2006.06.29
日本の昔話とか読みますと、ごく平凡な人が、妙なことで大幸運を得るということがよくあるのに気付きます。
例えば、木こりのお爺さんが、たまたま手を滑らせて斧を落としたら、河の女神様を苦しめていた大蟹にその斧が当たってハサミを切り落とし、助かった女神様がそのお爺さんをお金持ちにするといったもので、別にお爺さんは何ら善意があった訳でもないですが、女神様もそんなことは気にしません。
しかし、こういうお話はやはり何かあるように思います。例えば、上のお話では、やはりお爺さんは毎日真面目に仕事をしていたからこそということ。そして、斧を落としたのも、何かに落とさせられたのだということ。神様は、その「何か」をご存知なのではないかということ。では、お爺さんに斧を落とさせたものは・・・
ドイツの「心身医学の父」グロデックを敬愛する私には、迷わず「エス」の仕業と言えます(笑)。はい、好きな人の前で転んで、スカートがまくれてしまって「萌え~」とさせたのが交際のきっかけというのも、全部間違いなくエスのたくらみです・・・と、グロデックは言っております(笑)。
日本の昔話にも、「絵に描いたような美しい娘」なんて表現がありますが、やはり昔から絵とは「萌え」なのでしょうか?(笑)
あまり萌えませんが、クリックすると大きな絵がポップアップで出ます。
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2006.06.28
かなり前ですが、キムタクがドラマでバタフライナイフを持っていた姿がカッコ良くて、真似してナイフを持つ中高生が増えたということがありましたね。
キムタクの件はきっかけであり、テレビ等のインタビューでも、キムタクとは関係なく、持ちたくてナイフを持っている人が多かったように思います。
で、中高校生の男子にナイフを持つ理由を尋ねると、「護身用」とか「自分が強くなったような気がする」という答が多かったように思います。
ところで、刃渡り6センチ以上の刃物は、正当な理由なく持ち歩くことは銃刀法に違反するようです。そして「護身用」は正当な理由とは認められません。釣りやキャンプで使うために持っていく場合でも、現地に着くまでは完全に梱包する義務があります。
で、ナイフを持つ動機ですが、「自分が強くなったような気がする」という者に対しては概ね批判的な論調が多く、「単なる思い込み」「全然強くなんかならない」と言われたりしていましたが、私はちょっと異論があります。
ナイフを持って強くなったと思えるなら、それも1つの手かと・・・。もちろん、不正な使用はいけませんが、家で持っているだけなら悪くはないと思います。
健全と思われる考え方では、「強くなる」とは、訓練や実戦を通して、確固とした実力を付けることを言うと思います。一生懸命勉強して成績の良い生徒になるとか、空手道場に通って空手を身に付けるとか、あるいは、仕事に就いてその仕事をマスターし、有用な人間になるとかです。それに最も成功した例とされるのが、オリンピックで金メダルを取ったり、大リーグ野球で活躍したり、サッカーW杯に出たり、あるいは、ビジネスで成功してお金持ちになるとかですね。これらの「本当に強い」ことに比べ、ナイフを持った程度で何を偉そうに・・・という感じですね。
ここで、ちょっと妙なことを言いますが、学業、スポーツ、芸術、ビジネスなどで、どれほど華々しく活躍し、実力を認められても、人は強くなんかなりません。これら成功者が、不安がなく、精神が落ち着いているかというと、それは絶対にないのですね。
それこそ、羨望の的となるほど成功した人が、一本のナイフを自己の支えとしているということも有り得ることです。
ましてや、自己の強さを証するものを何も持たない中高生が、心に不安を持ち、人生に希望を持てないとしても当然で、それがかえってロクでもないことをやらせるものでしょう。
ところで、人間ってのは、確かに鋭い爪も強力な牙もないですが、ナイフを持ってれば、いくらかは補えるわけです。ただし、下手に護身用に持ってるとかえって危ないことになる場合もあり、ケガで済むところが殺されることになったりします。
世界でゴッドハンド(神の手※マラドーナのことではない^^;)と呼ばれた不世出の空手家、大山倍達氏(故人)は、子供の頃、拳法を教わった韓国の男性に、「さやの中の刀さえピカピカに磨いていたらいいんだ。それを抜くのは、一生に一度あるかないか・・・。ないに越したことはないのだ」と言われたのをずっと憶えていたと言います。
それとナイフを持つことに多分関係はありませんが、心の問題としたなら、何か通じるものも絶対にないわけではないのではと思います。
良いナイフであるほど、持てばいくらかでも力は実際には上がります。しかし、それを見せたり、ましてや行使することなく、その力を内に秘めれば、心に力が生まれるようにも思えます。野球選手になってしまえば、常に力を発揮することを要求されますので、結構厳しいかなと思います。しかし、上に書いた、大山氏の先生は、実際は大変な強者でありながら、子供の頃の大山氏の家の使用人の中でも下っ端に甘んじ、使用人仲間にまでいいように使われ、馬鹿にされても一向に気にかけなかったそうです。年配になった時ですら、大山氏は、あの強さは持てなかったと言います。
もし、ナイフを持つなら、良いナイフをじっくり選んで入手して下さい。2~3万円も出せば、腕の良い職人の手作りナイフを買うこともできます。見かけだけで選ぶのではなく、心に尋ねて、本当に気に入るものを選びたいものです。
実際、ナイフは良いものです。美しさと実用性を併せ持ち、真面目に研究すれば得られるものも大きいです。別段、華麗な装飾を施しているわけでもないナイフでも素晴らしい美術品であることもありますし、そもそもが自分が美術品だと思えばそれで納得できるという性質は、絵や彫刻以上かもしれません。
