2024-12

2022年6月 の記事一覧




2022・6・29(水)アレクサンダー・ガジェヴ ピアノ・リサイタル

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 2015年の浜松国際ピアノコンクール優勝者にして、昨年のショパン国際ピアノコンクール第2位入賞者アレクサンダー・ガジェヴのこのリサイタルは、完売満席。さながら女性専用演奏会の如し。

 プログラムは、前半にショパンの作品から「前奏曲嬰ハ短調Op.45」「ポロネーズ第5番嬰へ短調Op.44」、「ソナタ第2番変ロ短調Op.35《葬送》」、後半にシューマンの「幻想曲ハ長調Op.17」という曲目で構成された。

 浜松国際ピアノコンクールでの彼の演奏に関しては、当該の項(☞2015年12月1日、☞12月7日、☞12月8日)で多少書いた。7年も経った今では、その風格といい、自信満々の表情といい、演奏への感情移入の激しさといい、流石にあの時とは格段の違いがある。

 とりわけ今回、印象的だったことのひとつは、その音の美しさで、抜けるような明るさと透明さがあり、それが音楽をいちだんと爽やかな表情にしていたことであった。ふつうなら翳りの濃いはずの嬰ハ短調の前奏曲においてさえ、その明るさと爽やかさは冒頭から溢れんばかりに流れ出ていたのである。
 イタリアの若者らしい感性だ、などといい加減なことは言いたくないけれども、とにかくこの憂愁に満ちた作品を面白い感性で捉えるものだ、と、首をひねったり、感心したりしながら聴き入った次第だ。ましてや、シューマンのハ長調の「幻想曲」では、その明朗な解放感に満ちた演奏には、大いに魅惑されずにはいられなかった。

2022・6・26(日)調布国際音楽祭最終日 鈴木雅明指揮BCJ

      調布市グリーンホール 大ホール  6時30分

 マケラと東京都響の超快演のおかげで、何とか元気を取り戻し、地下鉄南北線と都営地下鉄・京王線を乗り継ぎ、今日も調布駅へ向かう。
 音楽祭も今日が最終日、昼間は鈴木優人がN響を指揮、夜はこのバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の演奏によるバッハで締め括るというタイムテーブルになっている。

 BCJのこれは「バッハ超名曲選!」というタイトルの演奏会だ。
 プレトークでマエストロ鈴木雅明が、「誰が考えたのか知らないけど、超名曲じゃないですね」と聴衆を笑わせたプログラムは、3つのカンタータからのシンフォニアを組み合わせた「合奏協奏曲」と、これもカンタータ2曲を組み合わせた「オルガン協奏曲」とを第1部とし、「カンタータ第51番」(ソリストは中江早希)および「管弦楽組曲第4番」を第2部に置いたもの。

 なおオルガンは、BCJ秘蔵のコンティヌオ・オルガンを運搬して来て組み立て、ステージ上手側に設置してあるという有難い光景の中にあった。演奏したのは鈴木優人である。

 ショスタコーヴィチのあとに聴いたバッハは、何とも形容し難いほど爽やかで美しく、精神的にも体調的にも救済を与えてくれる、と言ったら鼻持ちならぬステレオタイプの美辞麗句に聞こえるかもしれないが、実際にそういう状態にさせられたのだから仕方がない。
 鈴木雅明とBCJの演奏は、少しラフではあったが、郊外のこの「手づくり音楽祭」をあたたかい雰囲気の裡に締め括るには、最高のものとなった。

2022・6・26(日)クラウス・マケラ指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  2時

 話題の指揮者、クラウス・マケラ。4年前の初来日の際には、私は聴いていなかった。 
 1996年生れの26歳、フィンランド出身で、既にオスロ・フィルの首席指揮者とパリ管弦楽団の音楽監督を務めている。瞬く間に欧州楽壇の寵児となった若者だ。

 これは本当に凄い。素晴らしい指揮者が現れたものである。
 今日はジノヴィエフの「バッテリア」という曲と、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」を指揮したが、特に後者での演奏は━━この長い全曲を些かも隙間なく緩みなく構築した集中力、切れ目なく第4楽章に移った瞬間の巧みな表情の変化、音楽が頂点へ向かう個所での緊迫力、そして都響から引き出した完璧なほどの音の均衡など、驚異的なものであった。

 都響もまさに、「滅多にないほど」の物凄い演奏をした。木管群のハーモニーは、紛れもなくあの「ショスタコーヴィチの木管の音」だったし、矢部達哉をコンサートマスターとする弦楽器群の沸騰ぶりは、まさに息を呑むほどだったのである。

 第4楽章最後の頂点などで、響きがあまり粘っこくなく、一種の透明感を保っていたあたりは、やはり彼がフィンランド人指揮者である所以だろうか。
 とにかく、これは恐るべき若手指揮者が出現したものである。こうなると、1日のマーラーの「6番」も聴き逃せないだろう。

 1曲目に演奏された、これもフィンランドの作曲家サウリ・ジノヴィエフの「バッテリア」という演奏時間10分ほどの大編成の作品(これが日本初演)は、出だしからして猛烈な音楽だ。全体に不安、焦燥、憤怒といった感情が渦巻き沸騰しているような曲想である。
 こういう曲は体調不良の時に聴くと、エライことになる。実は私はこの日の猛暑の所為で、客席についてからも貧血状態で、ハンカチ1枚を汗でぐっしょりにしてしまったほどなので、この曲が演奏されている間は、本当にどうしようかと思ったほどで‥‥。

