戦後の影響
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太田城が開城した4月24日同日、羽柴秀吉が太田城兵に向けて三カ条からなる朱印状を出している。 一、今度、泉州表に至り出馬、千石堀其の外の諸城同時ニ責め崩し、悉く首を刎ね、則ち根来・雑賀に至り押し寄する処、一剋も相踏まず、北散る段、是非無く候。然らば、両国土民百姓に至らば、今旅、悉く首を刎ねべきと思し食し候へ共、寛宥の義を以て、地百姓の儀は免じ置くに依って、其の在々に至り、先々の如く立ち帰り候事 一、大田村の事、今度忠節を抽んずべき旨申し上げ、其の詮無く、剰え遠里近郷の徒者集め置き、住還の妨を成し、或いは荷物を奪取り、或いは人足等殺し候事、言語道断の次第に候条、後代の懲として、太刀・刀ニ及ばず、男女翼類ニいたるまで、一人も残らず、水責め候て殺すべしと思し食し、提を築き、既に一両日の内に存命相果つるに依って、在々悪逆東梁の奴原撰び出し、首を切り、相残る平百姓其の外妻子己下助命すべき旨、歎き候に付いて、秀吉あわれミをなし、免じ置き候事 一、在々百姓等、自今以後、弓箭・鑓・鉄炮・腰刀等停止せしめ訖。然る上は、鋤・鍬等農具を嗜み、耕作を専らにすべき者也。仍って件の如し天正十三年卯月廿二日 — 秀吉朱印状 第一条は千石堀城の戦いから始まる経過についてふれ、「両国土民百姓」とは泉南・紀北の事で、百姓達を皆殺しにすべきしところ、「寛宥(かんゆう)の義を以て」とし命を助け村々に立ち帰る事を許したと記載されている。第二条の「東梁(棟梁)の奴原」とは首謀者の事で、その首は切るがそれ以外の「平百姓」とその妻子の命は助けると記載している。小和田哲男によると「東梁の奴原」とは太田左近をはじめとする53名だったとしている。第三条は百姓は武器を所持せず、農具を持って耕作に専念することが義務付けるとしている。また『太田家文章』にはもう一通の秀吉朱印状があり、それには兵糧、すき、くわ、なべ、かま、家財道具、馬牛等が返還された。「平百姓」には太田城から追い出しただけでなく、すぐにも農業が出来るように手当したのである。 同年4月26日に、次右衛門尉宗俊が根来寺明算に宛てた書状には、 秀吉様、昨日廿五日ら御馬納め候。小一郎殿に、一万人数をあい副えられ、岡山の普請仰せ付けられ候。頃日り両国の百姓衆をは御召し直し候。太田城の事は各々五十三首を刎ね、その女房ども廿三人、はた物に太田にあげ申され候。五十三の首は天王寺阿倍野に御かけ候。残りの衆は道具を出して候て、助かり申し候。太田も放火候 — 中家文章 と記している。文中にある小一郎殿とは羽柴秀長のことで、和歌山城の築城を開始している。また「はた物」とは磔のことで、53名の首が刎ねられ、女房衆23名が磔になり、その首は天王寺にさらし首になったとある。太田城も放火されこの時に廃城になったと思われている。 戦後処理をすました羽柴秀吉は翌4月25日には開陣し、翌4月26日には大坂城に帰城する。その後羽柴秀吉軍は、3万兵で同年6月6日堺から洲本に向い四国征伐へと続いていく。また羽柴秀吉自身は、同年7月には関白に、同年9月には豊臣秀吉に改名する。
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戦後の影響
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河内守護の城として長い歴史を重ねていた高屋城はこの戦いで廃城となった。 信長公記はこの時既に「もはや本願寺の落城は時間の問題となった」としているが、武田勝頼が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、塙直政に高屋城を含む河内の破城を命令、自身は4月21日に帰京し、長篠の戦いへと赴いた。 10月中旬から、本願寺は松井友閑と康長を仲介とし、信長に三軸の名画を送って和睦を申し入れた。12月に和睦が成立し、誓紙が取り交わされた。 一、当寺の儀、御懇望について、御無事の上、御表裏あるべからざるの通り、御前において堅く申し究め候事。付けたり、新儀難題これあるべからざる事。 一、御分国中当寺諸末寺は先々のごとくたるべし、並びに以下の輩、還住・同住還など異儀あるべからざる事。 一、当寺に対して両人毛頭表裏抜公事などあるべからずる事。右違犯これあらば(中略)無間地獄に墜つるべきものなり。仍て件のごとし。 — 織田信長と石山本願寺の誓紙(龍谷大学所蔵文章) 「当寺」は石山本願寺、「御前」は信長、「両人」は友閑と康長を意味している。署判者は友閑と康長で、宛所は当時石山本願寺の幕閣(顕如外)を構成していた5名であった。しかしこの和睦も一時のものにすぎず、翌年の天正4年(1576年)信長と石山本願寺の間で天王寺の戦いが勃発する。
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戦後の影響
