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死ぬまでに読みたかったベイトソンが「いま」読める幸せ『精神の生態学へ』

面会にやってきた母親を、息子はハグしようとする。母親は身をすくませるため、息子はハグを諦めて、少し離れる。すると母親は悲しげに言う「もうお母さんのことを愛してくれなくなったの?」

母親が帰った後、息子は暴れ出したので、保護室へ収容される。

グレゴリー・ベイトソンは、統合失調症の息子ではなく、母親の言動に注目する。息子のことを愛していると言う一方で、息子からの愛情を身振りで拒絶する。さらに、息子からの愛が無いとして非難する。

息子は混乱するだろう。ハグしようとする愛情表現を拒絶するばかりでなく、そもそもハグそのものが「無かったこと」として扱われる。にも関わらず、息子のことを愛していると述べる……そんな母親に近づけばよいのか、離れればよいのか、分からなくなる。

矛盾するメッセージに挟まれる

ベイトソンは、この状況をダブルバインドと名づける。会話による言葉のメッセージと、身振りやしぐさ、声の調子といったメタメッセージが矛盾するとき、どちらのメッセージに従うべきか、身動きが取れなくなる。

  • 「怒らないから正直に言いなさい」と言うから正直に話すと不機嫌になる
  • 「報告・連絡・相談を大切に」という上司に仕事の進め方を相談したら、「そんなことも分からないの?」と言ってくる
  • 「どうしてそんなミスをしたのか」と聞いてくる上司に原因を説明したら「言い訳するな!」と怒る

ポイントは、言葉のメッセージと身振りのメタメッセージが矛盾している点が多様な所だ。メタメッセージは、会話する両者の関係に応じて、様々な解釈が得られる。例えばこうだ。

  • これを罰と思ってはいけない、あなたのことを思ってすることだから
  • 私が罰を与えるような人間だと思ってはいけない、あなたを尊重する立場だから
  • 私が禁じたからといって、素直に従ってはいけない
  • 何をしてはいけないか、考えてはいけない

ダブルバインドが常態化すると、挟まれている人は、疑心暗鬼に陥る。親や上司からの、どのメッセージを信じてよいのか、分からなくなる。メタメッセージを正しく解釈したからといって咎められる一方で、メッセージを解釈できないからといって非難される。どちらを選んでも悪循環が発生し、コミュニケーションは失敗するからだ。

こうした状況に「適応」すると、あらゆる言葉の裏側に、自分を脅かす隠れた意味があると考えるようになる。優しさから出た言葉であっても、文字通りに受け取れず、無理やり悪意を見出すようになる。

悪循環の「外側」を認識する

この悪循環に対し、ベイトソンは、これまでと異なるアプローチを切り拓く。

単純な、原因→結果という因果関係で考えるなら、毒親である母親を切り離せばよい。

だが、ダブルバインドに適応してしまっている患者は、母親のみならず、あらゆるコミュニケーションに悪意を見出すようになっている。そういう姿勢が、さらに悪い結果を招くようになっている。因果はループ状になっており、単純に見える箇所だけを切り取っても、問題は解決しないのだ。

ベイトソンは、統合失調者が発するメッセージに注目する。そして、患者とその話し相手の関係に触れる箇所が、直接・間接を問わず、ゴッソリと抜け落ちていると指摘する。

具体的には、「私」や「あなた」などの代名詞を避けることで、誰の話なのか分からなくなる抽象的な表現になることがある。あるいは、いま話していることが事実なのか比喩なのか、さもなくば皮肉なのか理解しがたい言い方をする。そのメッセージがどんな種類のものなのかが伝わらないように言うのだ。

例えば、ベイトソンが海外出張するので、しばらく会えなくなると患者に告げた時、その患者は窓の外を向いて、「その飛行機は飛ぶのがひどく遅い」と言ったという。彼は「先生がいないと寂しくなる(I shall miss you)」と言えないのだ。患者にとってベイトソンがどんな関係なのか、あるいは、自分のメッセージの意図が何なのかを曖昧にしようとする。

