2024-12




2021・5・29(土)鈴木優人指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  2時

 当初はインキネンがドヴォルジャークやバルトークの作品を指揮する予定だったのが大幅に変更になり、鈴木優人が指揮して、ステンハンマルの序曲「エクセルシオール」とシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」および「交響曲第6番」を演奏する、というプログラムになった。
 協奏曲でのソリストは辻彩奈。コンサートマスターは木野雅之。

 コロナ禍のため多くの海外アーティストの来日が不可能となった代わりに、このような若手の日本人指揮者の活躍の場が増えるというケースが生じたことは昨年来の日本のオーケストラ界の特徴だが、それはそれで、むしろ僥倖と言えるだろう。
 もちろん、諸国の演奏家が登場しなければ日本の音楽界は島国的で単調なものに陥ってしまうが、こうした機会をつかんで日本の若手演奏家たちが頭角を現し、世界に伍すきっかけを掴んでくれるなら、それは何よりも日本の音楽界にとって災い転じて福と成す、ということにもなるのだ。

 そこで、今日の鈴木優人が指揮する北欧の作品群。
 彼が北欧ものが好きで、しかもシベリウスが好きだという話は、今回の彼のプレトークで初めて知った。私も彼のシベリウスを初めて聴いたが、いかにも彼らしく気負った音楽づくりだったのが面白い。

 特に「6番」には、ちょっと驚かされた。非常に速いテンポで、演奏を煽りに煽り、シベリウスの音楽の中に在る強靭な推進性や、一種の激烈な凶暴性を浮き彫りにするかのよう。
 確かに「5番」や「6番」には、澄み切った静謐な、白夜的な美しさ(それらは私も短期間ながら北欧に滞在した際に身体で感じたものだ)の他にも、このような激しい感情が秘められているのは事実である。それを強引なほどに、前面に押し出したのが今日の鈴木優人の解釈、というように感じられた。

 私の好きなこの「第6交響曲」のイメージとは全く違うけれども、所謂既存のイメージに囚われず、思い切り自らの感性をぶつける姿勢は、それはそれで若手らしくていいだろう。
 ・・・・などと書くと、何だか上から目線の、物わかりのいいヤツぶっているように見られそうだが、要するに音楽はもっと自由に聴いていい、という気持が、私も最近ますます強くなって来ているのである。様式的にみてどうだとか、ベートーヴェンやシベリウスはこのように演奏されるべきだ、などという規則のようなものにこだわっていては、クラシック音楽はますます飽きられてしまうだろう。

2021・5・28(金)フセイノフ:オペラ「光太夫」(演奏会形式上演)

      サントリーホール小ホール ブルーローズ  7時

 「光太夫」とは言うまでもなく、三重県鈴鹿の船頭だった大黒屋光太夫(1751~1828)のこと。嵐に遭遇してアリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着き、ロシア人の温かい協力を得て、イルクーツクを経てペテルブルクに赴きエカテリーナ2世に謁見し、帰国の許可を得たという、あの光太夫である。

 その彼が難破し、仲間の船乗りたちの多くを失いつつも苦難を克服してついに帰国を果たすまでを、イルクーツクでのソフィアとの愛のエピソードを織り交ぜつつ描いたのが、90分ほどの長さのこのオペラだ。
 ストーリーは、エカテリーナ女帝らの好意を受けつつも、帰国すると幕府の禁制に背いたことで罰せられ、軟禁生活を送るのやむなきに至り、日本とロシアの友好に役立てなかった悲しみを歌う、という結末になる(ただし歴史上の光太夫は、実際には江戸に邸を与えられ、ロシアでの体験を幕府に献言して些か力があった、と伝えられる)。

 作曲はファルハング・フセイノフ(1948~2010)。アゼルバイジャン出身で、ヒュセイノフとかグセイノフとかいろいろな表記があるようだが、今回は「フセイノフ」が使用されている。
 ロシア語の歌詞によるオペラだが、もともとの台本は青木英子による日本語のもので、それを山下健二と清水史子がロシア語に翻訳したとのこと(プログラム冊子に拠る)。

 初演は1993年9月、朝比奈千足指揮の東京シティ・フィル、勝部太の大黒屋光太夫、ワレンチナ・ツィディーポワ(マリインスキー劇場から派遣)のソフィアおよびエカテリーナ2世などの配役で、演奏会形式で行われていた。また2018年にはモスクワで、室内歌劇場規模の上演ながら衣装と演技付きで上演されている。私は両方とも観ていないが、これらはインターネット(http://opera-kodayu.com/jpn/movie15.html)で視ることができる。特にモスクワ初演の記録映像はなかなか興味深い。

 フル編成のオケ版で聴くと、管弦楽パートはまるでグラズノフあたりのそれを思わせるような色彩感に溢れて面白い。その点、今回はピアノ1台(および三味線)による演奏だったから、そういう醍醐味には触れられなかった。それでも、このオペラの音楽の親しみやすい歌謡的な特質に触れるには充分だったかもしれない。