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翌10月11日は火の手がくすぶる中、雨が降ってきたようで、東大寺大仏殿の戦いも10月10日、翌日も雨が降っていた、と記載されている(『多聞院日記』)。 手取川の戦いでは敗れた織田軍であったが、信貴山城の戦いの勝利で士気を高めたと思われている。この後羽柴秀吉は中国征討へ、明智光秀、細川藤孝は第二次丹波国征討に乗り出すことになる。
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戦後の影響
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毛利氏はこの戦いによって本格的に織田氏との戦争状態に入り、同年7月に荒木村重が石山本願寺と連携して織田氏から離反(有岡城の戦い)、続いて小寺政職が離反し、播州一帯は一時的に毛利氏が勢力を盛り返す。しかし毛利軍はついに積極的攻勢に出ることはできず、守勢・支援に徹して領土の保全に努めた。同年11月に第二次木津川口の戦いで毛利水軍が大敗、1579年(天正7年)10月に宇喜多直家の離反という毛利氏が危惧していた事態が起こるとその勢力圏は大きく後退し、同月に荒木村重が、翌1580年(天正8年)には小寺政職が滅ぼされ、さらに長年織田軍を釘付けにしてきた石山合戦の終結により信長包囲網が崩壊する。 この間、羽柴秀吉は2年に及ぶ兵糧攻めの末に三木城を落とし(三木の干殺し)、兵力を整えて中国攻めを推進する。ほぼ独力で織田家との戦いを継続せざるを得なくなった毛利氏は和睦の道を探るが、両軍の争いは本能寺の変が起こる1582年(天正10年)まで続いた。
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戦後の影響
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赤松・尚春・灘五郷連合軍は鷹尾城を直ちに占領、米、銭、兵具を略奪し城に火をかけたようである。鷹尾城落城の様子を聞いた三条西実隆は「世上安危知り難し、如何々々」(『実隆公記』永正八年八月十一日条) と記しており、この戦いは京の安危にも影響を与え、憂慮していることが伺い知れる。その後赤松軍は正頼が逃れた伊丹城を攻囲、正頼は手勢を伊丹城に留め置いて自らは小者一人を伴い、援軍として駆け付けた波多野元清の居城八上城に籠った。 一方、尚春の軍は深井城の合戦で勝利した細川政賢の軍と合流し京に向けて進軍、これに危機感を覚えた征夷大将軍足利義稙は高国・大内連合軍を引き連れ、8月16日に京を離れて丹波に逃れ、政賢・尚春連合軍は入洛した。しかし24日には澄元軍が陣を張っていた船岡山城が高国・大内連合軍の攻撃を受けて、敗北した。 「船岡山合戦」も参照 正頼不在の伊丹城では籠城戦が続けられていたが、攻囲していた赤松軍に船岡山合戦の敗報が届くと、26日に義村は攻囲を解いて生瀬口より帰国していった。翌永正9年(1512年)6月、高国と洞松院は大物城で会談し、義村の罪を赦すことで両者の和議がまとまった。これにより、正頼は鷹尾城を復した。 船岡山合戦での勝利、義村との和睦により高国・義興は安定した政権を運営し、以後8年間高国と澄元の内紛は休戦状態となった。
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戦後の影響
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この戦いは、9月15日に行われることになる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城に10日以上もの期間をかけたため、美濃・伊勢方面に対するその後の西軍の展開が大きく遅れる要因となったとする説がある。
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戦後の影響
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潮江城は長宗我部氏の領土に変更。城主の森孝頼は幼少の身だった為、岡豊に逃げ延びた後、長宗我部国親を頼った。後に長宗我部元親に主君を変更。対本山戦にて活躍した森孝頼が再び潮江城の城主になった。
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戦後の影響
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元長が前線に出てくることによって晴元軍は引き締まったが、それでも両軍は決定打に欠け、長期戦の様相が漂いはじめたが、6月2日、赤松政祐が高国の後詰の軍として神呪寺城へ着陣してから状況は変化した。赤松政祐は高国を裏切って背後から攻撃し大物崩れにつながり細川・浦上連合軍は瓦解することになった。
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戦後の影響
