2007.01.31
「ひきこもれ」という、素晴らしいタイトルの本があった。
著名な思想家、詩人である吉本隆明氏の著書である。
書店で20秒ほど目を通し、買っておいたがまだ読んでいない。
副題は「ひとりの時間をもつということ」とあり、ひきこもることの優れた面を強調していたように思うが、私もひきこもりが悪いことだけとは思わない。
ひきこもらない人に比べ、自分の内面に意識を向ける機会が多いことは良いことだ。
ただ、ひきこもりと言われる人たちの中には、長時間テレビゲーム等をしたり、映画やアニメのビデオを見る人が多いとも聞く。また、ネット上での交流は盛んであったりすることも多いらしい。
そんなのはひきこもりではないと思う。注意は節操無く外に向かい、ちっとも自分の内部を見ていないのではと思う。
私がひきこもっていた時は(笑)、お金がないし、親もくれないので、ゲームやビデオは無理だし、せいぜいが本を読むくらいであった。それが自分を知る良い機会になると共に、洞察力を多少は得、一見、外交的な人間も私とそうは変わらないと結論した。それが了解されると、かえって私は積極的になり、恐いもの知らずの人間のように思われるようになったし、多少は人間に対する洞察があるので、社会でもあまり苦労しなかった。
ひきこもるなら、ゲームなんかせずに真面目にひきこもれと言いたい(笑)。
ただ、敢えて言えば、ひきこもるには意志の力も必要であると思う。でないと、やはりすぐに関心が外に向かう。意志の力を鍛えて、健全に引きこもってもらいたい。
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2007.01.30
風邪を引き、更新が1日止まりました。
さて、では風邪はどう治療するかというお話をしましょう。
やはり、酒ですね(笑)。
日本では、伝統的に玉子酒が使われます。私も今回、お世話になりました。
もちろん、ワインも有効です。私も今回、お世話になりました(笑)。
ロシア式の風邪治療法も面白いです。
患者を毛布でグルグル巻きにし、ウォッカを10分ごとといったように間を置いて飲ませます。猛烈に汗をかきながらやがて気を失い、目覚めた時には治っている・・・とか^^;;
くれぐれも、お酒に強い方用ですね。
余談ですが、旧ソ連では、国会の席でウォッカが振舞われるということも普通だったそうです。さすがに今はないとは思いますが。
しかし、ロシアで機械か何かの展示会をする時は、来客用にウォッカを用意する必要があると聞いたことがあります。別室に招きいれ、一緒にウォッカを飲まないといけないそうで、日本の商社でも、ロシア担当者の方は大変なようです。
オランダでは、ジン発祥の地だけあり、ジンが風邪の特効薬です。
もともと、ジンは薬として発明されました。ただ、ジンという名前は英国に渡った時に付けられたもので、もともとはジュニエーヴルというフランス語の名前がついていました。
現在、一般的なロンドン・ジンも英国でアレンジされたものです。
もちろん、ウイスキーやブランデーを飲み、汗をかくのも有効です。汗で冷えてはいけませんので、拭いてくれる人がいると良いですね。
中国では、茅台(マオタイ)酒という酒があり、もともとは65度という強いものでした。周恩来は、風邪をひいた時はこれで治したことが知られています。
2004年に亡くなられたレーガン米国元大統領は、中国訪問の際、長城飯店(グレートウォールホテル)という、中国最大のホテルでのレセプションで、この茅台酒を注がれ、男らしく一気飲みしたという話があります。
イタリアあたりでは、脂っこい料理を食べている時、この茅台酒を一気飲みして胃を引き締めて、また美味しく食べるという話があり、私もやってみました^^; 心臓がバクバクして、死ぬかと思いました^^;;
アルコールがダメなら、ココアにバターを溶かして飲むのが良いとか。栄養がありそうなので、十代向きかもしれません。
まあ、つまるところ、よく寝ることです。医者ってのは風邪薬は飲まないそうです。
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2007.01.28
池田満寿夫さんがモディリアーニを好きなのは、高校生の時に読んだ、モディリアーニの三文小説の影響であったらしい。実際のことはほとんど分からない謎の画家モディリアーニのフィクションであるのだが、そのエロチックでドン・ファン的な架空のモディリアーニ像に憧れたようだ。
ところで、そのドン・ファンについて、私は思い違いのイメージをずっと持っていた。ドン・ファン伝説は単純なもので、女たらしの色男ドン・ファンが、最後は自分が殺した男の石像に地獄に引き込まれるというものであるが、私は子供の頃、何かの本で読んだドン・ファンの全く別の話を憶えている。
このお話では、ドン・ファンが最後に口説くのは、深手を負ったところをかくまわれた修道院で、手当てをしてくれた清らかな15歳の修道女だった。40歳のドン・ファンは、青年のように彼女に囁いた。そのような経験のない彼女は、その時はうっとりとしたものの、後で罪の意識から命を絶った。ドン・ファンは激しく悔やんだとあったと思う。
ドン・ファンの名前がタイトルにあった本で、「ドン・ファン的人物」として書かれていたのかもしれない。

そんなわけで、15歳の穢れなき修道女を描いてみました(^^;
手元は何かのお仕事中ですが、決してダイコンを切っているのでも、サンマを降ろしているのでもありません(笑)。
「合コンですか?あたし、そういうのよく分かりませんので・・・」というセリフが聞こえてくれば良いのですが(笑)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。
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2007.01.27
デジャヴ(既視感)という言葉をご存知と思う。
初めての経験のはずが、前にも同じことがあったような感覚を憶えることである。
心理学では錯覚とされる。
怪しい論では、予知能力の表れとかいろいろ言われる。
実を言うと、日常の全てがデジャヴである。
夢の中のことを考えてみよう。
現実では普通の家に住んでいる人が、夢の中では豪華なお城に住んでいるとする。
お城の中の様子は、全くもっていつも通りで、何も不思議に思わないが、それは初めて見るものであるはずだ。
初めて見るはずのものを、前から知っているように思う。現実のデジャヴと違い、奇妙な感覚がないというデジャヴである。
では、現実のデジャヴがなぜ奇妙に感じるのか?