 今回の演奏は、加耒徹(光太夫)、岸本力(光太夫に理解を示す博物学者ラックスマン)、内田智子(光太夫の恋人ソフィア)、小野綾香(エカテリーナ2世)、ほか合唱(船乗り・女官たち)、長田雅人(指揮)、松本康子(ピアノ)、中田誠(三味線)、大山大輔(語り手)。
 日本語字幕付きロシア語歌詞上演だったが、みんな難しいロシア語歌詞をよくマスターしたものだと感心する。どうせその発音には、あれこれ難癖をつける人もいるだろうが、気にする必要はない。また、日本語によるナレーション(構成は太田麻衣子)を挿入してストーリーを解り易くしたのは、成功だったと思われる。

 小さなホールでの上演だから、海岸の波が映写される背景のスクリーン以外には舞台装置はなく、登場人物も一部を除いてはほぼ平服で登場するスタイルだったものの、滅多に聴けない類の作品ゆえに貴重な機会だったことは確かである。
 それにしても、このような一般に知られないオペラなのに、小ホールながら客席がいっぱいになるというのは、大したことだ。

2021・5・27(木)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  6時30分

 「特別演奏会」として行われた今日の公演、音楽監督ノットと児玉麻里(pf)は予定通り登場したが、プログラムは当初予定のリゲティの「ラミフィケーション」、ベルクの「室内協奏曲」、ブルックナーの「第6交響曲」━━から大幅に変更となり、ベルクの同曲とマーラーの「巨人」というものになった。
 ベルクでのもう一人のソリストはグレブ・ニキティン、「巨人」でのコンサートマスターは水谷晃。

 ベルクの協奏曲は、ソロ楽器2つと13管楽器のための長大な(40分ほど)曲で、かなり手の混んだ作品だが、私はどうも昔からこの曲が苦手である。今回は、児玉麻里のピアノがその気分を和らげてくれた、とだけ書いておくことにする。

 「巨人」の方は、ノットがこの曲をどう新味を持たせて展開してくれるか、というところに興味があったが、こちらは嬉しいことに、予想を遥かに超える演奏内容となった。鮮烈な演奏━━と称していいかもしれない。
 遅めのテンポを採ったノットの指揮は、非常に表情が濃く、細部に至るまで神経を行き届かせる念入りな構築に徹していたが、それよりも最大の特徴は、私がこれまでこの曲の演奏で聴いたことがないほどの、巨大なうねりのようなものが音楽全体にあふれていたことだったと思う。第4楽章半ばにある短いクレッシェンドの個所など、まるで深淵から不気味なものが湧き上がって来るようなイメージをさえ生んでいたのである。

 これまでのノットは、マーラーの交響曲を指揮する際に、こういう濃厚なアプローチは一切採っていなかった。彼が変貌したのか、それともこの曲に対してのみこのような姿勢を取ったのかは一概に断言できないが、いずれにせよ興味深く、面白いものだった。

 カーテンコールでノットは、オケと客席に向かい、「I’m home」と書いた布幕を掲げて見せた。多くの聴衆が、いっせいにスタンディング・オヴェーションでこれに応じた。

2021・5・26(水)新国立劇場 ヴェルディ:「ドン・カルロ」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 ワクチン初回の副反応報告その2。接種当日夜の筋肉痛だけで済んだと思いきや、翌日夜になって眠気、眼の乾き、ほてり感、倦怠感などが起こり、昨日(接種後3日目)は午後になって突然発熱(37度2分まで)。聴きに行く予定だった読響に欠席のお詫びのメールを入れ、夜までおとなしくしていたら、次第に平熱に戻って行った。
 接種の際に厚生労働省から配られた「注意点」を読むと、接種後数日以内に現れる可能性のある症状として、「接種部位の痛み、疲労、頭痛」が50%以上、「筋肉痛、悪寒、関節痛、下痢、発熱、部位の腫れ」が10~50%、「吐き気、嘔吐」が1~10%、とあるし、ある病院が発表したデータによれば、接種後2日目か3日目に「ほてり感」や「眼の異常」などが現れる症例もあるとのこと。いずれにせよ、1回目と2回目、あるいは年代などによってかなり差異が生じていることは確かだそうで。

 「ドン・カルロ」4回公演のうちの3日目。2006年9月にプレミエされたマルコ・アルトゥーロ・マレッリ演出・舞台美術によるプロダクションで、その後2014年に再演され、今回が3度目になる。「フォンテンブローの森」の場面は入っていない4幕制の版である。

 今回の演奏はパオロ・カリニャーニ指揮の東京フィル、新国立劇場合唱団、主な配役はジュゼッペ・ジパリ(ドン・カルロ)、高田智弘(ロドリーゴ)、小林厚子(エリザベッタ)、アンナ・マリア・キウリ(エボリ公女)、妻屋秀和(フィリッポ2世)、マルコ・スポッティ(宗教裁判長)、大塚博章(修道士)、松浦麗(テバルド)、城宏憲(レルマ伯爵)、光岡曉恵(天よりの声)。

