2024-12

2021年11月 の記事一覧




2021・11・29(月)井上道義指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 予定されていたシャルル・デュトワの久々の客演が中止。「ブレイクスルーの新型コロナ陽性反応」のため、飛行機に乗ってはいけないと医者から命じられたとのこと。早い回復を祈る。

 急遽代役を引き受けたのは井上道義。当初予定のプログラム━━武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、モーツァルトの「交響曲第39番」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を指揮した。
 ただし「弦楽のためのレクイエム」は「井上道義&尾高忠明による2021年改訂版」に、また「ペトルーシュカ」は当初予定の「1911年版」から「1947年版」(ただし最強奏で終る版ではなく、消えるように終る版の方)に、それぞれ変更されていた。

 「弦楽のためのレクイエム」のその版については、私は全く知らずに、かつ予備知識なしに聴いてしまったので、これまでに聴いたことがないほど非常に明快な音色とニュアンスで演奏されていたこと、この少し日本人指揮者離れした解釈は多分井上道義の個性から生まれるものだろう、と思ったこと以外には特に意識していなかったというのが正直なところだ。
 プログラム冊子にも該当の解説が載っていなかったが━━CURTAIN CALLで12月3日からアーカイブ配信が行われるというから、そこで何らかの解説がサービスされるのかもしれないが(但し有料だそうな)。

 「39番」は、多少ガサガサしたアンサンブルだったが、ただ第2楽章(アンダンテ)の第30小節でオーケストラが突然フォルテになる瞬間、何かが鮮烈に切り込んで来るような、ぞっとするような衝撃感を生み出していたのが強い印象となって残る。

 後半のドビュッシーとストラヴィンスキーは、最近聴いた新日本フィルの公演の中では、最も濃密で壮麗で、この2作が音楽史上におけるオーケストラの黄金時代を象徴する存在であることを証明する優れた演奏だったといえよう。こういう演奏をしていれば、定期に客が戻って来ることは間違いないと思われる。
 それにしても最近の井上道義は、このような、聴衆にストレートにアピールする演奏を自然につくることに秀でて来たように思われる。以前は、何か殊更に演出めいた雰囲気が感じられたこともあったのだが━━。これが円熟というものなのだろう。

2021・11・28(日)ミュージカル「蜘蛛女のキス」

       東京芸術劇場プレイハウス  6時

 ジョン・カンダ―(曲)&フレッド・エブ(詞)のコンビ━━あの「キャバレー」の作詞作曲コンビである━━によるミュージカル「蜘蛛女のキス」(1991年ロンドンで初演)が、今回は日澤雄介の演出、石丸幹二(ゲイの囚人モリーナ)、安蘭けい(蜘蛛女、オーロラ)ほかの出演で制作された。若い革命運動家の囚人バレンティンはダブルキャストで、今日は村井良大の出演。

 なお小編成のオーケストラはPAから音が流れるのみだったが、上方左右にあるモニターテレビからは、ピアノを弾きつつ指揮している人の姿(プログラム冊子には飯田緑子とクレジットされている)が見えていた。
 11月26日から12月12日までの上演で、17~19日には大阪(梅田劇場)でも行われる由。

 あのマヌエル・プイグの原作戯曲が、よくまあこういうミュージカルに仕立てられたものだと改めて感心してしまう。しかもミュージカルだと、オペラよりもずっとリアルなイメージが濃くなるので、やはりシリアスな物語としてわれわれに迫って来る。
 何しろ、刑務所の牢獄の中で━━原作では確かアルゼンチンのブエノスアイレスの刑務所だったが、このミュージカルでは「ラテンアメリカの刑務所」となっている━━繰り広げられるドラマゆえ、拷問やら何やらの陰惨なシーン(私の好みではない)もあるのだから。

 だがとにかく、石丸幹二の妖しい色気に満ちた演技の細やかさたるや、見事なものだった。音楽は、私の主観では、やはり60年代の「キャバレー」の方が傑作ではないかと思われるのだが━━。
 今回はPAが過度に音量を上げることのないレベルだった(つまり、耳を聾する大音響でなかった)ことも有難かった。

2021・11・27(土)東京二期会:J・シュトラウスⅡ:「こうもり」

     日生劇場  2時

 2017年に上演されたアンドレアス・ホモキ演出によるプロダクションの再演。ただし日本側の演出補(助手)は、前回の菅尾友から、今回は上原真希に変わっている。
 また今回は、川瀬賢太郎が東京交響楽団を指揮、歌手陣(公演3日目の今日はAキャスト)も━━又吉秀樹(アイゼンシュタイン)、幸田浩子(ロザリンデ)、宮本益光(ファルケ)、高橋維(アデーレ)、斉木健詞(フランク)、澤原行正(アルフレード)、郷家暁子(オルロフスキー)、渡邊史(イダ)、高梨英次郎(ブリント)、森公美子(フロッシュ)となっていた。前回上演の時とは、宮本益光以外はすべて替わっている。

 演出と舞台については、前回(☞2017年11月24日)に詳しく書いた。
 今回も基本的には同じなのだが、ただ人物の動きが━━特に大勢のパーティ客らの動きに、何となく隙間が感じられ、鈍いような気もしたのだが、何処がどう違っていたと言えるほどの確証はない。コロナ対策上、動きを少なく、遅くしたこともあるのかもしれない。
 ただ私の主観では、どうも今回は、プレミエ時に比べると、所謂「日本人オペレッタ的な舞台」に逆戻りしたような感も抑えきれなかったのだが‥‥。

 歌唱では、宮本益光が練達の安定した味を聴かせて舞台を引き締め、又吉秀樹が朗々たる声を披露、斉木健詞が重みのある刑務所長を聴かせたことなどをはじめ、皆それぞれ責任を果たしていた。

 ただし、重要な日本語セリフの部分では、女声歌手の何人かに、相変わらず頭の天辺から声を出すような旧態依然の発声のセリフ回しが多く聞かれて、これは日本のオペラとしてちっとも進歩していないな、と落胆させられる。
 その点、斉木健詞が刑務所でフロッシュの一人芝居を「長い!」とたしなめるあたりの自然な会話調のセリフは最も聞きやすく、観客の自然な笑いを誘う基ともなっていただろう。そのフロッシュ役の森公美子のセリフ回しは(ちと長かったのは確かだが)やはりサマになる。

 川瀬賢太郎のオペレッタ指揮は、私は今回初めて聴いた。ピットの壁越しにいつもの獅子奮迅の身振りが見えただけだが、聴いた感じではテンポの速い颯爽たる演奏で、セリフとの受け継ぎ・受け渡しの呼吸も巧く、いい流れをつくっていたと思う。
 東響がピットの中での演奏としては久しぶりに引き締まった音を聴かせてくれていたのも祝着である。
 
 「シャンパンの歌」で幕をいったん閉じる2幕構成で、20分強の休憩を含み、終演は5時少し前。

2021・11・26(金)マリオ・ヴェンツァーゴ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 スイスの指揮者、今年73歳。33年前にN響を指揮して以来の来日とのこと。モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466」(ソリストはゲルハルト・オピッツ)と、ブルックナーの「交響曲第3番」(第3稿ノーヴァク版)を指揮した。

 彼の指揮を、私は今回初めてナマで聴いたのだが、不思議な味を持った指揮者である。実にいい。一切の虚飾もハッタリもなく、ひたすら誠実に演奏をつくって行く。アンサンブルもガサガサしていて、洗練された美しい響きとは無縁だ。文字通り素朴で野暮ったいブルックナーなのである。

 しかし音楽のスケールは大きく、特にクレッシェンドは雄大な趣がある。そして、手練手管を尽くした精密なブルックナーの演奏からは味わえないような満足感を与えてくれるのである。特にこの「第3交響曲」の場合、整然と整理され過ぎた「第3稿」を整然と演奏するとつまらない曲に聞こえることが多いので、このヴェンツァーゴのような「鄙びた」演奏に巡り合うと、思いがけない良さを感じるものだ。
 こういう演奏は、昔のドイツの、あまりメジャーではないが頑固なスタイルを守り抜く指揮者のレコードで聴いたものと、ある意味での共通点があるだろう。今でもこういう指揮者がいるというのは、実に貴重である。