 なおこの作曲者は会場に来ていて、演奏後はステージ上に呼ばれてマケラと抱擁し、客席からも拍手を浴びていた。

2022・6・25(土)調布国際音楽祭8日目
鈴木雅明指揮フェスティバル・オーケストラ&河村尚子

        調布市グリーンホール 大ホール  6時30分

 鈴木優人がエグゼクティブ・プロデューサーとして率いる調布国際音楽祭、今年は10周年。
 昨年は読響が出演、今年はN響や河村尚子も登場。郊外の街の音楽祭でありながら、出演者陣は豪華なものである。鈴木優人のプロデュースの力量は並々ならぬもので、さながら「調布のカラヤン」というところか。

 今日はフェスティバル・オーケストラを聴く。このオケは、メンバーの大半は若手集団ながら、コンサートマスターの白井圭をはじめ、瀧村依里、柳瀬省太ら、N響や読響、BCJなどの大物奏者たちがずらりとトップに座って全体を引き締めているところが特徴だ。「教育活動」としての側面もあるのだろう。
 今日の指揮は鈴木雅明で、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、シューマンの「ピアノ協奏曲」(ソリストは河村尚子)、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラムだった。

 鈴木雅明の指揮するロマン派音楽は如何なるものか、と、それにも興味津々だったのだが、すこぶるユニークである。
 「フィンガルの洞窟」など、これほど各声部の交錯が明快に響かせられ、アクセントやデュナミークの対比なども丁寧に再現され、各フレーズが旋律美に富んで再現された演奏は、聴いたことがない。まるでバロック音楽の時代にスリップしたメンデルスゾーン、といった感である。
 その代わり、言っちゃ何だが、これほど海の雰囲気━━大岩壁に打ち寄せる波濤、吹き荒ぶ風、海鳥の舞う光景といったような━━を感じさせなかった「フィンガルの洞窟」の演奏もまた、珍しい。それはそれで興味深い解釈であることは事実だが、聴いていてあまり楽しさが感じられなかったのも確かだ。

 シューマンの協奏曲でも、オーケストラと河村尚子のピアノが妙にチグハグに聞こえるようなところもあり、彼女のピアノも何かいつもと違う。ソロ・アンコールで彼女が弾いたシューマン~リストの「献呈」で、やっといつもの彼女の顔が見えたような。

 ブラームスの「第1交響曲」でも、ふだんあまり聞こえないような声部が浮き彫りになったりして、その推進性豊かな演奏とともに、鈴木雅明の指揮に興味を惹かれる部分は確かに多い。だが、それを云々するのは、また別のプロ・オーケストラとの演奏を聴いてからの方がよさそうだ。

2022・6・25(土)「かふぇ あたらくしあ」のこと

 最近、特にSPレコード・ファンの間で噂になっている、神保町の「かふぇ あたらくしあCafé-ataraxia」なる店を初めて訪れる。これは、かつてFM静岡に在籍した知人が独立して、今春開いた店だ。

 所謂「名曲喫茶」とは少し違うシステムだけれども、かなり凝ったコーヒーやケーキが味わえるし、何よりも正面に威容たっぷり鎮座している名高い世界最高の手巻き蓄音機「ヴィクトローラ・クレデンザ」(何期のものかは聞き洩らした)が目を惹く。口コミが新たな評判を呼び、このクレデンザを目当てにSP盤を携えて訪れる人も増えているのだとか。

 私も今日はフルトヴェングラー指揮のポリドール盤の「トリスタン」や、古い電気吹込盤やラッパ吹込盤を━━鉄針で━━いくつか聴かせてもらったが、そのバランスの良い風格ある音に陶然とさせられた。また行ってみたいと思う。
 いつの日か、かの有名な岩手のジャズ喫茶「ベーシー」と同じように、「東京のベーシー」たり得る店ではないかと思うが。

 神保町から都営地下鉄に乗り、京王線調布駅に向かう。

2022・6・24(金)カルテット・アマービレ

       HAKUJU HALL 7時

 2016年のミュンヘン国際音楽コンクール弦楽四重奏部門で第3位に入賞したカルテット・アマービレ(篠原悠那vn、北田千尋vn、中恵菜va、笹沼樹vc)のシリーズ演奏会。
 最初にカルテットが、プッチーニの「菊」とブラームスの「第2番イ短調」を弾く。休憩後には、山崎伸子(vc)と鈴木康浩(va)が加わり、ドヴォルジャークの「弦楽六重奏曲イ長調」と、アンコールにチャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」第2楽章を演奏した。

 このカルテットは、日本の若い世代の弦楽四重奏団の中でも、ひときわ優れた団体ではないかと思う。昨年11月のポール・メイエと組んだ演奏会でも、その音色の美しさと多彩さなどに驚嘆させられたものだ。今日の演奏でも、プッチーニとブラームスでガラリと音の色彩を変え、南国の解放感から北国の陰翳へ━━といったような鮮やかな転換を示して、彼らの表現の幅の広さを感じさせた。

 ただ、このよく響くホールは、弦楽器群のフォルティッシモを、何か不思議に野太い音色に変えてしまう癖があるのか? 席の位置にもよるのかもしれないが、私にはそのように感じられてしまい、特に後半の六重奏曲では、かなり耳にビンビン来る音に些か戸惑った次第である。

 それにしても、山崎伸子と鈴木康浩という両ベテランは、カルテットのメンバーにとっては先生にも相当する人たちだが、この2人が加わった六重奏曲における演奏の推進力たるや凄まじい。桐朋学園系の奏者たちが組んだアンサンブルといえば、昔から常にこういう沸き立つような熱気を演奏に漲らせていたものだが、今日は久しぶりにそういう演奏に浸ったような気がする。