前にも同じことがあったように思えることが、実際にはなかったと知っているから奇妙に感じるというのが一般的な考え方になる。これが、夢の中では、「実際にはなかった」ことがなぜか分からないのである。
しかし、事実は、「いかなる経験も実際にはない」のである。
過去の経験と思っていることですら、現在の中で心が一瞬で作り出したものである。心が、(現在の)世界と偽りの過去の記憶を同時に作る時、たまたま、現在の世界と似た状況の過去の記憶を作ってしまい、その過去の記憶に「事実」というラベルを貼り忘れたのである。いや、「貼り忘れた」というより、「ラベルを剥ぎ取った」と言う方が正しいかもしれない。
私は、その気になれば常にデジャヴを感じることすら可能である。
それが、幻想からの目覚めにつながる。
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2007.01.26
悟りを開いた人を仏陀と言うらしい。
では、悟りとは何であろう? サトエリならいいオンナだが、あまり関係ない(笑)。
ブッダとは、「目覚めた人」という意味らしい。インドでは、冗談で「私は毎朝ブッダになる」とか言うこともあるらしい(笑)。
要は、ブッダとは「真理に目覚めた者」ということと思う。悟りは、正覚とも言う。
現代のインドの聖者の言葉から察するに、「真の自己である真我になった者」が悟りを開いた人に相当すると思う。つまり、通常の人間は、本当の自分ではなく、偽りの自分であるが、その偽りの自分を剥ぎ取ることで、真の自分になることのようだ。
ところで、我らが岸田秀先生の唯幻論では、真の自己なるものは存在しないが、お釈迦様自体も、実はそう言っている。ただ、どうも「存在」の意味が異なるようで、このあたりは難しい。
で、悟りを開くとどうなるかであるが、神通力(超能力)自在で、何でも思い通りに・・・のはずはない(笑)。
先の、インドの聖者による定番で言うなら、「存在、意識、至福」の状態というが、どうもピンとこない。
創造工学の提唱者で、天才発明家の中山正和氏(故人)が興味深いことを書いている。中山氏の想像力開発メソッド「NM法」は海外の一流企業でも取り入れられて成果を上げた実績もあるらしいが、どこかの成功プログラムやセミナーのように超高額ではなく、本1冊でできて便利である(喜)。
中山氏によると、脳の中に宇宙創生の原理である機能がプログラミングされており、これを仮に「X(エックス)」と名付けた。この宇宙プログラムXは、機能してはいるのだが、意識することはできないし、人間の場合はかなり歪んでいる。ただ、動物の場合は、Xは素直に発現されており、これが本能になっている。
人間の場合、脳の乱れたイメージ配列のせいでXの発現が妨げられるようで、天然自然の能力が発揮できない。
しかし、何らかの手段で、脳のイメージ配列を整え、Xが発現された状態を悟りという・・・と、だいたいがこんな感じと思う(自信はないが^^;)。
ところで、なぜイメージ配列が乱れるかというと、「嘘の情報」が入り込むことによるのだそうである。よって、うかつに信じて受容してはならないのだが、怪しい占い師や霊能者が人気タレントになっている現状は、イメージ配列乱れまくりの人が多いのである。
さて、では、この宇宙プログラムXが発現するとどうなるか?
宇宙をまるごとゲットしたと同じだ。あるいは、自分が宇宙になる。
インドの聖者と中山氏が共通で言っていたことによると、未来が分かるようにはなる。ただ、では「競馬予想を」となると無理である。我欲を起こすと結果としてイメージ配列は乱れ、Xは消える。
さてさて、ではどうやってXを発現させるかだが、嘘の情報を信じなければ良い。
何が嘘か分からなければ、全て虚偽とすれば良い。デカルトのようにね。
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2007.01.25
当然のことであるが、誰しも、自分は世界の中にいると感じていると思う。
それは逆で、世界が自分の中にあるのだと言っても、納得できないと思う。
宗教の世界であれば、「実際は世界は自分の中にあるのだ」で終わりであるが、それでは誰も納得しないだろう。
ところが、私は実感として世界は自分の中にあると感じる。
これは、熱心に仕事をしている人なら、誰でも多少は感じると思う。つまり、宗教的真理も、熱心に仕事をしないと分からないものであると思う。
それは、案外にアニメの世界のことに似ている。
セーラームーンでもプリキュアでも(別に知らなくていいです^^;)、正義のヒロインが敵と戦うのであるが、回を追うごとに強い敵が登場するのである。20話あたりで登場する敵は、3話位で登場する敵より何倍も強いが、3話ではヒロイン達は敵にやっとの思いで勝つが、20話のはるかに強い敵にも激闘の末、勝つのである。
これは、ヒロイン達自体の成長もある。
考えてみれば、その時のヒロインに相応しい敵が登場するのである。
敵のグレードアップに合わせてヒロイン達も成長するというのも良いが、逆にヒロイン達の成長に合わせて敵もグレードアップするように思う。
そして、結果的にはヒロインが勝てないような敵は出現しない。
これらは、経験上、自分の仕事でも完全に当てはまる。
私はコンピュータソフトの開発をしているが、この仕事は大掛かりなプロジェクトを大人数でやる場合と、比較的小規模なものを一人(あるいは数名)でやる場合がある。私は一人で仕事をするのが好きだが、いずれにしても、クライアントの依頼で開発する場合がほとんどだ。
どんな仕事も同じであろうが、いくらやる気があっても、能力的に無理な仕事もある。そして、実際に、開発者の能力に余る仕事を受けてプロジェクトが破綻する場合も少なくはない。
私の場合は、いつの仕事も厳しいものばかりではあるが、どうにも手に負えない仕事が来たことはないし、実力が上がれば仕事の難度もそれに合わせて上がっていく。今やってる仕事も数年前(あるいは数ヶ月前)に受けていれば確実に失敗したであろうが、そんな無茶な仕事が来たためしはない。私のように、単独開発が多い場合は、その実感も強い。
これはほんの一例で、その他多くの事柄についても、世界の方が私の中にあり、世界の創造者は実際は自分であるように感じる。
こんな言葉がある。「自分が作った世界を恐れてはいけない」と。
また「あなたがいるからできごとが起こるのである」と。
ルドルフ・シュタイナーは「42歳までは職人で過ごせ」と著書に書いていたが、仮に神秘的な道を進むとしても、世間での修行は必要だという意味と思う(当時は、職人が庶民の典型的な仕事だったのだと思う)。
芸術家も、ある程度神秘的な側面があるように思うが、やはりある時期までは、所謂「泥臭い」仕事に身を置いた方が良いように思う。
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2007.01.24
人間のマインドでは、無限を捕えることはできない。
無限という言葉はよく使われるが、実際には人間には無限は想像もできないはずだ。