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顕如退去後に教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の2派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつき、天正10年(1582年)6月の本能寺の変の信長の死の直後に顕如と教如は朝廷の仲介により和解するが、顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し3男の准如を嫡子と定めた。文禄元年(1592年)11月、顕如が死没すると豊臣秀吉の命で教如が本願寺を継ぐが、如春(顕如の妻、教如・准如らの母)らが顕如の遺志にもとづき秀吉に働きかけたため、翌年に教如は隠居させられ弟の准如が跡を継いだ。しかしその後も教如は大坂の大谷本願寺(難波御堂、現在の真宗大谷派難波別院)を本拠地として、各地の門徒へ本尊の下付などの法主としての活動を続けたため、この時点で本願寺は准如を支持する派と教如を支持する派に事実上分裂した。慶長7年(1602年)、教如は以前より昵懇だった徳川家康による土地の寄進を受け、京都の七条烏丸に東本願寺を建てたために、本願寺は東西に分かれることとなった。 序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。 講和条件の「如在無きに於いては(=従順でいるならば)加賀江沼・能美2郡を本願寺に返付する」という条項については、実現されることはなかった。というのは教如が抗戦を呼びかけたため、加賀一向一揆と信長の重臣柴田勝家の交戦は続いたからである。信長と顕如は停戦を命じたものの戦闘は続き、天正8年11月17日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、天正10年(1582年)3月には白山麓鳥越城の一揆が鎮圧されて「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えた。 ちなみに全国各地の真宗寺院の記録には、誇らしげな武勇談・忠節談はあっても、不法行為をしてしまったという罪の意識や反省の弁は皆無であり、門徒たちの「正義の戦いであった」という意識が明確に投影されている(岩波書店「日本通史 中世4」より)。
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「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の記事における「戦後の影響」の解説
戦争終結後、プロイセンとオーストリアの両国は両公国の領有を巡り、1866年に普墺戦争を起こすに至った。これは当時ドイツで起こったドイツ統一の主導権争いの再開であった。北欧においてこの戦争は、北欧の一体化を志した汎スカンディナヴィア主義の挫折を意味した。北欧統一の理想はこの戦争によって破綻し、以後、北欧の民族主義は抑圧され、王権は弱体化し、民主主義と中立主義への道を歩んで行った。
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戦後の影響
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「尼子再興軍による鳥取城の戦い」の記事における「戦後の影響」の解説
攻略した鳥取城には山名豊国が入り、幸盛ら尼子再興軍は私部城に入ってここを居城とした。 その後、この戦いに勝利した尼子再興軍は因幡の各地で転戦し、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を拡大した。東因幡一円の支配に成功し、兵力は3,000余りとなる。尼子再興軍は、この因幡の地に尼子家を再興するための拠点を築きあげるのである。 一方、この戦いに敗れた武田軍は以後衰亡を続け、天正6年(1578年)に滅亡する。
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この戦いで敗れた久秀は筒井城を手放してしまい順慶に奪回された。同年8月6日、順慶は信長の元に松永軍の首級240を送っている。また翌8月7日、松永軍に属していた高田城を落とし40の首を挙げた。その後佐久間信盛、明智光秀の仲介で同年11月1日に久秀と順慶は短期的な和睦をしたとされている(『和州諸将軍伝』)。しかし本格的な和睦は翌天正元年(1573年)4月に武田信玄が上洛中に病死、同年7月19日に槇島城の戦いで足利義昭が追放され、8月20日の一乗谷城の戦いで朝倉義景が、8月28日の小谷城の戦いで浅井長政が、11月の若江城の戦いで盟友でもあった三好義継が攻め滅ぼされ信長包囲網が崩れた後で、久秀は信長に帰服を申し出、条件として12月26日に多聞山城を明け渡すことになる。翌天正2年(1574年)正月に順慶も岐阜城に赴き信長へ正式に従う事になる。
