2024-12




2022・1・30(日)METライブビューイング第2日
テレンス・ブランチャード:「Fire Shut Up in My Bones」

      東劇  午前10時

 アメナリーフ、カロナール、ムコスタ、セレコックス、セルベックス、リリカなど、聞き慣れない名前の薬を信頼する皮膚科の先生からもらって呑み、どうやら少し痛みが薄らいだものの、せっかく今週半ばに予約が取れていた「コロナ・ワクチン第3回」の接種は先送りを指示されているとあっては、そもそも帯状疱疹に見舞われるほど体力が低下しているわが身を考えれば、些か自信を失うというもの。

 なにしろこの1週間、トッパンホールのシューベルトや、METライブビューイングの第1作「ボリス・ゴドゥノフ」、井上道義指揮読響のシベリウスとマーラー、藤原オペラの「トロヴァトーレ」など、楽しみにしていたコンサートやオペラや映画を、片っ端から痛恨の欠席連絡をせざるを得ない状況だったのだ。
 とはいえ、引っ込んでばかりもいられないので、今日は敢えて「METライブビューイング」の第2作を取材しに行くことにした。交通には自分のクルマを使うし、日曜の朝なら映画館も空いているだろうと目論んで、わざとこの早朝上映を選んだ次第。

 「Fire Shut Up in My Bones」という題名は旧約聖書から採ったものだそうだが、私はキリスト教徒ではないので、そのあたりは詳しくない。
 とにかくこれは、METの今シーズンの開幕日(昨年9月27日)を飾った新作で、10月23日までに8回上演されていた。このビューイング上映の映像はその最終日のものである。

 作曲は黒人のブランチャード、登場人物も全員黒人という舞台。人種問題がひときわ過熱しているアメリカで、大メトロポリタン・オペラが開幕日にこのようなオペラを取り上げたということは、大きな意味を持つと考えられるかもしれない。
 物語の内容は、幼年時代に従兄から受けた性的被害をトラウマに持つ青年チャールズ(ウィル・リバーマン)の精神的苦悩や、彼に温かい愛を注ぐ母親グレタ(エンジェル・ブルー)を核としたもので、特に黒人問題を云々しているわけではない。
 だが、観ていて何とも強烈なインパクトを与えられるドラマであったことは疑いなく、まさにアメリカでなければ創れぬようなオペラであったことも確かである。

 ジェイムズ・ロビンソンとカミール・A・ブラウン演出による舞台も豪壮かつ細密で、歌手やダンサーを含めた黒人特有の凄まじいエネルギーを噴出させるが、この舞台で一番凄いのはそれだろう。黒人たちのステップダンスの迫力たるや、「ウェストサイド・ストーリー」のダンス・シーンをさえ、顔色なからしめるかもしれない。
 登場人物の中では、チャールズの幼年時代を歌い演じたウォルター・ラッセル3世という少年が驚異的な巧さで、最後のカーテンコールでは観客から爆発的な歓声と拍手を浴び、嬉しさに涙ぐんでいた姿も印象的であった。

 音楽もなかなかいい。クラシック音楽(前衛的なものではない)とジャズと、時にはゴスペルまでが、実に自然に融合し、交錯している。ドラムとベースに乗せて歌が進んで行く個所など、見事なものであった。
 指揮しているヤニック・ネゼ=セガン(MET音楽監督)までがこの日はド派手なコスチュームで、自らもノリにノッていると語り、鮮やかな演奏を繰り広げていた。とにかく、大変なオペラが出現したものである。

 満員の観客たち(もちろん、METのことである)は全員(であろう)マスク着用。拍手、歓声、熱狂は凄まじい。METは強力であり不滅である、という印象をこれほど強く受けたことはなかった。
 上映時間は総計3時間半。2月3日まで上映。

2022・1・26(水)新国立劇場 ワーグナー:「さまよえるオランダ人」

       新国立劇場オペラパレス  7時

 2007年にプレミエされ、今回が4度目の上演になる、マティアス・フォン・シュテークマン演出のプロダクション。
 どんな特徴で、どんな印象を得たかは、上演の都度書いた(☞2007年3月7日、☞2012年3月14日、☞2015年1月21日)ので、ここではもう繰り返さないし、繰り返す気も起らない。私はこの演出、多くの部分で共感できないし、おまけに今回の上演では更に演技が緩くなり、舞台の緊迫度をいっそう薄めてしまっていたと感じられたからだ。

