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死にたい人に渡したい谷川俊太郎『ぼく』

「死にたい」という言葉は、一種の忌み言葉になったように見える。

昔、といっても十年ほど前までは、もっと頻繁に見かけていた気がする。「辛い」「消えたい」という言葉と一緒に、もっと頻繁に目にしていた。

だが、いまではこの言葉を吐く人に、ネットは「慎重に」対応するようになっている。検索結果のトップは、心のケアをする相談窓口だし、ChatGPTやBingに尋ねても同様だ。即座に窓口へ誘導されるか、”This content may violate our content policy” (コンテンツポリシー違反のおそれ)の壁に阻まれる。

もちろんこの流れは、座間や練炭が加速しているのを知っている。さらに、今もこの言葉を縁として集う人がいることも知っている。だが、それでも、「昔のインターネット」は、死と寄り添っていたと記憶している。

「死にたい」という言葉は、ネットを経由すると、脱色された透明な存在となる。その言葉に頼らざるを得ない人が抱える切実さや重苦しさをそのままに、「お帰りはこちら」と誘導される。

「死にたい」という言葉は、言葉どおりに機能していないように見える。

「ぼくはしんだ」で始まるこの絵本は、脱色される前の「死にたい」への返歌だ。

死をめぐる絵本「闇は光の母」シリーズの一冊で、より深く死を見つめることで、より良く生きる道を探る試みとなっている。

表紙の男の子が「ぼく」なのだから、この子が死んだのだろう。続くモノローグが「じぶんでしんだ」「ひとりでしんだ」なので、自死を選んだのだろう。

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絵本ナビ『ぼく』より引用

絵の描写から、「ぼく」は小さな町に住む小学6年生だということが分かる。彼のつぶやきから、友だちがいて、将来の夢もあったことが分かる。「おかあさん ごめんなさい」というセリフから、虐待されていたわけでもなさそうだ。

「ぼく」は、生きていた時の印象を振り返り、空が美しかったこと、おにぎりが美味しかったことを思い出す。そこには感情や判断が伺える言葉はなく、死を選んだことを後悔しているかどうかは、語られていない。

淡々と綴られているが、読み手は次第に、不安を感じてくるだろう。

そこには、「なぜ」が書かれていないから。

小学6年生の男の子が自死を選ぶのは相当な決意が必要だろうし、「こわくなかった」「いたくなかった」という言葉から、適切な情報を集めて確実に実行したことが伺える。なぜ死ななくてはならなかったのかは、ラストになるまで語られない。しかも、告げられた理由に、納得できない人がいるかもしれない。

だが、生きる理由に追い越され、「いま」「ここ」に居られなくなる(居たくなくなる)喪失感は、少年を自死に追いやるには十分だと思う。この感覚は、十分な言葉を尽くして語られないため、読み手は壁を感じ、「なぜ」「どうして?」と煩悶しながら本を閉じるかもしれぬ。

一方で、「死にたい」とつぶやく人なら、少年が感じたものを受け止められるかもしれぬ。もちろん、つぶやく人にとっての「死にたい」理由とは、まるで違うだろう。だが、それでも「ぼく」がどうして死んだか、そして死んでどう思っているか、伝わるようにできている。

この絵本がよくできている理由が、もう一つある。

どんな理由であれ、辛い思いをしている人は、本なんて読んでられない。その苦しみや悲しみでいっぱいいっぱいで、ゆとりなんてない。「死にたくなったら読む本」は本当に辛いとき役に立つのか に書いた通り、本はお守りみたいなもんだ。「あそこにあの本がある」と思うだけでいい、選択肢としての逃げ場なのだ。

そういう中で、これは薦められる。

青を基調とした表紙を見ているだけで吸い込まれそうだし、仮にページをめくる元気があったら、「ぼく」のつぶやきにつきあえばいい。肯定も、否定もせず繰り返される「ぼくはしんだ」と見つめればいい。

 

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