「信奉すること」の意味と価値について
「信奉すること」の意味と価値について
最近、ヨーロッパの文学作品や芸術に対して意識的に触れており、そこで感じたことについて話してみたい。
文学作品はユーゴーの「レ・ミゼラブル」やドストエフスキーの「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」。
芸術においては、ダヴィンチやゴッホの各代表作についてである。
これらについて詳しい人からしたら当たり前のことだと思うのだが、やはり近現代以前の人々における宗教、特にヨーロッパではキリスト教の影響力をものすごく強く感じた。
産業革命による資本主義経済が勃興しつつある19世紀の作品でも、科学を信じるか、神を信じるか、という選択に苦悩する場面が多くみられるし、それ以前では、全ての規範がキリスト教を中心として決まっていた。
なぜ、人々がこれほど宗教を信奉するのか?ということを僕なりに考えたり調べたところ、この壮大なテーマに対して、非常に軽い表現にはなってしまうのだが、やはり人間には「拠り所」や「心の安定」が必要なのだと思う。
科学的な発展が未熟であり、人々が持つ情報量が少なかった世界においては、宗教がその唯一の拠り所であり、絶対的なものだったのだろう。
一方で、当時よりは格段に発展した現代社会においては、もはや解明されていないことはどんどんなくなってきている。それによって、科学による合理的なエビデンスが影響力を持つようになっているのは、間違いないだろう。そして、僕自身もこちらの考えに傾倒している方だと思う。
しかし、それでも人はどこかで、不安や満たされない感情を抱えている。
現代においてまだ宗教が様々な形で存在する理由はその心情の補完であると思うし、また、神ではなく形を変えてアイドルや芸能人を信奉するという行為も、同様に何かに救いを求める心情とつながっているのではないだろうか。とも感じた。
人間は何かを強烈に信じたいという潜在的な本能を持っており、時代や場所によってそれは変遷していくのだと思う。