2017・11・24(金)東京二期会 J・シュトラウスⅡ:「こうもり」
日生劇場 5時
「二期会創立65周年」記念で、「NISSAY OPERA 2017」提携公演。
阪哲郎の指揮、アンドレアス・ホモキの演出。
出演は、小森輝彦(アイゼンシュタイン)、澤畑恵美(妻ロザリンデ)、清野友香莉(小間使アデーレ)、山下浩司(刑務所長フランク)、宮本益光(こうもり博士ファルケ)、糸賀修平(歌手アルフレード)、青木エマ(オルロフスキー)、大野光彦(弁護士ブリント)、秋津緑(イーダ)、イッセー尾形(看守フロッシュ)。
ホモキ演出というから、普通の見慣れた「こうもり」ではなく、多かれ少なかれ捻った「こうもり」になると期待していたが、まあほぼ予想通りというか。
アイゼンシュタイン家の居間を3幕全体共通の場面とし、また第2幕の「オルロフスキー家の宴会」で酔いつぶれた客たちは、其処が第3幕の「牢獄」の場に変わってもやはり同じ姿勢のまま寝ている・・・・といった具合だから、「ロシア公爵オルロフスキー」などという人物が本当にいたのか、いなかったのかということさえ曖昧にされてしまう。事実その「オルロフスキー」は、ファルケにより男装に仕立てられた女性であることがすでに明かされており、その「演技」の要領が悪いとファルケからどやされているといった人物なのである。
つまりこの物語は、シャンパンの酔いによる「槿花一朝の夢」とでもいうのか━━「すべてはシャンパンのせい」という幕切れの合唱の歌詞をモティーフとし、それを拡大解釈した演出と言えるのだろう。全曲最後の数秒間に、場面が第1幕のアルフレード、ロザリンデ、アデーレの3人が集っている時間に戻るので、これでネタがばらされるという仕掛けだ。ただし、アイゼンシュタインが入牢するという話だけはどうやら「本物」のようである。
演出補として、菅尾友の名がクレジットされている。日本語台本も、彼の「翻案」によるものとのこと。
舞台美術はヴォルフガング・グスマンで、これもコーミッシェ・オーパーの舞台装置なる由。
歌詞はドイツ語、セリフは日本語というバイリンガル・スタイル。これは時々使用される手法だが、あまり良いアイディアとも思えない。とはいえ、日本語から音楽に移るところの流れなどは、予想以上にスムースに行っていた。
かなりドタバタ調の舞台だが、歌手陣が達者なので、さほど違和感なく楽しめる。ただ台詞場面では、時に間延びするところがあるのが惜しかった。
歌手陣の中では、小森輝彦のアイゼンシュタインが、ドタバタ調で暴れ回り、大変面白い。
澤畑恵美のロザリンデも、貴婦人然とした場面ではいっそう映える。
アデーレの清野友香莉は、特に後半にかけて華やかさを増した。青木エマのオルロフスキー役は以前に絶賛した覚えがあるが、今回は「女性=偽物公爵」という設定なのでそれほど目立たず、ズボン役としての魅力を前回ほどに発揮できぬ立場だったのは少々残念。
そういえば他のキャラクターも、この少々雑然たる動きの舞台では、存在感をあまり目立たせることができずに終っていたが、これには日本人歌手の個性と、この演出とのギャップも影響しているのだろうか。
指揮は、「こうもり」を得意とする阪哲郎だったが、非常に切れのいい軽快なリズムと速いテンポで、いい演奏をつくり出していた。欧州歌劇場での長い経験が生きているのであろう。
問題はオーケストラ(東京フィル)である。先頃プレトニョフの指揮であれほど幻想的な素晴らしい演奏をしたばかりなのに、今回はまた情けない演奏をしてくれた。今日のコンサートマスターはだれか知らないけれども、音がか細く、痩せていて、カサカサに乾いていて、アンサンブルも粗い。J・シュトラウスの馥郁たる香りなど、ひとカケラもなく、まるで昭和20年代の、貧弱な音のSPレコードで聞く歌謡曲の伴奏音楽のような音だ。日本のオーケストラとオペラを愛する者として今度こそ敢えてはっきり言わせてもらうが、これはあまりにひどすぎる。楽団の良心を問いたい。
「二期会創立65周年」記念で、「NISSAY OPERA 2017」提携公演。
阪哲郎の指揮、アンドレアス・ホモキの演出。