 読響の方は、大切なトランペットやホルンのソロが、出だしでは妙に頼りなかったけれども、やがてそれも克服されて行った。カーテンコールの後にも、聴衆の拍手がいつまでも鳴りやまなかったのは、皆がこの時代離れした稀有な指揮と演奏にむしろ新鮮さを感じ、感動したことの表れだったであろう。

 プログラムの前半では、予定ではエマニュエル・パユがマルタンやライネッケの作品を吹くことになっていたのだが、変更されてゲルハルト・オピッツがモーツァルトを弾くことになった。まあ、この「ニ短調K.466」も近頃では意外にナマで聴く機会がない曲だし、これはこれでいい。ただしオピッツだから、これまた重厚で実直そのもののモーツァルトになる。
 またオーケストラの方も、あの暗い不気味で神秘的な冒頭部分があまりに鄙びた音で響き始めたため、これはどうなることかと思ったほどだったが、間もなく落ち着いた。

 ともあれこのヴェンツァーゴという人、レパートリーにもよるだろうが、今どき面白い存在の指揮者ではある。

2021・11・25(木)アレクサンドル・カントロフ・リサイタル

      トッパンホール  7時

 かの有名なフランスのヴァイオリニストであるジャン=ジャック・カントロフの子息にして、2年前のチャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門優勝者、アレクサンドル・カントロフ。
 まだ24歳の若さだが、ヒゲを生やし、前衛青年的な、何となく老けた風貌となって登場。今回はブラームスとリストのそれぞれ20歳代の作品でプログラムを組むというリサイタルだった。
 前半にブラームスの「4つのバラード」とリストの「ダンテを読んで~ソナタ風幻想曲」、後半にブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」。

 何しろ、このホールには入りきれないくらいの音量と音圧を備えたアジタートな演奏であり、しかも聴いた席が比較的ステージに近い位置━━となるともうこれは、ブラームスの作品もリストの作品も、いかにも20歳代の気魄満々の青年の手になるものだということを納得させられるような演奏に聞こえるのも当然か。
 まあ、それは別として、このピアニストは、実に豊かなハーモニー感覚を持っている人だということに、今日の演奏を聴いていて気がついた。

 演奏された作品群がいずれも分厚い和声を備えているのはもちろんなのだが、カントロフの演奏を聴くと、あるメロディでさえ、ハーモニー単位の移動として描き出され━━つまり転調として表現される、という不思議な構築になるのだ。
 例えば「ソナタ第3番」第2楽章(アンダンテ)のポーコ・ピウ・レント(第37小節から)後半の、第53小節および第77小節からの個所など、大半の演奏では極めて美しい憂愁を帯びた歌として聞こえる(※)ものだが、カントロフの演奏では、メロディ・ラインはほとんど意識されず、専らハーモニーの移動として響いて来るのである。

 おそらく彼は、その旋律に酔うなどということには興味がないのだろう。それを良いとか悪いとか言うつもりは全くないけれども、彼がこういう個性的な解釈を堂々と押し出すピアニストだったということは、やはり興味深かった。
 アンコールは3曲弾かれた。ストラヴィンスキーの「火の鳥」からと、ラフマニノフの「楽興の時Op.16-3」、モンポウの「《歌と踊り》第6番」。終演は9時を過ぎた。

※この個所は、明快な旋律性を押し出しながらハーモニーを忘れず、しかも若々しさと憂愁美とを併せ持ったエレーヌ・グリモーの演奏が実に素晴らしかった!

2021・11・25(木)ポール・メイエとカルテット・アマービレ

     東京オペラシティ コンサートホール  1時30分

 クラリネットのポール・メイエと、日本のカルテット・アマービレ(2016年ミュンヘン国際音楽コンクール弦楽四重奏曲部門第3位)とが協演、モーツァルトとブラームスの「クラリネット五重奏曲」を演奏した。

 昨夜の「マイスタージンガー」の音楽が未だ耳にも心にも残っている中に響いて来たこの2曲のクラリネット五重奏曲の、また何と清澄で爽快で、幸福感に満ちていること。身も心も洗われるような、とはこういうものを謂うのであろう。

 カルテット・アマービレの弦も極めて美しく、モーツァルトでは柔らかい羽毛のように響いていた音色が、ブラームスでは一転して引き締まった、しかし陰翳のある音色に変わる鮮やかさ。そしてポール・メイエの、澄み切ってしかも温かい、夢幻的に拡がって行くようなクラリネット。
 2曲とも至福の演奏だったが、特にブラームスの第2楽章での幻想的な情感(終結個所の素晴らしさ!)と転調の呼吸の美しさは圧巻であった。

 カルテット・アマービレは3人が女性で、モーツァルトでは純白の衣装で演奏していたのが、休憩後のブラームスでは黒い衣装に身を包んで登場して来た。作品の性格の違い、演奏の表情の違いを視覚的にも表現するこのステージ演出にも、何か妙に感心した次第。

2021・11・24(水)新国立劇場 大野和士指揮 ヘルツォーク演出
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

        新国立劇場 オペラパレス  2時

 新国立劇場と東京文化会館の共同制作━━「国」と「都」の初の共同プロジェクトの一環として、新国立劇場オペラ芸術監督と東京都交響楽団の音楽監督を兼任する大野和士がこの上演を高らかに宣言してから、もうずいぶん時が経ったような気がする。

 とにかく、第1弾「トゥーランドット」は2019年に予定通り上演されたが、この「マイスタージンガー」の方は昨年の上演予定が新型コロナ蔓延の影響で今年に延期され、今年夏には東京文化会館での上演が同じくコロナの影響で、土壇場で中止されてしまっていた。そしてやっと、この秋の新国立劇場の上演が、めでたく実現の運びに至ったわけである。制作に携わった多くの人々の、特に総帥の大野和士の感慨は如何ばかりかと思う。

 このプロダクションの制作には、他にザルツブルク・イースター音楽祭と、ザクセン州立劇場(ドレスデン)も名を連ねている。
 演出はイェンス=ダニエル・ヘルツォーク、舞台美術はマティス・ナイトハルト。大野和士の指揮のもと、東京都交響楽団と新国立劇場合唱団・二期会合唱団が出演。

 歌手陣には、トーマス・ヨハネス・マイヤー(親方ハンス・ザックス)、アドリアン・エレート(同ベックメッサー)、ギド・イェンティンス(同ポーグナー)、林正子(その娘エーファ)、シュテファン・フィンケ(騎士ヴァルター)、伊藤達人(徒弟ダーヴィット)、山下牧子(マクダレーネ)、志村文彦(夜警)。また親方衆には、村上公太、与那城敬、青山貴、妻屋秀和、秋谷直之、鈴木准、菅野敦、大沼徹、長谷川顯━━といった、錚々たる顔ぶれが並んでいた。

 総合的に言って、これは優れた上演だったことは間違いない。
 まず大野和士の指揮。モネやリヨンなど、欧州の歌劇場のシェフとしてキャリアを積んだ彼の本領が、今回は全開していた。劇的な起伏感、明晰なカンタービレ(第2幕のザックスの「ニワトコの歌」や第3幕でのエーファの歌など)、モティーフの巧みな扱い(第3幕での「トリスタン」の引用)などをはじめとして、彼がこの作品を完全に自家薬籠中のものとしていることを示しているだろう。

 東京都響の演奏も、重量感と厚みには多少不足するところがあったにせよ、この劇場のピットから響いた演奏としては、近年出色の濃密なものであった。このピットに入る他のオケ(複数)が、いつもこういう演奏をしていてくれれば、新国立劇場のオペラももっと愉しくなるのだが━━。

 歌手陣も安定していた。来日勢では、ヴァルター役のフィンケが少し声に癖があるものの、まず不足はない。ザックス役のマイヤーも滋味あふれる歌唱と演技で、この演出における落ち着いた家父長ともいうべき役柄の責任を果たしていた。

 中でも、エレートのベックメッサーはまさに当たり役というべく、今回の演出では比較的物静かなキャラ表現だったが、歌といい演技といい堂に入ったもの。
 第3幕で、自分が失敗したヴァルター作の歌詞を彼が見事に歌うのを聞いて感心し納得するものの、突然「だから何だ」と怒りに燃えるといった感情の変化の表現の巧さをはじめ、細かい演技も見せてくれる。彼が予定通り来日できて本当に幸いであった。

