主要年表
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1654年 - カール10世即位。プファルツ朝開始 1655年 - 北方戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、カール・グスタフ戦争~1661年) 1656年 - ワルシャワの戦い、ポーランドに大勝 1658年 - デンマークに氷上侵攻、ロスキレ条約によって史上最大の領土獲得 1660年 - カール10世死去。カール11世即位 1661年 - カディス条約により北方戦争終結、バルト海の支配権確立 1666年 - ルンド大学設置 1668年 - スウェーデン国立銀行設立 1672年 - カール11世親政開始、フランスと仏瑞同盟締結 1675年 - プロイセンと戦争(オランダ侵略戦争~1679年)、デンマークと戦争(スコーネ戦争~1679年) 1675年 - ストックホルム協定、オランダとバルト海の相互通商保障を締結 1679年 - ナイメーヘン条約、ルンド条約締結 1680年 - デンマーク王妹ウルリカ・エレオノーラと結婚 1682年 - カール生誕(後のカール12世)、絶対王政開始 1686年 - ドロットニングホルム宮殿完成、後バロック様式からロココ様式に変遷 1689年 - 大同盟戦争(プファルツ継承戦争)に参加(アウクスブルク同盟) 1693年 - 絶対王政を法制化(絶対君主制) 1696年 - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国と同盟 1697年 - カール12世、15歳で即位。レイスウェイク条約 1699年 - ロシア、ポーランド、デンマーク、反スウェーデン同盟結成 1700年 - 大北方戦争(1721年まで) 1704年 - ポーランドに傀儡国家建国 1706年 - ザクセン、ポーランドを勢力下に置く(アルトランシュテット条約) 1709年 - ポルタヴァの戦い、ロシアに大敗、カール12世、オスマン帝国に亡命 1710年 - ヘルシングボリの戦い、デンマークを撃退 1712年 - スウェーデン独自暦を廃止 1714年 - ハンゲの海戦、ロシアにバルト海の制海権を奪われる 1715年 - カール12世、スウェーデンに帰還 1716年 - デンマーク=ノルウェー侵攻(1718年まで) 1718年 - カール12世、戦没。王妹ウルリカ・エレオノーラ即位 1719年 - ストックホルム条約(1720年まで)、交戦国と講和。新統治法制定 1720年 - ウルリカ・エレオノーラ退位、ヘッセン朝開始。絶対君主制の廃止 1721年 - ニスタット条約、ロシア帝国と講和。大北方戦争終結
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「オランダ東インド会社」の記事における「主要年表」の解説
1596年 最初のオランダ船、東インド到着 1600年 リーフデ号日本漂着 1602年 オランダ東インド会社設立 1603年ジャワ島西部バンテンに商館開設 パタニ王国に商館開設 1605年 ポルトガルよりアンボイナ島を奪取 1608年 アユタヤに商館を建設。アユタヤはオランダ本国に外交使節派遣 1609年平戸オランダ商館開設 現在のアメリカ合衆国のニューヨークを発見し、ハドソン川流域や北西航路を探検 1614年 現在のニューヨークを占領し、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)領「ニューネーデルラント」として領土宣言 1619年 イスラムのバンテン王国のジャカルタを占領し、要塞を築いてアジアにおける本拠地を確立 1621年 ニューネーデルラント(現在のニューヨーク)の所管がオランダ東インド会社からオランダ西インド会社に移る 1623年 アンボイナ事件 1624年 台湾を占領し、ゼーランディア城建設 1641年オランダ商館平戸から長崎出島に移転 ポルトガル領マラッカ占領 1642年 アベル・タスマンのテラ・アウストラリス探検隊を派遣 1643年 2月、マルチン・ゲルリッツエン・フリースが 択捉島と得撫島に上陸。「コンパニースラント」と命名し、領土宣言。8月15日、蝦夷地(現在の北海道)の厚岸に寄港し、9月2日までの18日間滞在。 