2017・8・19(土)バイロイト音楽祭(1)
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
バイロイト祝祭劇場 4時
4年ぶりのバイロイト。
カストルフ演出の「指環」は2013年のプレミエで観て、2度と見る気はしないので(かなり改良されたという話だが、どうせ焼け石に水だろう)今年はそれ以降に新制作された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」の3作のみを観る。
今日は、今年の新制作、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。指揮はフィリップ・ヨルダン(ジョルダン)だが、それよりもバリー・コスキーの演出が評判を呼んでいた。
確かにこれは、最近の傑作かもしれぬ。また、大きな読み替えをしているにもかかわらず、近年のドイツでの流行の所謂「自虐的」な演出を採らず、むしろ「マイスタージンガー/ドイツの芸術」を正面から弁護したものという意味で、画期的なものかもしれなかった。
●ワーグナー一家の劇中劇からドラマ本編へ
前奏曲の第1音と同時にドラマが始まるのだが、場面は何と、1875年のバイロイトのヴァーンフリート━━つまりワーグナー家の居間である。そこに集うのは、ワーグナー自身と、妻コージマ、岳父リスト、ワーグナーの信奉者でユダヤ人指揮者のヘルマン・レヴィたちだ。
「ワーグナー本人」は、いかにもワーグナーそのもののイメージである。大きなベレー帽をかぶり、せかせかと慌ただしく動き回り、愛想のいい態度で一同の中心的存在となっている。その他の人々も、すべて歴史に見る通りの実際のイメージそっくりである。
この実在した人物たちが、それぞれこのドラマの主人公たちを、ワーグナーの采配により劇中劇として演じつつ、それがいつしか本物の「マイスタージンガー」のドラマになって行くという設定が、今回のバリー・コスキーのおおわざである。
「ワーグナー本人」はハンス・ザックス親方(ミヒャエル・フォレ)となり、「コージマ」はもちろんエファ(アンネ・シュヴァンネヴィルムス)となり、「リスト」は、彼女の父であるファイト・ポーグナー親方(ギュンター・グロイスベック)となる。
そして、ポーグナーが招いた若い客ヴァルター(クラウス・フローリアン・フォークト)が、もちろん若き日のワーグナー自身となり、それは特に第3幕でベレー帽をかぶったミニ・ワーグナーの扮装として仕上げられる。
●ユダヤ人問題
だが何よりも最大のポイントは、ユダヤ人指揮者ヘルマン・レヴィが、書記ベックメッサー(ヨハネス・マルティン・クレンツル)に変わることだ。
もしこのベックメッサーが、あの音楽評論家ハンスリックという設定だったら、アイディアも平凡で底が知れる、ということになるだろう。だが、そうしなかったところが、バリー・コスキーの巧さだろう。
ユダヤ人たるレヴィは、第1幕冒頭の祈りにも加わらないといった具合に、悉くキリスト教徒のワーグナー家の人々とは異なる行動をとるが、たった一つ、ワーグナー相手には、卑屈なほど従順な態度を示す。これはワーグナーの伝記が示す通りである。
ベックメッサーという役柄は、もともと「ユダヤ人」的性格を秘めているといわれる。
ユダヤ人の描写というのは、ヒステリックな、キーキーいう声でまくしたてるのがその典型的な例で、たとえばR・シュトラウスの「サロメ」に出て来る騒々しいユダヤ人たち、あるいは「展覧会の絵」の「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」に出て来るユダヤ人などにその特徴が聴かれるのは周知の通りだ。
そしてこのベックメッサーにも、そうした性格がある。ユダヤ人嫌いのワーグナーが意図的にそうしたのだ、というのは、公然たる秘密である。だが、それをそのまま、ここまではっきりと出した演出は珍しいだろう。
しかも第2幕最後では、ベックメッサーは群衆から「ユダヤ人的な顔」のマスクをかぶせられる。うずくまった彼の頭上に、舞台上部からぶら下げられた巨大な物体が風船のように広がると、それがどぎつい「ユダヤ人的な顔」となり、かつその頭の上には「ダビデの星」のデザインが施されているという念の入った設定だ。
このユダヤ人ベックメッサーが、第3幕で復権されるのかと思いきや、オリジナル台本通りに一同から嘲笑され、挙句の果てはエファの前に見苦しく土下座して哀願するという醜態を演じ、ついに全員からその場を追い出される。「ユダヤ人」ベックメッサーは、結局ここでも罵られ、疎外されてしまうのだ。