 細かい演技といえば日本人歌手が演じる親方連も同様で、歌唱ではあまり目立つ個所が無いものの、常に全員が演技をしているということが舞台を引き締めていたのである。
 林正子のエーファもかなり華やかな歌唱と演技で、とかく埋没しがちなこの役を目立たせていた。ダーヴィットの伊藤達人も、この役にしては少し声が軽いという印象もあったが、手堅い存在感を示していた。久しぶりに演劇的なオペラの舞台を観たという感だ。

 とはいうものの、この演出で、ドラマの場所をニュルンベルクの街中でなく、ある劇場の中に設定、ザックスをその劇場監督か支配人にしたあたりは面白い発想と思われたが、全体を見終ってみると、その設定はさほど意味を持っていなかったような気もする。

 演出形態は、基本的にはストレートな解釈で進められるが、大詰めはやはり近年の演出の趨勢と同様、ザックスがその大演説で最後に提言するナショナリズムが彼自身の墓穴を掘る、という結末が選ばれている。
 最近の演出では、ザックスが民衆から愛され讃えられ、平和な大団円になるというト書き通りの演出はほとんど見られないというのは周知の通りで、多くは、人々がザックスから離反して行くという流れになる。あるいはバイロイトの最新のバリー・コスキー演出(→2017年8月19日の項参照)のように、孤独のザックスが世の人々(観客)に対し必死の弁明を試みるとかいった手法が試みられるものもある。

 ただ今回のヘルツォーク演出で理に適っていると思われるのは━━硬直した芸術の規則を嫌い、マイスター就任を拒否したヴァルターが、そのあとザックスから「ドイツ芸術礼賛のナショナリズム」を聞かされたことで反感を決定的にすることと、一度はそれをなだめようとしたエーファが、結局は恋人の選択に合わせてしまう、という流れを、順を追って細かく明晰に描いていることではなかろうか。

 ザックスも、「ニュルンベルクの民衆」からも反感を抱かれるという設定までには至っていない。これにより、一般の演出に見られる「ザックスからの人びとの唐突な離反」とは、一線を画していると思われるのである。
 それにしても、あれほど面倒を見てやった若い2人から瞬時に裏切られる設定にされるとは、ザックスも気の毒なことよ。

 30分の休憩2回を含み、終演は8時。やはり長い。

2021・11・21(日)みちのくオーケストラ巡礼記第4日 山形交響楽団

     山形テルサホール  3時

 みちのくオケ巡礼最終日の今日は、1972年に創立された山形交響楽団。常任指揮者に阪哲朗を擁している。
 なお、この楽団を全国区のオケに躍進させた功労者の飯森範親は、現在は芸術総監督というポストにあるが、創立50周年に当たる来年4月からは桂冠指揮者となることが発表されている。かりに村川千秋・黒岩英臣の時代を第1期、飯森の時代を第2期と数えるなら、山響はいよいよ阪哲朗を中心とする第3期の時代に突入することになる。

 今日はその阪哲朗の指揮するプログラムだ。芥川也寸志の「弦楽のための《トリプティーク》」、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」、ブラームスの「交響曲第4番」。協奏曲のソリストは辻彩奈。コンサートマスターは高橋和貴。

 阪と山響の演奏を聴くのは今年の2月以来だ。もちろん、それ以前からも何度か聴いているのだが、特に最近は、両者がつくる演奏に━━曲により多少の例外はあるにはしてもだが━━密度が目覚ましく濃くなって来ているように感じる。
 今日の3曲においても、緻密なアンサンブル、厳しく確固とした造形力、瑞々しい息づきなどの特徴が際立っていて、山響も今やこういう演奏をするようになったのか、と些か驚かされた。
 阪の指揮も素晴らしく思い切りのいい、スパッとした鮮やかな手捌きによる音楽構築といった感で、実は私は彼がこういう指揮をしたのを初めて聴いたような気がするのだが。

 「トリプティーク」などはその最たる例で、極めて見事なリズム感にあふれ、躍動感一杯の演奏となっていた。
 ブラームスの「4番」も同様、ロマン的な憂愁美よりは古典的な造型感に近い演奏にも感じられたが、オーケストラのしなやかな表情は少しも失われていないので、この曲の深々とした叙情美と強靭な情熱とが、充分に堪能できたと思う。

 だがそれ以上に今日の白眉は、辻彩奈をソリストに迎えたシベリウスのコンチェルトだったのではないか。
 彼女の演奏は、この2年ばかりの間にたびたび聴いているけれども、今日ほどその凄さを感じたことはなかった。これが24歳の女性の演奏かと驚かされるほど強靭な集中力で、この曲を堅固な構造体に組み立てて行く。しかも作品の各フレーズを生き生きと自然に、かつ多彩な艶のある表情と壮大なスケール感を以て歌って行くのだから、こちら聴き手は息を呑んで聞き惚れるばかりだ。
 とりわけ第2楽章と第3楽章は、見事な緊迫のソロだった。

 それに加え、彼女の演奏に呼応する阪哲朗と山響の気合が、これまた何とも凄まじかったのである。今日はこのシベリウスのコンチェルトに、私は圧倒された。

 すべて好天に恵まれた4日間、4つのオーケストラは全て晴れやかな印象を恵んでくれた。7時31分の「つばさ」で帰京。夜の東京は強い雨になっていた。タクシーに乗ろうと八重洲口の乗り場へ向かったら、恐ろしい長蛇の列。それではと反対側の丸の内口の乗り場に行くと、こちらは何と待ち客が1人も居らず、タクシー群が人待ち顔。

2021・11・20(土)みちのくオーケストラ巡礼記第3日 群馬交響楽団

      高崎芸術劇場 大劇場  4時

 仙台駅を午後0時31分の「はやぶさ」で発ち、次の駅の大宮で「はくたか」に乗り換え、次の駅の高崎に2時14分に着く。大回りのコースだがこれは速い。どちらの新幹線もぎっしり満席だ。家族連れも多い。もうほとんど日常の生活が戻って来たようにも見える。

 今日は群馬交響楽団。1945年、終戦直後に創立された「高崎市民オーケストラ」を前身とする、映画「ここに泉あり」で有名な楽団だ。現在のシェフはミュージック・アドバイザーの小林研一郎。ただし今日の客演指揮は、井上道義である。コンサートマスターは伊藤文乃。

 一昨年秋に竣工した「高崎芸術劇場」の中にある大ホールに拠点を移したことは、この群響にとって大きな転換期となったことだろう。以前の音楽堂では不可能だった超大編成の作品をも楽々と響かせることができるようになったからだ。
 今日のプログラムに含まれている石井真木の「モノ・プリズム」のような、巨大な和太鼓群が咆哮怒号する作品は、大ホールでなければとても演奏できないものだろう。

 プログラムの前半には、伊福部昭の「日本狂詩曲」と、矢代秋雄の「交響曲」が組まれていた。すこぶる意欲的な選曲で、群響の並々ならぬ姿勢が窺われるが、どれも編成が大きい上に大変な数の打楽器を必要とするため、制作費は猛烈にかかるだろう。そう度々できる企画ではあるまい。

 井上道義は、例の踊るような派手な指揮で、この日本の3作品を愉しく、充実感豊かに聴かせてくれた。
 伊福部昭の出世作「日本狂詩曲」は、所謂伊福部節が果てしなく続く独特の世界だが、しかし今日の演奏は、ちょっと賑やか過ぎたような気がしないでもなく、この曲の良さはもう少し鄙びた味の部分にあるのではないか、とも思われる。

 一方、矢代秋雄の「交響曲」は、周知の如く「日本フィルシリーズ」の第1作に当たる1958年の作品であり、演奏回数も比較的多い部類に属するだろう。現代の優れたオーケストラの演奏で再生されると、当時はあまり意識されなかったこの曲の緻密なふくよかさと、壮大な高貴さが見事に伝わって来るように思う。あの頃のわが国の作曲家たちの作品が如何に高度な域に達していたか、改めて聴くたびにその驚きは増すばかりである。もっと広く演奏されて然るべきだろう。
 井上の指揮に群響もよく応えていた。この曲が、今日は最も感動的な音楽であり、魅力的な演奏だったのではないか。それにしても、群響は素晴らしく大きな音を響かせるものだと感嘆する。

