学校第20回卒業生(1967年3月卒/72~73歳)たちを支援する首都圏在住者「気中20回生支援会」ブログとして始めました。いまは、気仙沼出身東京在住者による気仙沼情報ブログとして、魚町育ちの小田(気中3年8組)が書いています。

Twitter: @kechu20

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