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戦後の影響
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江口城における政長の戦死により、政長を支援すべく三宅城にいた晴元は、丹波を経由して翌25日に戦わずして帰京したものの、長慶の追撃を恐れ、前将軍足利義晴・13代将軍足利義輝父子らを伴って近江の坂本まで避難した。これに随行した細川晴賢と細川元常の領国の和泉は、長慶の手中に落ちた。また、政勝は榎並城を放棄し瓦林城まで撤退、残った反長慶派の伊丹親興は居城伊丹城を三好軍に包囲され、翌天文19年(1550年)3月に和睦したため長慶は摂津の平定も果たした。 政長と連携して晴元政権を支えていた茨木長隆も政長の死に伴って没落するが、その後長慶(細川氏綱)方へ帰順し、奉行人となった。 勝利した長慶は氏綱を伴い7月9日に上洛、事実上京都を掌握した。しかし晴元・義晴らは坂本と京都東山を根城として長慶に抵抗、政勝と香西元成らも晴元と合流して京都への出兵を繰り返し、長慶も晴元らの迎撃及び彼らに呼応した外敵の討伐に当たった。以後数年間の長慶は山城と摂津を中心に戦闘を繰り返していくことになる。
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戦後の影響
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「尼子再興軍の雲州侵攻」の記事における「戦後の影響」の解説
戦いに勝利した尼子再興軍は、宍道湖北岸に位置する末次(島根県松江市末次町。現在の松江城の建設地。)に城を築き(末次城)、この城を拠点とした。この末次の地は、かつて毛利氏が尼子氏を滅ぼすために本陣とした荒隈城から西方に1kmばかり行った所に位置し、尼子氏の居城・月山富田城を攻める際にはこの地を抑えることが重要であった。尼子氏滅亡後、荒隈城は廃城となっていたため、荒隈城に代わる新たな拠点として尼子再興軍が整備した城と考えられる。 末次城に本陣を移した尼子再興軍は、 かつての尼子氏の居城・月山富田城を攻略するため準備を進める。宇波(島根県安来市広瀬町宇波)、山佐(同町山佐)、布部(同町布部)、丸瀬など月山富田城の周囲に10箇所あまりの向城を築くとともに、1ヶ月の間に毛利氏方の城を8箇所攻略し、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大させていった。 そして7月中旬(9月上旬)、ついに尼子再興軍は月山富田城攻めを開始する(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。 一方、毛利氏は大友氏との争いの末に立花城を奪取するも、引き続き大友軍が立花城に留まり続けたため、軍を動かすことができないでいた。毛利氏の立場が厳しくなってくるのはこの頃からである。 閏5月下旬(7月中旬)、北九州において反大友勢力の一翼を担っていた秋月種実が、長い籠城の果てについに大友氏に降伏した。7月下旬(9月中旬)頃には出雲において「在々所々の者共、残す所無く彼牢人(尼子再興軍)に同意候」と月山富田城の城主・天野隆重が書状で伝える様に、出雲国一円を尼子再興軍が支配する状態となった。さらに10月11日(11月19日)には、大友氏の支援を受けた大内輝弘が海を渡り 、その翌日には周防山口の大内屋敷跡を襲撃してその地を一時占拠する事態も発生した(大内輝弘の乱)。毛利氏の領国支配体制は一転、最大の危機を迎えるのである。 ここに至って毛利氏の当主・毛利元就は、北九州に在陣する毛利軍の撤退を決定する。10月15日(11月23日)、立花城に在陣する毛利軍は、乃美宗勝、桂元重、坂元祐等わずかな兵を残して撤退を開始し、その他の北九州に在陣する毛利軍も随時撤退していった。11月21日(12月28日)には城に残っていた宗勝らも退却し、 毛利軍は門司城を残して北九州から全て撤退する。 これにより、毛利氏の後ろ盾を失った北九州地方の毛利方の国人等は、相次いで大友氏への降伏を余儀なくされる。今回の戦いの引き金となった高橋鑑種も所領を召し上げられて豊前小倉(小倉城)へ移されることとなり、鑑種の所領であった宝満・岩屋両城は、高橋氏の名跡を継いだ吉弘鑑理の子・鎮種(高橋紹運)が治めることとなった。多大な犠牲を払ってまで出兵した毛利氏の北九州への侵攻は、完全に失敗に終わるのである。 他方、大友氏にとっては、この戦いによって領国内の反乱勢力が一掃され支配体制の強化が図られた。これにより、大友氏は一族の最盛期を迎えることになる。
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戦後の影響