 「モノ・プリズム」では、林英哲と「英哲風雲の会」が協演する。一つの大太鼓、三つの中太鼓、七つの小さな締太鼓がステージ上に並び、同じく多数の打楽器陣を擁したオーケストラと激しく呼応する、何とも物凄い大音響の作品である。林英哲を含め、7人の奏者が出演した。
 大太鼓のみはステージの奥に設置され、その他はステージ前面に並ぶ。日本の大気の中では、洋楽器よりも和楽器の方が鳴りがいいという特性があるので、これらの太皷群が一斉に響きはじめると、オーケストラの音は完全に吹っ飛んでしまう。主役は完全に和太鼓群となった。林英哲が相変わらず健在なのは嬉しい限りである。

 なお今回は照明演出も加わり、曲の中頃で英哲を含む2人が大太鼓を打ち続ける長い個所では、ステージを暗くして大太鼓のみに光を当て、その大太鼓の向こう側にいる奏者をシルエットで浮かび上がらせるという趣向も折り込まれていて、視覚的な迫力をいっそう増していた。

 この曲の演奏を聴きながら、1976年12月に小澤征爾指揮の新日本フィルと鬼太鼓座により東京文化会館で行われたこの曲の日本初演を、FM東京の番組で収録放送した時のことを思い出した。あの時は、大太鼓はたしかステージ前面中央に置かれていたような記憶がある。従って物凄さは今日の数倍以上だったはず。しかし、そんな大音響を当時のワンポイント録音システムでよく収録できたものだと、今は信じられぬ思いである。

 5時50分終演。「はくたか」でまた大宮に戻り、7時41分の「つばさ」で山形へ向かう。10時前に山形着。こちらは猛烈に冷える。

2021・11・19(金)みちのくオーケストラ巡礼記第2日 仙台フィル

     日立システムズホール仙台・コンサートホール  7時

 札幌からJRの急行「北斗」と新幹線の「はやぶさ」とを乗り継ぎ、前者は約3時間半、後者は約2時間40分、待ち時間を含め総計7時間(!)をかけて仙台に到着。それでも現在のところ、これが地上便としては最も速い移動手段のようだ。

 時間のかかる鉄道をわざわざ選んだのは、車窓から道南と本州北端の自然美を鑑賞したかったがゆえである。このコースは今年夏にも一度体験しているが、あの時は北海道の「緑」の量感の美に圧倒され、感動したものだった。今回は、すでに冬景色に入った寂しい雨模様の道南と本州北端の旅である。これはこれで不思議な郷愁をそそる。

 長い長い青函トンネルを抜けて本州の大地に浮かび上がった瞬間、ある札幌の知人が「北海道と青森では樹の形態が違う」と言っていたことを思い出した。なるほど、そうなのかもしれない、と窓外の景色を見ながら考える。だがそれにしても、この曇り空の下の北の光景の、何という静寂、森閑とした無人の畑と林、凄まじい寂寥感。これは東海道新幹線や山陽新幹線はもちろん、他の新幹線からも絶対見られない光景だろう。日本も広いものだ、と改めて感動する。

 さて、肝心の音楽のほう。今日聴いたのは、1973年創立の仙台フィルハーモニー管弦楽団である。常任指揮者は飯守泰次郎だが、彼は2023年3月を以って退任し、そのあとは現レジデント・コンダクターの高関健がポストを引き継ぐことが発表されている。

 ただし今日の定期の指揮者は、客演の鈴木雅明だ。プログラムはメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」序曲、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは北田千尋)、ベートーヴェンの「英雄交響曲」というもの。
 最近の鈴木雅明の尖った刺激的なアプローチの指揮と、それに仙台フィルがどのように反応するかが興味津々だったため、これを選んで聴きに来たのだった。コンサートマスターは西本幸弘。

 予想通り、最初の「夏の夜の夢」序曲からして、通常の演奏とは一味も二味も違う。夢幻的な妖精の舞というよりは、氷の世界を強面の妖精が荒々しく飛び回るといった雰囲気の音楽か。最強奏の個所など、びっくりするような鋭い攻撃的な音になる。
 とはいえ、⒓型編成で対抗配置されたノン・ヴィブラート奏法による弦の尖った躍動が、両翼の空間に弱音で軽く拡がって行くさまは、やはり形容し難い幻想的な響きには違いない。このホールのアコースティックは、こういう編成のオケの、こういう響きにどうやら合うらしい。
 なおティンパニは、まるで板を叩くようなおそろしく硬い音だが、聞くところによると、さる往年の有名人が所持していた、かなり由緒のある年代物なのだそうな。

 一方、モーツァルトのコンチェルトにオーケストラの音は、鈴木雅明のスタイルの中でも最も抵抗なく共感を以って受け入れられる類のものだろう。北田千尋の明るく率直なソロとの組合せは、今日の3曲の中では最も心穏やかに聴ける演奏であった。彼女がアンコールとして、ヴィオラ首席の井野邉大輔と演奏した二重奏曲(アレッサンドロ・ロッラの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」第3番第3楽章の編曲版)も爽やかで美しい。

 鈴木雅明の指揮する「英雄交響曲」は、以前にも新日本フィルとの演奏で聴いたことがあった(→2021年7月9日)。
 第1楽章はまさにスコアに指定されている通りの「アレグロ・コン・ブリオ」そのものの演奏である。たたかうベートーヴェン、といった趣だろう。ここでも弦楽器群の細かい粒立った動きが両翼に、空間性豊かに拡がる。対抗配置のヴァイオリン群は、見事にその効果を発揮していた。

 第2楽章、ミノーレに戻ったあとのホルンの雄大なモティーフは、スコアでは1本で吹くことになっているが、今日はアシスタントを入れた4人で一斉に吹かせていたものらしく、壮大な挽歌となって響いていた。
 ティンパニの硬い音は前述のとおり個性的だったが、たった1ヵ所、第2楽章終り近く、ティンパニだけが最弱音で一つの音を叩く個所だけは、その音質の点から言って、何とも締まりのない音になってしまっていた。
 第4楽章冒頭の主題提示の個所は、以前の新日本フィルとの演奏と同様、実に個性的で、鈴木雅明のアイディアの本領発揮というところだろう。ここは面白い。

 というわけで、仙台フィルも活気に燃え立つ演奏━━コン・ブリオの演奏を聴かせてくれたわけだが、気になったのは、快速テンポによるノン・ヴィブラートの弦のアンサンブルが何故かしばしば合わなくなる(少なくともそのように聞こえてしまう)こと。
 これが第1楽章をはじめ、快速楽章で度々起こるのには微苦笑させられたが、しかし不思議なことに、それがまた演奏の響きに膨らみと拡がりのイメージを持たせていたのだから面白い。多分、明日の演奏(2日目の公演)では、もう少し異なった演奏になるかもしれない。

 久しぶりに訪れた日立システムズホールは、ホワイエもレストランも付属のホールも、改装を経て見違えるほど綺麗になっていた。オケの事務局の某氏によると、「一番綺麗になったのはトイレですよ」とのこと。見に行ってみると、なるほど、おっしゃる通り。

2021・11・18(木)みちのくオーケストラ巡礼記第1日 札幌交響楽団

      札幌文化芸術劇場hitaru  7時

 札幌は「みちのく」ではないだろうけれども、東京以北のプロ・オーケストラをそれぞれのホームグラウンドで4日間にまとめて聴けるというスケジュールが運良くまとまったので、実行に移した次第。

 たった4日間で━━言い換えれば、「日本オーケストラ連盟」に所属する正会員25団体と準会員13団体のうち、東京を除くそれ以北(埼玉県以北)の正会員のプロ・オーケストラは、4団体しかないということなのだ。準会員に至っては、1団体も無いのである。これは、静岡以西の正会員11団体、準会員9団体に比べると、何とも寂しい限りだ。わが国のオーケストラ界は、やはり「西高東低」なのだということを実感せざるを得ないだろう。