 マレッリによる演出と舞台の詳細については、前回の上演の際に書いた(→2014年11月27日の項)。
 とにかく、ドラマとしての演技━━という点ではほとんど観るべき趣向はなく、恰もセミステージ形式上演にも似たつくりなので、ドラマとしての面白さはむしろ音楽から生まれるだろう。その点、今回はカリニャーニの劇的な指揮に救われたところが多かった。演奏の緊迫感、熱っぽさなどはこの人のオペラ指揮の美点だ。このオペラでは登場人物による対決シーンが連続するという特徴が目立つが、それらがすべて見事に描き出されていたのは、第一にこのカリニャーニの手腕ゆえと言えよう。

 東京フィルは珍しく金管群が咆哮してドラマティックな扇情感を噴出させていた。ただ、それはそれでいいのだが、そうなると一方で弦の響きの乏しさがいっそう気になって来る。「ドン・カルロ」の音楽は、本来はもっと分厚く豊麗なものであるだろう。ただし、フィリッポのアリア「独り静かに眠ろう」でのチェロのソロは、なかなかにエスプレッシーヴォが豊かだった。

 歌手陣では、最も安定して傑出していたのは、予想通り高田智弘である。張りのある劇的な緊張感を備えた声による歌唱は、ロドリーゴを強靭な意志と革命思想の持主として鮮やかに表現していた。国王との口論場面、カルロを説得する場面など、息を呑ませる迫力であった。単なる我儘王子としか見えぬドン・カルロの代わりに死なせるにはもったいないと本気で思わせてしまうほどの存在感であり、今回の上演ではカリニャーニと並ぶ立役者に数えられる。

 エリザベッタの小林厚子も期待を裏切らず、好い歌唱を聴かせた。先日のジークリンデ(新国立劇場「ヴァルキューレ」)に続く大ヒットである。アリア「世のむなしさを知る方」での細部の仕上げや、王妃としての苦悩の表現などという面ではこれからの研鑽を待ちたいと思うが、とにかくいいソプラノが出て来たものだ。

 国王フィリッポ2世の妻屋秀和は、このところ大きな代役を立て続けにこなして大活躍だが、持ち前の貫禄でこの「苦悩する王」を見事に歌い演じていた。この人は所謂「悪役」的な雰囲気が薄いので、フィリッポ2世の専制君主的な悪辣さを表現するには物足りない面もあったが、何か温かい情感を見せてくれる国王としてはすこぶる魅力的なものがあるだろう。

 エボリ公女役のキウリは、すでにかなり広く名の知られた中堅どころのはずだが、不思議に歌い方が少し粗く、しかもその中で頂点を強引に決めて行くという傾向があるのが気になった。宮廷勤めの公女にしては少しラフだな、というところである。
 題名役のジパリは、歌唱の面では途中から調子を上げて行ったものの、演出による性格表現にもよるだろうが、あまり存在意義のはっきりしない王子という、このオペラでの役割を具現したようなドン・カルロになってしまっていた。周囲の登場人物群があまりに個性的なので、肝心の題名役は大抵影の薄い存在になってしまう、というこのオペラのストーリーの欠点のワリを食ってしまったようである。

 途中休憩30分を含み、終演は5時半過ぎ。

2021・5・23(日)田中祐子指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  2時

 昨日の朝、二子玉川近くに設営されている世田谷区の仮設庁舎で1回目のワクチン接種。親切丁寧に対応してくれた医療従事者たちのみならず、会場の内外で手際よく来場者を案内している若いスタッフたちにも、本当に頭が下がる思いであった。おかげで接種は実にあっけなく終了、夜になって肩に軽い筋肉痛を覚えたものの、一夜明ければほぼ違和感なしという状態で切り抜けられたようだ。となれば、あとは当面の自分の役割を果たすのみである。

 今日の演奏会は定期ではなく「名曲コンサート」。プログラムは、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは神尾真由子)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」。コンサートマスターは田野倉雅秋。
 指揮は、当初の予定ではピエタリ・インキネンだったが、来日不可能となったため変更されたもの。曲目とソリストは予定通りである。客入れ数は50%規制の範囲だったが、P席を使用していないため、1階席は最後方を除きほぼ満杯、2階席前方も結構な入りという形態に見えた。

 田中祐子がシンフォニー・コンサートで指揮するのを聴いたことは、私はこれまで一度しかない(→2015年3月9日、オケはやはり日本フィル)。だが今日の指揮は、その時に比べると、更に進境著しく、更に自己主張の強いものになったように思われる。それは強烈で濃厚で、聴き手を否応なしに引きずって行くような、超個性的な演奏だった。

 ブラームスの協奏曲では、管弦楽による提示部からして、挑みかかるような、異様なほど攻撃的な響きを日本フィルから引き出していたのに驚かされたが、それはそのあとに入って来た神尾真由子の強大で切り込むように鋭いソロに対決するに相応しいものだったということに、すぐに気づかされるだろう。

 その後も、オーケストラとソリストとの丁々発止の応酬は壮烈を極めたが、特に第3楽章の、ソロとの対決が一段落し、管弦楽のみがフォルティッシモで咆哮する個所(第83~93小節)でのティンパニの煽りなど、往年のライナーやテンシュテットのそれを彷彿とさせるような迫力を感じさせた。ブラームスが稀に迸らせる情熱と気魄を一段と強調した演奏だったと言えよう。
 ただ、このようにソロとオケとの完璧な一体化を求めるなら、神尾も叙情的な世界に徹していた第2楽章でのオーボエ・ソロは、もう少し繊細なイメージになっていてもよかったかもしれない━━。