それと、ナイフを使うことで得るものも当然多いです。多少、指でも切って痛い目に遭いながらも、実用的に使えば、妙な用途で使おうとは思わないものです。そんなことを知っているから、子供に小さい頃からナイフを与える人もいるようです。
ナイフとは別のものを心の支えにしている人もいます。占いとか、宗教とか、妙な成功法則とか(笑)、細木数子とか(爆)。個人的意見では、これらの人に比べ、ナイフを心の拠り所にする少年の方が余程マシな気がします。
何かの本で読みましたが、大きな銃を持っている大人より、ナイフを磨く少年の方が不気味だそうです。
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2006.06.27
日本史上最大の決闘といえば、宮本武蔵vs佐々木小次郎の「巌流島の決闘」であることに同意してくれる方は多いと思う。
ところが、「では、2番は?」となると答に困るのではないか?団体決戦ならいろいろあるが、1対1のガチンコマッチとなると、その時は盛り上がっても、武蔵vs小次郎に続くとなると何か色褪せる。
昭和29年の力道山vs木村政彦の試合は、「昭和の巌流島の決闘」と言われたが、なにやらいわく付きで、筋書きがあったという説もあるが、アクシデントがあったのは大体確実であったらしく、やはり取り上げるわけにはいかない(信憑性は無いかもしれないが、梶原一騎氏原作の漫画「空手バカ一代」では、試合は引き分けの約束があったが、木村が本気になったと勘違いし、恐怖した力道山が木村に本気で空手チェップで攻撃し、力を抜いていた木村はKOされたとある)。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木が戦っていたら、ひょっとしたらと思うが、実現しなかった。
ところで、昭和38年のテレビアニメ「エイトマン」の中に「決闘」というお話がある。
スーパーロボットであるエイトマンは、アメリカ(アニメではアマルコ共和国)の軍事研究所で開発されたが、作ったのは谷という日本人科学者だ。谷は、エイトマンが殺人兵器になることを恐れ、完成したばかりのエイトマンを奪って日本に逃亡する。
谷はアメリカで結婚し、妻子がいたが、残された妻と息子は国家的犯罪者である夫・父のせいで苦しい立場となる。その中で、父を憎悪する谷の息子ケンは、生体実験に志願し、自らスーパーロボットとなり、エイトマン破壊を誓う。
エイトマンの顔は、ケンに似せてあり、そっくりである。谷にとっては2人とも息子である。エイトマンは戦いを避けるが、決闘に応じなければ幸子を殺すと脅され、ついに決闘の場に向かう。
戦えば両方が滅びると判断したエイトマンは、ケンを生かすため死ぬことを決意する。しかし、エイトマンが一方的に攻撃される中で、谷はエイトマンに戦うことを命じる。「お前はケンに勝てる」。実際、そうだった。谷には最初から勝負は見えていた。ケンを作ったゴール博士は、エイトマンのような電子頭脳を作ることができず、ケンの脳をスーパーロボットに移植した。頭に一撃を受けたケンは倒れる。
ここからのセリフは、日本文学でも屈指となる。
「赦してくれ、ケン。こうするしかなかった」
「僕もだよ、父さん。こうするしかなかったんだ。母さんは父さんを赦していたよ。だから僕は余計に父さんを赦せなかった」
このお話は、原作にはないのだが、原作者の平井和正氏自身が脚本を書いている。ところで、このDVDには、いろいろな製作エピソードが収められているが、平井和正氏の脚本はいつも長過ぎ、時間内に収めるためにスタッフは苦労したようだ。
平井和正氏は、まだまだ元気で新作にも意欲的であるらしいが、彼自身、戦後にはナイフの決闘を経験しているらしい。また、中学時代、学校に来なくなったクラスの女生徒が、毒々しい化粧をして米軍兵の腕にぶら下がっているのを見たと何かに書いていた。日本の従軍慰安婦の話はよく問題になるが、米軍用従軍慰安婦も確として存在したらしい。
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2006.06.26
大衆の人気を得るためには、神秘性が大きな力になると思い知ったのは、倉木麻衣によってだ。当時、歴史的ヒロインと言って良かった宇多田ヒカルを意図的かどうかは知らぬが、利用する結果になったことは間違いないだろう(意図的としても、彼女のスタッフの話であることは言うまでも無い)。
同じ年のネイティブの英語を使う、そして、宇多田ヒカルと同じアメリカでデビューを果たしたというセンセーショナルなニュース。しかし、なかなかその全貌を見せず、宇多田ヒカルとそっくりでありながら、よりデリケートな歌声と美貌のフォトグラフと映像により、倉木麻衣の神秘性が日本中を覆った。もちろん、最終的には倉木麻衣に実力があったから成功したのであるが、これらの演出がなければ、デビュー当初の凄まじさは考えられなかったはずだ。
ところで、私は倉木麻衣にとって幸運だったのは、宇多田ヒカルより美形・・・というよりは、明らかに日本人好みの容姿だったことではないかと思う。倉木麻衣の方が美少女だという評判は確かにあったが、アメリカあたりでは完全に逆になると思える。
