「ロリータ」の悲劇を引き寄せたもの
ナボコフの小説「ロリータ」が、これほど世界でロングセラーを続けることは私には驚きだった。
この小説の最初の映画化の際、主役である性欲倒錯者(※)ハンバート役を打診されたケーリー・グラントが即座にそれを断わったのは、彼がハンバートのような人間を真から毛嫌いしていたり、自分のイメージの失墜を恐れたということもあるかもしれないが、私同様、「ロリータ」という作品に価値を感じていないのではと思っていた。
しかし、あのスタンリー・キューブリックが映画化した作品であるというのもまた事実である。
※性欲倒錯者
「倒錯」とは、「社会的規範から外れた行動や嗜好を示すこと」という意味で、何をもって倒錯と言うのかは、特に現代では難しいということが分かる。
「ロリータ」のハンバートの場合、俗に「ロリータ・コンプレックス」と言われるもので、医学的には性嗜好障害の小児性欲である。
私は、どこをどう叩いても、「ロリータ」をラブロマンスだとは思わない。「ロリータ」は悲劇である。
悲劇であるなら、その原因を探るものである。
私は、高校生の時に初めて「ロリータ」を読んだが、その時は、ただ不快に感じた。しかし、癪なことに知的なものは感じていた。
大人になってから読むと、ただハンバートの愚かさを感じた。ただし、「性欲倒錯者だから」では決してない。
私は、性欲倒錯者というだけでは何とも思わない。そもそも、性欲に倒錯というものなどない。ある意味、性欲倒錯でない人間などいない。「俺は正常だがあいつは異常だ」という人間がいたら、それは単なる傲慢だと思っている。ハンバートは性的嗜好とは関係ないところで愚かなのだ。
時が経つと、私は、ロリータこと、ドローレスという少女の精神構造に憤りを感じた。ただ、それはドローレスへの怒りではなく、歪んだ教育をされた少女への哀れみへの反動である。
そして、ヘイズ夫人(ロリータの母親)の救いようのない精神の無明に思い至った。あまりの不快さに、私は目をそむけていたのだ。
しかし、これらの、私に反発を感じさせたものは、全て私の中にあるものと知った。人は、自分にない欠点を見ることはない。
ついに、私は「ロリータ」が傑作であることを認識した。「ロリータ」は自己を知るためのものだった。
悲劇はヘイズ夫人の思考習慣から起こっている。
それは、建設的、創造的と正反対のものである。
(小説でも映画でも指摘されることはなかったが、ヘイズ夫人が飽食者であることは映画でも滑稽に描かれており、それが彼女の精神を歪めている部分が大きいと思う。)
そして、ロリータと共に、そのヘイズ夫人を人生に引き寄せたハンバートの習慣的な思考とは何だったのか?
どこまで正確な事実かは分からないが、「ロリータ」にはハンバートの自伝的部分も含まていれる。
2つの映画で、それぞれの監督であるキューブリックは省き、ラインは描いた、ハンバートの少年時代の恋人アナベルの幻影がロリータを引き寄せたのだろうか?
いや、おそらく、ハンバートも誤解していると思うが、アナベルも単にハンバートの習慣的思考に引き寄せられたのだろう。
全ての悲劇の真の原因は、実にハンバートが育んだ歪んだ思考であったと思う。
ロリータ 2005年出版の新訳。本書は2006年の文庫化版です。 いずれ読むかもしれませんが、私は正直言って、この若島正さんの翻訳は読んでいません。若島さんは、日本ナボコフ協会運営委員ということで、ナボコフに関してはいわば専門家ということと思います。 | |
ロリータ 大久保康雄訳。1959年初版で、1984年の改訂版です。 大久保康雄さんは、数多くの英米文学の名作の翻訳で知られる翻訳家です。 間違いなく名訳と思いますが、現在では新品での入手は難しいかもしれません。 | |
ロリータ(DVD) スタンリー・キューブリック監督版。1962年作品。モノクロ。 ロリータ役は14歳のスー・リオン。現代の14歳と比べても、スーはかなり大人っぽく、小説では12歳のロリータ役には無理があると思います。当時のアメリカではこれが限度だったからと言うより、映画として、大人が見ても魅力を感じる女優を選んだということかもしれません。実際、スーは魅力たっぷりです。 とはいえ、見ていると、スーにロリータらしい雰囲気が十分にあるのは、さすがキューブリックと思わせます。 映画を面白くするため、小説でのラストから始めるのは、下のライン監督も真似たようです。 | |
ロリータ(DVD) エイドリアン・ライン監督版。1997年作品。こちらはカラー。 ロリータ役は16歳のドミニク・スウェイン。大変な数でのオーディションで選ばれたドミニクは、ライン監督の目に留まったのでしょう。 ロリータ役には、小説でいうニンフェットとしての特別な魅力というよりは、精神的貧困さの表現が重要と思いますが、ドミニクはこの点ではよく演じていると思います。 ただ、正直、私はあまりしっかりと見ていません。いずれ、しっかり見直そうと思います。 |
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