 したがって今回の上演への興味は、ただその演奏者にあった。
 指揮がジェームズ・コンロンに代わるガエタノ・デスピノーザ。歌手陣も外国勢の来日不可に応じて、すべて邦人勢で固められることになり、河野鉄平(オランダ人)、田崎尚美(ゼンタ)、妻屋秀和(ダーラント)、山下牧子(マリー)、城宏憲(エリック)、鈴木准(舵手)という顔ぶれとなった。それに新国立劇場合唱団(合唱指揮・三澤洋史)と東京交響楽団。

 デスピノーザの指揮は、ワーグナーものとしてはやや素っ気ないものだが、そういう演奏は近年の世界的な傾向だろう。ただ彼の良さは、音楽を煽って盛り上げる呼吸の巧いところにある。その特徴は、第3幕で存分に発揮されていた。

 歌手陣で気を吐いたのは、第一にゼンタの田崎尚美だ。力のある声で「ゼンタのバラード」や最終幕切れでの大見得などを聞かせ、オペラのカタストローフを鮮やかに決めた。
 オランダ人役の河野鉄平は、この役にしては少し若々しい感だったが、絶望的な境地にいる男の苦悩を精一杯歌い演じていた、と言えようか。

 ベテランの妻屋秀和と山下牧子はいつもながらの安定感であり、城宏憲もまっすぐな男としてのエリックを表現していた。ただ、鈴木准は、声の性質から、ワーグナーものにはあまり向いていないんじゃないかな、という気がするのだが如何。

 新国立劇場合唱団は、第3幕では人数も増えたせいか、実力を発揮。これに対し東京交響楽団は、この劇場での「オランダ人」上演では毎回ピットに入っているのに、今回もこれまでと同様、音の響きが薄く、ホルンが肝心な個所で一度ならず音を外す、というケースが多い。このオケは、定期などステージ上での演奏は素晴らしいのに、ピットに入ると、どうしてこういう痩せた音になってしまうのだろう。

 第1幕のあとにのみ20分の休憩が入り、あとの二つの幕は切れ目なしの版で上演された。終演はほぼ10時近く。
 ‥‥実は先週末から帯状疱疹に襲われ、激痛甚だしい。発症3日以内に治療を開始すれば事なきを得るそうだ(これは経験済みだ)が、今回は残念ながら、その「締切」に遅れたため、斯くの如し。この分では、しばらくコンサート通いを諦めなくてはならないかも?

2022・1・24(月)小泉和裕指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団

       サントリーホール  7時

 珍しくソーシャル・ディスタンス方式(市松模様)の席割が採られていたが、これはいつ頃決めたのかしらん? オミクロン株新型コロナ感染者激増中という現在の時期を先読みしたかのような。

 それはともかく、今日の「東京特別公演」は、2016年4月より音楽監督を務めている小泉和裕の指揮で、モーツァルトの「交響曲第31番《パリ》」、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストは小林海都)、チャイコフスキーの「交響曲第1番《冬の日の幻想》」というプログラムで行われた。コンサートマスターは日比啓一。

 ホール内、ホワイエも客席も、何となくガランとして冷え切っているような雰囲気が寂しかったが、「パリ交響曲」の第1楽章が、一気に熱気を呼び覚ますような勢いに満ちて始まったのには安堵した。このような大編成のオーケストラによる「シンフォニックなモーツァルト」は、50年に及ぶキャリアの小泉和裕のお家芸だ。

 一方、ラフマニノフの「狂詩曲」では、昨年9月のリーズ国際コンクールで2位に入賞した小林海都がソロを弾き、数年前に聴いた時とは段違いの生気あふれる演奏を聴かせた。ちょっと細身の音だが、この曲から繊細な表情を引き出すという特色はあったろう。

 「冬の日の幻想」は、大いに期待していたのだが、━━何か小泉には珍しい、入れ込み過ぎのようなものがあったのではなかろうか? 両端楽章のゆっくりした序奏部分では妙にそれが誇張され、音楽がなかなか前に進んで行かないような印象を生んでしまっていたのが不思議だった。
 とはいえ、その両端楽章のアレグロの部分では、チャイコフスキー特有のダイナミックな「押しの強さ」がよく再現されていたように思う。

