シェル石油との縁
きのうのブログ「朝日町の石油タンク」で気仙沼市朝日町の「気仙沼油槽所」竣工について記しました。その記事を書くために気仙沼商会さんのサイトをながめていたとき、同社沿革が目にとまりました。
その冒頭項目は、同社の設立について。来年で100周年を迎えます。初代社長の高橋幸市さんは現社長高橋正樹さんの曾祖父にあたると思います。
〈1920年(大正 9年)3月 会社成立 初代社長 高橋幸市 資本金20万円 株主総数99名。ライジングサン石油株式会社(現・昭和シェル石油)の特約店として、石油製品及びその他の燃料油の売買を目的とし営業開始〉
そしてその成立/設立から9年後につぎの記述が。
〈1929年(昭和 4年)ライジングサン石油株式会社気仙沼油槽所の完成を契機とし、その後業績は向上の一途をたどり、市場占有率70~80%となる〉
ライジングサン石油が「気仙沼油槽所」を完成させたのが、ちょうど90年前のことだったのです。気仙沼文化史年表(荒木英夫著)にも記述がありました。項目の出典は当時の地元新聞「大気新聞」です。
1929(昭和4)年12月7日、ライジングサン石油株式会社の気仙沼油槽所竣工(大気新聞)
ライジングサン石油はその後のシェル石油です。同社はさらに昭和シェル石油へ、そして本年4月には出光興産と経営統合して出光昭和シェルとなっています。
この90年前の気仙沼油槽所はどこにあったのでしょう。私が小学生のころの〈商会の石油タンク〉は柏崎下にありました。お魚いちばの近く。道路はまだ狭かった時代です。90年前もたぶんあの柏崎下だったと思うのですが。
私が驚いたのは、1929(昭和4)年という年。昭和の気仙沼大火の年です。1929年2月23日に八日町で出火し、南町や魚町一帯を焼き尽くしたのです。そのわずか9カ月後に「気仙沼油槽所」が竣工しました。工事中のときに大火を迎えたのかもしれません。
『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載されている昭和の気仙沼大火の写真を掲載しておきます。本年2月25日のブログなど、何度も紹介している写真です。
『目で見る気仙沼の歴史』掲載写真(クリックで拡大)
気仙沼商会の多くの顧客会社があったであろう魚町や南町にはまだ大火後の惨状が残っていたことでしょう。90年前12月の竣工式には、気仙沼商会の高橋幸市社長も出席されていたと思います。一体どのような気持ちだっただろう。9カ月前の焼け跡がまだ残る町にできた油槽所を前に、大きな不安を感じつつも、未来への希望や復興への熱意を胸に抱いたのではないでしょうか。
こうして、サンライズ石油/シェル石油と気仙沼の結びつきは一世紀にもわたります。そして震災時にも昭和シェルさんには大変お世話になったのです。
現社長の高橋正樹さんは昭和シェルでの勤務経験(正樹さんご本人によれば「修行」経験)があります。震災時には、以前の上司であった亀岡常務(その後の同社社長)と衛星電話がつながり、タンクローリーなどの緊急手配をお願いすることができました。そうしたやりとりや、当時の亀岡常務や香藤(かとう)会長の気仙沼に対する格別のご配慮については、下記のブログでも紹介しています。
2013年6月7日ブログ「気仙沼エネルギー」
昭和4年に竣工したライジングサン石油気仙沼油槽所は気仙沼の漁業用燃油供給の大きな力となりました。気仙沼商会さんの今にいたる発展もそれがあってのことでしょう。令和元年竣工の気仙沼油槽所が、これからの気仙沼の漁業の発展を力強く支えてくれることを心から願っております。
2月25日ブログ「昭和の気仙沼大火」
その冒頭項目は、同社の設立について。来年で100周年を迎えます。初代社長の高橋幸市さんは現社長高橋正樹さんの曾祖父にあたると思います。
〈1920年(大正 9年)3月 会社成立 初代社長 高橋幸市 資本金20万円 株主総数99名。ライジングサン石油株式会社(現・昭和シェル石油)の特約店として、石油製品及びその他の燃料油の売買を目的とし営業開始〉
そしてその成立/設立から9年後につぎの記述が。
〈1929年(昭和 4年)ライジングサン石油株式会社気仙沼油槽所の完成を契機とし、その後業績は向上の一途をたどり、市場占有率70~80%となる〉
ライジングサン石油が「気仙沼油槽所」を完成させたのが、ちょうど90年前のことだったのです。気仙沼文化史年表(荒木英夫著)にも記述がありました。項目の出典は当時の地元新聞「大気新聞」です。
1929(昭和4)年12月7日、ライジングサン石油株式会社の気仙沼油槽所竣工(大気新聞)
ライジングサン石油はその後のシェル石油です。同社はさらに昭和シェル石油へ、そして本年4月には出光興産と経営統合して出光昭和シェルとなっています。
この90年前の気仙沼油槽所はどこにあったのでしょう。私が小学生のころの〈商会の石油タンク〉は柏崎下にありました。お魚いちばの近く。道路はまだ狭かった時代です。90年前もたぶんあの柏崎下だったと思うのですが。
私が驚いたのは、1929(昭和4)年という年。昭和の気仙沼大火の年です。1929年2月23日に八日町で出火し、南町や魚町一帯を焼き尽くしたのです。そのわずか9カ月後に「気仙沼油槽所」が竣工しました。工事中のときに大火を迎えたのかもしれません。
『目で見る気仙沼の歴史』(昭和47年 気仙沼ライオンズクラブ発行)に掲載されている昭和の気仙沼大火の写真を掲載しておきます。本年2月25日のブログなど、何度も紹介している写真です。
『目で見る気仙沼の歴史』掲載写真(クリックで拡大)
気仙沼商会の多くの顧客会社があったであろう魚町や南町にはまだ大火後の惨状が残っていたことでしょう。90年前12月の竣工式には、気仙沼商会の高橋幸市社長も出席されていたと思います。一体どのような気持ちだっただろう。9カ月前の焼け跡がまだ残る町にできた油槽所を前に、大きな不安を感じつつも、未来への希望や復興への熱意を胸に抱いたのではないでしょうか。
こうして、サンライズ石油/シェル石油と気仙沼の結びつきは一世紀にもわたります。そして震災時にも昭和シェルさんには大変お世話になったのです。
現社長の高橋正樹さんは昭和シェルでの勤務経験(正樹さんご本人によれば「修行」経験)があります。震災時には、以前の上司であった亀岡常務(その後の同社社長)と衛星電話がつながり、タンクローリーなどの緊急手配をお願いすることができました。そうしたやりとりや、当時の亀岡常務や香藤(かとう)会長の気仙沼に対する格別のご配慮については、下記のブログでも紹介しています。
2013年6月7日ブログ「気仙沼エネルギー」
昭和4年に竣工したライジングサン石油気仙沼油槽所は気仙沼の漁業用燃油供給の大きな力となりました。気仙沼商会さんの今にいたる発展もそれがあってのことでしょう。令和元年竣工の気仙沼油槽所が、これからの気仙沼の漁業の発展を力強く支えてくれることを心から願っております。
2月25日ブログ「昭和の気仙沼大火」