2025-04




ネヴィル・マリナーとアカデミー室内管弦楽団 ~火事の思いがけぬ効用~

 当時としては画期的に新しい解釈の、しかも親しみやすい雰囲気を持つ演奏のヴィヴァルディの「四季」のレコードで人気抜群だったネヴィル・マリナーとアカデミー室内管弦楽団(アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ)が初来日したのは、1972年4月のことだった。
 以下は、招聘元の神原音楽事務所のスタッフから聞いた話である。

 神奈川県立音楽堂でアカデミー室内管弦楽団の公演が行なわれているさなか、こともあろうに、隣の図書館が火事になった。事務所のスタッフがそれを発見、いち早く消防署に通報したところまではともかく、消防車がどっとやって来ると、何と彼は「今、ホールの方でクラシックの音楽会をやっているので、なるべく静かに消火して下さい」と頼んだのだそうだ。
 当然、「冗談じゃありませんよ。すぐ全員を避難させなさい」と怒鳴られる。仕方なく、演奏会は中断。誘導された客たちは、逃げるどころかいっせいに野次馬と化したが、マリナーもアカデミーの楽員も、楽器を抱えたまま火事見物をきめこむ始末。謹厳なイメージもどこへやら、物見高さは英国の音楽家たちも同じというわけである。

 幸いにボヤ程度で済み、ほどなく鎮火して現場は落ち着きを取り戻し、さて演奏会再開となったが、火事のとばっちりで、今度は全館が停電している。
 それならキャンドル・コンサートはどうだ、と誰かが提案したが、ホール側が青くなって「火だけはやめてくれ」と言う(あそこは「木のホール」として有名である)。
 では懐中電灯でやろう、となって、スタッフがあちこちから懐中電灯をかき集め、一人が2本ずつ高くかざして譜面台を照らし、かくして演奏は無事に行なわれた。なかなかいい雰囲気だったという。
 
 ところが面白いことに、火事の前にはそこそこの入りだった客席が、演奏が再開された時には、いつのまにか超満員になっていたそうな。
 野次馬たちが、火事が消えるとそのまま、タダで会場に入ってきたらしいのだ。それらの中には、腹巻とステテコのオヤジや、白い上っ張りに鉢巻きをして長靴を履いたオジサンなどもいたとか。そういう人たちが、マリナーとアカデミーが演奏するヴィヴァルディの「四季」だかを静かに全部聴いて、盛大に拍手をして、楽しげに帰っていったのだそうである。
 ちょっといい話だ。
 神原音楽事務所も、のちに消防署から感謝状をもらったという。

 ここまでは聞いた話だから、事実とは多少の食違いがあるかもしれない。しかし、これにはまた傑作な後日談がある。その時には私も現場にいあわせたのだが、それは次回。

『TICHET CLASSIC』2006年7月号掲載「演奏家今昔物語~指揮者 ネヴィル・マリナー」より転載

フェリクス・アーヨとその仲間たち ~またまた火事騒動~

 フェリクス・アーヨといえば、人も知るイ・ムジチ合奏団の初期のリーダーとして大活躍した名ヴァイオリニスト。その彼が独立して結成したのが「ベートーヴェン・ディ・ローマ四重奏団」だった。
 この団体は、1972年7月に初来日、モーツァルトやベートーヴェンやフォーレのピアノ四重奏曲を聴かせてくれた。私は、21日の演奏会をエフエム東京の番組のためにライヴ収録したのだが、その会場は、「火事騒動で超満員」のマリナー&アカデミーの公演(前号参照)と同じ神奈川県立音楽堂。招聘元も、同じ神原音楽事務所だった。