初期の倉木麻衣のジャケット写真などを見ると、若い女の子に憧れを起させるような、そして流行の顔であることが強調されていたように思う。そして、プロモーションビデオの映像においても、宇多田ヒカルのように、カメラの前で身体をクネクネさせる部分は真似ながら、時折アップにされる顔の美しさや、身体つきのスレンダーなところをアピールしている。メイクしない普段の顔が勝手に撮影されて公開された時、「ちょっとイメージが違う」という声と共に「やはり可愛い」と感じた人も多かったのは、やはり親しみやすい「可愛い顔」だったからと思う。彼女が通っていたのが立命館高校宇治校だというのは公開されなかったと思うが、私はなぜかクラスメイトに知り合いがいて、当時から知っていた(自慢にはならないが)。倉木麻衣はごく普通のおとなしい生徒で、みんな普通に接していたと聞く。それには、彼女の性格的なものもあったと思う。別に特別な身分で海外にいたわけでなく、お金持ちでもなかった彼女は歌声の通りデリケートな性格と思われ、ある意味芸能界向きでない。「撮影用の服を買うように」と5万円渡されて千円のTシャツを買ってきたというエピソードは作り話にしろ、ありそうな感じがする。そして、きっちり4年で大学を卒業し、一般の友人も多かったというのは、あまりに真面目で面白味がないくらいだ。
宇多田ヒカルも今や伝説となってしまったが、倉木麻衣が今後センセーショナルなスターになることもないだろう。しかし、長く愛される歌手ではあり続けると思う。
ところで、忘れてならぬのは、神秘性とは幻想だということだ。
私が倉木麻衣について長々書いても、彼女のことを全く知らぬものの妄想である。幻想とは公認の嘘である。
私がこよなく敬愛する岸田秀氏が、「芸術家は公認の嘘つき」と言ったが、アートの人気に神秘性があることも否定できまい。ゴッホに神秘性があれば、彼は金持ちになっていたかもしれない。
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2006.06.25
ジーコが日本チームに対して感じた本音が印象的だ。
「フォワードが練習中、シュートを外して笑っている」
「控え組の熱意が低い」
日本選手のプロ意識の低さというよりは、日本はやはりサッカー向きではないというだけのことと思う。日本では、闘争心過剰では調和は取れない。
中田はその中で浮いたという面も無くはないが、やはりリーダーシップに欠けるように思う。英語、イタリア語は得意でもコミュニケーションはできないのだろう。1人でアップしているようではだめだ。彼がレギュラーを貼れたのはセリエA最初のペルージャだけ。ここは、もともとが彼中心のチームだった。実力は誰もが認める彼が活躍できないのは、サッカーとは別の問題があると思える。
深夜のドイツ-スェーデン戦は良かった。2-0でリードされ、残り時間が迫る中でもドイツのシュートの雨(試合中30発近く)をかわし続けるスェーデン。戦争では、負けていても必死で戦うものなのだ。
で、休日に絵を描く(笑)。日曜って、週末?週明け?
クリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。
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2006.06.24
「天使の出現」(日本経済新聞社)という本がある。
人間ってのは自分が神様だと思っているし、特に自分の賢さを絶望的に信じているものだが、ちょっと認識を修正しようという気になる本だ。
著者の野口悠紀雄氏は1940年生まれ。東大工学部を卒業後、大蔵省入省、エール大学で経済学博士号取得、一橋大学教授、東大教授・・・まあ、超エリートだ。
しかし、彼は全て偶然と言う。そう思わざるをえないようだ。幼年期を第2次世界大戦下で過ごし、東京大空襲時に防空壕に逃げ込んだ。先に逃げ込んだ者達は窒息死したが、彼は後から来たおかげで、扉の隙間から外の空気を必死に吸い込んで生き延びた。自分が生きているのは偶然に過ぎないと言う。
この本の表紙に、「キリストの洗礼」という絵が小さくプリントされている。作者はヴェロッキオ。フィレンツェの巨匠だ。左下に2人の天使が描かれている。1人の天使はキリストを見ているが、もう1人の天使は、その天使を驚いたような顔で見ている。
キリストを見る天使を描いたのは、ヴェロッキオの弟子だった若きレオナルド・ダ・ヴィンチだ。もう1人の天使が、その天使を見る愕然とした表情は、ヴェロッキオの気持ちかもしれない。その天使のあまりの素晴らしさに、ヴェロッキオは二度と絵筆を取らなかったという(専門の彫刻に専念したという説もあるらしい)。
尚、「天使の出現」とは、人生の中の光り輝く瞬間のことだ。それは、他人から見て必ずしも華々しいものとは限らず、むしろ、なんでもない出来事のことも多い。
野口悠紀雄氏は、自分のそんな瞬間を明かしている。詳しくは本を読んでいただいた方が良いが、戦争直後、何もない中で、子供だった彼が友達とやった他愛もない遊びだった。何の道具もなしにできる遊び。しかし、野口氏は、テレビゲームやディズニーランドでしか遊べない今の子供達を哀れむ。
「まほろまてぃっく」という、アダルト作家の中山文十郎氏原作のぢだま某氏の漫画があり、あのガイナックスがアニメ化した。そのアニメの最終回で、非情で巨大な悪の組織で生きてきた、身体はサイボーグ化した老人が言う。「故郷を離れて長く暮らせば、取るに足らない、どうでも良さそうな景色が、ひどく懐かしいものに思えてくる。子供の頃、裏山にあった大きな木。草をざわざと波立たせながら岡を越えていく風。夢を語り合った仲間達。そして潮騒。水平線に沈む夕陽。私はどうしてもあの故郷へ、青い地球に帰りたい!」
巨大な悪の一員として過ごした中で、偽りの歓喜や快楽も際限なく味わった老人の人生で、光り輝いた瞬間とはそんなものであったことに感慨を憶えた。
「まほろまてぃっく」・・・萌え系の方々に人気の高い漫画・アニメであるが名作である。
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2006.06.23
今朝、目を覚ましたとたん、「日本vsブラジルはどうだったのだろう?」と思い、慌ててテレビをつけた人も多いと思う。そして、割にあっさりと結果を知ることができた方が多かったのではないかと思う。
「1-4で完敗!!」
ところで、こう思った方はいないだろうか?