2022・1・23(日)沼尻竜典作曲・台本・指揮 歌劇「竹取物語」

       びわ湖ホール  2時

 前回このホールで観た時は舞台上演だったが、今回はセミ・ステージ形式上演。━━因みにこのオペラは、2014年1月18日に横浜で演奏会形式初演され、2015年2月6日にハノイで舞台初演されている。

 今回の上演は2回。かぐや姫のみダブルキャストで、今日は砂川涼子。
 以下はシングルキャストで、迎肇聡(翁)、森季子(媼)、松森治(帝)、谷口耕平(石作皇子)、市川敏雅(庫持皇子)、平欣史(阿倍御主人)、晴雅彦(大伴御行)、美代開太(石上麻呂足)、有本康人(大将)、八木寿子(月よりの使者)その他の人たち、びわ湖ホール声楽アンサンブル。オーケストラは日本センチュリー交響楽団。

 音楽を含む内容については前回(2015年8月9日)の項に書いたが、今回の舞台(演出補・中村敬一)ではむしろ、コミック調の前半(第3景まで)と、シリアス調の後半(第4,5景)とが対照を為す作品本来の構成が、いっそう明確になったという印象を得た。後半のかぐや姫の別れのシーンでは涙を流す人もいた、という話も、むべなるかな、と思う。

 歌手陣も、いい。大伴御行役の晴雅彦は、前回と同様に今回も客席を抱腹絶倒させ、その場面を攫っていたし、その他の「求婚者の公達たち」もコミカルに役割を果たしていた。竹取の翁と嫗も、さらに「農村っぽく」なった。
 砂川涼子のかぐや姫は、私には何となく舞台に沢口靖子がいるような錯覚を起こさせてしまったが、珍しく高音域にちょっと無理があったものの、可愛らしさで受けていた。帝役の松森治も力があり、最初のセリフの語尾の所で昔の皇族の口調を真似たところなど、巧かった。総じて、すこぶる楽しいオペラに感じられた。

 物語の最後には、背景に不死の山、すなわち富士山が出る。やはり美しい姿だ。くれぐれも噴火などしないでいてくれるよう祈りたい。
 それにしても、このような富士山、竹の林、神秘的な月━━いずれもわれわれ日本人が昔から愛してやまなかったものだ。こういう美しい日本を素材にした日本のオペラが、もっと多く産まれてもいいはずなのに。それも、この沼尻作品のように、日本の家庭に溶け込んでいるタイプの音楽を使って作られたとしても、何処に不都合なことがあろう?

2022・1・22(土)広上淳一指揮群馬交響楽団

       高崎芸術劇場大劇場  4時

 このホールの2階席正面に初めて座る。この位置からは、1階席で聴いた時のような各パートの明晰な分離はあまり聴かれず、オーケストラ全体がひとつのマッスのような形になって聞こえる。
 しかし、そのマッスの強大さは物凄く、群響がこんなに猛烈な重量感を出すのかと、改めて驚いたり、感心したり。それには、広上淳一がオーケストラから引き出す音楽自体の力と、空間性豊かなこの新ホールの音響も作用しているだろう。もちろん、席の位置も関係しているかもしれない。

 広上のブルックナーはこれまで「6番」を聴いたのみ(2021年6月12日)だが、今後は次第に重要なレパートリーとして行くようである。
 今日の「8番」を聴く限りでは、基本的にはストレートなアプローチで、音楽自体のエネルギー性を重視した重厚壮大指向のブルックナーという印象だ。

 だが、例えば第3楽章の、ふつうの演奏なら平静を取り戻して沈潜に向かう過程を示すような個所を、異常なほどの強いアクセントを伴っての、怒りにも似た激しさで演奏するという瞬間もあって、これには少々驚かされた。
 終演後に楽屋でマエストロにそのわけを尋ねたが、「あれは実は個人的なもろもろの感情をこめたわけで」という返事が戻って来た。