 いよいよ開演時刻が迫り、それを告げる「1ベル」が鳴り出した。当時あのホールの開演告知は、チャイムではなく、無愛想なブザー音だった。
 ふつう、この種のブザーは、せいぜい10秒も鳴れば終るものである。ところがなぜかこの日は、不思議に長かったのだ。20秒、30秒、40秒と過ぎても止まらない。客席もざわつき出す。われわれスタッフも顔を見合わせ、「ブザーが壊れたな、ムハハハ」と面白がって中継室の外を見に行く者もいた。
 ところがやがて、舞台袖が何かえらく騒々しくなった。なんと、鳴り続けているのは1ベルのブザーどころか、火災報知機の非常ベルだったのである。だれが押したのだ、と楽屋も舞台事務所も大騒ぎになった。
 犯人はただちに判明した。四重奏団のメンバーの一人が、出番を待っている間に、ステージ横の火災報知機のボタンを「これ何だい」と悪戯半分、弓の先で押してしまったというのである。彼はそのあと、気の毒なくらいに恐縮していたそうだ。

 この非常ベルを一度鳴らしてしまったら、事態は容易なことでは納まらない。「間違いでした済みません」では済まないことは、ご承知のとおりである。
 とはいえ、「外人じゃ解るまい」で、代わりに招聘元の神原音楽事務所が消防署だか防災センターだかからアブラをしぼられることになった。
 が、ひょんなきっかけで、これが3ヵ月前に火災発生をいち早く通報、感謝状をもらった事務所と同一だったことが、先方に判明したのである。
 途端に状況は一転、「おお、あの時の・・・・いやその折はどうも」となって、「それでしたら、まあ、今回のことは、まあ」と、何とか穏便に済ませてくれたのだという。
 それにしてもウチはなぜこんなに火事に縁があるのだ、と、神原音楽事務所側も、県立音楽堂側も、苦笑いしていた。

 当日の演奏会は、そんなわけで開演は少し遅れたが、これも無事に、すばらしく行なわれた。アーヨと共に演奏してくれたメンバーは、彼と一緒にイ・ムジチを退いたエンツォ・アルトベルリ(チェロ)、サンタ・チェチーリア国立アカデミー教授のアルフォンゾ・ゲッディン(ヴィオラ)とカルロ・ブルーノ(ピアノ)である。本当にいい四重奏団だった。でも、だれがボタンを押したのだろう?

『TICKET CLASSIC』2006年8月号掲載「演奏家今昔物語~フェリクス・アーヨ」より転載

ユベール・スダーン ~大器晩成の実力派~

 東京交響楽団の音楽監督を勤めるユベール・スダーンは、私のご贔屓指揮者の一人だ。 いわゆる「実力派」の指揮者で、特にモーツァルトなどを振ると、実に新鮮ですばらしい味を聴かせてくれる。先年まではザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者でもあったが、どうも彼が本当にやりたい音楽のスタイルは、むしろ東響を指揮した時の方に、最良の形で発揮されるように感じられる。

 この人は、やはり大器晩成型の指揮者なのだろうと思う。
 初来日したのは1970年代半ば、新日本フィルへの客演であった。私はエフエム東京在籍時代に「新日本フィル演奏会」というレギュラー番組のために彼の指揮をライヴ収録したことがあるのだが、とにかく一風変わった指揮者という印象だった。
 ブラームスの「第2交響曲」を指揮した時には、本番直前のゲネプロに臨んでも恐ろしく細かい注文を出して同じところを繰り返させるので、オーケストラがすっかり疲れ、本番が全く生彩を欠いた演奏になってしまったことがある。またベートーヴェンの「第7交響曲」の時には、第3楽章のあと、普通なら勢いよく第4楽章に突入するところを、何とそこで厳密にチューニングをやらせたため、オケも聴衆も拍子抜けしてしまったこともあった。
 そんなわけで、その頃の彼に対するわれわれの印象は、あまり良くなかったといってもいい。
 だが、現在では前述のとおり、「彼は昔の彼ならず」である。

