弱者男性という言葉が言われるようになって数年が経った。が、未だに人権教育では、弱者というのは女性やLGBTQや障害者や外国人、高齢者といった「マイノリティ」というカテゴリに当てはまるとされている人のことを弱者と呼ぶ。
弱者とされるマジョリティカテゴリの人々が声をあげても人権派はそれを無視するどころか「弱者への攻撃である」「差別である」と訴えてきた。
実際にその人がどれだけ苦しんでいるかは関係がなく、こっちにも支援がほしいと苦しみの声をあげれば
お前は強者属性なのに、差別をしている側なのに、日本人男性は下駄をはかされ優遇されてきたのにと「加害者は発言権が無い」とばかりに、社会学者やマスメディアという権威が率先して、見えない弱者の差別を推し進めてきた。
その結果生まれたのが、 弱くなった中間層=見えない弱者 VS 無自覚強者+属性弱者 という分断である。
米国ではトランプ政権という、日本では参政党という右派ポピュリズムが躍進した。なぜこれらポピュリズムが躍進したかといえば、彼らは「強いアメリカ」「昭和の日本」という、豊かな中間層を訴えたからである。
本来は労働者階級、弱者庶民の声を代表し、権威と戦う役割であるはずの、左派政党はそこには無い。
左派団体の中心は富裕層、高学歴などで構成されており、彼らが見ているのは定義された弱者であり、社会問題として訴えられる分かりやすい差別問題だ。
疲弊する中間層を救うには賃上げや物価対策、経済活性化という地道な努力が必要になるが、弱者を救えと叫ぶのは分かりやすく、既得権益との対立構造を作りやすい。マスコミ受けがよく、有権者にアピールしやすい。
この手の活動で最も分かりやすいのがいわゆる女性差別(女性が弱者とされる)問題で見過ごされる弱者男性問題だ。
暇空騒動でやり玉に上がった仁藤夢乃氏は、私立中高から私立大学、卒業後も、労働に飛び込まなくても即人生終了ではないご家庭だ。フェミニズムの大家である上野千鶴子氏は親が大学教授のお嬢様だ。
彼女らはしばしばパフォーマンスとして漫画を攻撃したり、男性は性加害をするので悪いと言ってみたりする。私から言わせれば、彼女らはそんな社会運動に身を投じて、それでもさして今後の心配をしなくてよいのだから、弱者どころかメチャクチャ社会的強者である。
現在疲弊する中間層は、明日のメシに困るわけではない。しかし物価高で貯金は溜まらず、将来より素晴らしい未来が待っている確信も持てない。
そして、政治に目を向ければ「差別してきた側」と名指しされ、クーラーの効いた涼しい部屋で、小綺麗に身なりを整え、あくせく労働するわけでもない人たちから「お前たちは加害者として弱者を救う義務がある」と言われ、ささやかな楽しみである娯楽まで「架空の存在だろうが女性をモノ化しているから加害である」などと言われるわけだ。
LGBTQも同様で、単に肉体的分類として「男性」「女性」というカテゴリを使うだけで差別だ差別だと騒がれ、業務が増え疲弊する。
外国人差別も同様だろう。なぜ苦しい我々より、出稼ぎにきた人々を救おうと叫ぶのか。彼らは祖国に帰ればいいじゃないか。そんなことは思っていても言えばたちまち大問題になる。だからネットでしか吐き出せない。
ここでは、日々不安を持ちながら、差別主義者だと否定されながら、日々労働する本当の弱者は透明化されている。
本当の弱者は、大学教授や社会活動家のような発信力を持たず、日々で疲弊して政治活動をやるような暇はなく、弱者カテゴリを貰えないがゆえ発言力や経済力で追いやられても下駄を履かされた人々と言われ透明化されている。そんな彼らが、ポピュリズムを支持し、日本社会の分断は確実に深まっている。
ここまで書くと「なんと情けない」「アップデートしろ」「お前の努力不足だろう」という声が飛ぶことだろう。ちなみに私もカテゴリでいえば弱者とは言えない。昼から思想の強い増田を書くような人間は余裕がある人間である。そして、外国人排斥論や女性差別不存在論などには反対する立場である。
だからこそ、人権派を自認するマスコミや社会学者や文化人や良識派を自称する権威の人々へ、お前は恵まれた強者であり、弱者カテゴリとされた人にしか目を向けない偽善者であり、その独善性が分断の大きな要因であると自覚しろと言いたいのだ。
差別を無くす為に活動してきたはずが見えない弱者を足蹴にして、別の差別を生み、それが最終的にポピュリズムの暴走というカタストロフに至るのであれば、責任は疲弊する中間層を無視した側にも大いにある。