これは、どう解釈されるべきか? コスキーがかりに反ユダヤ主義を皮肉っているとしても、最後までそれを否定せずに終らせるという演出なのだから、もはや単なる皮肉には止まらないだろう。もちろん、反ユダヤ主義を断罪しているのとは、全く違う。
そもそもバリー・コスキー自身がユダヤ系の人なのだから、その方がよほど思い切った皮肉とでも言わなければなるまい。
●ワーグナーへの弁護
その一方、この演出では、ワーグナーへの弁護は徹底して行われている。
第3幕の舞台装置は、ニュルンベルク裁判の法廷の容を採ったつくりである。ここでザックスが独りで「迷いだ、すべて迷いだ」を歌うのは理に適っていると思われるが、ヴァルターが自作の詩を披露したり、ダーヴィト(ダニエル・ベーレ)の徒弟昇格の儀式が行われたり、マクダレーネ(ヴィープケ・レームクール)やエファら5人が集うのは、少し不自然かもしれない。これから法廷で弁明を行う立場にあるザックスの遺言━━とでも解釈すればそれはそれでいいのかもしれないが。
だが、その「法廷」になだれ込むのは、陽気な市民たちや、幟をおし立てた徒弟たちや親方たちである。「ニュルンベルク裁判」は、完全におちょくられたようである。
この歌合戦の場は、非常にコミカルなタッチで賑やかに進められる。ホモの親方にしがみつかれたヴァルターが嫌な顔をするくだりでは、客席からも爆笑が起こった。この、若い時期のワーグナーともいうべきヴァルターが、「朝はばら色の」を自作の歌であると「証言」し、一同が歓呼して享けるあたりは、オリジナル通りだ。
しかし、そのヴァルターが「親方昇格」を拒否した瞬間に、親方たちがヴァルターともども舞台から姿を消すあたりから、コスキー独自の解釈が始まる。
つまり、ザックスが一同から離反されるのは、あの「大演説」にこめられた政治的な理由からではなく、ヴァルターの扱いに関する仕切りの悪さを非難されてのこと、という設定なのである。
誰もいなくなった舞台に独り立ち、マイスタージンガーの「ドイツ芸術」の価値を見直すよう、観客に向かって必死に訴えるザックスの姿は、孤独で悲壮感にあふれている。オリジナルの台本におけるような「高い目線からの温かいお説教」ではないので、なおさら印象深いものになる。
だが彼は、ザックスであると同時に、ワーグナーその人でもあった。とすれば、彼は決して孤独ではなく、勝利者であるはずなのだ。
ザックスの演説が終りかけると、舞台奥から小さなステージに乗ったオーケストラと合唱団が滑り出して来て、ザックス(ワーグナー)は、懸命に、しかも誇り高くそれを指揮する。それらがまた奥へ移動して行き、部屋の壁が幕代わりに降りて、━━それで全曲が終る。
こうして、ワーグナーとザックスは、力強く信念を主張した。しかも何と、「ニュルンベルク裁判の法廷」という場で、堂々と弁明したのである! これはドイツにとり、一種の象徴的な行動ではなかったろうか。
ここバイロイトでブーイングが一切出て来ない新作の上演に接したのは、少なくとも私は初めての体験である。
このザックスを歌い演じたミヒャエル・フォレの、何と巧いこと!
彼はバイロイトの前作「マイスタージンガー」では、堅物から前衛芸術家に変貌するベックメッサーを見事に演じていた。また2013年のザルツブルクでのヘアハイム演出による「マイスタージンガー」では「気の弱いザックス」をこれまた巧みに演じていた人だ。今回のこのザックスは、特にラストシーンの悲壮な絶叫ともいうべき大演説を頂点として、実に精緻微細に演じられたのであった。
彼だけではない。クレンツルも、レヴィそのままの顎髭を生やした顔で、卑屈なほど従順なワーグナー信奉者レヴィと、ザックスに盾突くベックメッサーとを、巧みに演じ分けていた。フォークトも前作に続いての同役での登場だが、もちろん演技はいい。彼としてはちょっと声が完全ではなかったようだが、それでもやはり非凡なものであった。
今回座った席が5列目やや下手側ということもあって、この劇場独特のオーケストラの響きは、ひときわ素晴らしく聞こえた。特に弦楽器群の瑞々しい音色は、第2幕以降は、まるでピットの上から舞台前方にまで爽やかな音の絨毯が拡がっているようなイメージに感じられたのである。「マイスタージンガー」で、これほどオーケストラが美しく、その雄弁さと巨大な存在感を印象づけられたことはこれまでなかった。
フィリップ・ヨルダン(ジョルダン)の指揮は、どちらかといえば軽量タイプに感じられるものの、若々しく清廉で、悪くないだろう。粗っぽく雑然とした演奏のところも少なくなかったが、美しいところは並外れて美しかった。