 ベートーヴェンでは、田中祐子の解釈はさらに強烈になった。モティーフのみを際立たせる指揮ではなく、音型の反復の一部を突然激しく強調するといった手法である。古典的な端整さと、表現主義的な瞬間的爆発とを交錯させたような構築━━とでも言ったらいいか。2か月ほど前、鈴木秀美が新日本フィルを指揮した時に、やはりこれに似た手法を使っていたのを思い出した。だが田中の場合は、これにデュナーミクの対比だけでなく、音色の絶え間ない変化を織り込んでいたところが凝った所以である。

 ともあれこの演奏には、良い意味での傍若無人な性格が顕れているので、そこが私としては実に面白いところだった。ただ人によっては、こういう演奏は、やはり「やり過ぎ」という感を抱くかもしれない。私も、第4楽章も再現部後半になって来ると、少々心を乱されたのは事実である。演奏が如何に強烈過激だったかを示す証拠だろう。

 彼女のこの細かく複雑な構築の指揮に、日本フィルもよく応えて、ブラームスにせよ、この「運命」にせよ、なかなか凄い演奏を繰り広げていた。このオケがこういう大技小技を満載した演奏をするのを、私は初めて聴いた。おそらく、リハーサルも大変だったのではないか? 
 もっとも、日本フィルとしては、こういう演奏で彼女との相性を悪くでもしたのか? 彼女がオケの各パートを起立させて讃えることは怠りなかったのに、コンサートマスターをはじめオケの方は「指揮者を讃えるセレモニー」を一切行わぬまま答礼して解散してしまったことは、異様な感を与えた。かりに裏で何があったにしても、日本フィルともあろうものが、ステージ上のマナーという点で、プロとしておとなげない。

2021・5・21(金)二期会ニューウェーブ ヘンデル:「セルセ」GP

     めぐろパーシモンホール 大ホール  4時

 二期会創立70周年記念行事の一環、「ニューウェーブ・オペラ劇場」の最新作として、ヘンデルのオペラ「セルセ」が上演される。「オンブラ・マイ・フ」が出て来るあのオペラである。

 本番は22日と23日だが、こちらは明日が例のワクチン・シリーズの第1回にぶつかってしまったので、今日のゲネプロ2日目を取材させてもらうことにした。
 実はこの土・日は、「セルセ」だけでなく、原田慶太楼とN響とか、沼尻竜典と神奈川フィルとか、田中祐子と日本フィルとか、聴いてみたい顔合わせの演奏会がいろいろあるのだが、ワクチンを打った直後に第三京浜をクルマで飛ばすなどというのは傍迷惑になりかねないだろうし、ここは家でおとなしくしていようと決めた次第。

 この二期会の「ニューウェーブ」のシリーズは、6年前の「ジューリオ・チェーザレ」(→2015年5月24日)も日本のオペラ演出としてはかなり翔んでいて笑えたものだ(欧州でのそれに比べれば未だまだ可愛い程度だろうが)。
 今回の「セルセ」は、鈴木秀美の指揮に、コンテンポラリー・ダンスの中村蓉が演出を行なうという新制作ものである。事実、全篇すべてダンスの連続という舞台になっていた。歌いながら激しく踊るというアスリート並みの仕事を、若手歌手たちが懸命にこなしている様子が微笑ましい。第1幕だけを観せてもらった。

2021・5・20(木)秋山和慶指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 プログラムは、モーツァルトの「2台のピアノのための協奏曲変ホ長調」と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」。コンサートマスターは崔文洙。

 協奏曲では伊藤恵と小菅優がソロを弾くという甚だ興味深い顔合わせ。それはそれでよかったが、こういう時こそ2人だけのアンコールを1曲、バトル(?)でも披露しながら弾いてもらいたかった(私はオーケストラのコンサートでソリストがソロ・アンコールをやるのは本来好きではないのだが━━こういう時は別だ)。

 このコンチェルトの演奏では、オーケストラの響きが、特に第1楽章では異様に軽くて痩せていたことや、全体に何故かモーツァルトの音楽には不似合いなほど荒っぽかったのが気になった。
 その一方、「アルプス交響曲」では、オケがまあ鳴ること、鳴ること、こちらは音色やバランスなどの細部の仕上げはともかく、パワー優先で「登山の一日」の大絵巻を展開。まるで「細かいことはいいから、とにかく思い切りやろうじゃないか」とでも言うかのように。

 いずれの曲においても、かつての━━70年代から90年代にかけての「整然として乱れの無い」指揮ぶりだった頃の━━秋山和慶からは考えられないような音楽づくりである。私としては、解放感と滋味とが豊かになった近年の彼の指揮の方が好きだが、それにしても今日は雰囲気がかなり違っていた。