 スダーンが東響の首席客演指揮者に着任して以降、私は新聞や雑誌に何度か絶賛の批評を書いたが、当時の招聘マネージャーが、それを毎回訳して彼に見せていたらしい。彼は「これを書いた批評家とぜひ話がしてみたい」と言っていたそうで、たまたま新潟での演奏会の終演後に鮨屋で同席、短い時間ながら話をする機会があった。
 私がその年の夏にザルツブルクに行き、彼とモーツァルテウム菅の演奏会を聴く予定があると知った彼は、「その際にはぜひ楽屋に来てくれ。昼メシでも食おう」と言う。
 約束どおり夏にモーツァルテウム大ホールの楽屋を訪れると、彼は満面に笑みを浮かべて私を歓待、その2、3日前にゲルギエフが現地で指揮した「トゥーランドット」についてあれこれ批評を交わした。
 そこまではよかったのだが、そのあと彼は、部屋にいた大勢の人々に、にこやかに私を次のように紹介したのであった。
 「この人は僕の日本での友人で、トウキョウ・シンフォニー・オーケストラのマネージャーだ」。

 スダーンは、今でも演奏会場で会えば気安く声をかけてくれるが、果たしてほんとにこちらの素性を理解してくれているのかどうか、私はいまだに彼に確認するきっかけを持てないでいる。

『TICKET CLASSIC』2006年11月号掲載「演奏家今昔物語~ユベール・スダーン」より転載

ハンス・ホッター ~「トリスタン、逃げなさい!」

 ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」に登場する神々の長ヴォータンは、特に近年の演出では「権力欲に取り憑かれた、やることなすことドジばかりのリーダー」の性格ばかり浮き彫りにされ、何か薄汚い存在に落ちぶれてしまった。
 が、その昔には、まさにワーグナーの音楽に描かれているごとく、「高貴な神」としての偉大さを備えた主人公として描き出されていたのである。

 それを演じ歌った代表的な一人が、先頃高齢で世を去った一代の名バス・バリトン、ハンス・ホッターである。長身で、気品と威厳とにあふれた舞台姿、壮大で深みのある歌唱表現は、それ自体が神だ、とまで言われていた。その圧倒的な風格に満ちた彼のヴォータンは、1955年バイロイト・ライヴのCD(テスタメント)で聴くことができる。これはホッターのまさに絶頂期(46歳)における素晴らしい記録である。

 そのホッターの、やや異なる側面を伝える録音がある。
 それは1952年バイロイト・ライヴで、カラヤンの指揮で歌った「トリスタンとイゾルデ」のクルヴェナル(トリスタンの従者)の役なのだ。この脇役で、ホッターが示している滋味豊かな歌唱と役柄表現は、見事の極みである。
 それを象徴する一ヶ所をここで挙げよう。第2幕の中ほど、トリスタンとイゾルデの束の間の愛が絶頂に達しようとするその時、マルケ王一行が突然帰還したのを知ったクルヴェナルが飛び込んで来て叫ぶ一言である。「トリスタン、逃げなさい!」

 普通のクルヴェナル歌いの場合には、ここはせいぜい決然と叫ぶような歌唱にとどまるだろう。だが、ホッターがこの歌詞にこめた解釈は、叫びであるよりも、半ばうめきに近い。逃げなさいと言ったところで、もうすべてが手遅れなのだ。そうした絶望感を一瞬のうちに表現する、卓越した解釈がこれなのである。
 たしかに、ここでのクルヴェナルは、もはや完全に絶望している。彼の主人トリスタンは、国王マルケの留守に、その妻イゾルデと密会していたのだ。その不義は明白であり、身の破滅は避けられぬ。死も免れまい。逃げても、逃げおおせるかどうか。忠実な従者は、それが不可能なことを知っている。にもかかわらず、彼は主人に向かって叫ばなければならない。「Rette dich,Tristan! (逃げなさい、トリスタン!)」
 そうしたさまざまな感情を、ホッターはこの言葉の中に完璧に集約しているのだ。

 ホッターは、のちにデッカ・レーベルに「ワルキューレ」を録音する際、第2幕大詰でフンディングにぶつける侮蔑的な「Geh!」の表現を、6通りもの方法で試しながら研究していた、とプロデューサーのジョン・カルショウは伝えている。おそらく前記の「絶望の一言」も、異なる機会にはまた別の表現で歌ったかもしれない。
 ホッターは、そうした綿密な役柄の掘り下げのもとに心理描写に富む歌唱を聴かせることのできる、偉大な歌手だったのである。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2006年12月号掲載「マエストロへのオマージュ~ハンス・ホッター」より転載