1648年 ヴェストファーレン条約(スペイン、オランダ独立承認) 1652年 南アフリカのケープ植民地設立 1653年 ヘンドリック・ハメルらが乗船した「スペルウェール」号が、朝鮮王朝の済州島に漂着する。 1656年 ポルトガル領セイロンのコロンボ占領、オランダ領セイロン成立 1661年 鄭成功、台湾を占領 1665年 第二次英蘭戦争(~67年) 1704年 第一次ジャワ戦争(~08年) 1719年 第二次ジャワ戦争(~23年) 1740年 バタヴィアの華人反乱、虐殺 1749年 第三次ジャワ戦争(~55年) 1760年 アユタヤ商館閉鎖 1795年 フランス革命軍がオランダ(ネーデルラント連邦共和国)を占領してフランスの衛星国バタヴィア共和国が建国を宣言すると、オランダ東インド会社の経営もバタヴィア共和国に移管される 1797年 オランダ商館がアメリカ船とバタヴィアにて傭船契約を結ぶ 1799年 オランダ東インド会社解散
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1520年 「ストックホルムの血浴」、対デンマーク独立戦争開始 1523年 グスタフ1世即位(カルマル同盟崩壊) 1544年 ヴァーサ家の世襲制確立。スウェーデン海軍の設立 1555年 ヨハンネス・マグヌスが歴史書「ゴート人たちとスウェーデン王国の歴史」を編纂。「ゴート起源説」の起こり 1558年 リヴォニア戦争(~1583年) 1561年 「エストニア公国」設立(スウェーデン=エストニア、~1721年) 1562年 フィンランド公ヨハン(後のスウェーデン王ヨハン3世)、ポーランド・ヤギェウォ家王女カタジナと結婚 1563年 北方七年戦争(~1570年)、デンマーク艦隊撃破 1568年 フィンランド公ヨハン、狂気の進行したエリク14世を廃位し、スウェーデン王即位(エリク14世は1577年に毒殺) 1570年 シュテッティンの和約、北方七年戦争の終結 1581年 スウェーデン王ヨハン3世、「スウェーデン=フィンランド」において「フィンランド大公」の君主号を創設 1582年 ヤム・ザポルスキの和約。ポーランドとモスクワ(ロシア・ツァーリ国)が講和する 1583年 リヴォニア戦争終結、エストニア(エストランド)獲得 1587年 シギスムンド、ポーランド王(ポーランド・リトアニア共和国)即位。ポーランド・ヴァーサ王朝成立 1590年 ロシア・スウェーデン戦争(~1595年) 1598年 ヴァーサ家の分断。プロテスタント国家スウェーデンの成立 1600年 「リンチェピングの血浴」、カトリック勢力を粛清し、ルター派を国教とする 1608年 スウェーデン王太子グスタフ・アドルフ、ロシア大動乱(イングリア戦争)に介入(~1617年) 1609年 ポーランド王ジグムント3世、ロシア大動乱(ロシア・ポーランド戦争)に介入(~1618年) 1611年 グスタフ2世アドルフ即位(~1632年)、ヴァーサ王朝の最盛期 1611年 カルマル戦争(~1613年) 1617年 ストルボヴァの和約 1619年 デウリノの和約、ロシア大動乱の終結 1621年 ポーランド領リガ占領(スウェーデン・ポーランド戦争~1629年) 1624年 フランスによる対ハプスブルク同盟に参加 1626年 東プロイセン制圧(1629年にブランデンブルク=プロイセンに返還) 1628年 スウェーデン・デンマーク同盟を締結。デンマーク王クリスチャン4世を支援し、シュトラールズントを解放 1628年 戦列艦ヴァーサ沈没事件 1629年 アルトマルクの和議、スウェーデンとポーランドは休戦、リヴォニアはスウェーデン領とポーランド領に分割。スウェーデン軍はプロイセン沿岸に駐留 1630年 三十年戦争に介入 1631年 ベールヴァルデ条約、フランスと同盟 1632年 リュッツェンの戦い、グスタフ2世アドルフ戦死。クリスティーナ即位 1632年 ドルパート大学(タルトゥ)設置 1632年 スモレンスク戦争(~1634年)。ポーランド、スモレンスクの維持と引き替えにロシアにレガリアを返還 1634年 ネルトリンゲンの戦い 1635年 アルトマルクの和議の撤廃。