2021・5・18(火)井上道義指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 これは定期のCシリーズで、サティの「パラード」、サン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」(ソリストは辻彩奈)および「交響曲第3番」(オルガンは石丸由佳)というフランス・プロ。コンサートマスターは矢部達哉。

 「パラード」がナマで聴ける機会は、日本では珍しい。今回はステージ下手側に配置された打楽器(?)奏者2人が、ボウルにたっぷり入れた水をバチャンバチャンとけたたましくはね返して音を出したり、特定のリズムで手拍子を取ったり、ピストルを発射したりと、スコアに指定されている効果音(?)をも忠実に再現、オーケストラも適度に躍動して、この15分ほどの曲を面白く聴かせてくれた。水面を叩きまくっていた奏者が、その「演奏」のあとにタオルで顔を拭う動作が何となく可笑しみを誘う。

 サン=サーンスのコンチェルトも、日本の演奏会では意外に取り上げられることの少ない曲だろう。昔、フランチェスカッティがパガニーニの「1番」とのカプリングで出したレコードは一世を風靡した名演で、私も愛聴したものだが、そのわりにナマで聴いた思い出というのが、あまりない。甘美で端整なサン=サーンス節が横溢する曲だ。
 ただし今日の辻彩奈は、そうした甘い情緒に埋没することを避け、旋律線にもかなり強いメリハリをつけて演奏していたように感じられる。なお彼女がソロ・アンコールで弾いたのは、先日のリサイタルでも演奏した権代敦彦の「Post Festum」の中の1曲だったか。

 後半は、サン=サーンスの人気曲「オルガン付交響曲」。これは井上道義ならさぞや大芝居調に指揮するのではないかと思っていたが、予想外に端整な造型の演奏に終始。16型編成の都響を壮麗に響かせながらも、作品の容を崩さず、壮大に曲を閉じた。端整という点では、オルガンのソロも同様だったろう。
 あとでマエストロから聞いたところでは、「教会の中に響くオルガン(交響曲)のようなイメージを求めた」とのこと。つまり、スペクタクルな交響曲にはしたくなかった、ということなのだろう。

2021・5・16(日)飯守泰次郎傘寿記念のワーグナー「指環」

      東京文化会館大ホール  2時

 目出度く実現の運びになった飯守泰次郎の傘寿記念、ワーグナーの「ニーベルングの指環」ハイライト演奏会。

 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が総力を挙げ、海外からはシュテファン・グールド(ジークフリート)、トマシュ・コニェチュニー(アルベリヒ、ヴォータン、グンター)、ダニエラ・ケーラー(ブリュンヒルデ)が参加、国内勢として妻屋秀和(ハーゲン)、高橋淳(ミーメ)、増田のり子(ヴォークリンデ)、金子美香(ヴェルグンデ)、中島郁子(フロスヒルデ)が出演、男声合唱にはワーグナー特別演奏会合唱団が登場して、華やかに開催された。

 演奏されたのは、
 「ラインの黄金」から第1場(ライン河底の場)の全曲と、「神々のヴァルハラ入城」(これは管弦楽のみの演奏会用バージョン)。「ヴァルキューレ」から「ヴァルキューレの騎行」(演奏会版)と「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」。ここまでが第1部。
 次に「ジークフリート」からは、「ジークフリートの鍛冶の歌」、「森のささやき」(演奏会版)、「ヴォータンとジークフリートの対決の場面」(ジークフリートが岩山へ向かう場面転換の音楽の途中まで)、および第3幕第3場(ブリュンヒルデの目覚めの場から幕切れまで)。ここまでが第2部。
 そして「神々の黄昏」からは、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」+「第1幕終結の音楽」(演奏会版)、「ホイホー・ハーゲン━━ギービヒ家の合唱」、「第2幕最後の三重唱」、「ジークフリートの回想━━ジークフリートの死━━ジークフリートの葬送行進曲」(葬送行進曲の結尾は演奏会用版)、および「ブリュンヒルデの自己犠牲」。

 ━━というような膨大なプログラムで、30分の休憩2回を含み総計4時間35分と、演奏会としては破天荒なほど長大なものとなった。しかもそのあとには15分ものカーテンコールが続き、その中には飯守への「ハッピー・バースデイ」贈歌も含まれたのである(因みに彼の誕生日は1940年9月30日)。
 客席は50%規制ながら完売の由で、休憩時間のホワイエの盛り上がり、カーテンコールでのほぼ総立ちの大拍手など、コロナ禍の暗い雰囲気を吹き飛ばすような演奏会であった。

 東京シティ・フィルの演奏は、「ラインの黄金」冒頭では硬質で音の溶け合いもなく、甚だ頼りない感があって、これでは折角の飯守の祝祭舞台を傷つけるんじゃないか、とやきもきさせられたが、幸いにもそれは全くの杞憂に終る。「ヴァルハラ入城」あたりから演奏は次第に活気を加え、「ワルキューレの騎行」の大咆哮で緊張は吹っ切れたのか、「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」では飯守特有の大きなクレッシェンドが映えた。