10時30分終演、10時40分カーテンコール終了。大いに満足して席を立つ。
4年ぶりのバイロイト。
カストルフ演出の「指環」は2013年のプレミエで観て、2度と見る気はしないので(かなり改良されたという話だが、どうせ焼け石に水だろう)今年はそれ以降に新制作された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」の3作のみを観る。
今日は、今年の新制作、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。指揮はフィリップ・ヨルダン(ジョルダン)だが、それよりもバリー・コスキーの演出が評判を呼んでいた。
確かにこれは、最近の傑作かもしれぬ。また、大きな読み替えをしているにもかかわらず、近年のドイツでの流行の所謂「自虐的」な演出を採らず、むしろ「マイスタージンガー/ドイツの芸術」を正面から弁護したものという意味で、画期的なものかもしれなかった。
●ワーグナー一家の劇中劇からドラマ本編へ
前奏曲の第1音と同時にドラマが始まるのだが、場面は何と、1875年のバイロイトのヴァーンフリート━━つまりワーグナー家の居間である。そこに集うのは、ワーグナー自身と、妻コージマ、岳父リスト、ワーグナーの信奉者でユダヤ人指揮者のヘルマン・レヴィたちだ。
「ワーグナー本人」は、いかにもワーグナーそのもののイメージである。大きなベレー帽をかぶり、せかせかと慌ただしく動き回り、愛想のいい態度で一同の中心的存在となっている。その他の人々も、すべて歴史に見る通りの実際のイメージそっくりである。
この実在した人物たちが、それぞれこのドラマの主人公たちを、ワーグナーの采配により劇中劇として演じつつ、それがいつしか本物の「マイスタージンガー」のドラマになって行くという設定が、今回のバリー・コスキーのおおわざである。
「ワーグナー本人」はハンス・ザックス親方(ミヒャエル・フォレ)となり、「コージマ」はもちろんエファ(アンネ・シュヴァンネヴィルムス)となり、「リスト」は、彼女の父であるファイト・ポーグナー親方(ギュンター・グロイスベック)となる。
そして、ポーグナーが招いた若い客ヴァルター(クラウス・フローリアン・フォークト)が、もちろん若き日のワーグナー自身となり、それは特に第3幕でベレー帽をかぶったミニ・ワーグナーの扮装として仕上げられる。
●ユダヤ人問題
だが何よりも最大のポイントは、ユダヤ人指揮者ヘルマン・レヴィが、書記ベックメッサー(ヨハネス・マルティン・クレンツル)に変わることだ。
もしこのベックメッサーが、あの音楽評論家ハンスリックという設定だったら、アイディアも平凡で底が知れる、ということになるだろう。だが、そうしなかったところが、バリー・コスキーの巧さだろう。
ユダヤ人たるレヴィは、第1幕冒頭の祈りにも加わらないといった具合に、悉くキリスト教徒のワーグナー家の人々とは異なる行動をとるが、たった一つ、ワーグナー相手には、卑屈なほど従順な態度を示す。これはワーグナーの伝記が示す通りである。
ベックメッサーという役柄は、もともと「ユダヤ人」的性格を秘めているといわれる。
ユダヤ人の描写というのは、ヒステリックな、キーキーいう声でまくしたてるのがその典型的な例で、たとえばR・シュトラウスの「サロメ」に出て来る騒々しいユダヤ人たち、あるいは「展覧会の絵」の「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」に出て来るユダヤ人などにその特徴が聴かれるのは周知の通りだ。
そしてこのベックメッサーにも、そうした性格がある。ユダヤ人嫌いのワーグナーが意図的にそうしたのだ、というのは、公然たる秘密である。だが、それをそのまま、ここまではっきりと出した演出は珍しいだろう。
しかも第2幕最後では、ベックメッサーは群衆から「ユダヤ人的な顔」のマスクをかぶせられる。うずくまった彼の頭上に、舞台上部からぶら下げられた巨大な物体が風船のように広がると、それがどぎつい「ユダヤ人的な顔」となり、かつその頭の上には「ダビデの星」のデザインが施されているという念の入った設定だ。
このユダヤ人ベックメッサーが、第3幕で復権されるのかと思いきや、オリジナル台本通りに一同から嘲笑され、挙句の果てはエファの前に見苦しく土下座して哀願するという醜態を演じ、ついに全員からその場を追い出される。「ユダヤ人」ベックメッサーは、結局ここでも罵られ、疎外されてしまうのだ。
これは、どう解釈されるべきか? コスキーがかりに反ユダヤ主義を皮肉っているとしても、最後までそれを否定せずに終らせるという演出なのだから、もはや単なる皮肉には止まらないだろう。もちろん、反ユダヤ主義を断罪しているのとは、全く違う。