もし人間の精神に無限なるものが流れてきたらどうなるだろう?きっと意識に空白ができるのではないかと思う。もし、神が無限者というに相応しいものであれば、神に出逢ったとしても、それを憶えていることはできないに違いない。
私は、精神の限界を超えるものと接触した覚えがある。それは、子供の時に、風邪で熱を出したような時によくあった。
精神の限界を超えるものであるのだから、それを憶えているはずもないのだが、印象としては、可能な範囲で想像できる限界をさらに推し進めたものであるという感覚がある。
そういえば、禅の考案である「無門関」の中に「百尺竿頭進一歩」というものがあり、百尺の竿の先から更に1歩を進めよといったような意味と思う。禅語であるから、それがどんな意味か確としたものがあるのかどうかは知らないが、いろんな人がいろんな解釈をしている。
最も簡単な解釈では、百尺の竿の先頭とは悟りの境地であるが、そこに到達しても更に先に進まねばならないとかいうものがある。私はこんな解釈は成り立たないと思う。そんな解釈が出るうちはまだ悟っていないはずだ。
私が感じた精神の限界を、なんとか言葉にするなら、こんな話が私としてはぴったりする。
例えば、デタラメに紙にインクを塗りたくるとする。猿にでもやらせると良い。そしたら、それが辞書や百科事典になるということは、あり得ない話ではあるが、絶対に無いとも言えない。それにはどのくらいの時間がかかるか想像もできない。休み無く繰り返しても、100億年や千億年でも、1ページもできるとは思えない。奇跡的に1行完成しても、2行目の先頭がうまくいかなければ最初からやり直しである。
こんなことが、リアルに精神の中で展開されるのである。無限とはかくも恐ろしく、うかつに無限を得るなんてことは言いたくないものである。
ところで、こういった荒唐無稽な話は、仏教の経典である法華経に多く語られている。馬鹿馬鹿しくなるほどの巨大な数が扱われる。頭がおかしくなるような気もするが、普通、聞く機会もないようなことなので、囚われた精神を破壊するために挑んでみても面白いかもしれない。「無限のパターン」なんて言葉がよく使われるが、本物の無限と比べれば、なんとも限定されたものである。無限の中で自在であることが悟りである。
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2007.01.23
小学4年生の時と思うが、書道塾からの帰りに、こんなことを考えたことをよく憶えている。
「人生というのは、芝居の舞台のようなものだ。私も芝居に出ている役者に違いない。しかし、役に夢中になるうちに、芝居であることを忘れてしまったのだろう」
今考えても、実に的を得た考えと思う。
アラン・ワッツの「タブーの書」という本があるが、これに面白い話があった。
一人で家族遊びのようなことを始めたとする。お父さん役、お母さん役、子供役、あるいは、祖父役、祖母役・・・。自分で話しかけ、自分で応える。我々は、この遊びに夢中になって、一人遊びであることを忘れ、何人も家族がいると思い込んでしまっているようなものだと。
他にも、洞察力鋭い思想家が、やや異なった表現ながら、同じような考えを述べているのを見たことがある。
(例えば、イツァク・ベントフ)
人生とは、やはり芝居のようなものなのだろう。そして、それはやはり一人芝居なのだ。
楽しい役をやっている者はほとんどいないと思う。もちろん、短期的には楽しい役の場合もあるが、芝居が終わるまで楽しさが継続する場合はほとんどない。
だが、実は楽しくする方法がないでもない。それは、決してモテモテの役になるとか、お金持ちになる役に芝居を変えることができるということではない。実際は可能かもしれないが、モテモテでお金持ちだが不幸な役になるだけである。
楽しくするやり方とはこうである。まず、人生は芝居と決まっている(キッパリ)。そこで、役者であると同時に観客になることだ。興味と関心を持って、芝居を見れば良い。
芝居はもはや自分に影響を与えない。その後、何が起こるかは実に楽しいのだが、それは、映画「2001年宇宙の旅」のラストと同じく、「素晴らしいことだ」としか言えない。
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2007.01.22
2日ほど前から、この世は実は夢であることを観じながら生きている(笑)。
通勤の途中、毎朝歩いている道だという気がしても、そんなことは信じない。初めて歩く道である^^;
毎日出勤している会社のような気がしても、当然、初めての会社である。
もちろん、そこの社員に馴染みがあるように思えても、それは心が作り出した幻想である。
マインドめ、なかなかやるなあ(笑)。
江戸川乱歩は、「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」と言って、夢の方を重要視したが、私は違う。「夢は短く、目覚めは長い。それ以外に、両者に何らの違いはない」が私の教えである。いや、夢が短いというのも、実は幻想だ。時間も幻想であるのだから。
こう言うと、「夢なんだから、何をやってもいいんだな?」とか言う者もいそうである。
いや、そんなことを言う者など実はいない。それは私自身である。夢に他人など存在しない。
答えはこうだ。「夢の中でこそ善良でなければならない」
まあ、心配しなくても、夢の中で、思うように悪いことが出来た者などいないはずだ。
夢で起こることは、マインドの傾向性に過ぎず、それは欲望と恐れが基になっている。
欲望と恐れがなくなれば、夢は消える。
夢の中で思い出した歌は、今この瞬間、自分で作った歌だ。そんな歌は本当は存在しなかったのだ。
ベートーベンや小室が作ったなんて思い込んでいるが、実は作詞作曲私なのである(笑)。
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2007.01.21
夢の中では、かなり昔に卒業したはずの学校に普通に通い、クラスメイトがモーニング娘であっても、別段、なんとも思わないだろう。
先生が4つ目の怪人であっても、驚くこともない。普通のことである。
それは夢であるから。
そして、いつもの部屋で目覚め、いつも通り学校や会社に行く。
そんなのは嘘である。それは初めて見る部屋だ。昨日も一昨日も、それよりもずっと前から同じ部屋があったと思い込んでいるだけだ。
部屋にある椅子、壁のポスター、時計・・・ずっと前から同じものがあったなんて思っている。しかし、それも全部嘘だ。記憶がそう信じ込ませているだけだ。
あなたの親、夫、妻、子供・・・全部初めて見るのである。学校も会社も初めて行くのだ。
それらは、心が一瞬で作り上げた幻想である。それは夢である。
心とはかくも驚異的な力を持っている。

夢の中でお絵描きする(^^;
夢を旅すれば、そよ風もため息のようである。
夢の中でも、絵をクリックすれば、大きな絵がポップアップで出よう(笑)。
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2007.01.20
ルナティック(lunatic)が、なぜ「狂った」という意味になったのかよく分からない。
月光に照らされた殺戮というものが多かったのだろうか?