出演は、小森輝彦(アイゼンシュタイン)、澤畑恵美(妻ロザリンデ)、清野友香莉(小間使アデーレ)、山下浩司(刑務所長フランク)、宮本益光(こうもり博士ファルケ)、糸賀修平(歌手アルフレード)、青木エマ(オルロフスキー)、大野光彦(弁護士ブリント)、秋津緑(イーダ)、イッセー尾形(看守フロッシュ)。
ホモキ演出というから、普通の見慣れた「こうもり」ではなく、多かれ少なかれ捻った「こうもり」になると期待していたが、まあほぼ予想通りというか。
アイゼンシュタイン家の居間を3幕全体共通の場面とし、また第2幕の「オルロフスキー家の宴会」で酔いつぶれた客たちは、其処が第3幕の「牢獄」の場に変わってもやはり同じ姿勢のまま寝ている・・・・といった具合だから、「ロシア公爵オルロフスキー」などという人物が本当にいたのか、いなかったのかということさえ曖昧にされてしまう。事実その「オルロフスキー」は、ファルケにより男装に仕立てられた女性であることがすでに明かされており、その「演技」の要領が悪いとファルケからどやされているといった人物なのである。
つまりこの物語は、シャンパンの酔いによる「槿花一朝の夢」とでもいうのか━━「すべてはシャンパンのせい」という幕切れの合唱の歌詞をモティーフとし、それを拡大解釈した演出と言えるのだろう。全曲最後の数秒間に、場面が第1幕のアルフレード、ロザリンデ、アデーレの3人が集っている時間に戻るので、これでネタがばらされるという仕掛けだ。ただし、アイゼンシュタインが入牢するという話だけはどうやら「本物」のようである。
演出補として、菅尾友の名がクレジットされている。日本語台本も、彼の「翻案」によるものとのこと。
舞台美術はヴォルフガング・グスマンで、これもコーミッシェ・オーパーの舞台装置なる由。
歌詞はドイツ語、セリフは日本語というバイリンガル・スタイル。これは時々使用される手法だが、あまり良いアイディアとも思えない。とはいえ、日本語から音楽に移るところの流れなどは、予想以上にスムースに行っていた。
かなりドタバタ調の舞台だが、歌手陣が達者なので、さほど違和感なく楽しめる。ただ台詞場面では、時に間延びするところがあるのが惜しかった。
歌手陣の中では、小森輝彦のアイゼンシュタインが、ドタバタ調で暴れ回り、大変面白い。
澤畑恵美のロザリンデも、貴婦人然とした場面ではいっそう映える。
アデーレの清野友香莉は、特に後半にかけて華やかさを増した。青木エマのオルロフスキー役は以前に絶賛した覚えがあるが、今回は「女性=偽物公爵」という設定なのでそれほど目立たず、ズボン役としての魅力を前回ほどに発揮できぬ立場だったのは少々残念。
そういえば他のキャラクターも、この少々雑然たる動きの舞台では、存在感をあまり目立たせることができずに終っていたが、これには日本人歌手の個性と、この演出とのギャップも影響しているのだろうか。
指揮は、「こうもり」を得意とする阪哲郎だったが、非常に切れのいい軽快なリズムと速いテンポで、いい演奏をつくり出していた。欧州歌劇場での長い経験が生きているのであろう。
問題はオーケストラ(東京フィル)である。先頃プレトニョフの指揮であれほど幻想的な素晴らしい演奏をしたばかりなのに、今回はまた情けない演奏をしてくれた。今日のコンサートマスターはだれか知らないけれども、音がか細く、痩せていて、カサカサに乾いていて、アンサンブルも粗い。J・シュトラウスの馥郁たる香りなど、ひとカケラもなく、まるで昭和20年代の、貧弱な音のSPレコードで聞く歌謡曲の伴奏音楽のような音だ。日本のオーケストラとオペラを愛する者として今度こそ敢えてはっきり言わせてもらうが、これはあまりにひどすぎる。楽団の良心を問いたい。
コメント
東京フィルは、読響、都響に「オペラオケ」の立場を奪われつつありますから、頑張って欲しいですね。定期演奏会での演奏会形式オペラでアピールしていますが、そのせいか普通の交響曲の演奏には力が入っていない様子もあり、このままではどっち付かずのオケになりそうです。
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