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昭和30年代の静岡県職員採用試験の難易度について教えてください。 亡くなった父は1928年生まれで、1958年に静岡県職員(短大卒)に採用されました。生前私達家族には東京都立大学を卒業して大学卒として静岡県職員に採用されたと言っていました。 父が亡くなって静岡県の人事委員会に父の履歴を紹介したところ、 高校全日制卒業 生家の農業に従事 大学入学 大学中退 滋賀大学経済学部入学 滋賀大学経済学部中退 短期大学入学 短期大学卒業 財団法人法人勤務 静岡県職員採用 となっていましたが、父は英和辞典を正しく使えない、英語の理解が中学生レベルにも達していないなど基礎学力を大いに疑問があるレベルでした。そのため、父は正規のルートで静岡県の職員に採用されたか疑問を感じています。 昭和30年代前半(1955〜59年)の静岡県職員の採用試験の難易度はどのくらいのレベルだったのでしょうか? 父は病的な嘘つきで、母との見合いでも自分の年齢、学歴、職種(短大卒の中級職を都立大卒の上級職)と偽って結婚したくらいでした。 やはり父は経歴を詐称して採用されたのでしょうか?

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回答(4件)

人事委員会の照会であればそれが正規な経歴と成りましょうから少なくとも都立大の一文字も無いのですから都立大卒では無いと成りましょう。 私は昭和30年代は社会人では無かったのでその年代での回答は出来ませんが昭和40年代に社会人になりましたのでその辺りでの回答します。 学校卒業前には自衛隊に入りませんか・消防士になりませんか・警察官に成りませんかと定期的では有りませんがその様な勧誘は1回や2回で有りませんでした。 しかし、県庁・市役所からの勧誘は全くありませんでしたねえ。であるからして昭和40年代の高度経済成長期でも行政職は狭き門で有ったかも知れませんね。 民が景気が良い時には公務員採用は広き門ってえのが通り相場ですけど昭和30年代にそれが当てはまるかどうかは私は知り得ませんが昭和30年代は日本が高度経済成長真っただ中で有ったと思いますのでもしかしたら行政職も広き門で有ったと考える事は否定できないのではないでしょうか。 それを考えると裏に手を廻してどうのこうのってえ事をせずしてごく普通なる採用試験で採用されたと推察するのが妥当であると思います。

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その時期はインフレに公務員給料が追いついてなかったので、民間よりかなり低く応募人員も少なかったはずです。 難易度としては高くは無かったと思います。 学歴で採用される職種でも無いですし経歴詐称の必要も特に無かったのでは無いでしょうか。 当時の滋賀大学経済学部入学は割とすごいと思いますが。

昭和30年代の地方自治体の採用試験は、現在よりも難易度の低いものでした。戦後の改革の一つとして、現在の人事院が主導して、公務員試験による平等な審査が導入されましたが、地方自治体だと完全には機能していなかったと思われます。ペーパー試験よりも面接が重視されていたことは容易に推測できます。 お父様は時代が時代なら「良い大学を卒業できる学力があったのに」という思いが強かったのかなと。もちろん、嘘はよくないですが。当時の大学進学率は男性でも15%で、少なくとも英語に関しては、まともに学べる機会はほとんどなかったでしょうから、戦後に教育を受けた人からすると学力や学歴で見劣りするのはいたしかないかと思います。

父は戦後新制高校になってから20歳を超えてからA高校定時制を卒業したと見合いで言っていたそうですが、そのA高校は私が卒業した高校で、同窓会事務局に問い合わせたところ、旧制中学と全日制と定時制の過去の卒業生には父の名前はありませんでした。 後は、滋賀大学経済学部以外は具体的な学校の名前が県の人事委員会の回答文書には書いてなく、コンピュータ化した時に紙の資料は全て廃棄したのでこれ以上は調べようがないとのことでした。 ちなみに父の家はものすごい貧しかったことは確かです。 滋賀大学経済学部は戦前は旧制彦根高商でレベルの高い学校だったと思うのですが。

うーーーん、とくに怪しそうな経歴じゃないと思いますよ また、当時の就職はわりと簡単だった。 男性はかなりの割合で戦争に行って亡くなっていたからねぇ 終戦の時に高校生ぐらいでしょ 家に畑があるというのはすごく恵まれたことだったと思います。 ある意味で東大に合格するよりも、家に耕す畑がある方が恵まれた特殊な時代。戦争に行かずに済んだ年長組で家が農業をやっていて田舎に住んでる あなたのお父さんはある意味で勝ち組でした。 そのあと動乱期が終わってもなにしろ男性は戦争と空襲で大幅に少ない時代なんで、ぷらぷらしたあとに、「でもしか」世代として就職したんだろうな 今とはるかに違うのは公務員や先生は簡単だった。ということです。 もうすこし早く生まれたら戦争に行って人を殺さねばならん人生でつらいことだし、東京にいたら九州で焼け死ぬか、残って飢え死にするのはもっとつらい。そんな死と隣り合わせの時代を、静岡のお百姓の家で終戦の時に高校生ってのは、なかなかに恵まれた人ではあるよ そして、だからこそ、あなたが生まれた

父は戦後新制高校になってから20歳を超えてからA高校定時制を卒業したと見合いで言っていたそうですが、そのA高校は私が卒業した高校で、同窓会事務局に問い合わせたところ、旧制中学と全日制と定時制の過去の卒業生には父の名前はありませんでした。 後は、滋賀大学経済学部以外は具体的な学校の名前が県の人事委員会の回答文書には書いてなく、コンピュータ化した時に紙の資料は全て廃棄したのでこれ以上は調べようがないとのことでした。 ちなみに父の家はものすごい貧しかったことは確かです。 滋賀大学経済学部は戦前は旧制彦根高商でレベルの高い学校だったと思うのですが。