 そういうことを含めて今日の演奏をもう一度振り返ってみると、広上のブルックナーは、重厚壮大とはいえ、音の高貴さや神聖さや威容といったものを追求する姿勢とは違い、演奏全体が何か強烈な激情のようなものでつらぬかれているようにも思われる。
 ただし、それに伴い、指揮中の彼の癖である吐息だか溜息だかもいよいよ激しくなるという具合で、━━広上淳一のファンを以って自認する私でさえも、正直言ってこの音にはひどく辟易させられるのだ。今日はそれが一段と騒々しかった。

 群響(コンサートマスターは伊藤文乃)の演奏は、掛け値なしに充実そのものといえよう。音楽の情感、量感、技術、集中性、すべてに満足が行く出来であった。
 ひとつだけ注文をつければだが、トランペットがもう少し強力に吹いてくれないかな、と。━━というのは、例えば第4楽章の大詰め、主題群が同時に鳴り響いて大団円を告げるべき個所で、トランペットが明確に浮き出ないと、主題の一つが欠けてしまうことになるからである(残念なことに、日本のオーケストラはここでよくそういう状態に陥ってしまう)。故・朝比奈隆氏が口惜しがっておられた例の一つである。

 5時30分過ぎ終演。それほど遅いテンポでもなかったのに、意外に演奏時間が延びていた。高崎駅6時39分発の「とき」と、東京駅7時51分発の「のぞみ」とを乗り継いで京都へ向かう。揺れない上越・北陸・東北新幹線から東海道新幹線に乗り換えると、途端に細かいガタガタという細かい振動が激しく感じられて来る。大津駅前の「ホテルテトラ大津・京都」に投宿。雪はないが、おそろしく冷える。

2022・1・21(金)小菅優ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 前半にフランクの「プレリュード、コラールとフーガ」、武満徹の「雨の樹 素描」、ドビュッシーの「野を渡る風」「西風の見たもの」「沈める寺」「霧」「花火」。後半にベートーヴェンの「悲愴ソナタ」と、シューベルトの「さすらい人幻想曲」。

 今日は何故か客を1階席のみに集めて、上階席はすべてクローズしての公演。小菅優の演奏会なら、もっと大勢聴きに来るかと思っていたのだが━━。今日は、ネットでの同時ライン配信も行なわれていたはずである。

 一昨日のそれと違って、今日はピアノも朗々と鳴って、演奏も伸びやかで、快い。作品ごとにアプローチはさまざまに変えられてはいるものの、演奏にはやはりある種の詩情といったものが一貫して流れているだろう。

 「悲愴ソナタ」では、彼女自身が配布プログラムの解説に、第1楽章の個所で「激しい感情の嵐を想像させるアレグロの主部・・・・グラーヴェのテーマが最後に繰り返されると、その嘆きは耐え切れない痛みのように・・・・」と書いているのが興味深い。
 とはいえ実際の演奏では、序奏を含め、グラーヴェのテンポが極度に遅く採られていて、その中の長い休止符の個所での緊迫度が少々希薄に感じられた点が気になった。つまり、楽曲構築上の━━アレグロとグラーヴェとのバランス感にも些か疑問を残したわけで、言い換えればそのグラーヴェのテンポが誇張されていたのではないか、という印象を与えたのも事実なのである。

 素晴らしかったのは武満とドビュッシー。この両者を並べたというプログラム構成からして見事だったし、すべてがまさに玲瓏たる響きで、詩的な雰囲気を溢れさせていたのだった。
 そして更に見事だったのは「さすらい人幻想曲」での演奏である。情感の昂揚と楽曲の構成がぴたりと合って、この曲の良さを余すところなく再現してくれていただろう。曲の終結について彼女自身が解説の中で「これは虚偽の明るさでしょうか?・・・・苦境の山を全力で乗り越えようとするかのような葛藤が最後まで続きます」と記しているのが興味深く、昂揚が野放図のものにならずに適正な均整を保っていたのは、彼女のそうした解釈が演奏に反映していたからかもしれない。

2022・1・20(木)下野竜也指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 当初はローター・ツァグロゼクだった客演指揮者が、下野竜也に変更。プログラムは予定通り、メシアンの「われら死者の復活を待ち望む」と、ブルックナーの「交響曲第5番」。コンサートマスターは林悠介。