 このカルテットのメンバーも、常設とはいえ、それぞれの仕事が忙しいという立場にあるらしい。何とかこの勢いをずっと継続してくれるよう願わないではいられない。

2022・6・22(水)阪哲朗指揮山形交響楽団 東京公演

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 恒例の「さくらんぼコンサート」。
 ロビーには山形の名産品の即売コーナーが━━昔ほどの規模ではないけれど━━またずらりと並んで、コンサートを聴きに来た客たちを愉しませるようになった。抽選で客にサクランボを贈呈するという名物行事も相変わらずである(ただしサクランボはもう佐藤錦ではないようだが)。

 演奏会のプログラムは、木島由美子の「風薫~山寺にて」(山響創立50周年記念委嘱作品)、ラロの「スペイン交響曲」(ソリストは神尾真由子)、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」。これまでの「さくらんぼコンサート」とは少々趣を変えて、意欲的な選曲で真っ向勝負に出た、という印象だ。コンサートマスターは高橋和貴。

 阪哲朗が常任指揮者として山響の東京公演を振るのは、2019年に次いで3年ぶりになる。もうすっかりこのオーケストラを手中に収めたようである。
 山響の変貌ぶりも目覚ましい。昔は地味な、いかにも「東北の」といった雰囲気を感じさせたオーケストラだったが、飯森範親がシェフになってからは、響きと音色と表情に活気と明るさが生まれ、解放感とエネルギーが噴出するオケになった。
 そして、2019年4月に阪哲朗を常任指揮者として迎えてからは、明晰で透徹した、洗練度の高い響きが加わって来た。30年前の山響を記憶している人が、もし今日の演奏会をブラインドで聴いたなら、これが同じオーケストラだと当てられる人は、ほとんどいないのではなかろうか。

 もっとも、その所為かどうかはともかく、「風薫~山寺にて」の演奏では、多分作品に満ちあふれているであろう「土の香り」が、かなり薄められてしまっていたのは皮肉というべきかもしれない。
 でもこれは、欠点として言っているのではない。演奏自体はすこぶる立派だった。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」での演奏と同じく、民族色よりも近代音楽的手法の作品としてのイメージを強く感じさせた、という意味で言っているのである。

 因みに「山寺」とは、仙山線の山寺駅近くにある有名な「宝珠山 立石寺」(岩にしみ入る蝉の声、でおなじみの寺)である由。この寺への懐かしさを籠めた曲を、民謡を利用したご当地ソングのようなありきたりのものにしなかったのは、賢明なことであった。
 なお、前出のバルトークの「オケコン」も、弦10型による編成ながら、量感も質感もたっぷりとして聴き応え充分のものがあったのはもちろんである。

 「スペイン交響曲」でも、神尾真由子の気魄に富んだ白熱的なソロとともに、阪と山響は躍動感と流麗さを兼ね備えた演奏を繰り広げていた。私はこの曲を面白いと思ったことはこれまでほとんどないのだが、今回はすこぶる楽しく聴けた。神尾のアンコールは定番の「魔王」。

 阪哲朗氏は、一発勝負屋として仕事をする人ではない。オーケストラの指揮でもオペラの指揮でも、じっくりと腰を据えて取り組んで素晴らしい成果を上げるタイプの指揮者である。その彼が、オーケストラの分野では山響という良きパートナーを得た。一方オペラの分野では、来年春からのびわ湖ホール芸術監督というポストが待っている。彼の真価が日本でも発揮される時代がいよいよ来たようだ。

2022・6・21(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 久しぶりにナマの演奏会を聴く。やはりいいものだ。音響という点からだけでなく、演奏の誕生を現場で、音楽を愛する人たちと共有できること。私はこれが何より好きだ。
 今日の読響6月定期のプログラムは、ルディ・シュテファンの「管弦楽のための音楽」と、ブルックナーの「第7交響曲」(ノーヴァク版)。コンサートマスターは小森谷巧。

 ルディ・シュテファンは、ドイツの作曲家で、将来を嘱望されながら第1次世界大戦に駆り出され、1915年に東部戦線で戦死したと伝えられる。28歳だった由。
 この「管弦楽のための音楽」は1912年の作で、20分程度の長さを持つ大編成の管弦楽作品だ。25歳の作品にしては随分内省的な、沈潜して晦渋な趣きを感じさせる曲だが、それだけに大詰めの個所での光明を求めるかのような響きが、ひときわ強い印象を与える。
 シェーンベルクの初期のスタイルをしのばせるところもある伝統的な手法ではあるが、R・シュトラウスのような開放的な作風ではなく、どちらかと言えばヒンデミットに近い雰囲気を感じさせるものだろう。
 いずれにせよ、いかにもドイツの作曲家だなという感の音楽である。

 そういえば、私はほんの部分的にしか聴いていないけれども、シュテファンのオペラ「最初の人間たちDie Ersten Menschen」など、予想外に官能的な音楽で、彼の多才さをしのばせる。 もし彼がその後も生きていたら、どのような作曲家になって行っただろうか。戦争というものは、未来を持つ人々の命を簡単に奪ってしまう呪わしいものである。

 今日のセバスティアンと読響の、この曲における演奏は、均整を保った、すこぶる精巧で緻密なものだった。この作曲家に対する興味を湧かせるには充分で、このコンビの最良のものが出た演奏であろう。

 ヴァイグレのブルックナーを聴いたのは、あの読響常任指揮者就任定期での「9番」と、そのあと「6番」と‥‥。今回の「7番」では、第1楽章の遅めのテンポに驚かされたが、沈潜した前半2楽章でいっぱいに矯めたエネルギーを後半2楽章で一気に解放するというヴァイグレの演奏設計は明確に聴き取れて、なるほどと思わされた。
 曲がクレッシェンドして最強奏に盛り上がって行くところでの音量的なパワーは、さすが読響の馬力というべきか。