 だが見方を変えれば、これら東京以北のオーケストラがどんなに茨の道を歩み、頑張って来たかを実証していることにもなるだろう。その努力は今や立派に実って、これから聴こうとしている━━もちろん今までにもたびたび聴いているけれども━━4楽団の演奏水準は、「西」の各楽団に比べて負けず劣らず高い。

 さて、まずは今年ちょうど創立60周年を迎えている札幌交響楽団。
 首席指揮者にマティアス・バーメルトを擁するこの札響は、来年4月からは正指揮者に川瀬賢太郎を迎える。現・指揮者の松本宗利音は任期終了の由。また現在のコンサートマスターは田島高宏だが、4月より会田莉凡(あいだ・りぼん)が加わる。

 今日は友情客演指揮者の広上淳一(4月からは「友情指揮者」という肩書になる由)が指揮。外山雄三の「ノールショピング交響楽団のためのプレリュード」、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは外村理紗)、ドヴォルジャークの「交響曲第8番」を演奏した。
 コンサートマスターは客演の森下幸路。ただし、私の席の位置からは確認できなかったが、田島高宏も実は乗っていて、トップサイドに座っていたそうだ(その理由はよく解らない)。

 外山雄三の作品は、広上淳一が1991年にスウェーデンのノールショピング響に首席指揮者として迎えられた際、お披露目演奏会のために作曲されたものの由で、大編成の管弦楽による10分ほどの作品だ。日本の民謡が素材になっているものの、あの「管弦楽のためのラプソディ」のように民謡があからさまにメドレーで奏される類のものではない。もっとも、終り近くに富山の「こきりこ節」が打物陣を交えて軽やかに登場するくだりでは、やはり出たか、とニヤリとさせられるけれど。

 この「hitaru」(ヒタルと呼称する)は、時計台のすぐ近くに数年前に竣工したホールだが、オペラ上演はこれまでにも2、3回観に来たことはあるものの、オーケストラ単独の演奏会は今回初めて聴く。
 多目的な劇場ゆえに残響は少なく、あの素晴らしいホールkitaraで聴く札響とはかなり印象が違う。今回聴いた席(1階25列やや下手寄り)の所為かもしれないが、オーケストラが何かガリガリと演奏しているような音に感じられてしまうのだ。
 またこの席で聴くと、上手側に配置されているコントラバス群の音が全く響いて来ない。これはもしかしたら、袖に大きな隙間がある反響板の形態のためもあるのではないか?

 だが、そうした音響の中にあっても、ドヴォルジャークの「第8交響曲」での、強靱でありながらも柔軟な、過剰にならない哀愁の美しさを湛えた情感豊かな演奏は、広上淳一の卓越した指揮と、現在の札響の実力を最良の形で発揮した快演といっていいだろう。
 第1楽章の前半にはやや力みと硬さが残っていたようにも感じられたが、第2楽章の沈潜、第3楽章の民謡的な哀愁美など、実に快い演奏だった。

 第4楽章での例の「コガネムシ」や「ドライボーンズ」そっくりの愉快な個所での広上の踊るような指揮ぶりには吹き出しそうになったが、終演後の楽屋で彼は「それ、それよ、まさにそういう性格の音楽なのよ、あそこは」と、狙いが当たったとばかりの表情。
 今日の演奏ではトランペットが強力で、胸のすくような演奏を聴かせ、その他の楽器群も快調そのもの。札響の好調さを堪能させてくれた。これ1曲の演奏だけとっても、遠路遥々聴きに来た甲斐があったというものである。

2021・11・16(火)DOTオペラ公演 ヴェルディ:「アイーダ」

     ミューザ川崎シンフォニーホール  5時30分

 「DOT」とは、この公演のプロデューサー3人━━今日アイーダを歌った百々(ドド)あずさ、コレペティトゥールの小埜寺美樹、アムネリスを歌った鳥木弥生の3人からなるチームのことのようである。

 つまりこれは、熱心な音楽家たちによる自主制作オペラともいうべきもので、その意気は称賛されていい。ミューザ川崎のような大きな会場でそれをやるというのは、集客力からみても些か冒険ではないかと思われるのだが、それにもかかわらず衣装付きのセミステージ形式上演で中央突破を図るからには、それなりの裏付けがあってのことなのだろう。

 指揮は佐藤光、演出と振付が山口将太朗。小編成の管弦楽は「アイーダ凱旋オーケストラ」(コンサートマスター後藤龍伸)、合唱はCoro trionfo。
 キャストは、百々あずさ(アイーダ)、村上敏明(ラダメス)、鳥木弥生(アムネリス)、高橋洋介(アモナズロ)、松中哲平(エジプト国王)、伊藤貴之(ランフィス)、やまもとかよ(巫女)、所谷直生(伝令)という顔ぶれ。またダンサーは5人がクレジットされていて、原作のバレエ場面のほかに、ラストシーンの地下墓場の場面での幻想的な動きをも受け持っている。

 アイーダ・トランペットは2階席両側に各2本ずつ配置されて、これは立派な演奏をしてくれた。
 本隊のオーケストラはステージ中央に位置し、小編成の弦と、他にティンパニとピアノとシンセサイザーという編成。つまり管楽器パートが概してピアノで演奏されるという編曲が施されているわけで━━苦心してリダクションしたであろう編曲者には失礼ながら、これはピアノ・リハーサルならそれなりに割り切って聴けようが、弦とピアノが同時に鳴るというのは、少しでも原曲を知っている聴き手にとってはいかにも不自然な音色で、違和感満載というところだ。

 バックステージでのバンダはシンセサイザーで代用され、これはまあアイディアだろう。合唱はオルガン下の客席とその両翼客席に分かれて配置されていて、東響コーラスのメンバーがメインだそうだが、かなり多い人数の割には、音量は小さい。

 ソロ歌手陣は、一部を除いて技術的にも安定した歌唱を聴かせてくれた。特に村上敏明が力強い直線的な声で若き勇士の性格を率直に描き、また鳥木弥生も聴かせどころの第4幕「苦悩するアムネリス」を滋味豊かに表現していた。伊藤貴之の威圧感にあふれたランフィスも見事な存在感であったろう。高橋洋介のアモナズロ王もいい。題名役の百々あずさは、声のパワーはなかなかのものだが、力任せに歌うという印象は拭えず、もう少し丁寧な歌い方を望みたいところだ。

 なお、演技空間はオーケストラの周囲に設定されていたが、かんじんの演出の方は旧態依然のスタイルで、演技も全くの類型的な身振りというレベルにとどまっていた。8時半終演。

 「アイーダ」のナマは3年ぶり。久しぶりに聴くと、やはりいいオペラだ。やはり素晴らしい音楽である。聴きながら、このオペラの音楽に身も心も浸りこんだ第3回イタリアオペラ来日時の、落成して間もない東京文化会館でマリオ・デル・モナコとジュリエッタ・シミオナートが繰り広げた息詰まる対決の熱唱を思い出した。あれは、ちょうど60年前。

2021・11・14(日)沼尻竜典指揮NHK交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 出演が予定されていた次期首席指揮者ファビオ・ルイージは、コロナ感染対策待機期間の都合で間に合わなかったため、沼尻竜典が急遽登板して、予定のプログラム━━ウェーバーの「魔弾の射手」序曲、リストの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストはアレッサンドロ・タヴェルナ)、フランツ・シュミットの「交響曲第2番」を指揮した。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 私のお目当ては、やはりフランツ・シュミットだ。先日、日本フィルが「第4交響曲」を取り上げ、今日はN響が「2番」を演奏する。日本では滅多にプログラムに登場しない作曲家なのに、かち合う時には妙にかち合うという通例がこの業界にはある。

 そして今日はN響が持ち前の質量に物言わせ、凄まじいばかりの怒号咆哮を以て、この50分近い長さの大交響曲の演奏をやってのけた。
 沼尻の日頃のスタイルから言えば、もう少し細部の管弦楽法を重視して分析的なアプローチを試み、冷静さを失わぬ演奏になるだろうと思えるのだが、今日はN響の炸裂を利用したのか、それとも任せたか。
 あまりに猛烈な演奏なので、聴いている此方が作品の道筋を見失いかけるところもあったが、まあしかし、しんねりむっつりとこの曲をやられるよりは、マシだったかもしれぬ。