註:1952年バイロイト・ライヴの「トリスタン」はオルフェオドールから出ている。

ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ V.S.海野義雄 ~対決の妙味~

 20世紀最高のチェリストの一人、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが初来日したのは1958年春だったが、私は聴いていない。その時にはレニングラード・フィルとプロコフィエフの協奏曲を、東京交響楽団とドヴォルジャークの協奏曲を協演し、ほかにリサイタルも行なったはずだが、それらを聴いた人たちはすべて「度胆を抜かれ、揺さぶられ、打ちのめされた」という。

 私が初めて彼のステージに接したのは、その7年後、1965年2月のNHK交響楽団定期公演(東京文化会館)で、ドヴォルジャークの協奏曲を演奏した時だった。時にロストロポーヴィチ38歳。
 本当にあれは物凄かった! 弾いている時と否とを問わず、荒々しく頭を振り顔を歪め、気合いを入れ、音楽に没入する。自らオーケストラを叱咤して率いるかのようなその表情が、まず超弩級の迫力だった。
 もちろん、凄かったのは見かけだけではない。演奏そのものにも激しい感情表現と精妙きわまりない叙情が大きな振幅で交錯、恐るべき巨大かつ壮烈な、力と美にあふれた音楽を創り出していた。指揮者のアレクサンダー・ルンプフ(当時のN響の常任)が何とも頼りない音楽しか作れない人だったので、あたかもあの協奏曲が「オーケストラのオブリガート付きチェロ・ソナタ」のような印象を呈してしまったのも仕方なかろう。

 しかし、旗色悪かったN響の側にも、ひとり気を吐いた名手がいた。当時、コンサートマスターだった海野義雄である。
 第3楽章中間部には、独奏チェロに対し第1ヴァイオリンのソロが33小節にわたって寄り添う個所があるが、ここで猛然と煽り立ててくるロストロポーヴィチに対し、海野は一歩も譲らぬ音量と気迫とで渡り合ったのである。
 ソロ同士がぶつかり合った瞬間から両者の間には火花が散るような雰囲気がすでに感じられたが、海野の方へやや体を向けて背を丸め、猛々しく顔を振り、「かかって来い」と挑発するように弾き続けるロストロポーヴィチと、上体を乗り出して真っ向勝負を挑み、大きなジェスチュアで弾く海野の姿は、凄まじい迫力だった。
 嵐のようなストリンジェンド(急迫して)で驀進するチェロにヴァイオリンが激しく追いすがり、頂点のモルト・リタルダンドにいたるや、両者はがっきと剣を絡み合わせた戦士のごとく、互いの呼吸を窺うように一瞬動きを止める。ついでもとのテンポに戻り、今度は高音域のヴァイオリンが勝ち誇ったように歌い続けるのだが、ここでの海野の演奏には、息を呑ませられるものがあった。

 かくも激烈なソロの対決に、私はそれ以後のナマ演奏では出会ったことはない。もともとそのパートは「表情豊かに」、特にヴァイオリンは「静かに」と指定されているので、一般には叙情味の勝った演奏になることが多いのだ。だが前記のような演奏は、古いレコードにあるパブロ・カザルスとジョージ・セル指揮チェコ・フィルにも聴かれるから、まんざら根拠のない解釈でもない。スコアの指定はともかく、ソロ同士の息詰まる真剣勝負は面白い。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2007年1月号掲載「マエストロへのオマージュ~ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ V.S.海野義雄」より転載