 下野竜也の「ブル5」、といえば、彼が読響の正指揮者時代の最後の定期で指揮した曲でもある(2013年2月20日)。
 今日のこの演奏が、9年前の記憶と比べてどの個所がどうの、とまでは言えないけれども、その演奏に備わっている恣意的な歪みの全くない厳密な構築、生真面目な剛直さ、ひとたびクライマックスに向かう時には全身全霊を籠めて突き進む推進力の強靭さ、といった特徴は以前と変わらない。彼の音楽にはあの頃からそういうものがあったのだ、ということを改めて思い出す。

 速めのテンポが採られた第4楽章の、特に後半などではその特徴が如実に発揮されていただろう。また、9年前の演奏ではやや希薄に感じられた瑞々しさといったものも、今日の第2楽章での豊麗な弦の主題を聴けば、もはや充分に解決されていたのではなかろうか。
 そして、「重量感あふれるブルックナー」にも久しぶりで出会った感だ。だがその功績はもちろん、読響に帰せられるだろう。

 今回の演奏に、小奇麗に彫琢された響きではなく、むしろ野性的な激烈さといった特徴が感じられたのは、もしや下野がかつて故・朝比奈隆氏のもとで研鑽を積んでいたことの名残なのかな、などと、ふと思ってしまった。
 彼が未だデビュー間もないころ、名古屋フィルを指揮してこの曲を演奏した時に、「朝比奈先生の凄さが今更のように分かります」としみじみ語っていた言葉が、今でも私の記憶に焼き付いているのだが、━━それはもちろん、下野のブルックナーが朝比奈氏の流れを汲むものだなどという意味では全くない。

 前半にはメシアン。ブルックナーとメシアンという組み合わせも、これはこれで面白い。そのメシアンの作品が、ブルックナーの「5番」の第4楽章のある個所に出て来る一種の教会的な旋律音型と、遠いエコーのように通じ合っているような気もした。管楽器と打楽器だけで演奏される5曲からなるこの長大なフランスの作品も、下野の手にかかると、かなりいかつい容貌を為して立ち現れて来る。

 こういう音楽、こういう演奏を聴き終わった後で、ホールの外に出て、感動した音楽ファンの方と話をしたりしていると、新型コロナが何だ、という気持になってしまうから不思議だ。

2022・1・19(水)藤田真央ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 人気絶頂の藤田真央が弾く。ホールは文字通り満席である。
 ショパンの「ノクターンOp.48(2曲)」と「バラード第3番」、リストの「バラード第2番」、ブラームスの「主題と変奏Op.18b」(弦楽六重奏曲第1番第2楽章の編曲)、クララ・シューマンの「3つのロマンスOp.21」、ロベルト・シューマンの「ソナタ第2番」という巧みな選曲。アンコールにはラフマニノフの「幻想的小品集Op.3」やモシュコフスキーの「エチュード第11番」といった曲なども弾かれたはず(終りまで席にいたわけではないので‥‥)。

 例の如く、素晴らしく美しい音だ。フォルテの個所でも、その音が柔らかい豊麗さを失わずに、あたたかく響く。しかもそれが、沈潜したエスプレッシーヴォと、伸縮自在のテンポを保ったまま、全く弛緩を感じさせずに続いて行くのである。
 前半のショパンとリストを聴き終ってロビーで出会った同業者のT氏が「何か夢の中にいるよう」と評した。巧い表現だ。

 その弱音を基盤とした演奏の表情も見事と言っていいほどだが、ただ私のような好みの聴き手からすると、未だ20歳代も前半の若者でありながら、それがどうして今からこんな沈潜志向の演奏をするのかしら、と思わないでもない━━。

2022・1・12(水)青木涼子の「現代音楽×能 vol.9」

       サントリーホール ブルーローズ  7時

 能声楽家として活躍中の青木涼子が新作を委嘱して世界初演するこのシリーズは、2010年から続けられており、既に世界各国39名の作曲家たちから新作を受けている由。
 彼女のステージには、以前にも「くちづけ」(2019年3月9日)や、アンサンブル・コンテンポランと共演した「二人静」(2021年8月22日)で接し、感銘を受けたことがあるので、今回はそのシリーズを初めて聴きに行ってみる。