だが、「花鳥風月」の国日本では、月は美しいものである。
月光仮面なんてヒーローが生まれたのもそのためだし、セーラームーンが歴史的なものになったのも「月」のパワーが大きいように思う。
「月光仮面の歌」の「月の光を背に受けて、仮面に隠したこの心」なんて詩は日本人の心に染みるようだ(この歌、メロディが2つある)。
「美少女戦士セーラームーン」では、アニメは全200話であるから、予告編の最後の「月の光は愛のメッセージ」は199回言われたのだと思う(予告編は、セーラームーン自身がナレーションする)。
しかし、英語が母国語であるアイルランドの詩人W.B.イェイツの「人間の威厳」という詩は、「彼女の優しさはまさに月のようだ」で始まる。そして、それは「恋人を理解することではなく、誰にでも同じように接してあげること」と言う。
人間が威厳を取り戻す鍵はここにある。
わが国の人間は、威厳を失ってしまっているようである。
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2007.01.19
絵が描けん・・・って、別に描かなくても良いのだが(笑)、本当はもっと描きたい。
ところで、絵の描き方ではないが、発明家の政木和三さんにピアノ演奏の極意のようなものを教わったことがある。
政木さんは2002年に86歳で亡くなられたが、70歳を過ぎても年間100回以上の講演をされていた。講演会場にピアノがあると不意に演奏を始める。すごい腕前だそうである。私自身は、直接に演奏を聴く機会はなかったが、政木さん自身が作曲しピアノ演奏したCDを出しているので、これで聴いた。
ところが、信じ難い話かもしれないが、政木さんはピアノを習ったことも練習したことも全くないらしい。
政木さんが絵を描いたという話は聞かないが、絵を描いても優れたものを描けたかもしれない。政木さんの研究所に伺った時、私は不意に思いつきで「横尾忠則さんをご存知ですか?」と聞くと、政木さんは自分の後ろの壁を見た。そこには、見事な政木さんの大きな肖像画があり、横尾忠則と銘が入っていた。また、当時既に絶版であった、政木さんの著書「精神文明と奇跡」を私にくださったのだが、装丁は横尾忠則さんで、表紙には不思議な顔が描かれていた。
ピアノ演奏の極意は、無欲で弾くことであるらしい。上手く弾こうなんて思うと却ってダメなようである。絵も同じかもしれない。わたしなど、上手いはずがないが、それで上手く描こうなんて思うからさらにダメなのであろう(^^;
政木さんのように、不意に楽器演奏ができるようになった方をもう一人知っている。うっかり名前を失念したが(^^;、日本全国の城の絵を描いて行脚している画家である。やはり、習ったことも練習したこともないそうだが、シンセサイザを2台、本人曰く「小室さんのように」弾くそうで、全国で演奏会をしている。彼に、「私もアーチストになれるか?」と聞いたら、「一瞬でなれますよ」と言ってくれた。そして、彼が描いた版画を1枚くれた。
私も無欲になれば、芸術家になれるかもしれない(?)。
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2007.01.18
「格言集」といった本があると思う。古今東西のいろいろな名言を集めたような本だが、私はそのようなものは好きではないし、およそ役に立たないと思う。
それよりも、読んだ本の中にたまたま書かれていた一文や、見た映画でたまたま聞いた一言、あるいは、会話の中でたまたま交わされたちょっとした言葉が胸に突き刺さってこそ生きてくる。
そのような決定的な一言は、誰でも見、聞くのであるが、忘れてしまう場合が多いのである。
伝説では、お釈迦様も、7年間修行してダメだったのが、たまたま通りかかった者が口ずさんでいた歌の言葉により、一瞬で悟ったという。
あるところに大変な不良学生がいた。初めて面談した精神医は、単に「君が来週までに礼儀正しい生徒になっていたら、みんな驚くだろうね?」と言った。不良学生は、「そりゃ、驚くだろうな」と答えた。そして、実際にみんなが驚く結果になった。
聖者として名高いニサルガダッタ・マハラジは、悟りを得るのに、マントラの復唱も呼吸法もヨガも何もせず、全く努力しなかったらしい。ただ、グル(師)の一言を覚えていただけであったという。その言葉とは「あなたは至高の存在である」だ。
ところで、私に関して言えば、記憶力が良過ぎるのか、憶えている印象深い言葉が大変に多く、どれが決定的なのか分からない^^;
ただ言えることは、自分で選んだような言葉は悲惨な結果しか生まないということだ。自己暗示だとか、アファーメーションとかいって、それを薦める者もいる。アメリカあたりにはそんなものが多いと思う。しかし、ロクなことはないと思う。
たまたま自分にもたらされ、心に残って離れない言葉。それが一生の財産である。
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2007.01.17
「青い鳥」というお話をご存知と思う。子供向きの童話のように思えるが、メーテルリンクが書いたのであるから、ただ楽しいお話であるはずがない。
モーリス・メーテルリンクはベルギーの詩人、劇作家で、1911年ノーベル文学賞受賞。
しかし、博物神秘学者としても知られ、深い思想や洞察力は天才である。
「蜜蜂の生活」「蟻の生活」「白蟻の生活」「花の知恵」「貧者の宝」「死後の存続」「限りなき幸福へ」などの恐るべき重要な著作がある。その人生は波乱に満ちていた。
「青い鳥」は表向きはシンプルなお話である。そのお話が、かくも世界中の人々に浸透しているのはなぜだろうか?そこに教訓があるからと言う方が多いと思う。その教訓とは、「幸福は身近にある」であろう。
では、これを読んだ人は身近な幸福を見つけたであろうか?
「身近な幸福」については、多くの人が多くの解釈を述べていると思う。おそらく、その全てが間違いである(よって、私も解釈は書かない^^;)。
幸福は身近にあると言われながら、世界中の人々は相変わらず外に幸福を求めて動き回り、あげく、それを見つけることができず落胆する。
「青い鳥」の「外の世界の冒険」も、単なるファンタジーと捕えられている。
外の世界とはどのようなものであろう。
そこは、苦痛と快楽、善と悪、進歩と後退など、反対のものがペアで存在する世界である。人は無知ゆえに、その中に幸福を探し、相対するものの中でも苦痛と快楽に特に着目し、苦痛を避け、快楽を求める。しかし、反対に見えるものは実は同じであることが分からず、快楽を求めれば求めるほど苦痛を味わう。青い鳥の冒険も、そんな様子を描いている。
身近にある幸福とは何であろう。これを、家族や夫婦、恋人、あるいは、自分の所有物(富、金メダル等)や属性(美貌、才能等)と認識すればやはり不幸は避けられない。
どんなに欲し、努力して掴み取ったものでも、手にしてしまえばそれほどでもない(「スタートレック」でミスター・スポックもそう言ってたなあ)。
結論を言えば、身近な幸福とは、「あまりに身近なもの」ではなく「最も身近なもの」である。最も身近なもの、それは自己である。
ではなぜ、人々はその幸福を見逃すのか?それは、自己をよく調べないからだ。自己に目を向け探求すれば、そこに最高の幸福を見つけるはずである。
これは解釈ではない。真実である(をを!)