そもそもバリー・コスキー自身がユダヤ系の人なのだから、その方がよほど思い切った皮肉とでも言わなければなるまい。
●ワーグナーへの弁護
その一方、この演出では、ワーグナーへの弁護は徹底して行われている。
第3幕の舞台装置は、ニュルンベルク裁判の法廷の容を採ったつくりである。ここでザックスが独りで「迷いだ、すべて迷いだ」を歌うのは理に適っていると思われるが、ヴァルターが自作の詩を披露したり、ダーヴィト(ダニエル・ベーレ)の徒弟昇格の儀式が行われたり、マクダレーネ(ヴィープケ・レームクール)やエファら5人が集うのは、少し不自然かもしれない。これから法廷で弁明を行う立場にあるザックスの遺言━━とでも解釈すればそれはそれでいいのかもしれないが。
だが、その「法廷」になだれ込むのは、陽気な市民たちや、幟をおし立てた徒弟たちや親方たちである。「ニュルンベルク裁判」は、完全におちょくられたようである。
この歌合戦の場は、非常にコミカルなタッチで賑やかに進められる。ホモの親方にしがみつかれたヴァルターが嫌な顔をするくだりでは、客席からも爆笑が起こった。この、若い時期のワーグナーともいうべきヴァルターが、「朝はばら色の」を自作の歌であると「証言」し、一同が歓呼して享けるあたりは、オリジナル通りだ。
しかし、そのヴァルターが「親方昇格」を拒否した瞬間に、親方たちがヴァルターともども舞台から姿を消すあたりから、コスキー独自の解釈が始まる。
つまり、ザックスが一同から離反されるのは、あの「大演説」にこめられた政治的な理由からではなく、ヴァルターの扱いに関する仕切りの悪さを非難されてのこと、という設定なのである。
誰もいなくなった舞台に独り立ち、マイスタージンガーの「ドイツ芸術」の価値を見直すよう、観客に向かって必死に訴えるザックスの姿は、孤独で悲壮感にあふれている。オリジナルの台本におけるような「高い目線からの温かいお説教」ではないので、なおさら印象深いものになる。
だが彼は、ザックスであると同時に、ワーグナーその人でもあった。とすれば、彼は決して孤独ではなく、勝利者であるはずなのだ。
ザックスの演説が終りかけると、舞台奥から小さなステージに乗ったオーケストラと合唱団が滑り出して来て、ザックス(ワーグナー)は、懸命に、しかも誇り高くそれを指揮する。それらがまた奥へ移動して行き、部屋の壁が幕代わりに降りて、━━それで全曲が終る。
こうして、ワーグナーとザックスは、力強く信念を主張した。しかも何と、「ニュルンベルク裁判の法廷」という場で、堂々と弁明したのである! これはドイツにとり、一種の象徴的な行動ではなかったろうか。
ここバイロイトでブーイングが一切出て来ない新作の上演に接したのは、少なくとも私は初めての体験である。
このザックスを歌い演じたミヒャエル・フォレの、何と巧いこと!
彼はバイロイトの前作「マイスタージンガー」では、堅物から前衛芸術家に変貌するベックメッサーを見事に演じていた。また2013年のザルツブルクでのヘアハイム演出による「マイスタージンガー」では「気の弱いザックス」をこれまた巧みに演じていた人だ。今回のこのザックスは、特にラストシーンの悲壮な絶叫ともいうべき大演説を頂点として、実に精緻微細に演じられたのであった。
彼だけではない。クレンツルも、レヴィそのままの顎髭を生やした顔で、卑屈なほど従順なワーグナー信奉者レヴィと、ザックスに盾突くベックメッサーとを、巧みに演じ分けていた。フォークトも前作に続いての同役での登場だが、もちろん演技はいい。彼としてはちょっと声が完全ではなかったようだが、それでもやはり非凡なものであった。
今回座った席が5列目やや下手側ということもあって、この劇場独特のオーケストラの響きは、ひときわ素晴らしく聞こえた。特に弦楽器群の瑞々しい音色は、第2幕以降は、まるでピットの上から舞台前方にまで爽やかな音の絨毯が拡がっているようなイメージに感じられたのである。「マイスタージンガー」で、これほどオーケストラが美しく、その雄弁さと巨大な存在感を印象づけられたことはこれまでなかった。
フィリップ・ヨルダン(ジョルダン)の指揮は、どちらかといえば軽量タイプに感じられるものの、若々しく清廉で、悪くないだろう。粗っぽく雑然とした演奏のところも少なくなかったが、美しいところは並外れて美しかった。
10時30分終演、10時40分カーテンコール終了。大いに満足して席を立つ。
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