 今日は、シルヴィア・ボルゼッリの「旅人」、稲森安太己の「舞うもの尽くし二首」、ミケル・ウルキーザの「小さなツバメ」の3曲が、いずれも青木涼子の謡と上村文乃のチェロとの協演で演奏された。2曲目のみに、青木涼子の舞が入る。

 なお演奏の他に、青木涼子自身による解説と、沼野雄司・桐朋学園大教授の解説、3人の作曲者による解説(外国人2人はラインで出演)、終演後には全員が出席しての質疑応答━━など盛り沢山。司会を飯田有抄、通訳を井上裕佳子が受け持っていた。

 「現代音楽×能」というコンセプトは、20世紀以降の洋楽と、日本の古典芸能の音楽との組み合わせ、ということを意味するだろうが、洋楽にとっては「新しく加わった」能の音楽がすでに現代音楽の一部になり得る要素とも考えられるだろうし、この辺が興味深いところだろう。
 今日の3作の中で、2人の外国人作曲家が能の音楽を「現代音楽」の中に取り込んでいたのに対し、日本人作曲家はその両者の区別を明確にした上で合体させるという形を(これらはあくまで大雑把に言えばの話だ)採っていたのが面白い。

 ただ、青木にとっては「チェロ」はいわばゲストの立場にあるはずだろうが、今日の3曲ではそのゲストの方に花を持たせ過ぎていたような━━という印象もなくはない。

2022・1・11(火)ガエタノ・デスピノーサ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 指揮者がマリー・ジャコからガエタノ・デスピノーサに、ハープ奏者がグザヴィエ・ドゥ・メストレから吉野直子に代わった。プログラムも一部変更され、J・シュトラウスⅡの「こうもり」序曲、ボワエルデューの「ハープ協奏曲ハ長調」、ラヴェルの「クープランの墓」および「ボレロ」が演奏された。

 デスピノーサは、二期会の「蝶々夫人」(2017年10月9日)での切れのいい指揮が今も記憶に残っている。今日のコンサートでの指揮では、デュナミークとテンポ、楽器のバランスなど、演奏設計の綿密さが際立って印象づけられたが、読響(コンサートマスター・小森谷巧)も、よくこれに応じていたと思う。

 「こうもり」序曲では、ウィーンの指揮者ばりにテンポを目まぐるしく伸縮させ、一方「クープランの墓」では、各楽器のパートのバランスと音色に神経を行き届かせたデスピノーサ。
 ただし、そのいずれもが、彼自身の音楽のエネルギーの旺盛ゆえか、演奏はダイナミックで、少々荒っぽい。生憎ながら前者は洒落っ気に乏しく、後者もあのカンブルランが読響常任指揮者就任前年に横浜で指揮した豊麗優美な演奏(2009年4月19日)に比べるとやはり威勢がよすぎるようだったが、まあ、これらは致し方ない。しかし、「クープランの墓」の一部分で突然聴かせた大がかりなクレッシェンドの見事さは印象に残る。

 「ボレロ」では、良くも悪くもそうした特徴が全て出ていたようだ。開始後しばらくは小太鼓の音量も控えめに、全体を柔らかく歌わせていたのが意外な感を与えたが、やがてメリハリも強く、主題ごとに段階的にクレッシェンドを進めて行く演奏となって行った。自然に流れるように音量とスケール感が増して行く「ボレロ」ではない。むしろギタギタと大きくなって行く「ボレロ」とでも言おうか。
 面白いことは事実だったが、あまり快い流れの「ボレロ」でもないという感。終了直前のクライマックスの中で突然、それも部分的にテンポを加速させるというのも、共感し難い。

 ボワエルデューの「ハープ協奏曲」をナマで聴いたのは何十年ぶりか。昔はこの曲、ニカノール・サバレタのレコードなどで愛聴したものだった。
 今日の吉野直子のソロは端整で、デスピノーサも整然とおとなしくそれをサポート。もう少し華やかな演奏であってもいいように思われるが━━ソロ・アンコールのグリンカの「ノクターン」も含め、今日の彼女は些か抑制気味の演奏だったような?