俺が見ていたら勝ってたかもしれない
私は、小学3年生くらいの時、こんな考え方にとりつかれたことがある。
プロレスの試合のことを考え、自分がテレビで見ていても、見ていなくても同じ結果がでるのだろうかと考え続けた。何か関係がありそうな気がしたのである。
後に、なんとこれと同じことを書いた本を見つけた。
「マーミン 量子のミステリー」(丸善株式会社刊)である。
著者デヴィッド・マーミン博士は物理学者であり、ニューヨーク・メッツの熱烈なファンである。彼は、メッツの試合がある時は、テレビを見ずにはいられない。それは、心のどこかで、自分が見ることで、結果に違いが生じるに違いないと感じているからだ。
彼はこれを「野球原理」と名付けた。
ご存知の方もいると思うが、これは物理学の比較的新しい分野である量子力学を一般に説明する時の材料にされることがある。
もっと有名なのは、「あなたが見ていない時、月は存在するといえるだろうか?」である。
ただ、見ていない時、月は存在しないとか、見ている時はメッツが勝つ可能性が高くなるとか、そういう話にはならない。
あることを仮定すれば、「この日本vsブラジル戦の結果が、私が見ていなかったから日本の負けになったわけではない」ということがはっきりと示せる・・・とか、そういう雰囲気の話になると思う。量子に確率のお話はつきものだ。
私はいくつかの量子力学の通俗本を読んだが、あまり理解できなかった。上記の本も、理解しようと思ったら、かなりの根気が必要と思う。
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言うまでもありませんが、昔から映画においても美しい映像が追求され、ローテクの時代のものであっても、現代の人の鑑賞に十分に耐えるものも少なくありません。
私が、映画で最も気に入っている映像は、黒澤明監督の「夢」の第2話「桃畑」にあります。このお話は、黒澤明監督自身が子供の時に見た夢の映像化のようです。
桃の木の精達が、桃畑で踊る光景の美しさはこの世界とは異質なもののようにさえ思われ、幽玄の世界の様子を見たような印象を持ちました。
最近のハリー・ポッターやスターウォーズシリーズ、あるいはロード・オブ・ザ・リングなんてのも素晴らしいのでしょうが、私は見ていません。
国内の作品では写真家、映像クリエーター(なんて職種で良いのかな?)の紀里谷和さんが監督をした「CASSHERN(キャシャーン)」が映像に凝った作品でしたね。正直言って、私はこの作品は映画としては全然良いと思わず、DVDは買ったのですが、2度見ようとは思いません。しかし、さすが紀里谷さんで、時々、非常に素晴らしい映像がありました。ロボット軍団との戦闘シーンに関しては、個性的でそこそこ迫力がありましたが、どこか安っぽい。良かったのは、東家と上月家の合同記念写真(?)のシーンで、どこかミュージシャンのプロモーション映像と通じるような感じで、エキスパート振りが見られたような気がします。いえ、ちょっと、上記の「桃畑」の桃の木の精達の舞踊シーンを思い出したほどです。
サグレーやバラシンとの対決映像は見ごたえがあり、やはり紀里谷さんは人間を美しく表現するのがお得意なのかもしれません。
ところで、「CASSHERN」は、映画としては、特にストーリーはどう考えても良いと思いませんでしたが、メイキング映像の特典で実に素晴らしいものを見ました。
紀里谷さんがスタッフに「問題があったら、黙ってないでどんどん言った方が良い。言わなくても、どうせ最後には全部出てくるんだから、さっさと言うほうがいいんだよ」と言ってたのが実に胸を打ちました。これは、映画監督というよりは、やはり写真家・映像作家としての経験だと思います。この10秒のシーンで、DVDを買ったかいがあったと思いました。
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2006.06.21
日本は飽食の国で、食べ物が有り余っているし、多少給料が少なくても、ある程度満足な食生活は得られるはずだ。
ましてや、私のような高給取りのシステムエンジニアは(笑)、ちょっと食事が悪いとすぐに不満に感じたりする。
しかし、2つのお話を思い出すと、多少は敬虔になる(?)。
1つは、「フランダースの犬」。2歳のネロを引き取った時、おじいさんは既に80歳。わずかばかりの牛乳をリアカーで街まで運ぶ仕事によって僅かな収入があるだけ。ネロとおじいさんとパトラッシュの食事がロクなものであるはずがなく、ネロがまともな食事にありつくのは、アロアのお誕生パーティーの時だけで、しかも、アロアの13回目のお誕生日には、ネロ(15歳)は、アロアのお父さんによって招待は禁止された。その時、おじいさんもネロも、そしてパトラッシュでさえ、パーティーの食事について考えたくらいだから、さぞ、普段の食生活は貧しいものであったろう。
もうひとつは、トルストイの「人は何によって生きるか」。