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2007.01.15
「爆発現場に近ければ近いほど生き残れる」という言葉があるそうだ。
私は小さい時に1度聞いただけで憶えてしまった。
他にも、少し前に書いた「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃とは無抵抗なり」というのも同様に1度聞いて憶えた。
比較的新しいものでは「友は身近に置くべきだが、敵はもっと身近に置くべきだ」という言葉がある。
また、これも以前に書いたが、ダスキンの経営理念「損な道と得な道があれば。自分に関しては損な道を選ぶ」というのも忘れがたい。
これらは皆真理であろう。でなければ、これほど自然に憶えていたりはしない。
これらは全て世間常識とは反対である。
世間常識がいかに疑うべきものであるかが分かる。
ただ、これらの言葉の真実性が理解できないのであれば意味はない。
こういった、福音となる言葉は、誰しも授けられるように思う。
アルベルト・シュバイツァーやアーマンド・ハマーの伝記や自伝を読んだ時にも、彼らのそんな体験が記されてあるのを見た。彼らの場合は、圧倒的な他者への奉仕の心が育まれるものであった。
私のはちょっと違うと思う^^;
ものごとの裏にある真理を洞察し、人類を改革(をを!)するためのものであろう(マジっすか?^^;)。
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2007.01.14
何かを得るには、対価を支払わねばならないのがこの世の鉄則だ。
お金の対価は物かサービスだし、恋愛の対価は忠誠である。
これらの対価と報酬は全て一事的なもので、すぐに失われる。
本当は、ZARDの「DAN DAN心魅かれてく」の歌にあるように「人は誰でも永遠を手に入れたい」ものだ。
永遠とは無限だ。そして、無限の対価は有限全てであり、不死の対価は死だ。
ところが、この支払いは意外にたやすい。なぜなら、元々が自分のものなど何一つないからだ。自分のものでないなら手放せば良い。すると、無限を手に入れる必要はないことが分かる。自分そのものが無限以外の何者でもないからである。

久々にお絵描きしました。彼女が見ているのは鏡です。
鏡とは、来るものは何でも映しますが、去れば痕跡を留めません。自分を無限であると了解した者は鏡のようであると言われます。
絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。
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2007.01.13
元サッカー日本代表、中田英寿の「自分探し」と銘打った豪華な世界旅行は続いているようだ。
何かの映画のセリフだが、自分には3つあると言っていた。「自分が思っている自分」「他人が思っている自分」そして「本当の自分」だ。
中田の探している自分が何かは知らないが、普通に考えれば本当の自分だろう。
本当の自分を探すなんて、この世の真理を求めるようなものであろう。
近藤真彦の最後のミリオンヒット(現在のところだが)「ミッドナイト・シャッフル」にこんな詩がある。
「現実は何なのか?真実は何処なのか?悩むほど遠ざかる蒼い星」
詩を書いた沢ちひろ氏が自分の言葉として書いたなら彼女(?)は賢者であろう。
だが、最後にこうある。
「見つけ出す、必ず。本当の心を」
これは疑問だ。おそらく失敗する。
「悩むほど遠ざかる」
これだけが真理だ。見つけ出すべき本当の心など存在しない。
真実を言えばこうだ。
3つの自分があるとして、求めたいのが本当の自分であれば、後の2つを消し去れば良い。
それだけのことである。
本当の自分というのは概念ではない。概念で捕えようとするなら存在しないとしか言えない。
誤った概念を消すことのみが必要だ。正しい概念など必要ない。
では、誤った自分を捨てるのに世界旅行が必要であろうか?
それは必要ない。単に誤った自分を消し去れば良い。
では、誤った自分とは何かというと、自分が持っている自分という概念の全てである。
まずはここに到達することが自分探しの第一歩である。
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2007.01.12
子供の頃、何の番組だったか忘れたが、西洋のテレビドラマでこんな会話を聞いた覚えがある。
「攻撃こそ最大の防御なり。そして、最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり何もしないのが一番強いのさ」
いつまでも忘れないところをみると、よほど印象に残ったのであろう。
ところで、どうも私は敵を作りやすいらしい(笑)。その後、学校でも社会でも、行くところ行くところに敵ができる。可愛いと目の仇にされるってか?(笑)
だが、私は指1本動かすわけでもないが、いかな強敵でも、すぐに目の前から消えてなくなる。連中は、事故に遭ったり、病気になったり、職場を解雇されたり・・・^^;
いや、別に、そんな勝利を目指して欲しいわけではない。
そうではなく、無為な人間と妙な張り合い方をするなと言いたい。どんな目に遭うかは既に書いた通りだ。
そして、なぜ無為が強いのかは探求し続けた。すると、強いのが当たり前だということが分かった。ちょっと説明しにくいので、たわごとと思ってもらえば良い(笑)。
ただ、無為と怠惰とは全く違う。
分かりやすいかはともかく、それを説明した書物では「荘子」がある。これの内編だけでも読むと良いと思う。
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2007.01.11
ある時、私は眠っているとも目覚めているとも言えないような状態でいたが、自分の部屋に居ることは自覚できていた。
その時、部屋の壁を大きなトカゲで這い回っているのを見た。墨のような色だが美しく、その動きは生き生きとし、優雅な感じさえした。
やがて、そのトカゲは動きを止めたが、それはなんと壁の細長い形の木目に変わってしまった。やはり、そのトカゲは白昼夢のような幻覚であった。
しかし、幻覚としても実にリアルであったし、木目の模様がトカゲの幻覚を起こしたはずなのに、トカゲが動き回った後で停止した場所で木目に戻ったことが不思議だった。
コリン・ウィルソンの本で読んだが、現実世界そのものが、我々の内部の何らかの力が能動的に構築するという考えがあるらしい。
絵画を見る時は、我々の内部の何かが瞬間でその絵画を作成するというわけである。
ただ、その構築の度合いというものがあるらしく、それが強い場合には迫力があるが、それが弱いとくすんだものになるものであるらしい。
突飛な考え方には違いないが、体験的に考えても、実際はそうではないかと思わせるところがあるし、上に書いたトカゲの幻覚からも、我々の内部にある神秘な力の存在の可能性を感じさせられる。
サルトルは、小説を読むということは、その小説を自分で書くことであると言ったそうだ。また、ショパンの音楽を聴いていたら、自分がショパンになり、その音楽の意味するものが鮮明に浮かんだ体験をする者がいるようだ。
我々は、世界は自分の外部にあり、自分がその中にいるのだと当然に考えている。
しかし、実際には、逆に世界が自分の中にあるのだというインスピレーションが閃くことがある。
エルメスやグッチのバッグを手に入れるには、普通かなりのお金が必要だ。さらに、車や家となると、もっと多くのお金が必要で、島1つともなると、かなりの富豪でないと手に入れるのは不可能であるとされる。しかし、宇宙がまるごと自分の中にあるのであるから、もともとが全て自分のものであり、手に入れるという行為は不要になる。
宇宙そのものが、心の作り出したものであるからだ。しかし、それが本当に価値あるものであるかどうかは話は別である。上に書いたトカゲのように、単なる幻想に過ぎないものであり、しかも、それに執着を持つことで苦しみを味わうことになる。
幻想に実体はなく、それを諸行無常といい、般若心経では空と言ったような気もする。
ただ、幻想を見ている何かはあるはずである・・・というのは、デカルトも考えたように思う。彼は、全ては疑わしいと考えたが、疑わしいと思っている我が存在していることだけは確かだとして、例の有名な「我思う、ゆえに我あり」と言ったのである。
ただ、その「存在する我」が言葉で説明不可能であり、体験といったものも超えているので、人間としては「ない」としか言えない。
よって、岸田秀先生の「唯幻論」でも、究極の実体、真の自己はないと結論されていると思う。
翻訳ではあるが、「十戒」(「じっかい」でないと変換されないのはなぜ?)という映画で、モーゼに十戒をさずけた神が、自分を「在りて在るものである」と言ってたのが興味深い。真の自己がもし神であっても、それはただ「在る」としか言えないのである。
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2007.01.10
「信じる者は救われる」と言ったのはイエス・キリストだったろうか?