 そして、最初の休憩を挟んだあとの「ジークフリート」における第3幕第3場などは、紛れもなく「ワーグナーの音」に満たされていたのではないかと思う。
 そこでつくられた音楽こそ、飯守がついに到達したワーグナーの世界ではなかったろうか。それは最近流行の乾いて殺伐とした、味も素っ気もないワーグナー演奏ではない。むしろ詩情と情感にあふれ、ヒューマンなあたたかさを持ち、奥深い拡がりを感じさせるワーグナーなのだ(「ドイツ人が謂うロマンティックとは、ヒューマニズムである」と教えてくれたのは、朝比奈隆氏であった)こういうワーグナーをつくれる飯守泰次郎のような指揮者は、今では世界でも稀なる、貴重な存在と言わなければならない。

 シティ・フィルは管のソロに問題を残したとはいえ、弦16型のフル編成によるワーグナーなど、日本での生演奏では滅多に聴けないもので、約半数は応援楽員だったにしても、とにかくシティ・フィルはシティ・フィルである。よくやったと申し上げておきたい。
 なお、コンサートマスターの戸澤哲夫は、20年前に飯守とシティ・フィルが「オーケストラル・オペラ」として「指環」全曲を演奏した時の「戦友」でもある。今回の上演で彼が果たした役割も、きっと大きかったのではないか。

 歌手陣がいずれも好演だったことも、この特別演奏会を成功させる基となった。
 グールドは自ら鉄床を正確なリズムで叩いての熱唱だが、彼のヘルデン・テナーとしての本領はやはりブリュンヒルデとの愛の場面で発揮される。
 ケーラーも勿論その二重唱と、「神々の黄昏」第2幕の「復讐の誓いの場面」および最後の「自己犠牲」で見事な歌唱を聴かせてくれた。彼女のブリュンヒルデは清新で美しく、所謂「ゲルマンの女傑」的でない性格表現であるのも好ましい。

 コニェチュニーは、凄まじい声量でステージを圧した。彼はやはり根っからの悪役型で、いつもながらアルベリヒは見事そのもの(→2010年6月10日エッセン他でも)。が、ヴォータンをやると、どうしてもどぎつい悪玉的表現になってしまうのが問題だ。ただ、その彼がグンターを歌った時には他の2人に合わせて声を抑え、別人のようなニュアンスの歌を聴かせていたのだから、もともと芸域は広い人なのかもしれない。

 ハーゲン役の妻屋秀和は、来日できなかったペーゼンドルファーの代役としての登場。彼はこの役柄としてはびわ湖ホール上演におけると同様、「邪悪なハーゲン」という雰囲気の人ではないが、その代わり表面はあくまで善人ぶった陰謀家としてのハーゲンが表現されていたと言えるかもしれない。
 ただ、オーケストラの大音量との対抗の点では、ハーゲンは、少々損な役回りである。大詰めで一言「指環から手を引け」と叫ぶ個所で「全然聞こえなかった」と文句を言っていた人がいたが、あそこの個所は、歌手とオケが同一平面上にいる限り、どだい無理なところなのだ。

 他に、ミーメ役の高橋淳は、出番は少ないながら、持ち前の歌巧者ぶりを発揮して存在感を示した。ラインの乙女役の増田のり子、金子美香、中島郁子は、開始後すぐの登場とあってちょっと力み過ぎの感もあったものの、好演と言えたであろう。

 飯守泰次郎のワーグナー指揮における集大成の演奏会━━大成功であった。

2021・5・15(土)大植英次指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 「名曲全集」シリーズ。
 武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」、バルトークの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは北村朋幹)、ブラームスの「交響曲第2番」というプログラム。当初予定されていたジョナサン・ノットに代わり、先週の延期公演に続き大植英次が指揮することになったもの。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 タケミツの音楽は、日本人指揮者と外国人指揮者とではアプローチがかなり異なり、それぞれの良さがあるが、今日の大植の指揮はどちらかというと後者の部類に属するものだろう。それも、謂わば大植流だ。「武満のフォルテ」がこれほど荒々しく太い音で響かせられた演奏は、私はこれまであまり聴いたことがない。

 コンチェルトでは、北村朋幹が澄んだ音色で、透明感のある美しいバルトークを聴かせた。当初の予定通り、ピエール=ロラン・エマールがソリストを務めていたとしても、多分これに近いイメージのバルトークとなったのではないか。
 ただ、今回はステージ上手の前方に打楽器群を配置していたが、この音量のためにソロ・ピアノやオケの他のパートが聞こえなくなることもあって、これは問題を残したろう。この配置は、弦が良く鳴るヨーロッパのコンサートホールではバランスが失われることはないかもしれないが、日本のホールでは難しい。

 ブラームスの「2番」では、第1ヴァイオリンは14人(14型)でありながら、チェロは10、コントラバス8(16型相当」という、低音部を増強した編成が採られていた。大植の指揮も、もちろん先週のチャイコフスキーの場合と違い、凝った細工は一切ないストレートな構築で、骨太な力感を湛えたまま押して行く演奏をつくり出していた。