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妻と次男篠原新次郎、三男篠原義房らは無事教行寺につき、その後紀伊国へ落ち延びていった。その後、豊臣秀吉の用人として仕えたとも言われている。新次郎は後に帰国し、父や兄の供養碑を建てている。 この戦いが導火線となって、三好家臣団は離反していき、荒田野の戦い、長宗我部元親による阿波国侵攻の誘発など阿波国全土に戦いに巻き込まれていく。 この戦いの後、上桜城は廃され、長房討伐で功績を挙げた川島惟忠が川島城を築城した。
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戦後の影響
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「露土戦争 (1877年-1878年)」の記事における「戦後の影響」の解説
サン・ステファノ条約によって、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの各公国はオスマン帝国から独立し、またロシアの影響を強く受けた広大な自治領「ブルガリア公国」の成立が定められた。 しかし、軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、新生ドイツ帝国の帝国宰相、オットー・フォン・ビスマルクの仲介でベルリン会議が開かれ、サン・ステファノ条約を修正したベルリン条約が結ばれた。ベルリン会議後、ロシア国内では皇帝アレクサンドル2世への失望と不満が広がっていった。この戦争を戦ったルーマニアはロシアと同盟した際に、ロシアは戦争終了後自国に対する領土要求を行なわないとの約束を取り付けていたが、ベルリン会議によりベッサラビア南部はロシアに併合されることになってしまった。 一方、ギリシャ王国はオスマン帝国の不利をみて参戦を決めたものの、その矢先に露土間の休戦が結ばれたために機を逸し、得るものなく軍を撤退させた。 ブルガリアやカフカスでは戦後に多数のムスリムが難民となり、オスマン帝国へと逃れシリアやヨルダンなどに移民した。 オスマン帝国の国内では戦争中、非常事態を口実にした無期限の憲法停止と議会の閉鎖が行われた。これにより第一次立憲制(英語版)は崩壊し、アブデュルハミト2世によるスルタンの専制体制が敷かれることとなった。
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戦後の影響
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六角家老臣の蒲生賢秀は、敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠城し、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、信長に人質を差出して忠節を誓った。この人質が蒲生氏郷である。 六角氏は観音寺城を失ったが、それでも織田軍に対して抵抗の姿勢をみせた。元々、六角氏は室町幕府から過去2回の追討を受けた(六角征伐)際にも観音寺城を放棄して甲賀郡に拠点を移して長期戦に持ち込んで相手方の撤退を待ち、ほとぼりが冷めた頃に本領を奪還する戦略に成功していたことから、戦略的には正しい方法であったと言える(当時の人々はこの一連の戦いを「足利義昭による上洛戦」と認識していたため、六角氏もこの戦いを3度目の六角征伐として認識していたと考えられる)。 しかし、室町幕府と異なり、京都と本国への連絡路として南近江を必要としていた織田家は同地の支配に乗り出したために織田軍の撤退が行われず、本領を失った六角氏の勢力は奮わず、小規模な戦闘が精一杯であった。戦国大名としての六角氏の没落は決定的なものとなった。 一方、京都を支配していた三人衆らは六角氏の敗北を聞いて動揺し、織田軍と満足な戦もしないまま、京都から駆逐された。信長は立政寺の義昭に使者を送り、戦況を報告して出立を促した。9月27日、信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入った。翌28日、入京した義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し、細川藤孝は宮廷の警護に従事した。 こうして信長は畿内を掌握し、義昭は征夷大将軍の座に着いた。
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戦後の影響