レナード・バーンスタイン ~まだ満席にはならなかった初来日演奏会~

 レナード・バーンスタインが、手兵ニューヨーク・フィルハーモニックを率いて初来日したのは、1961年の春のことだった。

 その東京公演は、「東京世界音楽祭」の目玉として、落成したばかりの東京文化会館で行なわれた。旬の指揮者とアメリカ随一のオーケストラの初来日だから、さぞや人気を集めたろう、と思うのが普通だが、実はどれも寂しい入りだったようである。同時期に来日した巨匠フランツ・コンヴィチュニーとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のベートーヴェン・チクルスにすっかり客を持って行かれた、ともいわれる。やっぱりアメリカよりはドイツだぜ、という当時の日本のクラシック・ファンの好みの表れだろう。
 それに、持ってきたプログラムも、いかにも斬新だった。ハリスとバルトークとラヴェルの日があるかと思えば、ヒンデミットとベルクとチャベスと黛敏郎とコープランド、という日もあったのだ。これでは当時の日本では、客は入るまい。

 私は彼の指揮する「春の祭典」が聴きたくて、5月6日のマチネー公演の、5階L側「ろ15」という、一番安い500円の席を買った(当時は列の表示もABCでなく、「いろは 」だったのだ)。オープンしたばかりの東京文化会館大ホールは広大で美しく、とにかく感動的だった。
 だが客席は(よく覚えていないが)半分程度、よくて6割程度の入りではなかったろうか。前半の曲目からして、当時はほとんどだれも知らなかったアイヴズの作品なのだ。最初の「答えのない質問」では、拍手は情けないほどパラパラ。続く「第2交響曲」は、今聴けば実に面白い曲なのだが、これもそこそこの拍手。私にしたところで、当時はさっぱり解らなかった、というのが偽らざる告白である。だから、どんな演奏だったのかも全然記憶に残っていない。
 さて、期待を集めた「春の祭典」だが、これほど肩透かしを食らった演奏はなかったといってもいい。特に後半、オーケストラは闊達に鳴り響いていたが、音がただ素通りするだけで、音楽は全く燃えず、白々とした雰囲気に包まれたまま、演奏は終りを告げた。バーンスタインのしなやかな身体の躍動だけが目立っていた。しかも曲の第1部が激しいリズムの高揚で終った瞬間、バーンスタインが指揮棒を高く揚げた陶酔の表情のまま動きを停止していたにもかかわらず、オーケストラはさっさと楽器を下ろし、譜面をめくったり、チューニングを始めたりしていたのが、実に異様な光景であった。これはその頃のNYフィルの流儀だったのだろうか? 
 レコードで聴くバーンスタインとNYフィルの演奏のすばらしさや、アメリカでの彼らの評判の凄さを思えば、両者の関係が悪かったなどとは、とても考えられないのである。とすればあの日の演奏のつまらなさは、なにか他の理由によるものとしか思えない。

 彼らが日本のステージで聴衆を心底から震撼させたのは、その9年後、1970年の大阪万博来日公演で、マーラーの「第9交響曲」を演奏した時だった。最後の音が消えたあとも、バーンスタインもNYフィルも身動き一つせず、聴衆もまたじっと息をひそめて、東京文化会館大ホールは1分近くも深い静寂に包まれていた。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2007年3月号掲載「マエストロへのオマージュ~レナード・バーンスタイン」より転載

小澤征爾 ~N響事件も良き巡り合わせ~

 前号に書いたバーンスタインとニューヨーク・フィルハーモニックの初来日(1961年春)の際、副指揮者として加わっていた若き小澤征爾は、その直後にNHK交響楽団の指揮者(常任ではない)に指名された。

 その発表を聞いた時には、すでに熱烈な小澤ファンをもって自認していた私でさえ仰天したものである。あのドイツ音楽至上主義の、しかも巨匠指揮者礼賛主義で鳴るN響に、まだ弱冠27歳そこそこの、しかもスクーターで欧州武者修行をやってのけるような奔放な性格の若い指揮者が就任して、果たしてうまく行くというのか。目の利いた音楽ファンなら、だれもがそう感じたはずである。
 就任最初の夏、メシアン立ち会いのもとに彼が指揮した《トゥーランガリラ交響曲》日本初演は、それはたしかに凄いものだった。私はテレビで観たのみだったが、一つの楽章が終るたびに盛大な拍手が巻き起こるという客席のフィーバーぶり。それはわが国音楽界の一大イベントとなり、小澤征爾の評価はいやが上にも高まった。が、秋のシーズンのさなかに、早くもオーケストラとの間に亀裂が生じてしまう。行き着くところ、年末の楽員側のボイコットによる《第9》中止事件に発展したことは周知のとおりである。

