教科書問題
まあ、それはともかく、ちょっとした昔話におつきあいを。アメリカで起きた進化論裁判というのをご存じだろうか?
だが、進化論に反対するこれら創造論の信奉者によって、学校の教育内容が書き換えられたことがあるのだ。最初、彼らは議会を動かし、進化論を学校で教えることを禁じる法律を作った。そして、彼らは一旦は勝利を収める。この法律を不当として裁判を起こした進化論者の側は敗北し、いくつかの州では学校で進化論を教えることが禁じられたのである。
だが、科学教育の重要性が知られるにつれ、しだいに創造論の勢いは衰えて行く。それでも、進化論が主流になるまでは長い年月が必要だったのだが。この状況に危機感を覚えた創造論者は再び行動を起こす。進化論を完全に排除することはさすがに不可能と考えた彼らは、今度は両論併記という形で生き残ろうと考えたのだ。進化論だって仮説に過ぎないのだから、同様に一つの仮説として創造論を教えてもいいじゃないか!
この目的自体を否定することは出来ない。進化論に対抗できる有力な仮説として、自らの主張の信憑性を増す、という手段を取ったのであれば、これはなんら批判されることでは無いのだ。だが、彼らはまたも議会を動かし、法律を作ることで教育内容を変更しようとした。前回もそうだったように、今回も議会は彼らの味方をした。国民の過半数が(科学的には間違い、というよりはそもそも科学ではない)創造説を信じている状況では必然だったのかもしれない。
これに対して、これもまた前回同様、進化論側は裁判を起こして対抗した。この時の裁判では、多くの科学者たちが危機感を持ち、裁判に協力した。その甲斐あってか、進化論側の勝利となり、両論併記を求めた州法は無効という判決が出ている。だが、その過程は決して平坦ではなかった。相手が”両論併記”を狙ってきたというのも苦労した点だろう。言論の自由という大義名分と、いかなる科学的事実も一つの仮説に過ぎないという誠実な科学者ならだれでも持っている常識。これらを使って攻めてきたのだから、創造論は間違っている、という単純な反撃は出来ないのだ。この時裁判に力を貸したのは、専門家である進化生物学者だけではなかった。実際、彼らの支援がなければこの時の裁判も危なかった。この時支援した科学者たちはこの件に関する専門家ではなかったものの、当事者であり、こんな無法が通ってしまっては科学というものの基盤が危うくなるという危機感から手を貸したのであった(←ここ、重要)。
結局のところ、創造論側はその手続きの点で二つの誤りを犯していた。ひとつは創造論自体に内在する”科学的手続き”というものに対する不誠実さ。創造論というのが(最新のID論も含めて)肝心なところで”検証不可能な絶対者”を想定してしまっている。そのために仮説の正しさを検証することが不可能になっているのだ。
「正しさを検証する」というのは「どういう条件の時に誤りである」ということを提示し、その条件が満たされていないことを証明するということ。これが提示されていることが、その仮説が科学であると言うことができる最低条件と言ってもいい。
もうひとつの誤りは、権力を通して教育内容に干渉しようとしたこと。科学的事実というのは一つの仮説に過ぎない、と書いたように、新しい事実の発見などがあればその仮説は書き変わってゆく。だが、それはあくまでも科学というフィールドの中での話だ。大体教科書というのは基本的に通説と異説を競わせる場ではないはず。何の為に学会があり、各種の精査システムが存在してるのか? そのプロセスをすっ飛ばして、議会での立法を行なうというのが既におかしな話であるのだ。
さて、こんな昔話をしのは、思うところがあってのことなのだが……。それをまとめてエントリーにするにはもう少し時間が欲しいところ。今はとりあえずこのくらいで。
>科学的事実というのは一つの仮説に過ぎない、と書いたように、新しい事実の発見などがあればその仮説は書き変わってゆく。
のくだりが気になって仕方ありません
新しい事実の発見によって「一つの仮説に過ぎない」「科学的事実」が否定されるわけではありませんから。
科学的な手法として「仮説→検証→モデル(とか理論とか学説)提唱」とくるわけですが、事実とは検証される部分を指すべきでは?
新しい事実が確認されたところで、以前の事実は否定されるわけではなく、事実を組み合わせた解釈(=理論)が修正されるだけです。
2007.10.11 (Thu) | 碧猫 #fYTKg7yE | URL | Edit