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月山富田城を攻略することはできなかった尼子再興軍であったが、その後、出雲国内において16の城を攻略、その勢力を6,000余りにまで拡大させた。そして7月下旬(9月中旬)頃には、出雲において「在々所々の者共、残す所無く彼牢人(尼子再興軍)に同意候」と天野隆重が書状で伝える様に、出雲国一円を尼子再興軍が支配する状態となった。 出雲国内の支配を着々と進める尼子再興軍であったが、その拠点である月山富田城については、石見からの毛利救援軍との戦い(原手合戦)や隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ攻略することができないでいた。しかしながら、引き続き月山富田城を包囲して圧力を強め続けていたため、城内では兵糧が欠乏し、また、馬来、河本、湯原氏らが尼子再興軍へ投降するなど、優位な情勢で月山富田城攻略を進めていた。 一方、毛利軍は大友軍との争いの末に立花城を奪取するも、引き続き大友軍が立花城に留まり続けたため軍を動かすことができないでいた。10月11日(11月19日)には、大友氏の支援を受けた大内輝弘が海を渡り、その翌日には周防国の大内屋敷跡を襲撃してその地を一時占拠する事態も発生した(大内輝弘の乱)。毛利氏の領国支配体制は一転、最大の危機を迎えるのである。 ここに至って毛利氏の当主・毛利元就は、北九州に在陣する毛利軍の撤退を決定する。10月15日(11月23日)、立花城に在陣する毛利軍は、乃美宗勝、桂元重、坂元祐等わずかな兵を残して撤退を開始し、その他の北九州に在陣する毛利軍も随時撤退していった。11月21日(12月28日)には城に残っていた宗勝らも退却し、 毛利軍は門司城を残して北九州から全て撤退した。 永禄12年10月18日(1569年11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると、10月25日(12月3日)頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日(1570年1月29日)に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還した。 永禄13年1月6日(1570年2月10日)、本国に帰還した毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、休むまもなく尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 そして2月14日(3月20日)、毛利軍は尼子再興軍と布部の地(現在の島根県安来市広瀬町布部)で戦い勝利する(布部山の戦い)。翌日2月15日(3月21日))には、城内の兵糧が全く無くなり落城寸前であった月山富田城を尼子再興軍の包囲から開放し救援に成功した。これにより以後の尼子再興軍と毛利軍との攻守は大きく入れ替わり、尼子再興軍は衰亡していくこととなった。
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戦後の影響
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藤田の戦争画の影響は、小松崎茂や成田亨に認められる、中でも成田は戦時中に見た『アッツ島玉砕』に衝撃を受け、その衝撃が円谷プロでのウルトラシリーズなどの戦闘シーン制作に繋がっていく。また椹木野衣は、『アッツ島玉砕』は現地取材を行わず想像で描いた空想上の戦争、虚構であり、具象であるのに現実味が欠如しているところが、小松崎茂の作風を先取りしていると評価している。また椹木は小松崎や成田に続いて、『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』などといった「戦争アニメ」に藤田の戦争画からの影響が引き継がれていると考察している。 前述のように『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』に極端なパッションとモチーフの選び方が突出していると評価した会田誠は、1996年に『アッツ島玉砕』に触発された作品『大皇乃敝尓許曾死米(おおきみのへにこそしなめ)』を制作した。会田は何を描いているかよくわからない画面を『アッツ島玉砕』をイメージする中で作ったと述べている。そして2005年には「GUNDAM―来たるべき未来のために―」展で、『ザク(戦争画RETURNS番外編)』という、『アッツ島玉砕』をザクによる玉砕図に置き換えるという、いわば『機動戦士ガンダム』の文脈に読み替えた作品を発表する。椹木野衣は会田の『アッツ島玉砕』に触発された作品について、原画の「ぐちゃぐちゃした想念」の再構成を試み、更に「ぐちゃぐちゃ」を近代美術と戦後ポップカルチャーが循環する中で追求しようとしたものと評価している。
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戦後の影響