 ちょうどその年の秋、学生だった私は、当時はまだ内幸町にあったNHKの音楽資料課でバイトをしていた。そこへ立ち寄って雑談を交わしていくNHKの洋楽関係者たちの口から漏れるのは、猛烈な小澤批判ばかり。中には個人的な問題まであげつらう人までいて、小澤ファンの私はすこぶる心を痛めたものであった。
 私は資料課の上司の許可を得て、隣接するNHKホールへ、小澤とN響の練習や本番を時たま聴きに行った。チャイコフスキーの《第4交響曲》など、演奏は整然と行なわれていたものの、ホールや楽屋の雰囲気には、傍目にもそれとわかるほど落ち着かないものがあった。この分では、もうすぐ両者は本当にケンカ別れするんじゃないのか。私のような素人さえ、そんな予感を抱いた。それが11月中旬頃だったと思う。

 年末、ガランとした東京文化会館大ホールの舞台で独り楽員の到着を虚しく待つ小澤の写真が各新聞に大きく掲載され、世論はいっぺんに彼の味方となる。越えて1月には日本フィル出演により、小澤を励ます演奏会が行なわれ、これも大きく報道された。
 この時、演奏会の司会者に高橋圭三アナ(少し前にNHKをケンカ状態で辞めたといわれる)を起用してNHKへの復讐戦にしたらいい、とか言った人もいたらしい。さすがにそんなばかな話は、主催者から一蹴されたようである。「音楽の友」誌上で評論家の故・宮澤縱一が「ふだん交響楽団に無縁な人たちが調子に乗って思いつきの発言をしているのは苦々しい限りである」と書いていたのは、そのへんとも関係があるのかもしれない。

 小澤は、再び北米に去った。かりにあのままN響との仕事に忙殺されていたら、たぶん今日の小澤はなかっただろう。今となってみれば、すべてが一つの巡りあわせだった。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2007年4月号掲載「マエストロへのオマージュ~小澤征爾」より転載

多田羅 迪夫 ~芝居気のある名バリトン~

 バリトンの多田羅迪夫(たたら・みちお)さんといえば、二期会のスターとして有名だ。
 ドイツの歌劇場で研鑽を積み、日本では「ヴォツェック」(ベルク)のタイトル・ロールや「フィガロの結婚」のアルマヴィーヴァ伯爵、最近では「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のハンス・ザックスや、「フィレンツェの悲劇」(ツェムリンスキー)のシモーネなどで名舞台を披露してきている。私は彼とは単に1、2回挨拶したにすぎない間柄だが、実にすばらしい笑顔の持ち主だというのが、会った時の強い印象である。

 その多田羅さんが、1984~87年に東京文化会館で、朝比奈隆氏の指揮するワーグナーの「ニーベルングの指環」の、悪役のアルベリヒとハーゲンを歌ったことがある。
 完全な演奏会形式の上演だから、メイクも全くない、素顔での出演である。「ジークフリート」第2幕では、指環の奪回を狙うアルベリヒと、その弟のミーメ(篠崎義昭氏)が激しく口論する場面があるが、そこでの2人の大きな身振りを交えた応酬はすこぶる迫力豊かなものであった。