しかし、本当だろうか?(笑)
英国映画「フェアリー・テイル」のキャッチコピーは「信じていれば必ず逢える」だった。
人気アニメ「カードキャプターさくら」のオープニング曲の1つ「プラチナ」の中には「信じる、それだけで越えられないものはない」という詩がある。このアニメの原作者CLAMPさんも、この作品の前の作品である「魔法騎士レイアース」で、「信じる心が力になる」をキャッチフレーズにしてたように思う。
ところで、「信じる」というのはどういう意味だろうか?
それが正しいと無批判、あるいは、吟味せずに受け入れることだと思い込んでいる人が多いが、もしそうなら、これほど破滅的なことはない。
親や学校の教えを無批判に信じ込まされ、救いようのない状態に陥りながらそれを自覚できないでいるわけである。
「信じる」とは、それを試してみる決意をすることである。
この意味であれば、これは力になり、あらゆる障害を越え、必ず救われる。多分・・・(笑)。
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2007.01.09
成人式の映像で、晴れ着や礼服を着た新成人が並んでいる様を見て、私が連想するのは、尊皇攘夷とかゲシュタボとか、北朝鮮でしかない。
そもそもが、成人式なんてものを本当にやるなんてこと自体、私には信じ難い。
もちろん、あらゆる儀式といったものは、支配者による庶民の思想統制(早い話が洗脳)であり、それが馬鹿げて映る私の感覚は安心して良いのかもしれないが。
「今後は大人としての自覚を持って」というのは、現時点では子供だと断言しているわけである。そして、それは実際にそうなのであるが、本当のことを言えば、成人式とか、成人という区分を設けることで、それまでに全く大人になれない若者を増やしているのである。
二十歳で大人らしくなければ、もう手遅れというものである。
例年のように、成人式の妨害で新成人の逮捕者が出るように、成人式とは若者の幼児化を助けているのである。逮捕者はごく一部であるが、そんなことがあるのは、新成人の全般的傾向がそうであるからである。いくら無法な連中とはいえ、場違いな場所で暴れたりしないものだ。それをやると、目立つ、受ける、カッコいいという雰囲気があるから、あえてやるのであるはずだ。期待されたことをやって何が悪いというものであろう。
もちろん、そんな連中を軽蔑する新成人も多いだろう。しかし、わがままを発揮する方向が違うだけかもしれないと思う。
ただ、成人式でスピーチをする知事とか議員とかいった連中の話に説得力がないことも、成人式が荒れる原因の1つであろう。
野球の人気選手、ダルビッシュ有投手が成人式に出席したが、ニュースの「いつもは騒然としている会場も、ことしはダルビッシュに注目して静かで・・・」には笑った。
ガキであることを再確認するための成人式に何の意味があるのか(笑)。
ただ、成人式を馬鹿にするかどうかは分からないが、あまりの違和感に出席しない新成人もかなりいるのである。
どっちが良いとは言わないが、二十歳になったら成人式に行くもんだと、何も疑わずにいい服を買ってもらって出かけていくのでなく、本当にこんなものが必要かと疑うくらいはして欲しい。何も考えずに無分別に受け入れることが大多数の人間の不幸なのである。
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2007.01.08
アルコールを愛した芸術家として私が思い浮かべるのは、画家のアメデオ・モディリアーニと作家のエドガー・アラン・ポーだ。
そのせいか、2人とも肉体的・精神的に健康でなく、長生きしなかったが、酒が確実に彼らの芸術的イマジュネーションを拡大させたように思う。
まあ、覚醒剤を使う芸術家も多いと聞くので、それよりは良いと思うが、音楽や瞑想、あるいは、酒でも適度であれば良いのにと思う。
酒というのは、溺れる前にきちんと考えておいた方が良いかもしれない。
私もいよいよ二十歳を過ぎ(笑)、いろいろ飲んだが、身体に良いと聞く焼酎は味が好みでないし、ワインは飲みやすいこともあり、量が増え、意外に悪酔いする。やはり、ブランデー、スコッチ、バーボンといったところが好きだが、これらは量が多いと健康に悪い、つまり、残りやすい。これらは、ごく少量をたしなむこととしている。特に、私はストレート主義なので。
そして、今のところ気に入ったのはウォッカだ。きつい酒というイメージがあるが、ウイスキーなどと変わらない(スピリタスという96度のお化けもあるが、これは例外)。カクテルのベースにすることが多いが、この香りも味もない酒は気持ちよく吸収され、焼酎と同じく蒸留酒で、残りにくい。これに関しては水割りが良いと思う。
ジンもウォッカの仲間の蒸留酒で、実は身体に良い。もともとは薬だった。ウォッカに比べ、独特の香りが特徴だ。この、ねずの実の香りは、慣れると実に良いと思う。こちらは、グレープフルーツジュースで割るなどすることもあるが、ストレートでもなかなかと思う。
私の飲酒生活は健康的である(笑)。

似てなくても、カチューシャと戦闘服で分かる国民的ヒロイン(フランス人だけど)を描いてみました(笑)。2002年版では19歳ですが、元々は16歳だったらしいです。
ちなみに、ヘアバンドをカチューシャというのは日本特有のもので、本来はトルストイの「復活」の女性登場人物の名前です。日本の舞台で、カチューシャ役の女優が付けていたC字型ヘアバンドをカチューシャと呼ぶようになりました。
クリックすると、大きな絵がポップアップで出ます^^;
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2007.01.07
パナソニックのプラズマテレビ「ビエラ」のCMの小雪さんが美しい。
小雪さんのいるCMの壁紙は、ここからダウンロードできる。
できる・・・が!(笑)
私は、この壁紙は好きではない。
小雪さんのビエラのCMは、他の人気女性タレント、例えば、エビちゃんやアユ、あるいは仲間由紀恵さんのものとは一線を画す。
誰が一番美しいかは単なる好みの問題と思うが、小雪さんのCMの良さは、彼女のはにかんだ、奥ゆかしい表情である。ここらは、自らの欲望への忠誠を誓ってでもいるかのような、エビちゃんやアユの表情とは全く違う。
しかし、壁紙では、押しの強い、自信たっぷりのエビちゃん式に近い表情である。
残念である。
ところで、ビエラ(VIERA)とは、「Vision(映像)」と「Era(時代)」を組み合わせた造語であるらしい。
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2007.01.06
占いに全く無関心という人以外は、無用な悩みを抱えているはずだ。
悩みがあるから占いをするという意見もあるだろうが、事実は逆で、占いをするから悩みがあるのである。
人気占い師の細木数子さんの番組で、細木さんが奇妙な笑みを浮かべ「言っていいわね」とか言いながら見据えると、鑑定される人は緊張したいたたまれぬ様子になる。なんとも馬鹿げたものである。そんなだから、細木さんに付け込まれるのである。
人間の不幸の原因は、無分別に何でも信じてしまうことだ。疑い深いという人間も例外ではない。そんな人物だって、馬鹿げたことを教えられるまま信じていることが山ほどあるのである。
