わ‐ぎ【和議】
和議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/15 07:08 UTC 版)
和議(わぎ)
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和議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)
徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8日・12日にも有楽斎と大野治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。 豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。 朝廷から後陽成上皇の命により、17日に武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として、家康に和議を勧告した。家康は朝廷の介入を許さず、これも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた。 交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。 講和内容は豊臣家側の条件として 本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。 淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。 が提出され、これに対し徳川家が 秀頼の身の安全と本領の安堵。 城中諸士についての不問。 を約束する事で和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある)。
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