 「魔弾の射手」序曲での演奏は、やや無造作で、指揮者とオケの相性に些か疑問を生じさせたのが正直な印象。
 リストの協奏曲は、私が予想していたほど豪快な演奏ではなかったが、タヴェルナはソロ・アンコールに入ってから突然爆発した。演奏したのはフリードリヒ・グルダの「弾け、ピアノよ、弾け 練習曲第6番」という曲だそうだが、ラグタイム風のリズムを持った、えらく賑やかな音楽だった。

2021・11・13(土)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 定期公演。シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」と、オルフの「カルミナ・ブラーナ」が演奏された。
 前者でのソロは弓新(ゆみ・あらた)、後者での声楽陣は盛田麻央(S)、弥勒忠史(CT)、町秀和(Br)、新国立劇場合唱団(指揮・冨平恭平)、東京少年少女合唱隊(指揮・長谷川久恵)。コンサートマスターは水谷晃。

 最初の「ヴァイオリン協奏曲」。母国ポーランドの作曲家シマノフスキの作品を指揮するウルバンスキは、実に見事な感性を発揮する。叙情的な部分で彼が東響から引き出した玲瓏たる音色の、形容し難い美しさ。この人はこれほど官能的な色彩を溢れさせることもできる指揮者だったのか、と彼の美点をまた一つ見つけた気分だ。そしてダイナミックな個所では猛然たる嵐のようなオーケストラの渦巻をつくり上げる。

 ただ、この強奏の部分になると、ソロ・ヴァイオリンが全く聞こえなくなってしまうというのは問題だろう。北西ドイツ・フィル第2コンマスを務める弓新の演奏は、使用楽器のせいもあるのか、ウルバンスキと東響の色彩的な音色や表情とは、何かあまりかみ合わないような感もある。

 「カルミナ・ブラーナ」では、この指揮者の強靭なリズム感覚が、胸のすくような勢いで炸裂する。そのリズムも、単に几帳面なものではなく、要所に強いアクセントを施し、音楽に鋭い変化を与えるスタイルだ。しかもそれが茶目っ気に富む表情も加わっているだけに、すこぶる楽しいリズムの饗宴の曲になる。
 とはいえ、今日の演奏では、それがあくまでオーケストラのパートだけの話で、声楽の部分では━━というのが惜しかったところだ。

 混声合唱の本隊は正面P席に位置を占めていたが、人数は総計50人弱。大曲「カルミナ・ブラーナ」をたったこの人数で?と、ギョッとさせられる。案の定、冒頭の合唱はいかにも音量不足で、「運命」の威圧感どころではなく、こちらの頭の中で音楽を補うという状態だったが、まあ時が経つに連れて声に伸びが出て来たのか、それともこちらの耳が慣れたのか、聴き慣れた「カルミナ・ブラーナ」が少しは蘇って来たような気はする。

 だがやはり、特に男声合唱(22人)に躍動感とパワーが不足していた所為もあって、第2部での泥酔や猥雑な表現になる部分などでは、洒落っ気が全く感じられない歌唱になってしまったのが残念であった。
 女声合唱(26人)のほうは、叙情的な個所でソプラノ・パートが美しく歌っていたこともあって、ある程度は点を稼いだと思われるが‥‥。

 ソリスト3人のうちでは、焼かれた白鳥の嘆きを弥勒忠史がシンプルな演技を交えつつ哀れっぽく歌って成功を収めていただろう。町秀和は第2部に入ってから本調子を出し、盛田麻央は少し細身の表現ながら最後の法悦感を決めた。

 ━━結局、総合点ではオーケストラだけが頑張ったという残念な「カルミナ・ブラーナ」になってしまったが、ただその東響の演奏の躍動感は目覚ましく、ウルバンスキの良さは充分に感じられたという印象である。

2021・11・12(金)ロリー・マクドナルド指揮東京シティ・フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の11月定期に、スコットランド生れの指揮者ロリー・マクドナルドが客演。ティペットの「チャールズ皇太子の誕生日のための組曲」、ヴォーン・ウィリアムズの「揚げひばり」(ヴァイオリン・ソロは南紫音)、シベリウスの「4つの伝説曲(レンミンカイネン組曲」)を指揮した。
 英国の指揮者は概してシベリウスが巧いものだし、それを英国(連合王国)の作品と組み合わせるという選曲方針は面白いだろう。コンサートマスターは荒井英治。

 ティペットの組曲は1948年の作の由で、いかにも英国の作曲家だなと思わせる作風だが、率直に言うと━━どうもあまり面白くない曲である。一方「揚げひばり」は、これはもう名曲だし、南のソロともども極めて美しい。

 「4つの伝説曲」は、私の愛してやまない曲だ。昔チャールズ・グローヴズが指揮したレコードをカセットに入れ(そういう頃のことだ)、カーステレオで「レンミンカイネンとサーリの乙女たち」を鳴らしながらどこまでも続く海岸線を走っていた時、打ち寄せる波頭の上に無数の白い海鳥が舞い続ける光景と音楽とが見事に合致して、陶然たる気分に浸ったことがある。

 ただし今日のマクドナルドの指揮はそれより遥かにテンポも速く、ダイナミックで劇的で荒々しい。この第1曲がこんなに速いテンポで演奏されたのを聴いたのは初めてで、オーケストラがよくついて行けるものだとさえ思ったが、しかしシベリウス特有のひた押しに押す迫力が普通以上に見事に再現されていて、極めてスリリングで、面白かった。
 これは終曲「レンミンカイネンの帰郷」でも同様で、しかも大詰めの━━おそらくは主人公の目の前に故郷が開けた瞬間の━━音楽がぱっと明るくなる個所(練習番号Oから)が、少し荒っぽかったけれども明快に表現されていたのには感嘆。

 また緩徐テンポの中間2曲、「トゥオネラの白鳥」(今日は2曲目に置かれていた)での深みのあるイングリッシュ・ホルンを包む弦と、「トゥオネラのレンミンカイネン」を主導する弦の不気味でミステリアスな音色と表情も際立っており、シティ・フィルの弦がチェロを筆頭に、実に鮮やかに躍動していたことを特筆しておきたい。

 このマクドナルドという指揮者、かなり激しい演奏をつくるけれど、音楽の容は見事に守っている。いい指揮者だ。

2021・11・11(木)ブルース・リウ ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 先頃の「第18回ショパン国際ピアノ・コンクール」で優勝したブルース・リウの演奏が早くも東京で聴けたことは有難い。この人、以前仙台国際ピアノ・コンクールでも入賞していたそうだが、私はそれは聴いていなかったので、今回初めて彼の演奏に接することになる。

 文字通り満席の東京オペラシティのコンサートホールで開かれた今日のリサイタルはもちろんショパン・プログラムで、
 前半に「ノクターンOp.27-1」、「スケルツォ第4番」「バラード第2番」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。
 後半に「4つのマズルカOp.33」、「ソナタ第2番《葬送》」、「モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》による変奏曲」という構成。
 この中で「マズルカ」の4番目と、そのあとの最後の2曲が「ロ短調」-「変ロ短調」-「変ロ長調」という配列になっていたのは、さすがリウ、考えたな、という感である。

 なおアンコールには「ノクターン第20番嬰ハ短調 遺作」「黒鍵のエチュード」と続けた後に突然バッハの「フランス組曲第5番」の「アルマンド」を弾き、そのあとにまたショパンの「ワルツOp.42」を演奏した。私はここまで聴いて失礼したのだが、あとで主催者ジャパン・アーツのサイトを見たらそこまでしか載っていなかったので、コンサートはそれで終ったのだろう。

 コンクールの本番ではどのような演奏をしたのかは承知していないけれども、こういう大胆奔放なショパンを弾くピアニストが優勝したということは、コンクールの性格も随分変わったものだという気がする。実に面白い世の中になったものだ。
 「マズルカ」など、ほとんど即興演奏のようなイメージの、変幻自在の躍動━━あたかも「快速テンポ版ポゴレリチ」の如き容を感じさせたし、他の「スケルツォ」や「バラード」、あるいは「葬送ソナタ」の前半2楽章にしても、己の昂揚する感情の動きをそのまま鍵盤に叩きつけているかのよう。