占いなんて、その鑑定結果や、さらに鑑定の根拠すら、注意深く吟味すると、なんら信憑性がないことがすぐに分かる。ところが、「あの先生の占いは、当たっている実績が凄い」とか言う人もいるだろう。そりゃ、当たった結果だけ持ち出してくれば100パーセント当たっているのであり、その裏で外れはその何倍もあるはずである。仮に、外れは1つもないと言われても、それが何であろう?私には何の関係もない。
私なら、細木さんの前でも全く平静であり、細木さんは商売にならないだろう。なぜなら、「明日死ぬ」と言われてもどうということはないし、それを回避する方法を教えようかと言われても興味がない。大金を儲ける方法とか言われても、全く同様である。
開運の占いなど不要である。いったい、何をもって幸運と言うのであろう。不要なものを得ることは不幸なことである。そして、不要なものを求めなければ必要なものは得られるのである。
細木さんの決めセリフは「アンタ、死ぬわよ」である。例えば、邱永漢氏なら、そんなことを言われても平気と思う。昔、まだお子さんが小さい頃から、「お父さんが死んだら・・・」という話を毎日してたらしい。そりゃ誰だっていつか死ぬ。それが今日になったからといって、どうということはない。
ただ、「アンタ、死ぬわよ」なんて言う者がまともな人間であるはずもない。
いろいろ書いたが、そもそも私は細木さんに会うこともないだろう。もし細木さんに会うことになったとしたら、私に細木さんに付け込まれる欲深さがあるということだ。そうでないことを願う。
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2007.01.05
初えっちの楽しいお話を通じて、幸福の秘訣に至る有り難いお話である(?)。
私が書くくらいだから、いたって真面目である(?)。
通俗的な雑誌や、小説や、あるいは内輪の話で、女性の初体験とは痛いだけで何もいいことはないという意見をよく見聞きすると思う。
かのモーパッサンの名作文学「女の一生」でも、新婚初夜の花嫁の様子は悲惨であった。まあ、時代を考えればやむをえないと言えるかもしれないが。
だが、こんな話もある。女子中学生が初体験をした。中学生なのにこんなことをしてと悩むが、彼のことは本当に好きなのだから良いのではとも思う。ところが、彼女は初体験が良かったので、好きでもない別の男とも寝てしまう。
なぜこんな違いが起こるのであろう。体質とか言う者も多いと思うが、肉体的神経的な問題ではないと思う。「愛があれば」というのは要因としては大きいが、これが全て決定するわけではない。
私は詳しくはないが、SMというものがあるだろう。念のためもう1度言うが、私は詳しくはない(笑)。
しかし、ムチで叩かれたり、ローソクのロウをたらされたりは、痛かったり熱かったりするはずだが、当然ながら、当人達はこれが良いのである。(しつこいが、私は詳しくはない^^;)。
しかし、当然、このようなことに興味のない者がやると、全然良くはない。
話は同じなのである。
何ごとも同じなのだが、幸福とは受容であり、苦痛とは拒絶である。
初体験が良くなかったというのは、拒絶していたのであり、受け入れの気持ちができていれば良い経験として残る。
これは、さっき言ったように、何ごとも同じだ。いやでいやでたまらないことですら、これを受容してしまうと、それが快感になる。
そして、快楽より、苦痛なことほど、受容してしまうと楽しいのだ。この楽しさは快楽という言葉は不適切で、幸福と言って良い。
かのガンジーが無抵抗主義を唱えたのも、ある意味、それが幸福だからである。大きな苦しみを受け入れると、新たな地平が広がり、自分がいかに偉大な存在かも分かるようになる。
逆に、快楽はたやすく苦しみに変わる。心は限度を知らない性質があり、果てない快楽を求めるからだ。そこには、当然にして破綻がある。肉体には限界があるからだ。
ここまで分かれば、幸福になることが意外にたやすいことが分かる。
快楽を追い求めないこと。
そして、苦痛を拒絶せずに受け入れることである。別にSMに走れというのではない(笑)。むしろあれは快楽に近い(いや、私には分からないが^^;)。
世の中には苦痛なことは沢山ある。苦痛から逃げたり、寄せ付けないことが幸福だと思い違いをしている者は悲惨だ。
嫌な会社勤め、病気、嫌いな人・・・逃げている限り、人生はこれらを送り込んでくるのだ。
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2007.01.04
昨日の話題と似ていて恐縮である。
私は夢に見る。
何かの重要な儀式があり、約束の白い軽やかな衣装をまとった少女達が集まってくる。
しかし、ごく普通の服を着た少女も結構いる。ところが、誰もそのことは気にも留めていない。平服の子の親も、その子が白い衣装を断ったことに何とも言わないし思わない。
これならば、貧しくて白い衣装を用意できない子も、何ら気に病むこともないだろう。
儀式を執行する司祭も、子供達の服装をとやかく言うこともない。
学校に向かう一人の子供がいたが、彼は靴を履いていなかった。貧しくて、親はこの子に靴を買ってやることができない。
だが、立派なお屋敷から出てきた子供もまた、靴を履いていなかった。その子の親も執事も、別に何も言わない。ごく自然なことであった。
学校では、普通に靴を履いてくる子もいるし、履いていない子もいる。どっちが多いかなどは問題ではない。どうでも良いことだからだ。そして、教壇に立つ教師もまた、靴を履いていないこともあった。
遠足に行き、お昼ご飯の時間になり、友達どうしがグループになって、お弁当を食べるための場所を探す。
しかし、ある子は1人で、あまりぱっとしない場所に腰掛けていた。
どこかのグループにいた子供が、別にその子を誘うわけではなかったが、自分もグループを離れて一人でお弁当を食べ始めた。かなりの子がそれに倣った。
そして、お弁当を用意できない子がいるなら、遠足自体がなくなる。
自分の楽しさ、安楽、気持ちよさを追及せず、心を優先させる。いや、心に支配されないと言った方が正しいかもしれない。
映画「タイタニック」のラストシーン、ローズの夢の中。ローズがタイタニックの広間への扉を入ると、タキシードや優雅なドレスを着た者と着古した庶民の服を着た者が一緒に並び、全く一緒に、ローズとジャックの2人を祝福する。
キャメロン監督もそんな夢を見ていたに違いない。

すみません。単に子供が描くような萌え画のラクガキです(^^;
な~んも考えていません(笑)。
次はちゃんとしたの描きます(期待薄)。
それでもクリックすると、大きな絵が出たりします^^;;
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2007.01.03
NHK紅白歌合戦のOZMAのパフォーンマンスの苦情問題でNHKのお粗末な対応が取り沙汰されているが、私はリハーサル中に倒れたNHK職員の方が亡くなられたことについて考えていた。
亡くなられたのは翌日と聞くが、倒れた時に、もうかなり危険な状態であったことは明らかと思う。
現在の常識では考えにくいかもしれないが、こんな時、誰からの文句が出ることもなく、ごく自然に紅白が中止になる時が、真に人類が進歩した時かもしれない。
