たい‐はい【大敗】
大敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:17 UTC 版)
紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという(彭城の戦い)。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。 劉邦は息子の劉盈(後の恵帝)と娘(後の魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。 劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、随何に命じて楚軍の英布を味方に引き込むことに成功したが、英布は楚の武将の龍且と戦って破れ、劉邦軍と合流した。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。 その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。 紀元前204年、楚軍の滎陽攻撃は激しく(滎陽の戦い)、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離眜との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。 離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛、樅公が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。 西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(現在の河南省鄭州市滎陽市)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。 夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(現在の河南省焦作市修武県)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。さらに劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈を項羽の本拠地である楚へ派遣し、後方撹乱を行わせた。 韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも討ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるということが起きている。
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「大敗」の例文・使い方・用例・文例
- 大敗北
- 我々のチームは初戦で大敗した。
- 相手の能力の過小評価が大敗の原因だった。
- 不名誉なことに彼のチームはその試合で大敗してしまった。
- わが国のサッカー代表チームが歴史的大敗を喫しガックリした。
- 大罪[大敗北].
- 大敗北を喫する.
- 大敗北.
- 彼らは相手のチームを大敗させた.
- …から大敗を喫する.
- 大敗を喫する.
- 大敗を喫する, 一敗地にまみれる.
- 大敗による負け
- 最終的な大敗
- 博打で,大敗すること
- 大敗する
- 民主党は10月27日の国会の補欠選挙で大敗した。
- それと対照的に,自民党は大敗を喫した。
- 民主党が参院選で大敗
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