 ただ、━━ヴァイグレの身振りからすると、クレッシェンドの個所は、もっと厚い響きで巨大に膨れ上がり、恐るべき頂点に達する、というタイプの演奏を求めていたのではないかという気もしないでもない。第1楽章の終結個所や、第2楽章後半での頂点の個所など、ここぞというところで、オーケストラに今ひとつ圧倒的な濃密な響きがあったら、と思うのだが━━これは、「6番」の時もそうだったが━━わずかながらの音の淡白さ、薄さが気になった。
 それが日本のオーケストラの所為なのか、ヴァイグレの即物的な感覚によるものなのかは、しかとは判らないけれど。

 ともあれ、演奏のあと、聴衆は盛り上がった。ヴァイグレは単独でステージに呼び戻されたが、この日本の聴衆が示した反応に、常任指揮者としての彼も嬉しかったのではなかろうか。

2022・6・19(日)サントリーホール チェンバーミュージックガーデン
CMGフィナーレ2022

       ブルーローズ(小ホール) 2時

 続いてオンラインをもう一つ。最終日の「フィナーレ演奏会」を視聴。

 今年の「チェンバーミュージックガーデン(CMG)」は、出演者もすこぶる多彩だったが、今日現在の滞日中のメンバーを総動員したようなこの「フィナーレ」も、実に賑やかだった。

 演奏者たちに敬意を表するために名を列記させていただくと、ホルンのラデク・バボラーク、アトリウム弦楽四重奏団、ヴァイオリンの池田菊衛・原田幸一郎・渡辺玲子、ヴィオラの磯村和英、チェロの堤剛・辻本玲・毛利伯郎、ピアノの練木繁夫、ハープの吉野直子。それにサントリーホール室内楽アカデミー選抜フェローとしてのレグルス・クァルテットとドヌムーザ弦楽四重奏団、およびそのメンバーも入っているCMAアンサンブル。

 プログラムも、イベール、ベートーヴェン、フランク、チャイコフスキー、バルトーク、マーラー、ブルッフの作品など多岐に及んだ。
 日本の若手四重奏団レグルス・クァルテットがベートーヴェンの「第12番」第3楽章を生真面目に演奏したあと、ベテランの原田・池田・磯村(旧東京クァルテットのメンバー、懐かしい!)と毛利・練木がフランクの「ピアノ五重奏曲」第1楽章を貫禄たっぷりに演奏してキャリアの差を示す。そしてそのあとに、今度はアトリウム弦楽四重奏団が、彼らの故国の大作曲家チャイコフスキーの「第2番」の後半2楽章を鮮烈なメリハリを以て劇的に披露して第1部の頂点を築き上げる━━といったように、演奏の対比や流れの変化をも予想したプログラミングも、見事であった。

 演奏会の最後には、ステージいっぱいに並んだ若い演奏家ばかりのCMAアンサンブルをバックに、大御所の堤剛が、朗々とブルッフの「コル・二ドライ」を弾く。ここでの彼の幸せそうな表情たるや、実に印象的であった。演奏後には花束も贈呈された。
 サントリーホール館長でもある堤さんは、間もなく80歳を迎えるとのこと。この人は本当に元気で、未だに現役バリバリのチェリストでもあるのだから、大したものである。

2022・6・18(土)サントリーホール チェンバーミュージックガーデン
ラデク・バボラークの個展

        ブルーローズ(小ホール) 7時

 これもオンラインによる視聴。サントリーホールから送られて来たURLから入り、たっぷり2時間以上、ホルンの名手ラデク・バボラークの演奏を堪能した。

 プログラムが実に多彩で、バッハのコラールの編曲もの3曲に始まり、モーツァルトの「ヴァイオリン・ソナタK.304(300c)のホルン編曲版、シューマンの「幻想小曲集」と続き、休憩後にはドビュッシーの「シャルル・ドルレアンの3つの歌」編曲版、ベートーヴェンの「六重奏曲Op.81b」、フランセの「夜想曲と嬉遊曲」、ブルックナーの「アンダンテ」、更にアンコールではグリエールの「悲しきワルツ」とフォーレの「パヴァ―ヌ」といった具合である。

 バボラークも図抜けて巧いが、協演者たちも、みんな上手い。ピアノの菊池洋子、ホルンの福川伸陽・今井仁志・石山直城、それにアトリウム弦楽四重奏団。快演の熱気が、パソコンの画面とスピーカーを通してこちらにも伝わって来る。
 こちら「デジタル・サントリーホール」の配信では、曲名や演奏者名が親切に画面上にも表示されるというのが有難い。

2022・6・18(土)秋山和慶指揮日本フィル(オンライン視聴)

      サントリーホール  2時

 今週火曜日に白内障の手術を、片眼だけだがやって、━━あれは簡単だ簡単だ、と皆は口をそろえて言っていたけれど、それは考え方にもよるだろう。

 今回お願いしたT眼科は、白内障の手術にかけては世田谷区で三指に入る名門なのだそうで(一般外来を含め、いつも押すな押すなの大盛況だ)、オペを一手に引き受ける院長は、寡黙で物静かで不愛想ではあるが、確かに巧いし、丁寧だ。
 術前検査でも血圧から血液まで念入りに検査するほど細かいし、しかもアフター・ケアから保険金申請の件に至るまで自ら事細かにブリーフィングしてくれるなど至れり尽くせり、慎重で万全を期す先生である。

 とはいえ━━確かにオペ自体は10分程度で済んだものの、術後3日間は洗髪・洗顔禁止、1週間はパソコン・テレビ・読書禁止(やっても5分程度とか)、2週間は就寝中にゴーグルを付けるべし、というように、ケアのための指示もおそろしく厳しい。
 結局、1週間は仕事もできず、事実上のロックダウン状態ということになる。ひとが謂うほど「翌日からはふつうに」とは行かないようである。