 こういうタイプの彼の指揮を昔どこかで体験したことがあるな━━と考えつつ、ふと思い出したのが、バイロイト祝祭で聴いた彼の指揮によるあの「トリスタンとイゾルデ」での演奏である。
 あの音楽のスタイルは━━あれこれ批判された部分は別として━━結局いくつかの点で、彼の師バーンスタインがミュンヘンでレコーディングした「トリスタンとイゾルデ」の演奏に影響を受けているのではないか、と、私は当時から感じていた。

 となると、今回のブラームスの交響曲の演奏についても、大植の精神の中には、未だ恩師バーンスタインの音楽が生き続けているのではないか、ということになる。もちろんこれは単なる印象に過ぎない。
 だが、バーンスタインのロマン派の作品の演奏では、常にこれに似た太くどっしりした筋金のようなものがそれをつらぬいていたことは確かではなかろうか。

 今回の大植の指揮は、そうした分厚い力感の中で、第4楽章の頂点では彼特有の猛烈な熱狂を東響から引き出しつつ、轟然と結んで行った。中間2楽章での濃厚な情感にも不思議な魅力が感じられた。今日の東響は、ホルンも大健闘。

2021・5・13(木)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

     サントリーホール  7時

 緊急事態宣言に関連して公開開催されるかどうかぎりぎりまで発表されなかった東京フィルの6月定期(12、13、16日)が予定通り実現の運びになったのは祝着。バッティストーニはもうかなり前に日本に「入って」いたのだから、もし空振りに終ったとしたら何とも残念なことになっていたろう。

 プログラムは、ピアソラの「シンフォニア・ブエノスアイレス」(日本初演)と、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の抜粋。コンサートマスターは依田真宣。前者での協演はバンドネオンの小松亮太と北村聡で、彼らのアンコール曲はガルデル~ピアソラ編の「想いの届く日」という小品。

 ともあれ、すこぶる賑やかな演奏会だった。
 ピアソラの作品では、バッティストーニは存分に解放感を噴出させ、東京フィルもここぞとばかり暴れ回る。痛快無類ではあるが、その一方で、何か歯止めの利かない野放図さのようなものを感じて苦笑させられる。これは、作品の所為というよりは、指揮者の所為ではなかったろうか?

 「ロメオとジュリエット」も明るい。今回の曲の配列は劇的な開始部の「モンタギューとキャピュレット家」で始められるものだったが、そこでの演奏からして開放感と「歌」にあふれている。「民衆の踊り」での飛び跳ねるような陽気さも、聴き慣れたプロコフィエフ節とは異質なものだ。やはりイタリア人指揮者だな、と思う。彼に言わせれば、これはもともとイタリアが舞台の話だから、これでいいのだ、ということになるのかもしれないが━━。

 ただ、今日の演奏においての話だが、バッティストーニは、オーケストラの各声部をそれぞれ明晰に響かせることには、あまり興味がないと見える。

2021・5・12(水)佐藤久成ヴァイオリン・リサイタル

      東京文化会館小ホール  7時

 久しぶりに聴くコンサートは、久しぶりに聴く佐藤久成(さとう・ひさや)のリサイタル。
 今日のプログラムは、かつて宇野功芳さんが絶賛して話題になったワーグナーものではなくて、フランスのソナタ集だ。「フランス三大ソナタ」と副題がついていて、ヴィエルヌ(1870~1937)の「ソナタ ト短調作品23」、サン=サーンス(1835~1921)の「ソナタ第1番ニ短調作品75」、マニャール(1865~1914)の「ソナタ ト長調作品13」というプログラムである。

 「フランス三大」は洒落なのかもしれないが、佐藤久成により再現されたこれらのソナタは、その重量感と表情の凄絶さにおいては、紛れもなく「三大」の名に値するかもしれない。

 彼の演奏はこの10年ほどの間にリサイタルを1回(→2012年5月3日)、コンチェルトを1回(→2016年5月21日)聴いただけだが、その強烈で超個性的な演奏には毎回震撼させられたものだ。今日のようなフランスものを手がけても、彼は些かも手加減せずに、自らの流儀で勝負をかける。
 その演奏は、フランスの作品の場合によく使われるような、端整さとか、優美さとか、洗練とかいう言葉とは全く無縁だ。むしろそこにあるのは、濃厚な音色、激烈な響き、攻撃的で暴力的なほどの荒々しい表情である。悪魔がヴァイオリンを弾いて人々を打ちのめす、などという変な表現は使いたくないが、しかし彼の演奏を聴いていると、何となくそんな言葉が脳裏に浮かんで来てしまうのはたしかだろう。

 サン=サーンスの「アレグロ・モルト」が、これほど狂乱の饗宴のごとく演奏されたのを、私はこれまで聴いたことがない。またマニャールのソナタでの演奏も鬼気迫る荒々しさで、これを聴いていると、この作曲家が第1次大戦のさなか、自宅の庭に侵入して来たドイツ軍を相手に窓から銃撃戦を展開し、結局壮烈な死を遂げることになる悲劇がその音楽に予告されているかのような錯覚に陥ってしまうほどであった。
 1曲目のソナタにしても、休憩時間にロビーで出会った井上道義さんが「ヴィエルヌのあんな曲なんて、ああいう演奏だから聴けるんだよね」という意味のことを言って面白がっていたのも、宜なるかなと思う。