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澄元は之長に擁立され抵抗を続け、永正17年(1520年)に畿内に上陸して一時京都の回復に成功したが、等持院の戦いで之長が高国の前に敗死、結局没落して同年に死去した。義澄の遺児は播磨の赤松義村と阿波の細川之持(澄元の実兄)に託され、後の足利義晴と足利義維(阿波公方)となる。 一方で、勝者である大内義興も長期間在京する間に出雲の尼子氏や安芸武田氏などが不穏な動きを見せはじめ、さらに旗下の国人達の離反が続出したので、永正15年(1518年)に周防に帰国し、以後勢力の回復に忙殺され再び上洛することなく享禄2年(1529年)に病没した。 残された高国は澄元を撃破して当主の座を強固にしたが、やがて義稙と対立し、大永元年(1521年)に義稙を追放し足利義澄の子義晴を次の将軍として擁立するものの、今度は澄元の子晴元と対立し、大永7年(1527年)に桂川原の戦いに敗れて自身が没落することになる。そして享禄4年(1531年)の大物崩れの敗北で再起の可能性も無くなり自害させられることになる。
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戦後の影響
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山科本願寺は消滅したが、この戦いではまだ決着はつかず、同年9月末に、再び山崎周辺で一向一揆衆と法華一揆衆と戦闘状態になり、この時は一向一揆衆が勝利し付近を放火、京都に攻め入ろうとする情勢になったが、法華一揆衆が洛中で打廻りを行い、10月になってようやく京は平静に戻った。しかし、摂津を中心にして本願寺・一向一揆対細川晴元・法華一揆の合戦、天文の錯乱は続くのである。
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戦後の影響
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茨木城の石碑 高槻城の石碑 荒木・中川連合軍は茨木城を攻め落とした。また郡山城等も攻略すると、高槻城を攻囲した。松永久秀・久通父子と阿波三好家の重臣篠原長房も攻囲軍に加わり、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる(『日本史』)。 当時、高槻城周辺にはキリスト教会があり、和田氏、高山氏の庇護を受けていた。フロイスは事の成り行きを見守っていたが、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。 自分の知らないところで戦が行われていたことを知った信長は、同年9月9日に佐久間信盛を使者として高槻城から撤兵を勧告した(『尋憲記』)。しかし両軍は動かず、同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出した(『言継卿記』)。ここに至って村重も撤兵を決意したものと考えられている。 その後、村重は池田城に、清秀は茨木城に入った。また、三好勢は高槻を越えて京に迫り、翌元亀3年(1572年)12月に三好康長、篠原自遁、篠原長重が山城国大山崎の離宮八幡宮にそれぞれ禁制を発給している(『離宮八幡宮文書』)。一方の和田惟長は高槻城主となったが高山友照父子と対立。元亀4年(1573年)3月、村重と通じた高山父子によって高槻城から追放された。
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戦後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:18 UTC 版)
10倍の数の敵に対して、自身の小寺軍を勝利に導いたこの時の小寺孝隆のめざましい活躍は、自家の家運をひらく端緒となり、毛利攻めのきっかけを得た織田方(織田信長)は、やがて羽柴秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始する。 天正5年(1577年)10月、秀吉軍が播磨入りすると、孝隆は居城である姫路山城(現・兵庫県姫路市)を秀吉に献上し、秀吉はここを本拠にして播磨・但馬を転戦した。孝隆自身も中国攻略戦のなかで秀吉に重用され、こののちは竹中重治(半兵衛)に並ぶ、秀吉の軍師・黒田官兵衛(黒田孝高)としても活躍していくこととなる。
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戦後の影響
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「アジャンクールの戦い」の記事における「戦後の影響」の解説
イングランド軍は当初の目的であるカレーへの帰還を果たした。 フランス軍は大敗し、総指揮官であるドルー伯は戦死、元帥ブーシコーも捕らえられた。戦死者は1万人を超え、捕虜も3人の公爵、7人の伯爵、220人の大貴族、1560人の騎士を出す有様だった。当時、パリを掌握していたのはアルマニャック派であったが、この敗戦によって勢力を弱め、ブルゴーニュ公ジャン(無怖公)率いるブルゴーニュ派が国政を握ることになった。しかし、イングランド軍に対しては有効な手を打つことができず苦境が続くことになる。
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