2021・11・11(木)ブルース・リウ ピアノ・リサイタル
東京オペラシティ コンサートホール 7時
先頃の「第18回ショパン国際ピアノ・コンクール」で優勝したブルース・リウの演奏が早くも東京で聴けたことは有難い。この人、以前仙台国際ピアノ・コンクールでも入賞していたそうだが、私はそれは聴いていなかったので、今回初めて彼の演奏に接することになる。
文字通り満席の東京オペラシティのコンサートホールで開かれた今日のリサイタルはもちろんショパン・プログラムで、
前半に「ノクターンOp.27-1」、「スケルツォ第4番」「バラード第2番」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。
後半に「4つのマズルカOp.33」、「ソナタ第2番《葬送》」、「モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》による変奏曲」という構成。
この中で「マズルカ」の4番目と、そのあとの最後の2曲が「ロ短調」-「変ロ短調」-「変ロ長調」という配列になっていたのは、さすがリウ、考えたな、という感である。
なおアンコールには「ノクターン第20番嬰ハ短調 遺作」「黒鍵のエチュード」と続けた後に突然バッハの「フランス組曲第5番」の「アルマンド」を弾き、そのあとにまたショパンの「ワルツOp.42」を演奏した。私はここまで聴いて失礼したのだが、あとで主催者ジャパン・アーツのサイトを見たらそこまでしか載っていなかったので、コンサートはそれで終ったのだろう。
コンクールの本番ではどのような演奏をしたのかは承知していないけれども、こういう大胆奔放なショパンを弾くピアニストが優勝したということは、コンクールの性格も随分変わったものだという気がする。実に面白い世の中になったものだ。
「マズルカ」など、ほとんど即興演奏のようなイメージの、変幻自在の躍動━━あたかも「快速テンポ版ポゴレリチ」の如き容を感じさせたし、他の「スケルツォ」や「バラード」、あるいは「葬送ソナタ」の前半2楽章にしても、己の昂揚する感情の動きをそのまま鍵盤に叩きつけているかのよう。
それほど激しい演奏ではない個所においても、音楽が非常に流動的でしなやかで、大きく揺れていて表情が豊かだ。
しかし感嘆させられるのは、その流動性が音楽の構成と密接に結びついていて、その大きな一呼吸が音楽の一つの段落と連動しているように聞こえることだ。音楽の容が崩れていないのはそのためもあるだろう(ポゴレリチと違う点のひとつはそこにあるかもしれぬ)。
いずれにせよ、こういうピアニストが東洋系から出現しているというのも面白い。伝統的なスタイルのショパンを好む人からはどう受け取られるだろう?
昔、中村紘子さんから聞いた話だが、どこだったかヨーロッパのホテルのレストランで、傍のテーブルに座ってインタヴューを受けていた大指揮者エーリヒ・ラインスドルフが、大声でポリーニの演奏をケチョンケチョンにこき下ろし、「あんなのがショパンだというなら19世紀が泣くわい」と怒鳴っていたそうだ。今、ラインスドルフが生きていてこのブルース・リウのショパンを聴いたら、激怒のあまり卒倒するかも。
先頃の「第18回ショパン国際ピアノ・コンクール」で優勝したブルース・リウの演奏が早くも東京で聴けたことは有難い。この人、以前仙台国際ピアノ・コンクールでも入賞していたそうだが、私はそれは聴いていなかったので、今回初めて彼の演奏に接することになる。
文字通り満席の東京オペラシティのコンサートホールで開かれた今日のリサイタルはもちろんショパン・プログラムで、
前半に「ノクターンOp.27-1」、「スケルツォ第4番」「バラード第2番」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。
後半に「4つのマズルカOp.33」、「ソナタ第2番《葬送》」、「モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》による変奏曲」という構成。
この中で「マズルカ」の4番目と、そのあとの最後の2曲が「ロ短調」-「変ロ短調」-「変ロ長調」という配列になっていたのは、さすがリウ、考えたな、という感である。
なおアンコールには「ノクターン第20番嬰ハ短調 遺作」「黒鍵のエチュード」と続けた後に突然バッハの「フランス組曲第5番」の「アルマンド」を弾き、そのあとにまたショパンの「ワルツOp.42」を演奏した。私はここまで聴いて失礼したのだが、あとで主催者ジャパン・アーツのサイトを見たらそこまでしか載っていなかったので、コンサートはそれで終ったのだろう。
コンクールの本番ではどのような演奏をしたのかは承知していないけれども、こういう大胆奔放なショパンを弾くピアニストが優勝したということは、コンクールの性格も随分変わったものだという気がする。実に面白い世の中になったものだ。
「マズルカ」など、ほとんど即興演奏のようなイメージの、変幻自在の躍動━━あたかも「快速テンポ版ポゴレリチ」の如き容を感じさせたし、他の「スケルツォ」や「バラード」、あるいは「葬送ソナタ」の前半2楽章にしても、己の昂揚する感情の動きをそのまま鍵盤に叩きつけているかのよう。
それほど激しい演奏ではない個所においても、音楽が非常に流動的でしなやかで、大きく揺れていて表情が豊かだ。
しかし感嘆させられるのは、その流動性が音楽の構成と密接に結びついていて、その大きな一呼吸が音楽の一つの段落と連動しているように聞こえることだ。音楽の容が崩れていないのはそのためもあるだろう(ポゴレリチと違う点のひとつはそこにあるかもしれぬ)。
いずれにせよ、こういうピアニストが東洋系から出現しているというのも面白い。伝統的なスタイルのショパンを好む人からはどう受け取られるだろう?
昔、中村紘子さんから聞いた話だが、どこだったかヨーロッパのホテルのレストランで、傍のテーブルに座ってインタヴューを受けていた大指揮者エーリヒ・ラインスドルフが、大声でポリーニの演奏をケチョンケチョンにこき下ろし、「あんなのがショパンだというなら19世紀が泣くわい」と怒鳴っていたそうだ。今、ラインスドルフが生きていてこのブルース・リウのショパンを聴いたら、激怒のあまり卒倒するかも。