 第2幕のあとの休憩時間に、われわれは上野の山の下の天婦羅屋へ食事をしに行ったが、ふと気がつくと、隣のテーブルに、出番を終ったアルベリヒとミーメが向かい合って座っているのである。本番ではないのだから、その時はもう「多田羅さんと篠崎さん」であるべきなのだが、何しろ先程の素顔の迫力が未だ目に焼きついているために、ここでも2人は「アルベリヒとミーメ」に見えてしまうのだ。
 そのアルベリヒが、高飛車かつ横柄に怒鳴りまくっていた先程のステージとは全く逆に、おそろしくへり下った態度でミーメに「天丼になさいますか?」と伺いを立てている。すると、さっきは惨めな格好でヘイコラしていたミーメが、今度はおそろしく無愛想な顔で「ウム」とうなづくのだった(篠崎さんは、多田羅さんの先輩なのである)。こうしてアルベリヒとミーメは、一緒に黙々と天丼を召し上がるのであった。

 「神々の黄昏」大詰で、ハーゲンは「指環に近づくな!」と大喝する。その場面で多田羅さんは、オーケストラ後方の歌手の定位置でなく、舞台下手袖に登場してその一声を歌った。そして、指揮者を指差したまま、しばらく動かなかった。それはまるで、高齢(当時79歳)の朝比奈氏に、こんな大がかりで面倒なオペラ(指環)など二度と指揮せぬ方がよろしかろうぞ、と警告しているようにも見えた。
 真の意図はともかくとしても、アルベリヒの時と同様、舞台ではなかなか芝居気のある人だな、と私は勝手に面白がったものだ。

 「フィレンツェの悲劇」のシモーネ役では、上半身裸になって大暴れするというカロリーネ・グルーバーの演出に従い、多田羅さんはボディ・ビルだかをやって筋肉を鍛えたという話である。舞台ではその成果(?)が見事に表れていた。芝居気のある人だ、と私はその時も感心した。今後も、性格的な役柄で永く活躍していただきたいものである。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2007年5月号掲載「マエストロへのオマージュ~多田羅 迪夫」より転載

ジョージ・セル ~練習もすべて本番同様~

 1970年、大阪万国博開催中のある日、大阪フェスティバルホールで、来日中の巨匠ジョージ・セルと、ヘルベルト・フォン・カラヤンが鉢合わせした。
 カラヤンがベルリン・フィルとリハーサルの最中、「今は入れません」と止める人を「構わん構わん」と振り切ってズカズカと入り込んだセル。カラヤンが「おお、マエストロ!」と手を差し伸べれば、セルは「やあ、ヘルベルト!」と応じ、二人は抱き合って再会を喜んだ・・・・。
 その時セルのアテンド役をつとめ、この場面を目撃したCBS・ソニー(当時)の大西泰輔氏を通じ、この話はあっという間に広まった。
 われわれスズメどもが特に面白がったのは、楽壇の帝王カラヤンをファースト・ネームで呼ぶ指揮者がいた、という一点だった。セルの方が11歳も年長なのだから別に不思議はないわけだが、なにかそれは、曰く言いがたい可笑しみを感じさせたのである。セルって偉いんだねェ、などと皆で笑い合ったものであった。

 巨匠セルは、それまで、日本ではあまり人気がなかった。それが一転したのは、CBS・ソニーが「セル=クリーヴランドが超一流であることは、今や世界の常識である」とかいうキャッチ・コピーを使って、猛烈なPRを展開してからである。
 そういう触れ込みは概してあてにならないものだが、この場合は驚異的だった。ナマで彼らの演奏を初めて聴いた私たちは、例外なく震撼させられた。オーケストラ美の極致ともいうべき完璧なバランスのアンサンブル、しかも冷たさなど微塵もないヒューマンな演奏の表情。

 大阪フェスティバルホールで間近に見たセルとクリーヴランド管弦楽団のリハーサルは、噂に聞くとおり、徹底的だった。「Ladies and gentlemen、オハーヨウ」と呼びかけ、冒頭から楽員たちを爆笑させたセルだったが、あとはひたすらシリアスなリハーサルが続く。特に驚かされたのは、ベートーヴェンの『英雄交響曲』の二つの和音を、いつ果てるともなく繰り返して練習させることだった。われわれが聴いていて、もうこれ以上の完璧な演奏はないと思えるほどだったのに、セルは満足せず、執拗に最初の2小節を繰り返させるのである。雑誌で読んだクリーヴランド管の楽員の「われわれの演奏は、リハーサルだろうと本番だろうと、同じである。たまたま最後の1回にはお客が入っているだけのことである」というコメントは、決して誇張でもなんでもなかったのだ。