貧しい夫婦がいて、寒いロシアにもかかわらずコートは共用。いや、コートばかりか、ちょっと遠くに行く時は、旦那は妻の服を借りて着こんでいった。よって、そんな時、妻は外出できない。
旦那が町に行った時、妻は、残りのパンは1つしかないが、旦那は町で昼食を食べたら、夜のパンはいらないだろうから、明日の分のパンを他に用意しないというもの。
それなのに、旦那は着るものもなく凍えていた若者を連れ帰り(つまり服を与えた)、妻を怒らせたが、結局、2人は若者に食事を与え、暖かくもてなした。
人はパンによってのみ生きるにあらず・・・私も明日から粗食しよう。いや、マジで・・・。
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2006.06.20
いつの時代も、程度の差こそあれ、お嬢様ブームだと思う。
一般的なお勉強の他は、ピアノやヴァイオリン、ダンスに乗馬。庶民の娯楽や、低俗な趣味には決して触れさせず、身の回りのことは使用人がやってくれるので、高貴な行いだけすれば良い。
それでどうなるかはあまり興味がないが、そのお嬢様の身分は、多くの場合、父親の稼ぎに依存している。
ところで、その頼るべき父親が倒れたり、なんらかの事情で財産を失い、むしろ底辺に属する身分に落ちた時、彼女がどうなるかというのも尽きせぬ庶民の興味であるらしく、そのようなお話は昔から、各国に多くある。
皆様もよくご存知の「小公女セーラ」がそうであるが、セーラはなかなか強い子であったようで悲惨さは少ないが、それでも十分に可哀想で人気がある。
で、転落したお嬢様の悲惨さを、「ここまでやるか」というほど見せてくれるのが芥川龍之介の「六の宮の姫君」だと思う。私は思わず、芥川の人間性を疑った(笑)。
父親が死に、母親が死んでも、他にやることがないので、歌を詠んだり、お琴の稽古をする・・・とじっくり攻める。使用人がいなくなり、食べ物にも事欠き、姫を赤ん坊の頃から世話している乳母は奮戦するが・・・。
ある種、変態ともいえる芥川の感情のない淡々とした文章でとまどいもなくお話は進み、とうとう最後の最後まで描いてくれる。
三島や太宰同様、精神が死んでいた天才作家ゆえのためらいのなさ。確かに、芥川の辞書には「ためらい」の文字はない。
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2006.06.19
私は、歩きながらタバコを吸う行為がいまだ犯罪として扱われな地域が多いことに、日本はどうしようもなく遅れた国と思う。
いずれにせよ、歩きタバコをする人間と絶対に組んで仕事をしてはいけないし、会社で雇ってもいけない。そんな者がいることによって、会社は品位を落とし、信用もなくし、どんどん悪くなるだろうから。
だって、歩きタバコをする人というのは、
自分さえ気持ちよければ、他人はどうなろうと構わない
という人間であるのだ。もしそうでないなら、アインシュタイン式に言えば、「神様が間違えて頭をくっつけた」何も考えない者である。
歩きタバコを禁止する条例があるのだから、それがない地域でも、当然悪いことをしている人間とみなして間違いない。現実に被害は子供を含め、沢山出ており、むしろ被害に遭わないのは運次第と言って良い。
確かに、罰せられないなら自分の快楽を優先する人間も残念ながら多い。昔はセクハラなんてやりたい放題の会社や団体も多かったが、それは罰せられる恐れがなかったからだ。毎日、会社の若い女の子の身体に触るのを公然の楽しみとし、その後でその女性にタバコを買いに行かせたもののようである。歩きタバコをする者も、そういう状況でなら、必ずやるであろう。
いや、戦時中であって、もし占領者の立場にあれば、占領地の女性を子供も含めてレイプする人間とみなしても良いかもしれない。
歩きタバコをする人間をよく見るにつけ、そう確信する。
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日本は「善戦」したがクロアチアに勝てなかった。
どうも日本人はFWというものが向いていないように思う。怪物的FWがいないと、強豪国と引き分けることは出来ても、勝つことは難しい。
今回の大会は、既に中田(英)が絶対的存在でなくなったことを強く感じる。日韓大会まであたりなら、中田に意見するだけで話題になったものだが、今では若手でもそう素直に中田の言うことをきかない。練習では中田の笑顔が印象的だった。中田の方からチームメイトに近付かないといけないようになった。
しかし、元々が中田はリーダータイプではない。向こうから近付いて来て欲しい性格だ。
他の選手の成長もあるが、中田も衰えた。中田は元来、司令塔としての才能と共に、強いフィジカルと、精密なプレイが身上であった。しかし、黄金の身体にガタが来ており、それに引きずられてか、プレイの精度も以前ほどではなくなった。偏食(野菜嫌い)の影響もあるのだろうか?