2022・1・10(月)オーケストラコンサートin浮世絵劇場

           ~インターネット配信、アーカイヴ視聴~

 これは美しい。傑作だ。30分間、うっとりして見入ってしまった。

 角川文化振興財団が東京交響楽団およびドワンゴと協業し、角川武蔵野ミュージアムにおける「浮世絵劇場from Paris」を東京交響楽団とコラボさせた「オーケストラコンサートin浮世絵劇場」を1月6日(木)午後2時と6時に開催、そのうち6時からの公演を生中継でインターネット配信した。
 私も東響事務局から事前にリリースを受けてはいたのだが、うっかりして見逃した(あの雪の日である)。が、幸いにもマエストロ原田からアーカイヴ配信の知らせを受けたので、今日になって視聴した次第である。

 演奏は、原田慶太楼指揮東京交響楽団に、LEO(琴)と藤原道山(尺八)という顔ぶれ。
 音楽面は原田が取り仕切った由で、宮城道雄の「春の海」、ドビュッシーの「海」と「月の光」、サティの「ジムノペディ第1番」、吉松隆の「すばるの七ツ」や「アトムハーツクラブ」などの編曲や抜粋、琴や尺八の即興も織り込まれる。

 これは、単に浮世絵を展示した会場で演奏を行うだけといったような、平凡なプログラムではない。浮世絵をモティーフに制作した360度展開のプロジェクション・マッピングが演奏者たちを取り囲み、華麗で幻想的な映像がゆっくりと舞う、という形を採ったものなのである。

 映像は、パリを拠点とする集団「ダニー・ローズ・スタジオ」による制作の由(From Parisという所以だ)。技術的にも優れ、すこぶる美しい。映像素材には、葛飾北斎などの浮世絵を中心に、森、日本家屋の屋内の光景、扇、なども含まれていて、それらが音楽に合わせ、ゆっくりと舞い、移動する。ドビュッシーの「海」のさなかに北斎の「神奈川沖浪裏」が波打ちながら動いて行くというユーモアも微笑ましい。全編にわたり、「日本の美しさ」が存分に描き出されていた。

 ニコニコ生放送の画面には、興奮気味のコメントが入り乱れていたが、そのコメントの文章までデザイン化してしまうという凝りようがいい。原田自身が指揮の合間にパソコンだかタブレットだかを持って「映像観客」とチャットしたりするのも、いかにも若い世代の指揮者らしくて面白い。

 なお、角川武蔵野ミュージアムにおけるこの催事は、4月10日まで開催中とのこと。

2022・1・10(月)東京音楽コンクール優勝者&最高位入賞者コンサート

      東京文化会館大ホール  3時

 昨年の「第19回東京音楽コンクール」(主催・東京文化会館、読売新聞社、花王、東京都他)で、木管部門最高位(2位)に入賞したクラリネットの亀居優斗、声楽部門第第1位となったソプラノの梶田真未、弦楽部門で第1位となったヴァイオリンの福田麻子が出演。下野竜也指揮読売日本交響楽団がサポート。司会は朝岡聡。

 このようなコンクール関連のコンサートは、若者たちの真剣に演奏する模様が大方の人々の共感を呼ぶらしく、東京にせよ浜松にせよ、例年、集客力が凄い。今日もホールはほぼ満席に近い状態だった。

 朝岡聡の程よく軽快で自由な司会で進められた今日の演奏会、最初に亀居優斗がフィンジの「クラリネット協奏曲 作品31」を鮮やかに吹き上げ、大拍手を浴びる。
 続く梶田真末は、「トスカ」(プッチーニ)からの「歌に生き、愛に生き」と、「ルサルカ」(ドヴォルジャーク)からの「月に寄せる歌(白銀の月)」、および「タンホイザー」(ワーグナー)の「歌の殿堂」を歌ったが、成熟したまろやかな、あたたかい声で、3曲の中では「ルサルカ」が絶品だった。

 福田麻子は、コンクール本番ではどういう演奏をしたのかは承知していないが、このメンデルスゾーンを聴いた範囲では、音楽全体が些か単調だ。ソリストとしては、もっとエスプレッシーヴォの多彩な変化が欲しいところだ。
 例えばアンダンテ(第2楽章)では、曲想の変化に応じて音色や表情にも移り変わりがあっていいはずだし、そのあとアレグレットに━━ましてアレグロに入ったなら尚更、単にテンポの変化だけでなく、世界がパッと明るくなったような表情の変化が演奏に漲っているべきだろう。

