「風呂なし3万円」は「最高の育て方」か

 この記事、はてなブックマークでは評判が悪いな。肯定的にコメントしている人も少なくないけど。

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 要は、“特段の援助もせずに実家から放り出してみろ”というススメであり、そうすれば自活能力がつくし、条件を改善していく体験を得られるし、大変になれば実家に戻ればいいし、いいことづくめだよ、という意見である。

 昭和生まれ、昭和育ちとして、この意見は体感的にうなずける部分がある。

 しかし、多くのブコメ同様、どうもモヤモヤする。うなずけない部分もあるからだ。

 

都内の風呂なし3万円木賃アパートで十数年住んだ昭和世代のぼくは

 ぼくは万博前後に生まれた世代で、18歳で実家を出てからは、35歳でつれあいと同居するまで、風呂なしアパート以外に住んだことはない(1年間を除いて)。そのうち十数年は都内(中野区)である。

 中野の木賃アパートは家賃3万円で相当に古く、屋根裏ではネズミが走り回り、ぼくの部屋にダニが大量発生したこともある。ガスもなし(ぼくの部屋に引いていない)。トイレも共同。

 クーラーもない。網戸もなしに窓を開けて寝る生活で、夏は朝日が差し込んで、ぼくの体を炙るようにして起されていた。汗だくになるので、時々コインランドリーについていた100円コインシャワーにいくのがぜいたくな楽しみである。

 ちなみにこの期間、自活能力は全く育たなかった。自炊は一切せず、パンを買ったりお菓子を食べたり、外食したり、朝・昼抜いたりとデタラメな食生活を送っていた。

 洗濯も溜まりに溜まった挙句にしていた。

 掃除については、化学的・生物的に汚くなる(要するにモノが腐るような状態)のは片時も耐えられない性分なので、食べたものなどはマメに捨てた。しかし、他方で物理的に乱雑なのはあまり気にしないので、掃除機も滅多にかけず、本・マンガが大量にあってホコリはひどかった。

 フロは銭湯中心で330円〜400円ぐらいだった。歩いて数分のところ。しかし、これでは毎日入れないのでどうしたかといえば、職場に風呂があったので勝手に入っていた。毎日めちゃくちゃに遅刻して、夜中まで仕事をして勝手に帰るというひどい生活をしていて、風呂なども誰にも断るわけでなく沸かして入ったのである。

 さらに、東京にいた終わり頃は新宿のジムに深夜行っていたので、そこでジャグジーに入って風呂がわりにしていた。つまり風呂の代わりになるにお金を出したり、他人の財産(職場)に寄生していたりしたのである。

 こんな生活で自活能力がついたとはとても思えなかったが、何がよかったかといえば貯金ができたことだろうか。結果としてみれば、それが最大の収穫で、というか、それしか明確な成果物はない(あとで述べる抽象的な1点をのぞいて)。本を買うのと飲み屋にいく以外は、ほとんどお金を使わないので、薄給でも住居費の安さが効いてお金がたまっていった。

 料理・掃除・洗濯をきちんとするようになったのは、結婚して共同生活をするようになってからである。むしろあの条件での一人暮らしは、体を壊しかねない危ない橋を渡っていたと言える。

 そして、ブコメにもあったが、ぼくの下宿は神田川近くで川崖の上にあって、あんなボロアパート、大地震がきたら崩れ落ちて普通に死んでいると思う。

 「誰でもかんばれば、その条件でも健康で文化的な最低限度の生活はできますよ」とは、とてもおすすめして言えない。

 

 ただ、この人、柳沢幸雄が言っていることのうち、

親元を離れた生活を、そういった環境からスタートさせれば「自分はどこでも生活できる」という自信をつけることもできます。

という点、「自分はどこでも生活できるという自信」というのは確かにできたな、とは思う。実際にはいろんなものに支えられているんだけど、精神の上では「自分の力でどこでも生活できる」という感覚が生じ、親や援助を前提にしない思考をするようになる。それを「自立心」と言っていいのかどうかわからないけど。

 だから、できれば娘にも家から出て生活することを、体験として持ってほしいと思っている。そういう気持ちがベースにあるだけに、一人暮らしの提案としては柳沢の話は魅力的に映るのである。

 ただし、それは「3万円、風呂なし」などという条件を設けるものではない。

 ご覧の通り、「健康で文化的な最低限度の生活」ラインを切る可能性が高い(というか、すでに「6畳1間」=約10㎡であれば国の定める単身者の最低居住面積水準25㎡を確実に割る)のだから、お勧めできないのである。

  それでも、「そういう生活をして貯金をしたい」とか「まずはそこから始めたい」というのであれば、止めはしない。「長い人生のスパイス」(岩田正美)としての一時的な困窮なら「体験」としてはありうるからだ。そもそも親という安全装置がその後ろに控えているわけだし。

 

 それゆえに、柳沢の提案の大事なところをすくいだせば、「18歳になってから条件があるなら、一人暮らしをさせてみるのが、本人の自立心を養う上ではいいのではないか」というほどのものだろう。その一人暮らしの準備はフツーの住宅でいい。

 フツーの住居に住むほどの資金がない、賃金がない、というのであれば無理をする必要はない。

 