スウェーデン軍、プロイセン沿岸から撤退 1636年 バルト海における航海条令を制定 1638年 北米へ植民地を築く(現在のアメリカ合衆国デラウェア州) 1640年 トゥルク大学設置(現在のヘルシンキ大学) 1643年 トルステンソン戦争(~1645年) 1645年 ブロムセブローの和議、デンマークの屈服 1648年 ツスマースハウゼンの戦い 1648年 ヴェストファーレン条約、三十年戦争の終結 1648年 ポーランド、大洪水時代始まる(フメリニツキーの乱) 1650年 西アフリカの黄金海岸へ進出(スウェーデン領黄金海岸~1663年) 1654年 クリスティーナ退位、スウェーデン・ヴァーサ王朝の終焉 1654年 ロシア・ツァーリ国、ポーランド内戦(ロシア・ポーランド戦争)に介入 1655年 北方戦争(~1661年)、北米植民地「ニュースウェーデン」喪失 1656年 ワルシャワの戦い。スウェーデン、ポーランドを破りポーランド分割を計画するも、ポーランドの反撃により阻止される 1660年 オリヴァ条約、スウェーデン・プファルツ朝自立 1667年 ポーランド・ロシア戦争終結(大洪水時代の終結) 1668年 ポーランド・ヴァーサ王朝の終焉
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1934年メキシコ、ベラクルスに生まれる 1952年メキシコ国立芸術院(英語版)入学、アルベルト・デ・ラ・ウェガ(彫刻)、ホセ・エル・ルイス(彫刻)、フランシスコ・スニガ(英語版)(彫刻)に師事する。後にフランシスコ・スニガの助手を長年務めることになるディエゴ・リベラ(絵画)、ダヴィッド・アルファロ・シケイロス(壁画)も芸術院の師であった。 1960年メキシコ国立芸術院卒業、同校ならびにメキシコ国立自治大学(UNAM)彫刻科教授となる。 1962年イタリア政府国賓留学生としてイタリア国立美術学院大学院コースを修了。 1964年メキシコ国立人類学博物館の彫刻部長に就任する。これは、建築家であるペドロ・ラミレス・バスケス(英語版)の要請のもとに実現した。 1968年メキシコシティーオリンピック委員会公式彫刻家に任命される。 1969年スペイン、フランス、ギリシャ各大学においても大学院コースを修了。 1990年メキシコ国立芸術院ならびにメキシコ国立自治大学を退職。 メキシコおよびアメリカ、日本で多数の作品を制作。 2005年メキシコシティにて死去。享年70歳。
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1804年 神聖ローマ皇帝フランツ2世、オーストリア皇帝フランツ1世として即位 1805年 フランス軍、ウィーン占領。アウステルリッツの戦い 1806年 フランツ2世、神聖ローマ皇帝位を放棄。神聖ローマ帝国の消滅。 1809年 フランス軍再びウィーン占領。メッテルニヒ宰相に就任 1810年 オーストリア皇女マリー・ルイーズとナポレオン皇帝の結婚 1813年 ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い) 1814年 フランス戦役。ウィーン会議(-1815年) 1815年 ワーテルローの戦い。ドイツ連邦成立。 1819年 カールスバート決議 1831年 ポーランドの蜂起 1835年 フランツ1世没。フェルディナント1世即位 1847年 ガリツィアの蜂起[要出典] 1848年2月24日 パリ二月革命、革命風潮欧州全土に拡大 3月13日 ウィーンの革命。メッテルニヒ亡命 3月15日 ブダペストで革命 3月 フランクフルト国民議会 10月 ハンガリー独立宣言 12月2日 フェルディナント1世退位。フランツ・ヨーゼフ1世即位 1849年3月 ロシア帝国軍、ハンガリーに介入 8月 ハンガリー軍投降、コシュート・ラヨシュ亡命 1859年 イタリア統一戦争、ソルフェリーノの戦いに敗北。ロンバルディア割譲 1864年 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 1866年 普墺戦争、ケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)。リッサ海戦。ヴェネツィア割譲。ドイツ連邦の終焉と北ドイツ連邦成立。 1867年 - ハンガリーとアウスグライヒ(妥協)、オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。以後はハンガリー王国以外の領域がオーストリア帝国に。 以後の歴史はオーストリア=ハンガリー帝国#略年表を参照。
