昨日、NHKラジオ第1「ラジオ深夜便」で、「ある晴れた日に」の演出・出演の前田司郎のインタビューが放送されました。
インタビュアーは「はまなかあいづToday」のメインキャスターだった吾妻謙さんです。
吾妻さんから、番組の中で使用するので、前田さんについての文章を書いてください、とオーダーされ、書き始めたら止まらなくなりました。
番組で使用したのはごく一部なので、全文を公開します。
番組は、NHK「ラジオ深夜便」の公式サイト内「聞き逃しサービス」でお聴きになれます。
「10月25日(金) 23時台」の「インタビュー」です(11月2日頃まで)。
https://www.nhk.or.jp/shinyabin/kikinogashi.html
はじめて前田司郎と会ったのは、2007年の7月19日でした。
『文學界』の演劇特集の一つとして、五反田団の前田司郎、チェルフィッチュの岡田利規、ポツドールの三浦大輔の座談会の途中で、わたしが乱入するというかなり無茶な企画でした。しかも、三人にはわたしの存在を知らせていない、という話だったので、内心三人がわたしのことを嫌いだったらどうしよう、とヒヤヒヤドキドキビクビクしていました。
「あ、どうも、はじめまして」と部屋に入ると、三人は驚きながらも歓迎してくれて、とても楽しい座談会でした。
特に、前田司郎の「ぼくらのなかでは柳さんは今でも演劇の人ですよ。ちょっと文学に貸しているだけ、という感覚です」という言葉は、うれしかった。
わたしは、前田司郎のことを歳上ぶって呼び捨てにしているわけじゃありません。わたしはうんと親しくなると、ニックネームではなく、名字やフルネームを呼び捨てにする傾向があります。たとえば、ナカセ、イイダ、ワタナベマリ、というように。でも、マエダ本人を目の前にすると、いつもちょっと躊躇するんです。躊躇するくらいなら、さん付けか、くん付けにすればいいじゃん、と言われそうですが、今さらなぁ、と困っています。
わたしの新作戯曲「ある晴れた日を」の演出を、前田司郎に頼んだのは、彼の演出家としての才能を買っているからです。
(もちろん、彼の戯曲、小説、シナリオも素晴らしいです。前田司郎は「今」に触れてはいるけれど「現実」には浸食されない劇的強度がある台詞を書ける数少ない作家です。特に、会話文は、現存する日本語の書き手の中で五指に入るほどの腕前です)
2007年10月8日に、前田司郎の新作「生きてるものはいないのか」の稽古を見学したくて、京都芸術センターに行きました。
ひと言でいうと、追っかけです。
わたしは、前田司郎の追っかけだったんです。
京都芸術センターは、廃校になった小学校でした。各教室を喫茶店、ギャラリーにリノベーションし、体育館を稽古場兼劇場に変身させていました。
稽古場に演出台が見当たらなかったので、「どこに座って、演出するんですか?」と訊ねたら、「ぼくは、あの辺の床に座って」と前田司郎は答えました。
校庭に通じる扉の外からしゃべり声や笑い声が聴こえてきました。
「外の音、よく響きますね」とわたしは言いました。
「あぁ、あの扉の前、喫煙所なんですよ。出番のない役者たちがしゃべってるんです。昨日は運動会で、うるさくってぜんぜん稽古にならなくて……」と、前田司郎はにやにやしました。
このにやにや笑いが、わたしは大好きです。
「窓の外の結婚式」で、彼は、演出家としてだけではなく、俳優として出演もするので、どこで、あの魅惑的なにやにや笑いを繰り出すか、非常に楽しみにしています。
前田司郎は「ぼちぼちやるからぁ」と床に座って稽古をはじめました。
「生きてるものはいないのか」の登場人物は、一人残らず死にます。
しかし、死の瞬間を盛り上げる音楽もなければ、死を演じた俳優を退場させる暗転もありません。観客の目の前に、俳優の肉体によって次々と死が差し出され、そのまま舞台上に置き去りにされます。
ギリシア悲劇やシェイクスピア劇を持ち出すまでもなく、死は演劇の最大の山場であり、生と死の対立軸はドラマツルギーを支えるものだと思うのですが、