昭和の臭いがする部分はイラネ

 それにしても、柳沢の提案に反発が出てしまうのは、その昭和テイストだろう。

 一番ツッコミが多いのは「シチューを作って待っていてくれる彼女」だ。

そんなとき、シチューをつくって待っていてくれる彼女がいたら、「このまま一緒にいようか」となります。結婚が早くなるのです。

 昭和・平成のぼくでさえ、先ほど述べたような状況だったから、「彼女」(現つれあい)もいたが遠距離だったし、そのオンボロ下宿に「彼女」がたまに来てもシチューを作って待っていてくれたことはなかった。だいたいガスがないからシチューなど作れない。「彼女」が来ているときに仕事から戻ると、「彼女」は部屋にあったマンガを布団に入って読んでいるのが相場だった。特にシチューを食べるような冬場は、部屋にロクな暖房器具がなく(電気こたつのみ)、部屋の温度は氷点下近くに下がるために、布団に入っているのが一番暖かかったのである。

なぜなら母親が自分のためにつくってくれる食事が、一番いいに決まっているからです。

 いやいやいやいや。

 20代のあの頃、家の食事から解放されてせいせいしていた。朝食や夕食を決まった時間に、一方的なメニューと量で食わせられて、本を読みながら食べていると叱られた――というのが(罰当たりながら)あの頃の「母親が自分のためにつくってくれる食事」のイメージであり、そういうものから逃れて一人暮らしになり、夕食なのにポテトチップスとワインだけで、こたつでマンガを読みながら食べられるようになった。「一人暮らしサイコー!」だったのである。

 それは不遜ではあるけども、何か独立不羈のような心を自分の中に作った。

脱ぎ捨てたパンツも、いつの間にかキレイに洗濯されて“自然に”タンスに入っているし、トイレットペーパーも“自然に”補充されている(笑)。誰かがそれをしている、ということに思い至ることはありません。

しかし、1人暮らしでパンツを脱ぎ捨てて出かけたら、帰るとそのままの形で部屋にぽつんと残っている。イヤですよね。

  「イヤ」じゃねーよ。 

 うちの娘は、脱ぎ捨てたくつ下を洗濯機に入れるよう厳しく言われている(いた)が、もし彼女が独り立ちすれば、それをうるさくいう人はいない。ヒャッハーなのである。

 童謡の「赤とんぼ」に歌われているように、15でねえやは嫁に行きましたし、最初の東京オリンピックの頃、集団就職列車に乗っていたのは中学を卒業した15歳の少年少女でした。数十年前までは、中学を卒業すると独り立ちをしていたのです。それが今は18歳。決して早いということはありません。

ところが日本の若者の場合、「落ちるかもしれない」という不安があるために満足感が低い。生活水準とその満足度は、必ずしも一致するわけではありません。むしろ大切なのは、「自分の力で生活水準が上がっている」という実感です。階段を上っていることを感じられれば、何かをやろうという気持ちも生まれます。

  おかしいですね、内閣府の「国民生活に関する世論調査」(2019年6月)では、「現在の生活に対する満足度」は若者(18-29歳)は「満足」「まあ満足」あわせると85.8%もいるのに、「集団就職列車」に乗って行ったとおぼしき70歳以上では71.3%しかないのですが……。

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 全体的に柳沢の話には、こうした昭和テイストがつきまとう。

 「母親の食事」とか「シチューを作る彼女」とか「男の子には特に響く」とか、性別役割分担が前提になっている。

 

都心にも、風呂なし、トイレ共同といった物件はたくさんありますし、そういった物件は「バストイレ付き物件」と比べると、たいてい3~5万円ほど安く借りることができます。

  まあ、これはブコメにも多いのであるが、どんどん減ってきている。

 かつてこのような古い木賃アパートは貧困な単身高齢者の住宅の受け皿になった。しかし取り壊しが進み、次々に消えている。ぼくが住んでいたアパートもすでに今はない。(さっき、東京都内で「風呂なし」、5万円以下で検索したら59件ヒットした。まあ「多くはないが、なくはない」といえるだろうか。)

「結婚できるか」を悩むなら、家から出した方がいい

 これは最近も「子供部屋おじさん」問題で話題になったテーマだが、「『未婚継続』と貧困には強い結びつきがある」と社会福祉学者の岩田正美はいう。

たとえば20代男性は年収500万円を超えると、30代男性は年収300万円を超えると、既婚率が50%を超える。つまり近年の晩婚化・非婚化は、結婚したくない男性が増えたために生じたというよりは、フリーターや無業者が増える中で、結婚したくてもできない人が増えたために生じたと言えるのではないだろうか。(岩田『現代の貧困』ちくま新書、2007年、p.147) 

 岩田は貧困と未婚継続の結びつきの原因について、貧困だから結婚できないという問題と、未婚のまま親元から独立するとかえってお金がかかってしまい、貧しくなるという問題の2つを挙げている。

 後者について、岩田は次のように述べている。

 貧困の「抵抗力」としての家族の役割を考えるとき、視野に入ってこざるをえないのが単身世帯の「不利」な状況である。一人で暮らすより二人で暮らす方が家計の節約になるとか、二人で働けば収入が増えるということは言うまでもない。バブルが崩壊してリストラが増大する中で、妻が再び仕事をするようになった世帯も少なくないだろう。

 また、都市部で特に高額となる家賃も、家族で暮らせば1人当たりの負担率は小さくなる。公共料金も節約できるし、家族を対象とする所得税控除も見逃せない。一定の年齢になれば子どもが親元から独立するのが普通だといわれるヨーロッパでも、不況になると子どもが実家に戻ってくることがあるという。これなども、家族による家計の節約例ということになろう。こうしてみると単身世帯は本来、経済的な豊かさがないと成立し得ないものなのかもしれない。(岩田前掲p.156、強調は引用者)

  一人暮らしをさせることは、家族の支えがあるなら「ぜいたくな実験」であるのが本来の姿だろう。

 そのへんの事情を考慮しないで「説教」をしてしまうと反発を生んでしまうのではないだろうか。