 それほど激しい演奏ではない個所においても、音楽が非常に流動的でしなやかで、大きく揺れていて表情が豊かだ。
 しかし感嘆させられるのは、その流動性が音楽の構成と密接に結びついていて、その大きな一呼吸が音楽の一つの段落と連動しているように聞こえることだ。音楽の容が崩れていないのはそのためもあるだろう(ポゴレリチと違う点のひとつはそこにあるかもしれぬ)。

 いずれにせよ、こういうピアニストが東洋系から出現しているというのも面白い。伝統的なスタイルのショパンを好む人からはどう受け取られるだろう? 
 昔、中村紘子さんから聞いた話だが、どこだったかヨーロッパのホテルのレストランで、傍のテーブルに座ってインタヴューを受けていた大指揮者エーリヒ・ラインスドルフが、大声でポリーニの演奏をケチョンケチョンにこき下ろし、「あんなのがショパンだというなら19世紀が泣くわい」と怒鳴っていたそうだ。今、ラインスドルフが生きていてこのブルース・リウのショパンを聴いたら、激怒のあまり卒倒するかも。

2021・11・10(水)中嶋彰子デビュー30周年記念リサイタル

      東京オペラシティ リサイタルホール  7時

 ウィーン在住のソプラノ、中嶋彰子の歌を久しぶりに聴く。
 私は彼女がウィーン・フォルクスオーパーの花形だった頃の舞台は見ていないのだが、国内ではノヴォラツスキー芸術監督時代の新国立劇場のヒット作「フィガロの結婚」プレミエでのスザンナや、その後も「ラ・ボエーム」での個性的なムゼッタなど、優れた舞台をいくつも観て来た。最近は日本でのオペラの舞台でほとんど歌ってくれないので残念に思っているところである。

 今日のリサイタルでも、声は以前と同じように輝かしく伸びがあり、安定して完璧である。「30周年記念」なら、もっと大きなホールでやってくれればいいのに、とも思うが、トークを入れてのインティメートな雰囲気のコンサートが狙いなのなら、こういう小型のホールの方が適切なのかな、とも思う。

 今日は青木ゆりのピアノとともに、R・シュトラウスとブリテンの歌曲集、グノーとレハールのオペラのアリア、それにアンコールとして「ウィーン、わが夢の街」を歌ってくれた。いずれも歌詞のニュアンスを精妙に表現した見事な歌唱で、実に快いひとときだった。しかしやはりオペラのアリアには、このホールは小さすぎただろう。

 なおゲスト歌手として、今彼女が教鞭を執るウィーン市立音楽芸術大学の修士課程オペラ科のクラスで学んでいるソプラノの松島理紗が出演、シマノフスキの「おとぎ話の王女様の歌」という、おそろしく難しそうな歌曲集を歌ったが、これがなかなかの出来であった。
 因みにこの松島理紗も青木ゆりも、中嶋彰子が群馬県で毎年開催している音楽アカデミー「農楽塾」(のうらじゅく)にも参加した「お弟子さん」なのだそうな。松島は先頃ウィーン・フィル・サマーアカデミーのオペラ公演「ドン・ジョヴァンニ」」でドンナ・アンナを歌い、青木はシュトゥットガルト州立劇場オペラスタジオでコレペティートルを務めている由。

2021・11・8(月)リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル

      サントリーホール  7時

 全7回の日本公演のうちの5日目、東京公演の第2日。今日はプログラムの「B」で、シューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」、ストラヴィンスキーの「《妖精の接吻》によるディヴェルティメント」、メンデルスゾーンの「交響曲第4番《イタリア》」。アンコールはヴェルディの「運命の力」序曲。

 久しく聞かなかった西ヨーロッパのオーケストラの音だ。やはりいいものである。ブリリアントで、独特の温かみを感じさせ、聴き手を魅惑する個性を備えていて、素晴らしい。
 とはいうものの今日の演奏、歯に衣着せずに言えば、ウィーン・フィルにしてはちょっと弦がガサガサした音だな、という印象は拭い切れない。それにムーティにしては、かなりリズムが重い。

 特にシューベルトの「4番」では、たっぷりと音符の長さを保って響く大編成の分厚い弦楽器群が楽曲全体のバランスを独占していて、それは極度に濃厚で重厚なシューベルトといったイメージを与える。まあ、これが最近のムーティの美学なのかもしれないが、率直に言うと、私はこういうシューベルトは苦手なので、些か辟易させられた。

 メンデルスゾーンの「イタリア」も同じように分厚い響きの音楽づくりなので、中間の2つの楽章では主題の旋律の叙情的な美しさが多少犠牲にされた印象もなくはない。ただ終楽章は猛烈な演奏で、大編成の弦が嵐の如く荒れ狂うさまは物凄く、メンデルスゾーンが敢えてイ短調という調性を取ることによって描き出そうとしたサルタレロの魔性の情熱を、如実に浮き彫りにしていただろう。

 結局、ストラヴィンスキーの「ディヴェルティメント」が、私には一番愉しめた。これも彼の新古典主義時代の作品の演奏としては、少し重いと言えば重いのだが、第2楽章(スイス舞曲)で管楽器群が聴かせた軽快なリズム、とりわけホルン群が奥の方から山びこのように響かせて来るリズミカルな主題の柔らかな美しさには、うっとりさせられた。

 アンコールでのヴェルディ━━これはもう、別格だ。ムーティがここでは俄然奔放になり、思い切り解放感を漲らせてドラマティックな音楽を叩きつける。まあ、これが本来のムーティの姿かもしれなかった。

2021・11・7(日)広上淳一指揮京都市交響楽団 東京公演

      サントリーホール  2時

 京響を国内ベスト3に入るオーケストラに育てあげた常任指揮者兼芸術顧問(現肩書)の広上淳一が、来年3月末を以てついにポストを去る。今回の東京公演は、いわばそのコンビ終了の挨拶を兼ねてのもの、と言ったところか。

 プログラムは、ベートーヴェンの「交響曲第5番」とマーラーの「交響曲第5番」。何とも恐るべき曲目編成だ。先頃、あるトークステージで、選曲の意図はと問われたマエストロ広上が「ぼくの誕生日が5月5日なので」と、わけの解らない説明をしていたが、冗談にしても何にしても、戦艦が2隻一緒にやって来たようなこのプログラムの重量感は、凄まじい。

 「運命」は、両端楽章の提示部反復をしない演奏で、最近ではこのスタイルは珍しい。だがそれよりも、大きなオーケストラ編成で、何の衒いもなく、外連も仕掛けも誇張もなく、ひたすらストレートに滔々と押しながら、見事なほどたっぷりした響きを備えた風格のある音楽をつくり出すという演奏が、最近では珍しい範疇に入るだろう。
 こういう演奏の方がベートーヴェンの音楽の巨大性をより的確に再現するものだと私は思うのだが、その意味でもこれは、いい意味での威圧感といったものを生む。

 マーラーの「5番」でも、広上の獅子奮迅の指揮のもとで、京都市響は文字通り沸騰していた。アンサンブルの緻密さや、マーラーの音楽特有の微細な表情の再現などについては、以前の東京公演で演奏した「巨人」(→2014年3月16日)の方が凄かったと思うけれども、しかし今日の演奏でも、トランペットのソロもホルンのソロも、そしてもちろんホルン・セクションも木管の各セクションも見事であり、また第2楽章と第3楽章での弦楽器群の沸き立つ躍動も壮烈だった。
 東京のファンの中には、京響を初めて聴く人も少なくないだろうが、その人たちにとっても、西日本にはこんな凄いオケが「居る」のだということを知る、今日はいい機会ではなかったろうか。

 広上が京響の常任指揮者に就任したのは、2008年4月のこと。京響においては珍しい長期政権であった。彼が去った後も、京響はこの演奏水準を維持できるだろうか、などと余計なことにまで気をまわしてしまうのが、私の悪い癖だ。
 なお広上は、来年3月にマーラーの「第3交響曲」を指揮してお別れ定期とすることになっている。これも是非聴いてみたい。

2021・11・6(土)クシシュトフ・ウルバンスキ指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 2年半ぶりに来日したポーランド出身の俊英ウルバンスキ。いつに変わらぬ歯切れのいいリズム感と躍動感、それに微細なニュアンスを曲の隅々にまで行き届かせた指揮。これが彼の魅力である。