 そんなこんなの蟄居中(?)の身の上にとっては、コンサートが生中継のオンラインで視聴できるというシステムは、実に有難い。
 予約しておいたサントリーホールからのオンラインは、まずこの日本フィルの演奏会。円熟の秋山和慶の客演指揮で、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソリストは小川典子)、フォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲というフランスの作品によるプログラムが配信された。
 遠隔地にいながらも、演奏会の模様をアーカイヴではなく同時体験により受容できるというのは、謂わば放送の原点と同じもので、やはりひとつの快感ともいうべきものであろう。

 願わくば、このシステムはこれからのコンサート中継における主流となるはずだから、中継技術をも向上させていただきたいものである。
 例えば、音量レベル設定。冒頭の「牧神」の音量レベルは低すぎただろう。また例えば、カメラワークの工夫。各パートのソロが始まったあとになってそちらへカメラを切り替えるなどというのは手抜きにも等しいし、トランペットが一声吹いたのを聞いてそちらへカメラを切り替えたらもうトランペットの出番は終っていて、慌てて他の楽器へカメラを━━などというのは、醜態以外の何物でもない。

 かつて放送で仕事をしていた「元同業者」として申し上げるのだが、そういう「音楽」と結びついた制作者、技術者を、改めて早急に育てるシステムを完備させて行く必要があるだろう。
 プログラムの後半に入ってからは、音も安定して行ったとは思うが━━。

2022・6・12(日)広上淳一指揮日本フィル&横山幸雄

        サントリーホール  2時

 これは定期ではなく、名曲コンサート。
 「フレンド・オブ・JPO(芸術顧問)」というややこしい肩書のポストに最近就任した広上淳一の指揮で、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストは横山幸雄)と、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」が演奏された。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 広上の指揮する日本フィル、良い音を出している。安定した「おとなの」オーケストラの音だ。強烈なフォルティッシモでさえ、荒れた響きにならないところがいい。
 オーケストラには浮き沈みがつきもので、昔は綺麗な音を出していたのに最近では荒れてしまったというオーケストラも現実にあるのだが、この日本フィルの場合は、十数年前までの暴れ馬のようなアンサンブルが「陽気な鬼将軍」ラザレフの手により立て直されてからは、見違えるほどのオーケストラになっている。
 今日の「5番」における冒頭の低弦の澄んだ響きなどを聴くと、こういう音で演奏されて行くのなら、如何に苦手な(!)このシンフォニーでも終りまで付き合えるな、と思ったほどだ。

 「パガニーニ・ラプソディ」も、今日は愉しめた。あの有名な「第18変奏」の個所を、横山幸雄がまあなんと豊かな表情をこめて弾いていたことだろう。広上淳一率いる日本フィルが、それに呼応して詩情たっぷりに語り続ける。
 凡庸な演奏からは現れて来ないこの曲のスケールの大きさ、カンタービレの美しさが、今日は改めてはっきりと再認識できたような気がする。

2022・6・11(土)飯守泰次郎指揮シティ・フィルのシューマン

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 シティ・フィルの桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎によるシューマンの交響曲全曲演奏シリーズの第2回、つまり完結編で、「第3番《ライン》」と「第4番」が演奏された。

 昨年の第1回(☞2021年12月9日)と同様、正面から率直に取り組んだ素朴なアプローチながら、何かに憑かれたような強い意志力が演奏に漲っているように感じられる。これは最近のシティ・フィルの好調ゆえでもあろう。
 ただ、こちらの気のせいかもしれないが、少し色合いが淡白になったような印象がないでもない。

 マエストロも、さすがに歩行はかなり苦しいらしく、舞台袖から指揮台までの往復にはコンサートマスターの戸澤哲夫ほかの介助を必要としたほどだが、指揮台上での気魄や、聴衆への答礼の際の元気な身振りは、以前とそれほど変わってはいない。
 所属事務所のHマネージャーの言を借りれば「悪いのは足だけ。それ以外は元気だよ」だそうで、終演後の舞台袖で短く言葉を交わした私の印象でも、5月はじめに仙台で会った時よりは元気に見えた。まずはひと安心といったところか。

 それにしても、演奏を聴きながら、昨年12月のシューマン・ツィクルス第1回の終演後にこのホールの袖を訪れた際にはまだ元気に付き添って居られた夫人の姿を思い出すと、私もよく存じ上げていた方だっただけに、覚えず涙を催してしまう。あれから後の飯守氏の悲嘆は如何ばかりだったかと思う。ただ音楽の力のみに拠って氏が力を振りしぼって活動を続けておられることに、限りない賛辞を捧げたい。

2022・6・10(金)クレーメル、高関健&仙台フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ギドン・クレーメルがコンチェルトを弾き、仙台フィルハーモニー管弦楽団が協演し、同楽団のレジデントコンダクターである高関健が指揮。それが東京で開催されるという珍しいケース。

 そもそもは仙台フィルが、折しもこの時期に開催される仙台国際音楽コンクールのヴァイオリン部門審査委員を務めるクレーメルの来日に合わせて彼を協演者に招き、仙台と東京で公演を行う、という案だったのが、仙台で使用するホールが急遽改装をやむなくされたため使用不可能となったため、仙台公演の方は中止となってしまったということである(人から聞いた話だから、細部に食い違いがあったら失礼)。
 仙台の愛好家たちは、さぞ残念な思いをしていることだろう。東京まで聴きに来た方もおられるという話だけれど。