中心人物もムードメイカーもいない今大会。スーパースターは監督というチームの矛盾も見えるような気がする。
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2006.06.17
米国の往年の名テニスプレーヤーであるジミー・コナーズが言った言葉を思い出す。
「テニスプレーヤーには2種類しかいない。ウインブルドンのタイトルを持つ者と持たない者だ」
他のグランドスラムタイトルと較べても、ウインブルドンが特別なものであることを認める者も多いはずだ。
ところが、他のグランドスラム大会のタイトルは数多く獲得しているのに、ウインブルドンのタイトルだけ持たない「悲劇のプレーヤー」もいる。コナーズ自身、ウインブルドンで初優勝した時の決勝戦の相手イリー・ナスターゼがそうだ。なぜかウインブルドンでは良い成績を残せず、年齢も高くなってからやっとたどり着いた決勝戦の相手が若いコナーズで、そのパワフルなプレイに完敗する。
比較的最近では、チェコのイワン・レンドルを憶えている人も多いと思う。157週連続世界ランキング1位でありながら、ウインブルドンのタイトルだけは取れなかった。また準優勝の多い選手として有名で、悲劇のプレーヤーのイメージは一段と強い。
ところで、著名な心理学者エイブラハム・マスローは、傑出した人間とそうでない人間との違いはただ1つであると言った。それは「至高体験(Peek experience)を持つか持たないか」だ。しかし、コリン・ウィルソンは、至高体験は誰でも経験すると言った。ただ、それを憶えているかどうか、また、頻繁に起せるかどうかが問題であるらしい。
ウィルソンによると、至高体験とは、単に自分が幸運だと認識することであるらしい。
尚、芸術家が多く体験すると言われる大洋感情も、至高体験と同じと私は思う。
珍しく、モデルを見ながら絵を描きました。雑誌の表紙ですが。ただ、途中から想像の絵になりました。
クリックすると大きな絵が出ます。
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2006.06.16
誰でも、人生の中で光に触れる瞬間があるらしい。
それは、一生に一度というわけではないが、いったい何回あるかは分からない。昔から、そんな瞬間を「天使の出現」と呼んだ。
ところで、決して金メダルを取ったような時がそんな瞬間であるわけではない。むしろ、他人からすればなんでもないようなものであり、極めて個人的なものである場合が多いと思う。
誰にでも 光に触れる瞬間があるって
あの日のまま思っていたいけど 今では幻?
「鳥になる時」より(作詞、作曲、歌:彩月 アニメ「コレクター・ユイ」オープニング曲)
それは、こんな見知らぬ少女を見た瞬間であることもあります。ただ、その時には分からず、ずっと後になって、その光景を何度も思い出すことで気付くのですが・・・
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2006.06.15
ブラジルでは、サッカーW杯試合時間中は、犯罪率が極端に減るらしい。悪者もTVにクギ付けというわけである。このスキをついて、有利に仕事をしようとする悪者も少ないのではないかと思う。それほど、ブラジルにとって、サッカーとは大きなものである。
そう考えれば、いかに盛り上がりを見せるとはいえ、熱の入れ方が根本的に異なる日本が、さほどの結果を出せないのは、仕方がないのではないだろうか?
それに、サッカーとは戦争であってスポーツではない。対戦相手を敵国とみなし、負けることは戦争に負けるほどの屈辱を感じる国と戦おうというのが無理かもしれない。
ついでに言えば、国歌の差もある。勇猛果敢で、いやでも選手を鼓舞する国歌を持つ国もある。フランスの「ラ・マルセイエーズ」はもろに、いざ戦闘だという歌である。日本の「君が代」は、知らず知らずのうちに、選手達の闘争意欲をクールダウンしてはいまいか?
そういえば、1986年に自由の女神の100周年式典が行われた時、ニューヨークではタイヤのホイール1本、盗まれることはなかったという。泥棒さん達も、自由の女神への敬愛は持っているようである。
日本には、このような全国民が共通で持つような価値観というのは存在しないと思う。お金に絶対的価値を置く者が、どこまでもエスカレートするのも、このあたりに関係しはすまいか。
別に共通である必要もないと思うので、何か個人的に価値を置ける、できれば美しいものを持ちたい・・・ということはないだろうか?萌え系の方々には、昔ならセーラームーン、いまならプリキュアといろいろあるように思うのだが・・・(笑)。
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2006.06.14
時々、未来の夢を見ることがあるが、輝かしい未来ということは全くなく、年を取ったことにがっかりするようなものが多い。いや、ほとんど恐怖と言って良い。
目覚めてみて、つくづく、時は戻らないことを実感したりする。
地球は後、どのくらいもつかというと、化学汚染や森林伐採による二酸化炭素過多や温暖化が引き起こす致命的結果をことごとく避けていけたとしても、57億年後には太陽が赤色矮星化して地球は灼熱地獄と化すようである。57億年とはなんとも先のようであるが、いつかは確実に訪れる時間である。宇宙だって生まれてから137億年経過しているという有力な説もあるが、過ぎてみればどんな時間も一瞬だ。ましてや、人間の一生なんて、仮に200年生きたところで一瞬の星のキラメキのようなものだろう。
映画「タイタニック」でジャックが言った言葉を思い出そう。「今を大切に」