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1752年 アラウンパヤー王モーソーボで即位、コンバウン朝の成立 1753年 ビルマの旧都インワ(アヴァ)を奪回 1757年 下ビルマ、モン王国の首都パゴー(ペグー)を占領 1758年 シャン地方やマニプルに遠征 1759年 タイの首都アユタヤ攻撃、撤退 1766年 シンビューシン王、アユタヤを陥落させる 1769年 清軍とアヴァ近郊で停戦協定を結び、清の朝貢国となる。 1782年 シングー王の外遊中、王族のマウンマウンがクーデターを起こして即位。数日後、ボードーパヤー王がマウンマウン王とシングー王を殺害。アマラプラに新王都建設 1785年 アラカン王国を征服 1814年 マニプル王国を支配下に入れる 1817年 アッサム王国を支配下に入れる 1824年 第一次英緬戦争( - 1826年) 1826年 ヤンダボ条約でアラカンとテナセリウム割譲、アッサムとマニプルに対する宗主権喪失 1852年 第二次英緬戦争、英軍下ビルマ占領 1885年 第三次英緬戦争、王都マンダレー陥落 1886年 イギリス、上ビルマを英領インドに併合
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「イギリス東インド会社」の記事における「主要年表」の解説
1600年 東インド会社創設 1602年 ジャワ島バンテンに商館設立 1613年インド西海岸スーラトに商館設立 日本の平戸に商館設立 1623年アンボイナ事件 日本から撤退 1640年 マドラスにセント・ジョージ要塞完成 1650年 東インド会社の商船が初めて香港に停泊 1661年 ポルトガル領ボンベイ、英領に贈与 1696年 カルカッタにウィリアム要塞完成 1708年 連合東インド会社創設 1711年 広東に商館設立 1717年 ムガル帝国の皇帝からベンガル地方における輸出関税の免除特権を獲得 1746年 フランス軍マドラス占領 1757年 プラッシーの戦い、ベンガルにおける会社の覇権確立 1761年 仏領ポンディシェリ占領 1764年 ブクサールの戦いに勝利 1765年 ロバート・クライヴ、初代ベンガル知事に就任。ムガル帝国の皇帝からベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニー(州財務長官の職務・権限)を授かる。 1773年 ウォーレン・ヘースティングズ、初代ベンガル総督に就任 1773年 茶法制定。イギリスは北米13植民地での紅茶の販売力強化による会社救済を目指したが、植民地住民の反発に遭いボストン茶会事件が起こる。その10年後の1783年には、アメリカ合衆国が独立することになる。 1799年 第四次マイソール戦争に勝利。マイソール王国を藩王国化。 1803年 第二次マラーター戦争。デリーを保護下に置く。 1808年 長崎フェートン号事件 1811年 インド軍、オランダ領ジャワ侵攻 1813年 インド貿易の独占権喪失 1817年 第三次マラーター戦争開始 1818年 マラーター同盟を解体 1826年 海峡植民地創設 1833年 中国貿易の独占権喪失に伴い商業活動停止 1841年 アヘン戦争( - 1842年) 1849年 第二次シク戦争に勝利。インドの植民地化完了 1857年 インド大反乱(セポイの乱)が勃発 1858年 インド管轄権を失う 1874年 会社解散
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紀元前19世紀頃 - 古代エジプトで現在知られる最古の暗号 → 暗号史 紀元前6-4世紀頃 - 古代ペルシアで街道(王の道)と駅伝制の整備。 2世紀初頭 - 中国で実用的な製紙法の発明。情報の運搬が容易に。→紙、蔡倫 狼煙(のろし)を使った通信。 飛脚による親書通信。 望遠鏡の発明。視覚通信への応用により文字コード伝達が可能となる。 郵便制度。 鉄道の腕木信号 伝書鳩 手旗信号 - 腕木通信
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