「生きてるものはいないのか」では、余りにも日常的な会話が生と死のドラマを押し流していきます。
わたしは、この作品で、前田司郎は岸田國士戯曲賞をとる、と確信しました。とらなきゃ嘘だろう、と思いました。そして、前田司郎は、「生きてるものはいないのか」で、第52回岸田國士戯曲賞を受賞しました。
稽古の話に戻ります。
当時の手帳にメモした、演出家・前田司郎の言葉をいくつかご紹介します。
マエダ語録、です。
「満面の笑みで『マサヒコ?』といった自分を、もう少し大事にしてあげて。『ああ』に恨みの感情が入っちゃってる。もっと寛容な感じで……」
「表面上だけ共感してあげたら? 所詮、他人事ではあるんだろうけど」
「コップをさわる前から、コップのことを気にしてる。偶発性をどうするかだね」
「殺したあと、ちょっと酔っちゃってるように見えるけど、もっとスポーティーなのね。殺した後の心の疲れを演じると、どうしても酔ってるように見える。でも、ここは、体の疲れなんだよ。ひと仕事終えて、あースッキリした!っていう……『なんで?』の後、汗ふいたりすると、スポーティーに見えるかな? もっかいやりましょう」
「臓器は動いてるから、そのウネリに体の動きを対応させて」
稽古場は、終始リラックスムードでした。
前田司郎は、床に上演台本とコーヒーを置いて、正座したり、両手を前についたり後ろについたり、脚を崩したり、灰色のパーカーを脱いで黒いTシャツ1枚になったりしていたし――、俳優の方も仰向けになったり、うつぶせで頬杖をついて台本を読んだり、くるっくるっと寝返りを打つようにストレッチをしたりしていました。
前田司郎は、「駄目出し」といえるほど強い物言いは一度もしなかったけれど、演技の細部に目を凝らし、どんな些細な違和感も見逃しませんでした。ミシン目のような細かいステッチを手縫いでチクチクチクチクやってる感じ――、手抜きをしないで仕上げよう、という強い意志は感じられましたが、それは演出家の緊張や抑圧によって高められたものではなく、稽古を重ねることによって浸透した覚悟のようなものとして伝わってきました。
わたしは内心動揺し、感動していました。
稽古後、五反田団行きつけの居酒屋に飲みに行こうとして、団員の誰かが店に電話をしたら、 14人は入れないと言われて、東京組の俳優たちが合宿をしている家で呑もう、ということになりました。
コンビニに寄ってお酒やツマミやお菓子などをたくさん買い込んで、6畳と4畳半と台所だけの空間に14人――、わたしは劇団員のアパートを泊まり歩いた10代の頃を思い出し、わくわくしました。
酒盛りが始まると、台所から楽しそうな笑い声が聴こえてきました。
女優陣がご飯を作り始めたのです。
「毎日、こんな風なんですか?」と訊いたら、
「毎日だよね」と前田司郎はあっさり答えました。
アスパラとおくらとプチトマトとささみのサラダとか、豆腐や野菜がたっぷり入った味噌鍋とか、栄養バランスのいい料理が畳の上に並べられました。
窓の外が明るくなる頃、会話も途切れがちになって、何人かの俳優がゴロンと横になって、寝息を立てはじめました。
半分寝かかった女優が、半分寝かかった男優の足を見て、呟きました。
「すごい巻爪だねぇ」
わたしも男優の足を見ました。
確かに、すごい巻爪だ。でも、わたしが足の爪の形を知っているのは、息子と同居している男性の二人だけです。 いいんだろうか、わたしなんかがこんなに見ちゃって——、と目のやり場に困った瞬間、はたと、前田司郎が率いる五反田団の団員たちは、一本の芝居を創る時間の中で、親きょうだいよりも濃密な関係を結ぶんだな、と思いました。
「そろそろおひらきにするか……」前田司郎が言いました。
ケータイを見ると、5時半をまわっていました。
その後、マエダとは文通を続けたり、ツイッターのDMでやりとりしたりして親交を深めたんですが、前田司郎に演出をお願いしたい、と強く思ったのは、12年前の京都の夜です。
生きてるうちに、作・柳美里、演出・前田司郎の芝居を実現出来て、良かった!
青春五月党、復活して良かった!