 今日はモーツァルトの「魔笛」序曲、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは児玉麻里)、ブラームスの「交響曲第4番」というプログラムで、彼の本領が存分に発揮されていただろう。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 「魔笛」の序奏が始まった瞬間、いい音だなと思う。こういうメリハリの強い、アクセントの際立った音は、なだらかな音づくりを得意とする日本の指揮者からはまず引き出せない類のものだ。木管を鋭く響かせておいて、すっと力を抜いて軽く漸弱させるその呼吸の良さ。主部のアレグロはプレストと言っていいほどの速さだったが、東京響の弦はよくこのテンポを受け止めていた。

 スコアの隅々にまで神経を行き届かせるウルバンスキの指揮は、ブラームスの「4番」でも充分に発揮された。各楽章にわたって沈潜、爆発、哀愁、陰翳、諦観、といったイメージが微細に交錯するさまは見事である。
 特に第4楽章の第129小節以降━━テンポ・プリモとなってシャコンヌの主題が全管楽器で再現する個所での暗い陰翳は、魔性的なものをさえ感じさせた。いい指揮者である。

 東響も快演。これは「名曲全集」のシリーズ。客席もほぼ満員だ。

2021・11・5(金)角田鋼亮指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 J・シュトラウスの「ウィーンの森の物語」、コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」、フランツ・シュミットの「交響曲第4番」という意欲的なプログラム。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 セントラル愛知響常任指揮者を務める角田鋼亮の指揮はこれまでにもたくさん聴いて来たけれども、彼の最強のレパートリーが那辺にあるか、今日はそれがある程度はっきりと呑みこめたような気がする。
 例えば、このシュミットの交響曲での彼の指揮は実に好い。特に第3楽章に相当する部分での、整然とした構築を崩さずにテンポを速めて追い上げて行くあたりの呼吸の良さ、オーケストラ制御の巧みさなどは、この曲の演奏の中でも(と言ってもこの曲の場合、あまり例は多くないのだが)出色のものだったのではなかろうか。

 コルンゴルトの協奏曲でも、作曲者自身のいろいろな映画音楽からの引用モティーフを明確に響かせた指揮が、なかなか好かった。もっともこの曲では、ソリストの郷古廉の鮮やかな演奏が全てを決していた、といえようか。彼がソロ・アンコールで弾いたハイドン~クライスラー編の「皇帝讃歌」も面白い。

 最初の「ウィーンの森の物語」━━これはしかし、どうやってもウィーンの演奏家以外には分が悪い曲である。それに今日は、演奏が少し物々しく、力任せだったような。ただし今日は河野直人のツィター・ソロが加わっていて、何となく演歌のような雰囲気の演奏ではあったものの、好い趣旨ではある。
 アンコールに「第三の男」でも弾いてくれればいいのにと思ったのだが、‥‥ワルツが終ると、ただちに楽器をかかえて引っ込んで行ってしまった。拍手が足りなかったか?

2021・11・5(金)前橋汀子 秋のデイライト・コンサート

       東京芸術劇場 コンサートホール  午前11時30分

 このシリーズはもう何年も続いているものなのだそうな。とにかく、ホールの客席がぎっしり埋まっており、それも中年以上の女性が圧倒的に多いのには驚嘆した。関係者から聞いたところでは、前橋さんはとてもファンを大切にする人であり、したがって今日のこのお客さんも昔からずっと前橋さんのファンなのだとか。

 一見したところ、ふだんはクラシックのコンサートにもほとんど来ないような人たちと思える。だが見方を変えれば、もともとクラシックが好きで、何か特別な機会があれば足を運びたい、と思っている人たちがこれだけいるのだ━━ということは紛れもない事実だということがこれでもわかる。 
 クラシックの演奏会にお客さんをもっと集めたい、というのは事業者やわれわれ関係者の悲願でもあるが、こういう事例に着目するのも必要なことだろう。

 で、演奏の方だが、ヴァイオリンの前橋汀子の他に、ピアノの松本知将と、シンセサイザーの丸山貴幸が協演し、クライスラーの「愛の喜び」、フォーレの「夢のあとに」、ベートーヴェンの「ロマンス ヘ長調」、クライスラーの「プニャ―二の様式による前奏曲とアレグロ」、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」、シューベルト~ヴィルへルミの「アヴェ・マリア」、シューベルトの「セレナード」、丸山貴幸編の映画音楽メドレー、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」、それにアンコールのエルガーの「愛の挨拶」を含めてきっかり1時間、休憩も出入りもなしに一気に演奏するという濃密な構成。

 前橋汀子のソロは、時にほんの僅か音に「揺れ」が生じないと言えばウソになるが、基本的には強靭な力と活気と、美しいカンタービレを満載した演奏で、何よりも聴いていて得も言われぬ快さ、懐かしさ、温かさが感じさせる音楽なのである。年輪を重ねた人だけが持つことのできる「芸の深み」とはこのようなものを謂うのであろう。

2021・11・4(木)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 東京フィルの2021シーズン最終定期━━「シーズン」の組立は、オーケストラによって「9月~翌年3月」や「9月~翌年8月」など各種あるが、東京フィルは「1月~12月」型を採っているようで━━つまり今日が今シーズンの最終定期、ということになるのだそうである。

 指揮は首席指揮者アンドレア・バッティストーニ、プログラムはバッティストーニの自作「フルート協奏曲《快楽の園》~ボスの絵画作品に寄せて」の日本初演と、チャイコフスキーの「交響曲第5番」という組み合わせ。コンサートマスターは三浦章宏。

 「フルート協奏曲」は2019年の作品の由で、その委嘱者でもあったトンマーゾ・ベンチョリーニが今日のソリストだった。「天地創造」「エデンの園」「地獄」「庭」の4楽章からなる30分強の長さの曲だ。
 たった1回の演奏を聴いただけであれこれ言うのは避けたいけれども、正直に言えば、往年のミクロス・ローザ(ロージャ・ミクローシュ)の映画音楽を聴いているような印象もあり、私にはあまり共感を抱けない作品としか、今のところは言いようがない。
 ベンチョリーニはアンコールにバッハの「サラバンド」を吹いたが、これはまたすこぶる濃厚な色合いのものであった。

 シンフォニーの方は、熱血バッティストーニの本領発揮というべきか、実に明るい、開放的そのもののチャイコフスキーだ。オーケストラもまあ鳴ること、鳴ること。トランペットは新宿駅まで届けとばかりの大きな音で吹きまくる。痛快ではあるものの、少々辟易させられる演奏でもあるが、これはこのオペラシティではなく、もっとホールの空間の広いオーチャードホールででも聴けば、もう少し違った印象を得るかもしれぬ。
 第2楽章では、バッティストーニのいかにもイタリア人らしいカンタービレが利いて、チャイコフスキーのメロディの良さが再現されていたところもあった。

 バッティストーニは、来年の9月定期で、リストの「巡礼の年」の「イタリア篇」の一部を自らオーケストレーションしたものを取り上げるとのこと。今日のアンコールでは、その予告編のようなものを演奏して聴かせてくれた。もしやこれから毎シーズン、彼の自作自演を入れる気か?

2021・11・2(火)野田秀樹演出「THE BEE」

      東京芸術劇場シアターイースト  7時

 筒井康隆の「毟りあい」を原作に野田秀樹が脚本を書いたドラマ。出演は阿部サダヲ、長澤まさみ、河内大和、川平慈英。

 コメディ・タッチで開始されながらも、内容はかなり猟奇的だ。が、前半では同じ役者が瞬時に他のキャラクターに変わるという目まぐるしい場面が連続し、それが平凡な市民の被害者(阿部サダヲ)をして凶悪な犯罪者に変換せしめるという展開にも繋がるとも思われ、すこぶるスリリングだ。「以前はおとなしい人だった」といわれる凶悪犯罪者が多い当節、絵空事ではないような。ただし後半、ドラマが膠着状態になってからは、少々くどく感じられるところがないでもない。
 それにしても、4人の役者さんの巧いこと!

 休憩なし、75分の長さ。昨日フタをあけたばかりで、東京では12月12日まで、大阪では12月16日から26日まで上演される由。

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