 かくしてジョージ・セルは、その最初の来日で日本のファンを圧倒した。東京での最終の演奏会で彼は、惻々として心に迫る第2楽章を含む『英雄交響曲』を聴かせてくれた。あの演奏にあふれていた、一種の凄まじい魔性のようなものを、私は今でも忘れることができない。わずかその2ヵ月後に彼が世を去ることになるなどと、その夜東京文化会館に集っていた聴衆の、だれが予想したろうか。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2007年7月号掲載「マエストロへのオマージュ~ジョージ・セル」より転載

立川清登 ~かくも人気を集めたオペラ歌手はいなかった~

 立川澄人さんが「立川清登」という字に改名した時には、週刊誌にまで騒がれた。
 「タテノカワキヨノボリじゃあ、スマートさに欠けて、彼のイメージに合わんよねえ」というわけである。だがご本人の説明によれば、「澄人」という名は運が強すぎて肉親の運まで吸い取ることがあると言われたため改名した、ということだった。

 週刊誌がそれほど騒いだくらいだから、立川さんがいかに広く親しまれたオペラ歌手だったかも想像がつくだろう。TV、FM、中波ラジオでもレギュラー番組をもち、ミュージカルにもよく出ていた。交遊関係も並み外れて広範囲にわたる。

 当然、その人気はオペラに還元される。レハールの「メリー・ウィドウ」第1幕では、ダニロ伯爵が舞台奥から顔を隠したまま登場しただけで、女性の観客たちの間に「立川清登ね」という囁きが起こる。そして彼が「さあやって来たぞ! 祖国はどこだ?」と大見得を切り、オーケストラから「ダニロの登場歌」が沸き起これば、客席はワーッと盛大な拍手に包まれる、という具合である。
 これだけのキャラクターをもった歌手が、今の日本のオペラ界にいるだろうか? 
 だから、オペラの舞台で彼が「事件」を起こしても、客は大喜びした。「魔笛」のパパゲーノ役を演じ、「タミーノ!」と叫びながら舞台袖に駆け込んだ瞬間にバケツのひっくり返る大音響が聞こえれば、観客は爆笑して盛り上がった。

 私も放送局勤務時代には番組で立川さんと長い間お付き合いさせていただいたが、とにかく楽しく、面白い人だった。彼がそこにいるだけで、周囲のだれもが明るい気分になったものだ。ユーモアたっぷりで、いたずら好き。オペラのアンサンブル場面で、歌詞を覚えていない個所を「ホイのホイのホイ」と歌いながら体裁を整え、共演の歌手たちが必死に笑いをこらえる様子を見て面白がっていたというのも、有名な話である。

 しかしその一方で立川さんは、シリアスな役柄を演じ歌っても、見事な味を発揮していた。
 マーラーの悲痛な歌曲集「亡き子をしのぶ歌」で名唱を聴かせたこともある。オペラでも、オッフェンバックの「ホフマン物語」(71年)で演じたミラクル博士など悪役4役は結構不気味だったし、ロッシーニの「チェネレントラ」(68年)での失恋に打ち拉がれた従者ダンディーニの演技も感動的だった(因みにこれらのプログラムに掲載された「ブルックボンド紅茶」や「松坂屋」の広告のイメージ・キャラは、いずれも爽やかに微笑む立川さんだった)。
 特に「メリー・ウィドウ」の72年の上演での、当り役ダニロの「王子と王女の物語」は、立川さんの一世一代の名演ではなかったかと思う。悲しみと怒りの感情を抑え切れずに次第に激して行くその語り口の巧さには、まだオーケストラが鳴っているにもかかわらず客席から大きな拍手が起こったほどであった。

『ArtGaia CLUB MAGAZINE TC』2007年9月号掲載「マエストロへのオマージュ~立川清登」より転載

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