いじめをやらせているのは学校である
いじめは学校制度のために必要なものなのである。
よって、現行の学校制度が続く限り絶対になくなることはない。
そのことを説明したいと思う。
いじめはなぜ起こるのであろうか?
別に学校の中だけでなく、人間社会全般に言えることであるが、集団と異なる価値観を持つ者を排除するために起こるのである。
簡単に言うと、同じ価値観を共有する集団が、異なる価値観を持つ異分子を寄ってたかって攻撃することがいじめである。
人間の価値観というものは、論理で決まるのではない。たとえそう思っているとしても、それは違う。宗教的とも言える嗜好で決まっているに過ぎない。最も適切な言い方をするなら幻想である。集団で共通して持つ幻想のことを、吉本隆明氏は「共同幻想」と定義しているが、この呼び名を借りる。
この共同幻想は、自然に人々の間で構築されるもので、特に有害でなく、人間が生きていく上で効率的なものもあるかもしれない。しかし、それが時代遅れになっても、容易に新しい状況に適応できないという特徴もある。時代遅れな共同幻想を頑なに守ろうという支配者が強く、共同幻想に変化が起こらない集団はやがて滅亡する。
また、支配者層が、自分達の都合の良い考え方を庶民に叩き込み続け、それが様々なものと複雑に絡み合いながら、場合によっては一見美しい強固な共同幻想となることも多い。
日本国民に関しても、国民が持つ価値観の大部分は支配者によって植え付けられた幻想と考えてほぼ間違いない。
健康問題とかを理由にさっさと辞任したどこかの首相がアピールした「美しい国」のキャッチフレーズも、自分に都合の良い幻想の国民共同化を意図していたが、主があそこまで無能では仕方がないと思う。
学校の中は特に強く、支配者によって作られた幻想に支配されている。
学校とは、もともと、兵隊や集団労働者を作るため、ものを考えない従順な人間を作ることを目的にその制度を作ってあるのだから当然のことである。
学校の共同幻想に深く染まっていない者が教師になることは出来ない仕組みであり、生徒は教育の名の下にその幻想を叩き込まれる。生徒の親も、既に同じ幻想を持っている場合も多いが、そうでない場合は、子供を人質に、その幻想を受け入れることを強要される。
だが稀に、学校の中で絶対的であり、教師、生徒、保護者に共通する幻想を持たない子供が紛れ込んでくることがある。そんな子供は例外なくいじめられる。共同幻想にあくまで取り込まれない場合は殺されることになろう。
そして、教師は絶対的に見て見ぬふりをする。当然である。いじめは、共同幻想に取り込むために必要なものであり、事実上、学校公認である。学校はこれを止めないなかりではなく、いじめを効果的に行えるよう最大の援助をしていると言える。その援助とは、学校における単独行動の禁止である。
学校では、1人が自律的に行動することは絶対に許可されない。皆が同じことをしないといけないのだ。どういうことかと言うと、集団と異なる価値観を持つ子供は、いじめから逃れる方法が全くないということだ。他の子供達に依存しないと学校生活は成り立たないのである。授業やその他の教育の名の下に行われる活動で、すぐに「グループを作れ」「2人組みになれ」という指示が頻繁に繰り返されるのはそのためだ。それに従わないと、教師から徹底した迫害と辱めを受ける。
共同幻想を持つ子供達は、タダでは特異な価値観を持つ子供をグループに入れたりしない。そこで力関係が発生する。特別な価値観を持つ子供は、極めて弱い立場に置かれるのだ。そうなるともう、いじめ放題と言って過言ではない。
あくまで共同幻想に抗うなら、殺されるか自殺するかしか残されていないのである。それが学校なのである。
死ぬくらいならひきこもれ。
「自殺するなら、引きこもれ 問題だらけの学校から身を守る法 (光文社新書) 」を参考に読むと良いが、いずれにせよ、肝心なことは学校から離れることだ。
「お金は宇宙から降ってくる(中経出版)」を読んでも分る通り、大昔であってすら、学校に行かなくても勉強はいくらでもできた。ましてや今の情報社会で、学校で教わる必要性は全くない。あると思わされているだけである。
私も学校の授業を聞いたことは1度もない。
さて、私がいじめられなかった理由であるが、いつもナイフをちらつかせていたのだ(笑)。ただ、今の共同幻想は過激で、異分子は殺しても良いとする傾向が強いので、下手すると簡単に殺されるのでお薦めはしない。
まずは命を守って欲しい。いじめで自殺したという話はもう聞きたくはない。
親も、子供が学校に行きたくないなら行かせてはならない。何か不都合が起こるとしても、死ぬよりマシである。いじめで子供に自殺された親はそう思っているはずだ。
私は時々思うのだ。
毎日、学校や会社に行かないといけない人生のどこに楽しさや意味があるのだろうと。
それなら、ますます食を減らし、やせ衰えて死ぬのも悪くないと。
仏教学者のひろさちやさんは、会社とは監獄であると言った、それは学校も同じだ。ただし、脱獄可能な監獄だ。
さっさと逃げ出すのも手かもしれない。
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