こうした状況から抜け出すには、自分と周囲との関係を認識し、メッセージが運ぼうとしている感情や意図に注意を向ける必要がある―――ベイトソンが見出したこの観点を受け、オープンダイアローグの手法が広まりつつある(※)。

オープンダイアローグという手法

オープンダイアローグとは、複数人による開かれた対話で行われるメンタルケアになる。「医師-患者」のヒエラルキー構造ではなく、医療チームと患者、その家族がフラットな関係で話し合う。

まず当事者(患者や家族)の話を聞くというのは普通だが、その後、医療チームどうしで話し合う様子を、当事者が聞くという点が、特徴的だ。つまり、患者は、専門家どうしが自分について話し合うことを、あたかも他人事のように俯瞰して聞くことができる(これをリフレクティングと呼ぶ)。

そこでは、患者が避けていた「自分と周囲との関係性」について、周囲の人どうしの間で語られることを聞くことになる。そうすることで、自分がその関係性をどのように考えているのかに目を向けることができる。周囲の人が話していることと、自分が感じていることが異なっているのであれば、もちろんツッコミを入れていい。

重要なのは、そうした関係性が「ある」ということに気づくことなのだ。悪循環を断ち切るのではなく、因果のループになっていると考え、(ループなのだから)その外側があることを認識する。

単純な因果で説明できるほど簡単ではない。「因果で説明できる」とナイーブに言えるのは、局所的にしか見ていないからなのかもしれない(あるいは、「因果で説明できる範囲」だけを対象にした科学とも言える)。

ベイトソンの考えに触れていると、自分の発想が狭い範囲で周回していることに気づく。自分が抱えているテーマと向き合う時、「テーマを抱える自分」も込みで、一歩引いて俯瞰する癖が身に着く。

認知科学、人類学、生態学、心理学、言語学、社会学など、さまざまな領域を渉猟しながら、とてもその枠内に収まらない世界の見方を提示してくれる。バリ島でのフィールドワークや、精神病棟における統合失調症のリサーチ、イルカとのコミュニケーション実験を行い、サイバネティクス論を創立するベイトソンは、行動する哲学者そのもの。

その知の軌跡が集結したのが、この『精神の生態学へ』になる。絶版になって久しく、べらぼうな値段で手が出せなかったものが、岩波文庫で再版されることになった(感謝しかない)。同様に『精神と自然』も同様に再版されている。ベイトソン入門としてはこちらをお薦め。

読まずにゃ死ねないベイトソンが、いま読めて幸せだ。岩波書店ありがとう!

 

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2023/11/27追記

※ただし、オープンダイアローグの有効性についてはエビデンスが不足している指摘もある(参照:急性精神病に対するオープンダイアローグアプローチ:有効性は確立したか [PDF])。

この文書によると、このアプローチが標準的な治療法として認められるためには、その効果を量的に証明する必要があるというのだ。確かに、この文書を読む限り、対照群やブラインドテストが行われていないように見える(「治療薬」ではなく「治療法」のブラインドテストってどうやってやるのだろう?という疑問は残るが……)。

はてなブックマークコメントで教えて下さったinfoseekingさん、ありがとうございます!

 

 



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コメント

母や特定の人によってダブルバインドの状況に置かれたことは、あまりなかったと思います。あの人に言われたのと矛盾すること言ってこの人怒ってるな、とか、ほかの人がやるなら許されるのに私はダメなんだな、とかいった状況ならたまにありましたが。
いくつかの精神科で診察を受け、MRI検査を受けたりしましたが、統合失調症と診断されたことはありません。まあ私は医者じゃないし、自己診断で病気ではないと断定もできませんけれど。中学でいじめられて以来手が震えるようになって、パーキンソン病を疑ったりしましたが、これはたぶん神経症の症状なんでしょう。

投稿: 桂信也 | 2023.12.01 18:51

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