2022・1・8(土)東京芸術劇場コンサートオペラvol.8
プーランク:「人間の声」&ドーデ/ビゼー:「アルルの女」

    東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 第1部に、観客の前には姿を見せぬ男のために自滅する女の物語、第2部に、観客の前には姿を見せぬ女のために自滅する男の物語。━━実に巧い組み合わせのプログラムだ。
 いずれも演奏会形式による上演で、ステージ上に並んだザ・オペラ・バンドを佐藤正浩が指揮している。

 プーランクのオペラ「人間の声」では、ソプラノの「女」をソプラノの森谷真理が歌った。
 指揮者の下手側前方にソファや欧風(?)の電話機が置かれていたが、これは小道具というよりは単なる装飾的な役割に過ぎず、彼女も譜面を見ながら立って歌うだけで、特に演技らしい演技はしない。

 好調の森谷真理のことだから歌唱ももっと劇的な表現のものになるかと予想していたのだが、意外に「歌」としての性格を押し出したような、まろやかな表現のスタイルになっており、フランス語の歌詞も、なだらかな発音で流れて行くような印象を与えていた。
 そのためもあってか、このオペラの最大のテーマである電話の相手の「男」との話の中で生か死を選ぶまでに追い込まれて行く「女」の切羽詰った感情は、あまりリアルには伝わって来なかったきらいもある。

 この曲は日本人歌手たちも少なからず手がけており、私も近年では、たとえば松本美和子(☞2009年10月12日)や、佐藤美枝子(☞2016年11月16日)、石橋栄実(☞2019年4月27日)らが歌い演じた「女」を聴いたことがある。
 それらに共通する特徴は、フランス人歌手が歌い演じるような激情的な、ヒステリックな狂乱の表現ではなく、どちらかといえば落ち着いた、悲しみをぐっと抑えつけるようなスタイルだったと言えるだろう。その辺がいかにも日本人女性の表現らしいところで、これはこれでこの主人公のひとつの解釈として成立するだろう。
 今回の森谷真理の「女」にも、そういった感情表現の幅がもっとリアルに籠められていたなら、と思う所以である。ただ今回は、その分、オーケストラの雄弁さが目立って伝わって来たところも多かったわけだが。

 第2部での「アルルの女」は、面白かった。こちらには、松重豊(語り、バルタザール他)、藤井咲有里(フレデリの母、ヴィヴェット)、木山簾彬(フレデリ)、的場祐太(その弟)が出演、セリフと演奏とで物語(約80分)を紡いで行く。コーラスには武蔵野音楽大学合唱団(合唱指揮・横山修司)が出演した。全体の構成は佐藤正浩(と、プログラム冊子上では推測される)。

 成功の最大の要因は、出演者たちの「声優的」な巧さにあるだろう。特に松重豊の重厚で滋味あふれる声と、藤井咲有里の明晰で歯切れのいい発音と、そしてその2人による複数の役柄の演じ分けの巧さが、人物たちの交錯の模様を、極めて明快に描き出してくれた。
 木山簾彬のフレデリも内向的な性格表現で筋が通っており、的場の「弟」役は、後半で正気に戻ってもまだ白痴の口調に近いという演出には少々疑問も残ったものの、発声の明快さには好感が持てる。
 なお、藤井、木山、的場は東京芸術劇場の野田秀樹(同劇場芸術監督)演出の舞台にも登場している俳優たちだ。このあたり、音楽と演劇の両分野を手がける同劇場の強みといったところかもしれない。

 こうした声の芝居の中で、ビゼーのこの「アルルの女」の音楽を聴くと、これまでの印象と違い、賑やかな曲想の作品さえもが、何か悲劇的なイメージで感じられるようになる。それはもちろん、演奏の良さがあってのことだろう。
 終演は4時45分。良いプロダクションであった。

 ホールはほぼ満席で、バーコーナーも再開されている。東京都が製作したとかいう爽やかでシンプルなデザインの「風呂敷」が、日本文化を広める「世界最古のエコ・バッグ」(そう言われればそうだ)と称してロビーに景品として並べられていたのも微笑ましかったが、気がつかずに通り過ぎてしまう人たちも多かったのでは?

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