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2006.06.12
電車通学・通勤をしておられる方もいるだろうが、そうでなくても、電車を利用したことは誰でも何度かはあるだろう。
私は電車通勤であるが、ホームでは、おしゃべりをしたり、携帯電話の画面をじーっと覗き込んでいる人・・・といった平和な光景ばかりである。
しかし、不意に、ホームへの昇降口のところにマシンガンを構えたテロリストの集団が現れ、ホームにいる人達に乱射したら・・・。
ほとんどの人が、そんなことは絶対にあり得ないと思っているだろうが、私は、今日・明日にでも起こりうるといつも思っている。だから、ホームへの昇降口にたえず注意しているし、今この瞬間なら、どちらへ逃げようかといつも考えている。
あるいは、電車が駅に到着した途端、隠れていたテロリストが電車の窓をめがけ、一斉射撃をしてきたら、すぐに床に伏せなければならないと思う。
他の先進国でも、そういったことは何度も起こっている。ごく普通の日常の中でだ。
確かに、陸路で入国できる国よりは、テロリストは入りにくいが、地下鉄サリン事件のような形態もありうるし、むしろ助かる見込みは少ないことにもなりかねない。
いや、隣にいる普通の人がナイフで刺してくるというのは、よくニュースでも見る。
まあ、私ごときがどんなに備えても、何ほどのこともないだろうが、殺される可能性が99パーセントの場面で95パーセントにまで下げるようにするしかないのである。
ただ、芸術的にいえば、このような考え方は悪いものではない。誰の話だったかうっかり忘れたが、文学者か何かだったと思う。極めて治安の悪い地域を歩き回っていた時、それまで感じたことのない開放感、自由の意識が高まったそうだ。それは想像力と結びつきもしたと思う。芸術家の精神はたるみっぱなしではいけないのだと思う。
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2006.06.11
私も会ったことがある、賢者と言って差し支えない方が、こう言っていました。
「私は人と話をしていても、その人の言うこと自体は全く問題にしない。言葉の裏にあるものを感じるようにしている」
1年以上前、私はある女の子向きのアニメ(「ふたりはプリキュア」)を見ていました。
ヒロイン2人が悪者(若い男)と戦っていたのですが、悪者の方がずっと強く、この中学2年生の美少女達が本当にボコボコにされ追い詰められる中で、悪者がこう言います。
「命乞いをしろ!自分だけ助かりたいと言え!先にそう言った方だけ助けてやろう」
これに対し、ヒロイン2人は「冗談じゃないわよ!」「そんなの絶対に間違っている!」と反発します。
私は、このやり取りを聞いていて、この悪者は、命乞いをし、「自分だけ助けてくれ」と言って生きてきたんだなと思いました。そして、彼女達に同じことを強要するのは、そんな自分を本当は認めることができないのだなと思いました。私は、卑怯にならないと生きていけなかった悪者を気の毒に思いました。
アニメの制作者もそう思っているのだと思います。
また絵を描きました。
クリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。
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2006.06.10
宇宙人Zが私に言った。
「日本のM学園のS子こそ世界最高の美人と聞いている」
さすが宇宙人。確かな情報だ。
「・・・同感だね」
私が答えると、続いて宇宙人Zは、
「そして、絵画の女性で他の追随を許さぬ評価があるのはモナ・リザだね?」
「ふふ・・・そうだね」
すると、宇宙人Zは、私に2人の画像を用意して欲しいと言う。
私は快諾し、S子とモナ・リザの写真をそれぞれ50枚と30枚撮影し、宇宙人Zに渡すと、Zは満足して、写真を母星に持ち帰った。
Zは再びやってきた。地球侵略計画の参謀として。
しかし、Zが持ってきた男性誘惑イリュージョン装置は効果を発揮しなかった。
私は、S子は距離5メートルで5000倍の倍率で。モナ・リザは10メートル離れたところから3500倍で撮影したのだ。そこには、見事な細胞組織、乾燥した油絵の具の妙な形の拡大映像があった。
私は騙していない。Zは、距離と倍率を指定しなかったのだ!
いかに極端に拡大したものだろうが、縮小したものだろうが、それはそのレヴェルにおける真実である。我々が美人、あるいは、美と感じるものだって、ごく制限された範囲でのことである。そして、レヴェルの違う世界は、規模においても性質においても無限に存在する。
宇宙は無限に広く、我々は限られた存在である。そして、いろいろな意味でレヴェルが異なれば、支配する原理原則も異なってくる。
お互い、視点が違うことに気付かずに話し合ったり交渉してもすれ違いばかり起こり、争いにもなる。
物理学の世界では、極微な世界と極大な世界では、我々が認識する世界とは違う法則が支配することを明らかにした。
おそらくは、芸術の世界でも全く異なる世界というものがあり、ある1つの立場からでは価値を認められないものがあっても特に不思議ではないはずだ。
しかし、自分とは異なるレヴェルの世界を知ることは非常に重要に思う。理屈では納得しにくいが、直感で感じることもあるかもしれない。その直感が一度に大量に訪れた時に大洋感情が起こり、「爆発」にいたるのかもしれない。
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2006.06.09
トルストイの「戦争と平和」の読破に成功した方はおられるだろうか?