 さてこの演奏会だが、第1部ではクレーメルが高関健の指揮する仙台フィルと協演して、アルヴォ・ペルトの「フラトレス」と、フィリップ・グラスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(第1番から第4番までの4曲からいくつかの部分を組み合わせたもの)を弾いた。
 後者ではチェロのギードレ・ディルヴァナウスカイテが協演している。そしてソリスト2人はアンコールとして、ギア・カンチェリの「ラグ・ギドン・タイム」という、風変わりで洒落た小品を演奏した。

 この第1部、緊張感にあふれて重苦しい雰囲気だったが美しく、これぞまさにクレーメル、という世界であったろう。ありきたりの名曲コンチェルトのプログラムでなかったところがよかった。

 この雰囲気を一掃するかのように、第2部でのシベリウスの「交響曲第2番」は、猛烈な攻撃型の演奏となった。あのマエストロ高関がこんな凶暴なシベリウスをやるかね、と驚かされたが、仙台フィルも凄まじかった。ティンパニなど、大暴れといった感であろう。
 そのティンパニが、全曲最後のトレモロの個所で、締め括りの2分音符を、あのトスカニーニばりの猛然たるアクセントで叩きつけて結んだ。これも、高関さんて、そういうことをやらせる人だったかね、と呆気にとられた次第。

 演奏会の最後は、「仙台フィル方式」による分散退場。

2022・6・9(木)シャルル・デュトワ指揮新日本フィル

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 85歳ながら、その挙止にも音楽にも微塵も年齢を感じさせぬシャルル・デュトワが、今回は新日本フィルに客演、十八番のフランス・レパートリーを指揮した。
 プログラムは、フォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソリストは北村朋幹)、ドビュッシーの交響詩「海」、最後にラヴェルの「ラ・ヴァルス」。コンサートマスターは崔文洙。

 今回もまた、デュトワの指揮の「持って行き方の巧さ」には舌を巻くことになった。たとえば「海」の「波の戯れ」や「風と海との対話」での、あるいは「ラ・ヴァルス」での、それぞれ曲の頂点に向かって演奏を胎動感豊かに盛り上げて行く呼吸など、名人のわざとしか言いようがない。
 そして「ペレアス」の「前奏曲」や「メリザンドの死」、あるいは「協奏曲」第2楽章などでの、最弱音の━━最後の音が消えて行くところの美しさは、見事なものであった。このあたりは、新日本フィルもデュトワの指揮によく応えていたと思う。

 ただ、その新日本フィルだが、そういう個所は良かったのだけれど、オーケストラの音色やアンサンブル全体ということになると、おしなべて粗いのが気になる。あの優しく美しい「ペレアス」の音楽が、あんなに硬質でガサガサした音でいいわけはない。協奏曲のフォルティッシモに至っては、如何に何でも荒っぽすぎる。
 かつては国内屈指の美しい響きを持っていたこともあるこの新日本フィルが、いつの間にこんな荒っぽい音のオケになってしまったのかと、慨嘆、落胆。

 だが、第2部の2曲で、それが薄紙を剥がすように改善されて行ったのは幸いだった。特に最後の「ラ・ヴァルス」では、これぞデュトワの音、といったものが現れて来た。そしてオーケストラも、アンサンブルを整備して、熱狂的な「ラ・ヴァルス」をつくり上げて行き、聴衆を沸かせたのである。
 この分なら、14日のトリフォニーホールでのチャイコフスキーなどは期待が持てるだろう。聴きに行けないのが残念だ。

2022・6・8(水)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

       サントリーホール  7時

 6月定期の初日。特別客演指揮者プレトニョフは、3月定期(「わが祖国」)に次いでの登場である。
 今定期では、シチェドリンの「カルメン組曲」と、プレトニョフ自身の編集版によるチャイコフスキーの「白鳥の湖」を指揮した。

 前者はビゼーのオペラの音楽を主なる素材とし、弦と打楽器による独自のオーケストレーションを施したバレエ音楽で。組曲は13曲からなり、演奏時間は45分ほどかかる。色彩的で、巧みな作品ではあるが、私はどうも昔からシチェドリンという人の音楽には共感が持てないので━━。

 一方のチャイコフスキーは、もちろん私の好きな作曲家のひとりだ(業界の同業者や音楽学者や、高尚な好みを自称するマニアには、チャイコフスキーを斜めに見たり、もしくはそのようなポーズを取ったりする人が何故か多いようだが・・・・)。
 このプレトニョフ編集版の「白鳥の湖」では、彼の凝った選曲センスゆえに、通常の組曲版で知られるような有名な曲は、あまり出て来ない。わざと逆手を取って構成したのであろう。それはそれで興味深いことは事実だが、たとえば終曲など、細かい部分をあちこち省略して繋ぐという手法が採られているので、私の好みにはちょっと合わないところもある。

 今回はトランペットを倍管編成にして、東京フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスターは依田真宣)から凄まじい強大な音を引き出した。このあたり、やはりロシアの指揮者だな、という感を強くする。

 ただ、ロシアのオーケストラなら、音の厚みと量感など全てが猛烈なエネルギーを以て噴出するのだが、そういう音の出し方を普段あまりしていないわが国のオーケストラの場合は、何か絶叫調のような演奏になってしまうのが苦しいところだろう。
 それゆえ今日の2つの作品では、カラフルな音の変化を精妙につくり出した演奏の「カルメン組曲」の方に、東京フィルの良さが出ていたように思う。

2022・6・6(月)サントリーホール チェンバーミュージックガーデン
クァルテット・インテグラ リサイタル 

        ブルーローズ(小ホール) 7時

 オンライン視聴。

 2015年結成、昨年のブダペストのバルトーク国際コンクール弦楽四重奏部門で優勝したクァルテット・インテグラは、三澤響果(vn)、菊野凛太郎(vn)、山本一輝(va)、築地杏里(vc)という奏者たちからなる。
 今日は、モーツァルトの「第15番ニ短調」、デュティユーの「夜はかくの如し」、バルトークの「第5番」を演奏した。