話は変わるが、宗教的な儀式で、少女達が皆、白い衣装をまとうようなものがあるかもしれない。それが学校で行われることも普通にあったと思う。
大昔であれば、貧しい人も多かったので、そんな儀式の時もあまり衣装にこだわらないか、あるいは、白い衣装を用意できないだろう子は、近所でもよく分かっていたので、代わりに用意してあげた家もあったかもしれない。
経済が発達し始めていくと、貧しい家は少しずつ減っていき、やがては少なくなるが、やはりある時期までは、白い衣装を用意できない子が1クラスに何人かはおり、彼女達は肩身の狭い思いはするのだが、自分一人ではないので、なんとか耐えられた。
しかし、時代が更に進み、1クラスに1人、あるいは、学校で1人だけ白い衣装が用意できず、かなり辛い思いをする子がいる。
そんなことがある場合、いかに重要な儀式としても、儀式自体が普通に中止される世界こそ、精神的に進化した人類の世界ではあるまいかと思う。儀式より、人の心が優先される正常な世の中である。
いつの時代か分からないので適当に言うが、70年前なら、学校に靴を履いてこない子もかなりいたし、50年前は少なくはなったがまだいた。これが40年前になると、学校で数人あるいは1人となる。靴でピンとこなければ、給食のない時代、学校にお弁当を持ってこれない子がこのような割合でいたといえばもっと実感が沸くかもしれない。
私は、そのような時代、子供達が自主的に靴をはいてこなくなったり、お弁当を持ってこなくなったという話は聞いたことがない。
創作ではないかと思うが、アムンゼン(人類初の南極点到達を達成)が近所の子供達とケンカして楽勝した際、相手の子供達が「お前は俺たちと違って肉を食べてるから強いんだ」と言うのを聞いて、肉を食べなくなったという話がある。このような気持ちも、多少は必要ではないかと思う。
楽しみや、肉体的な安楽を心のために多少我慢する。現在の欲望刺激過多時代には、ますますできなくなっており、社会の歪みも大きくなるように思える。
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2007.01.02
女盛りの年女といえば、12歳、24歳、36歳となるだろう。
12歳からいえば、本来、12歳というのは、英雄をも動かす神秘で危うい年頃である。
しかし心配無用(?)。今の日本の12歳は全く魅力はない。
これは、甘やかされているというか・・・やはり狂気の収容所ともいえる学校の中で歪んでしまっており、自然の状態とかけ離れているせいと思う。なんといっても知性がない。
人間は、必要なことを行い、不必要なことをしないことで、自然のままの本性を伸ばしていけるのである。
24歳は、少し昔であれば年増で、やや盛りを過ぎたという印象があったが、今はスキンケアが発達して、この年頃でも10代と全く遜色ないどころか、はるかに優れていることも多い。紫外線にも当たらないし、多くが独身で生活の苦労もあまりないので、若さを保っている。ただし、これも12歳の場合同様、年齢に見合った知性が全くない。外見的な魅力だけになっている場合が多いように思う。
36歳ともなると、半分以上は人間的魅力が占めるようになる。知性や精神性を育んでいないと、魅力がなくなってくる年齢である。ただ、やはり昔に比べると、こと外見においてはまだまだ女盛りである。
マリリン・モンローがこの年齢で亡くなった時、世界には、彼女のために山をも動かそうといいう男性がいくらでもいた。はっきりいって、彼女の内面は問題にされなかったので、外見とイメージの持つ力は大したものであることが分かる。もっとも、それは幻想の力である。

そんなわけで、代表して12歳が新年のラクガキです。
私が描くと、ハッピー・ニュー・イヤ~ンとなりますね(マ、マテ・・・)。
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。
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2007.01.01
今年から、私は年賀状をきっぱりとやめた。
基本的には、忘年会も新年会も。
伝統的、慣習的なもの全てが悪いわけではなく、むしろ良いものも多いが、形骸化して心のなくなったものならやめた方が良いと思う。
年賀状に関しては、こんなことを考えた。
学校でのいじめや、あるいは、引きこもりの話をよく聞くようになった。
そんな子たちは、友達が少ないか、あるいは、全くいないということもあると思う。
小学生にもなれば、親に教えられて年賀状を出すようになる場合が多いが、そんな彼らに年賀状は来ないし、出すこともないかもしれない。それが平気なはずもないだろう。
特に、家では、自分の親やきょうだいは沢山の年賀状を受け取るのに、自分にはほとんど来ないとなると、きっと悲しく感じるが、親やきょうだいの方も、いたって無神経な場合が多いかもしれない。
会社では、お得意様に年賀状を出すが、必ずしも感謝の心のこもったものではなく、実際、ハガキが足りないと、ランクの低い顧客を省くものである。
こんな年賀状なら、やめてしまうのが絶対に正解である。
まあ、会社に関してはそうもいかないかもしれないし、年賀状作成分も仕事として給料がもらえるなら、それも良いかもしれない。
実際、顧客のことなど何も知らない女子社員が、名簿を渡されて年賀状を作成するというのもよくあることである(ほとんど?)。
忘年会も、忘れたいことなど、特に年末にあるわけではない。
単に、憶えておけないなら忘れればいいし、忘れられないなら憶えておけばいい。
余談だが、ほとんどの国では忘年会などはなく、年号が比較的短い期間で変わる日本と違い、西暦で2000年以上、韓国はさらに長く、中国も国が続く限り変わらず、ある意味執念深いが、ある意味、長期的視野があり粘り強いと聞く。
そもそも、忘年会に、何かを忘れるという意味も現実にはなく、つまらんことをいつまでも憶えている人が多いものである(笑)。
話題を変えて・・・
大晦日は格闘技「K-1 Dynamite!!」の見たいものだけ見た。
曙、金子、ボビーなどのタレント格闘家には全く興味なし(本人達はもちろん真面目だが、弊害の方が多い)。
ところが、Yahooなどのニュースでも、報道されるのはこれらの試合が多い。
私が見たかったのは「所英男 vs ホイラー・グレイシー」。ところが、Yahooで、これを単独で扱った記事が見当たらない。
昨年、ホイス・グレイシーとの急なマッチメイクながら出場を引き受け、予想外の引き分けに持ち込んだ「戦うフリーター」所が、今回は、ホイスの兄で寝技世界一のホイラーに挑んだ。
そして、見事勝利し、グレイシーに勝った所は、今後、世界の格闘家の中で一目置かれるに違いない。実際、所は良かった。寝技においてすら、ホイラーに負けていなかった。
また、試合後のインタビューで、ホイラーは素直に所の強さを認め、判定にも不服を唱えなかったところが良かった。
K-1イベントプロデューサーの谷川氏は、この試合をベストバウトとした。さすが、見る目があるなあ。
良いものを見たと思った。
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