 ヴァイオリンを弾いている身振りも、劇的というか、敢えて言えば芝居がかっているというか、視覚的にも強烈な人である。
 聴いていると、時にもう勘弁してくれと辟易させられる気持になるかと思えば、次の瞬間には、不思議な魅力ゆえ、もっといろいろな曲、特にベートーヴェンのソナタの演奏を聴いてみたいな、などと真剣に思わされるようになり、そのうち再び、こちらの神経が引掻きまわされるようなこんな演奏にはやはりついて行きかねる、という気持に陥ってしまう━━そういうタイプの演奏なのである。

 とにかく面白い。コロナなど吹き飛ばすような勢いがある。とはいえ、やはり疲れた。メイン・プロだけ聴いて失礼する。
 なお、協演の高橋望が、ベーゼンドルファーのピアノを駆使しての応戦で、これがなかなかいい。

2021・5・2(日)大植英次指揮東京交響楽団のチャイコフスキー

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 昨日、「モーツァルト・マチネが始まる前、舞台の袖でファゴットがチャイコフスキーの「第4交響曲」のパートを練習しているのが聞こえたのには思わず吹き出してしまったが━━今日はそのチャイコフスキー・プログラムだ。
 大植英次が指揮して「ヴァイオリン協奏曲」と、その「第4交響曲」が演奏された。これは1月17日に予定されていた「川崎定期」の延期公演である。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 「ヴァイオリン協奏曲」では木嶋真優がソリストとして登場。最近では珍しく、第3楽章のモティーフの繰り返しの個所を省略する版(アウアー版? ハイフェッツらが使っている)で演奏していたのは意外だったが、それはともかく、彼女の演奏がちょっと野性的になって来たのではないかな、などと思いつつ、興味深く聴かせてもらった。

 休憩後の「第4交響曲」は、まさに大植英次の本領発揮というか。最近聴いたこの曲の演奏の中では、やたら面白い解釈だった。
 彼は随所に凝った仕掛けを施しており、例えば第1楽章では主部(モデラート・コン・アニマ)に入って3小節目の二度目の付点8分音符の変ロ音を突然延ばし気味にして見せたり(11小節目のそれも同様)、
 第4楽章ではあのロシア民謡による主題の繰り返しに、一度目はスタッカートで、二度目はレガートで演奏させるという変化を与えたり、
 ━━その他にもテンポを自在に動かしたり(第1楽章)、総休止を突然長く採って気分の転換を強調したり(第4楽章第60小節の前や第149小節の前)、という具合なのである。

 こうした仕掛けは、いったん外れると鼻持ちならぬものになってしまうのだが、今日の大植英次と東京響の演奏は、幸いにもほぼ完璧に嵌っているので、それに慣れて来ると結構快い気分に引き込まれる。比較的ストレートに演奏された第2楽章でさえ陰翳と情感に溢れて、私は大いに陶酔させてもらった次第だ。

 この「第4交響曲」、些か飽き気味の曲なのだが、今日のような演奏で聴くと、ちょっと違う音楽に聞こえて、また新たな興味が湧いて来る。

2021・5・1(土)太田弦指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  11時

 クラシック音楽の演奏会では、全国を問わず例外なく入場の際の検温と両手の消毒、ホール内でのマスク着用が義務づけられ、客席やロビーでの大声の会話なども控えるよう指示されるといったように、可能な限りでの感染防止対策が取られている。これまでクラスターが発生したケースなど一つもないのは当然だろう。

 会場の中は静寂で、何かしら打ち沈んだような空気が漂うことになるのは寂しいが、それを和らげ霧消させるのは、やはり演奏者の熱演と、それを真剣に受け止める聴衆の熱意にほかならない。
 今日も同様、東京響恒例の「モーツァルト・マチネ」第45回では、若手の太田弦(大阪響正指揮者)が客演、勢いのいい演奏を引き出し、東京響もそれに応えて指揮者を盛り立て、いい雰囲気の中にコンサートを結んで行った。

 演奏されたのは、モーツァルトの「交響曲第32番ト長調」「ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調」(ソリストは山根一仁、譜面台を立てての演奏)、「交響曲第36番ハ長調《リンツ》」の3曲。コンサートマスターは水谷晃。

 太田弦の指揮はこれまでにも数回聴いているが、レパートリーと、組むオーケストラによって多少の当たり外れはあるものの、このところいい演奏に出会うことが比較的多い。
 モーツァルトの作品は若手指揮者にとっては難物中の難物だが、曖昧な演奏をつくって無難に済ませるよりは、当たって砕けろ式の体当たり的アプローチで臨んだ指揮の方が、よほど潔いだろう。

 今日の太田弦はもちろん後者に相当する指揮で、些か荒っぽく、些か力任せの音楽になっていた感もなくはないが、「リンツ」の終楽章でのクライマックスへの追い込みと、全身をぶつけるような盛り上げなどは、若手指揮者らしい、好ましい印象を残した。この勢いのある音楽づくりは、今後とも大切にして行ってもらいたいものである。

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