 バルトークの名を付したコンクールで優勝したからバルトークが得意である、ということでもないだろうが、今日のオンラインで聴いた限り、やはりそのバルトークの「5番」がとりわけ強い印象を残す演奏だった。
 その前にデュティユーの作品を入れて、バルトークの作品があまり現代音楽風に感じられないような雰囲気をつくり出したい(プログラム冊子掲載のインタヴューから自由に引用)という意図も成功していたと思われるが、それでもやはりバルトークはバルトーク、この「第5番」の幕切れで突然民謡調の旋律が現れ、聴き手に衝撃を与えるあたりの音楽の「対比」も、充分に本来の効果を発揮していたと思われる。機会があったら彼らのバルトークの弦楽四重奏曲全曲演奏会を聴いてみたいところである。

 モーツァルトの「ニ短調」が、美しいが沈潜した気分で再現されたことは、彼らの特定の意図に基づくものだったのだろう。
 今日のプログラムは「夜」というイメージでつくられている、とのこと(前出のインタヴューから)だったが、アンコールではそれを一転させるハイドンの「日の出」から第2楽章が演奏されるという洒落たオチもついた。
 「ストーリー性を持ったプログラムを考えて」と、山本一輝さんがステージで訥々と話す。若い四重奏団のアイディアが面白い。活動を応援したい。

2022・6・5(日)マルタ・アルゲリッチ&ギドン・クレーメル

       サントリーホール  7時

 実に久しぶりに聴く、外来の巨匠によるデュオだ。多くの聴衆が詰めかけ、会場はほぼ満席の盛況。海外演奏家の来日が再び活発化して、音楽界が活気を取り戻しつつあることを示す一つの例であろう。
 客も熱狂的な反応を示したが、拍手の量感や長さなどからすると、どうもアルゲリッチ・ファンの方が多かったような━━。

 前半には、クレーメルが無伴奏で、ジョージア(旧グルジア)出身の作曲家イーゴリ・ロボダの「レクイエム」と、ウクライナのキーウ生れのヴァレンティン・シルヴェストリの「セレナード」を弾く。
 前者には「果てしない苦難にあるウクライナに捧げる」という文言が曲名の横に掲載されていたが、これはタイトルではなく、もともとはウクライナにおける2014年の紛争の犠牲者を悼むために作曲されたものだった。恐ろしい巡り合せとも言えよう。

 それに続いてはアルゲリッチとのデュオで、ミエチスラフ・ヴァイセンベルクの「ヴァイオリン・ソナタ第5番」が演奏される。この作曲家もまた、スターリン政権時代に悲惨な目に遭わされた人だった。こういったプログラムに、この演奏会に籠められた、ある強いコンセプトを感じることができるだろう。
 クレーメルの温かみを増した、微笑むような演奏(若い頃と比べ、随分変わったものだ!)と、今なお強靭な気魄を失わぬアルゲリッチのピアノとが、不思議な対照を形作りつつ和する。

 第2部では、アルゲリッチが「作品未定」と予告されていたものをソロで弾く。シューマンの「子供の情景」からの「見知らぬ国より」に始まり、バッハの「イギリス組曲」からの「ガヴォット」、スカルラッティの「ソナタ ニ長調K.141」を組み合わせるという奇抜な構成だったが、特にシューマンからバッハに移った瞬間の奔放な躍動感には驚かされた。全体に感興の赴くままに、といった傾向もある演奏で、時に昔より更に表情の激しさを感じさせるところがあるのが面白い。

 そして最後は、チェロのギードレ・ディルヴァナウスカイテを加えての、ショスタコーヴィチの「ピアノ三重奏曲第2番」。アルゲリッチの強靭な、振幅の大きな演奏と、他の2人の弦楽奏者の優しい表情とが、ここでもやや即興性を感じさせながら絡み合う。この曲がこれほど温かみのある音楽だったか、ということを初めて気づかされた演奏でもあった。

 予定プログラム終了後には、ピアノの前に立ったアルゲリッチを囲むようにして、クレーメルとディルヴァナウスカイテが、彼女のために「ハッピー・バースデイ」を、それも静かに、しかもユーモアに富んだ旋律線で演奏する。
 そしてアンコールは、シューベルトの「君は我が憩い」(三重奏編曲版)と、ルボダ(再び)のタンゴ「カルメン」を演奏するといった具合。
 ウクライナに捧げる想いとともに、あたたかい友情のようなものをあふれさせた演奏会だった。

2022・6・5(日)サントリーホール チェンバーミュージックガーデン
アトリウム弦楽四重奏団のベートーヴェン・サイクル初日

      ブルーローズ(小ホール) 2時

 今日は現場で聴く。

 2000年にサンクトペテルブルクで結成され、2003年にロンドンでのコンクールに優勝して檜舞台に躍り出た弦楽四重奏団で、現在はベルリンに本拠を置く由。
 既に4度の来日歴がある。私も1回だけ、チャイコフスキーの弦楽四重奏曲3曲を一夜で演奏するという珍しいコンサートを聴いたことがあった(☞2013年12月9日)。

 今回は、16日までの6回にわたるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲ツィクルスで、今日はその初日だ。「第3番ニ長調」「第16番ヘ長調」「第7番ヘ長調《ラズモフスキー第1番》」というプログラム。アンコールでは「第1番」の終楽章が演奏された。客席はほぼ全部埋まっている。

