敗死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 04:53 UTC 版)
「ペドロ1世 (カスティーリャ王)」の記事における「敗死」の解説
勝利も束の間、黒太子や兵士は赤痢に罹患し、ボルドーまで後退した。また、リブルヌ条約では、戦費の半分をペドロ1世が負担すべきところ、ペドロ1世は支払いを拒んだ。 そこで、黒太子はアキテーヌに徴税し、民の離反を招いた。特に、南仏のアルマニャック伯ジャン1世と甥のアルブレ卿アルノー・アマニュー(英語版)ら諸侯は激しく反発し、1368年6月にアルマニャック伯がシャルル5世に上訴する事態となった。黒太子は出頭を命ぜられ、赤痢に罹っていたこともありアキテーヌ領に引き上げた。これを機に、再びシャルル5世とエドワード3世は激しく対立した。 シャルル5世が立て替えた莫大な身代金を支払い、解放されたデュ・ゲクランは再びエンリケ側の将となり戦線復帰した。1368年9月、エンリケが再びカスティーリャ入りすると、諸都市は続々とエンリケ側に立ち、1369年3月23日、モンティエルの戦いでゲクランの献策によるエンリケ軍の奇襲が行われ、ペドロ1世は敗北、戦死した。または捕らえられて処刑されたともされる。エンリケと面会し、エンリケに顔面を短刀で切りつけられて死んだ、ともされる。 ペドロ1世を破ったエンリケはエンリケ2世として即位し、トラスタマラ王朝の祖となった。また、デュ・ゲクランは1370年にフランス本国へ帰還し、フランス王軍司令官(en:Grand Constable of France)に任ぜられている。
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