 以前に聴いたチャイコフスキーでもそうだったが、ロシア系の奏者たちとは思えぬほど爽やかで軽快で、颯爽とした音楽をつくる四重奏団だ。特にテンポの速い部分では、気持のいいほど闊達な演奏を聴かせてくれる。「第3番」の第4楽章(プレスト)で、各パートが軽やかに応答しつつ進んで行くあたりなど、技術的な巧さもあって、天馬空を往くが如き趣で、小気味よいものがあった。「ラズモフスキー第1番」の快速楽章でも同様である。

 ただその一方、緩徐楽章にじっくりと心を込めるということになると、どうも未だしの感があるだろう。彼らの若さの故か、それとも、もともと、そういう情感的な思い入れには、最初から興味がないのかもしれない。それはそれでいいだろうが、しかしやはり、「作品135」(第16番)での、ベートーヴェンの最晩年のアイロニー感といったものがあまり表現されていなかったことは、私には些か不満に感じられる。この四重奏団のベートーヴェン、初期から中期にかけての作品なら、多分いいだろうと思う。

2022・6・4(土)サントリーホール チェンバーミュージックガーデン

        ブルーローズ(小ホール) 6時

 オンラインで視聴。
 恒例の室内楽の音楽祭で、今日が本年度の開幕演奏会だ。「堤剛プロデュース2022」と題され、吉田誠(cl)、堤剛(vc)、小菅優(pf)が出演。シューマンの「カノン形式による6つの小品Op.56」(キルヒナー編)抜粋、ブラームスの「クラリネット三重奏曲イ短調」、藤倉大の「Hop」、フォーレの「ピアノ三重奏曲ニ短調」というプログラムが演奏された━━はずなのだが。

 ネット配信の受信には多分こちらのパソコンが未だ慣れていないのだろう(私のせいでない)。休憩時間にホールのシャンデリアの映像から「オンライン予告」に切り替わり、そのまま静止画が続いているうちに、パソコンが妙な状態に陥ったので、業を煮やしてもう一度URLからの設定をやり直したら、もう演奏会はフォーレの三重奏曲の途中だった‥‥。

 もっとも、聴き直そうと思えば期間限定で何度でも聴けるというのがオンラインの良さだ。放送局の音楽番組が当てにならなくなった今、このネットによるオンラインは、実に貴重であり、有難い。

2022・6・3(金)大友直人指揮琉球交響楽団

       サントリーホール  7時

 当初の予定では、マルティン・ガルシア・ガルシアのショパンを聴きに行く予定だったのだが、沖縄の本土復帰50年記念のため急遽公演が決まったらしいこの沖縄のオーケストラを聴くため、ガルシアの招聘事務所に詫びの連絡を入れ、こちらに変更した次第である。

 この琉球交響楽団の演奏は、これまで私は一度も聴いたことがなかった。活動を開始したのは2001年とのこと。事務局長の話によれば正団員は40名で、レパートリーに応じて沖縄県内の他の演奏家たちや、沖縄出身で本土に活動の場を移している演奏家などに参加してもらっている由。
 今日は70余名の編成で登場、音楽監督の大友直人の指揮で、ブラームスの「大学祝典序曲」、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは辻井伸行)、萩森英明の「沖縄交響歳時記」というプログラムを演奏した。

 曲が曲だけに、ということもあるだろうが、すこぶる鳴りっぷりのいいオーケストラだ。少し粗いところはあるものの、開放的で勢いのいい音を出すというのは、やはり南国のオーケストラ気質なのか? 
 今日のプログラムの中で、最も目立ったのはやはり「沖縄交響歳時記」であろう。50分の長さを持つ、6楽章からなる大曲で、全曲に沖縄の民謡や舞踊音楽のメロディを取り入れ、西洋音楽の伝統的手法を基盤としたオーケストレーションにより、華麗で熱烈な音調で構築している。こういう作品をプログラムに加えるのは、極めて意義のあることであろう。

 プログラム冊子を読むと、沖縄の人たちにとって、本土復帰ということが如何に大きな意味を持っているかが、ひしひしと伝わって来る。

2022・6・2(木)コンスタンチン・リフシッツのショスタコーヴィチ

        トッパンホール  7時

 このホールでリフシッツが演奏するのを聴くのは確か3度目になるが、いつものことながら、彼は何故かこのホールで弾く時には、2000人の大ホール向きの、もしかしたら武道館あたりでもいいくらいの大音量でフォルティッシモをとどろかせる。
 ご本人としてはそれなりの美学に基づいて演奏しているはずだが、それにしても、あれほど「音楽を叩きつけ」なくても、と思うのだが。このホールでの演奏に選ぶレパートリーの所為なのか。 

 リフシッツは、他のホールで樫本大進と協演した際には、もっとふくよかなフォルティッシモを弾いていたし、3年前のびわ湖ホール(小ホール)での「ゴルトベルク変奏曲」では、さらに思索的な、表情豊かな音で弾いていたのだ。30年前、モスクワのグネーシン音楽学校の教室で初めて聴いた少年時代の彼の演奏は、はるかに繊細なものだったが━━。

 今日のショスタコーヴィチ・プログラムでも、まず「24の前奏曲」を弾き、次に山根一仁と「ヴァイオリン・ソナタOp.134」を演奏したが、ここまでで約75分、そのピアノの強烈さにこちらもたたきのめされ、ヘトヘトになった(もちろん、熱狂していた人も見られた)。 

 休憩後には「ピアノ五重奏曲ト短調」があって、これには山根一仁、東亮汰(vn)、川本嘉子(va)、遠藤真理(vc)が協演していた。ここではリフシッツも、アンサンブルとしてのバランスを考えていたようだが、しかし彼の強靭なピアニズムに各奏者が猛烈に応戦する個所もあった。
 もっとも、第1部での「ソナタ」で協演した山根の気迫充分のソロは激烈で、リフシッツとの丁々発止の応酬も凄まじく、これはこれで実に聴き応えがあった。

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