上下巻程度で終わるダイジェスト版ではなく、コンプリート版の方である。
私は中学1年の時に挫折して以来、そのあまりの困難さに再挑戦を行っていない。
とにかく、その登場人物の多さと、憶えにくいロシア名前だけでも大変で、とてもではないが、厨房(※ネットスラングで「中坊」すなわち中学生)に歯の立つものではない。まあ、特に聡明なお子様ならいざ知らず、私には過酷であった(笑)。
そんなこんなで、トルストイは敬遠していたのだが、「人は何で生きるか」が単体で5月30日に「あすなろ書房」から出たので買ってみた。
こちらは、子供でも十分に読める。大人なら30分もあれば読めると思う。
私は、このような心震えるほど感動する本というのは疑いを持つ習慣ができている。人を感動させて儲ける連中を沢山見たからだ。コツを知ってる者にとっては、あまりモノを考えない小市民に口先だけで感動の嵐を起させることは十分に可能だ。
トルストイと言っても、彼自体が家庭では暴君であったというが・・・まあ、それは噂なのでとり合わないことにしよう(笑)。
この本では、とても不思議なお話で、人が3つのことによって生きることが、簡単に示される。
わずか900円(税込945円)の薄っぺらい本なので、暇つぶしにでもどうぞ。
人は何で生きるか(あすなろ書房)
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2006.06.08
芸術とは何かについて、いろいろな著名人の言葉をまとめておくのも良いと思う。
ただ、私の頭の中にある限りのもので、偏りは避けられぬ(笑)。
吉本隆明(詩人、思想家)「芸術とは自己慰安である」
岸田秀(心理学者)「芸術家とは公認の嘘つきである」
フロイト(精神分析医)「芸術とはリビドーの逃避的表現である」
岡本太郎(画家)「芸術は爆発だ(瞬間に生命が宇宙に向かって開くことらしい)」
コリン・ウィルソン(作家) 「芸術は宗教の下僕として始まった」
W.B.イェイツ(詩人・劇作家)「芸術の目的はエクスタシーである」
上3人と下3人に分かれると思う。
上3人では、いずれにしても、芸術を人間の弱さを支えるものとしており、確かにそれによって生きる力を補完するのであるが、どちらかというと、他に適当な手段が無いので、やむなく行うといった、消極的イメージがある。
対して下3人では、芸術は人間を変革させる力を持つものであり、巨大なエネルギーを解放する人類の秘儀としているように感じる。
ただ、コリン・ウィルソンにおいては、宗教や芸術は、もともとは、人間に隠されたエネルギーを取り戻させ、リアルで強烈な現実感覚をもたらし、人間に生きる喜びを得させるものであったが、宗教も芸術も、そのような力をほとんど失ってしまっていると考えていると思う。いや、岡本太郎もイェイツも、やはりそのように思っているに違いなく、なかなか並みの人間にできないような苦難の道を選んだのであろう。
三島由紀夫も「葉隠入門」で、芸術とは苦しい面もあり、対立する力のせめぎあいの中で生み出すものだと書いているが、彼も下3人のグループであろう。
私は、上3人は、芸術は自我を小さいままで安定させようとするもので、下3人は、あえて自我を崩壊のピンチに追い込み、精神を鍛えて無意識の巨大な力に触れようとするものだと思う。
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2006.06.07
もうすでに、電車もコンビニもかなりクーラーが効いてて、ちょっと寒いです^^;
私は、昨年までクーラーが大好きで、ガンガン冷やすタイプでした(笑)。
しかし、急に冷房嫌いに・・・。
「新世紀エヴァンゲリオン」でミサトさんは、クーラーを「文明の至高の発明」と言ってましたし(笑)、私もそう思っていたのですが、なんと冷房が効いていないことを喜ぶようになって自分で驚いています。
1つには、今年になってから更にひどくなった乾燥肌。これはエアコンはかなり厳しいです。
もう1つは、サッカーのカズさんの公式サイトで読んだのですが、カズさんは真夏でもスーツとネクタイを好むとか。暑くないわけじゃないと思います。しかし、汗をかくと服が身体に馴染んでくるらしい。
まあ、単にカズさんのファンということもありますが(笑)、実際、少々暑くても、汗をかいた方が肌が乾燥せずに助かります。汗の匂いが気になる人も多いと思いますが、汗のニオイは細菌によるものであり、清潔にしていて、あまり動かない汗なら、そんなに心配ないと思うのですが。私は、全く汗が匂いにならない人で、よく「全く汗をかかない」と勘違いされたりしますが、実はすごい汗っかきです^^;;
カズさんの真似をして、暑い日でも、はおるものは必ず持っていこう。まあ、コンビニにもスーツで行くような真似はできませんが・・・^^;
またまたラキガキです。
いえ、素朴画と言って欲しい(笑)。
クリックすると大きな絵が出ます。
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2006.06.05
子供の成績や学歴は親の収入の影響が大きいとよく言われますが、私もそれはそうだと思います。ただ、私は、東大生の親の収入が平均より多いとかいう調査よりは、現在の学習塾を見ればもう明らかと思います。優れた学習塾の学校設備や教育・受験ノウハウ、教員の質は、一般の公教育とは比べものにならないほど勝っています。日頃の学習もですが、特に受験となると、良い学習塾や予備校に行く生徒とそうでない生徒では、あまりにハンデがあるように思われます。
しかし、良い塾に行くにはそれなりにお金もかかります。月2~3万円で、そこそこ(あるいはかなり)の塾に通えますが、この支出が何でもない家庭もあれば、出すのは無理という家庭もあります。また、さらに塾の用意する追加オプションを利用すれば明らかに効果的なことが多いですが、その場合は支出はさらに増えます。最近は個別指導の塾(先生1人に生徒2~3人)も人気がありますが、こちらはやはり月謝はやや高めです。
悪い条件で努力することも非常に良いこととは思います。今では考えられませんが、昔の本を読むと、家で夜に明かりを灯すお金がないので、街燈の下で勉強し、優秀な成績で学校を出た人の話もあります。ただ、これはやはり高校生以上の話であり、また、当時は貧しい人のハンデはこのように「夜、家で勉強できない」というだけのこと(大変なことではありますが)でした。
アニメにもなった、コゲどんぼさんの漫画に「ぴたテン」というものがあり、この中で、綾小路天(あやのこうじたかし)、通称「天(てん)ちゃん」と呼ばれる小学6年生の少年が登場します。美少年でスポーツ万能、おまけに全国模試のトップランカーという非の打ち所のない少年で、性格も良くて女の子にもモテます。しかし、彼は一切の塾に行っていません。また、あまり勉強もしていない雰囲気です。
アニメでは、単に素晴らしい少年であるからということになっていますが、漫画の方ではいろいろ複雑な事情がありました。天ちゃんは、友達がみんな塾に行っているのを実は羨ましく思っていたのですが、彼の父親が事故で寝たきり状態になり、母親が働いてなんとか生活している状況では塾の月謝は払えません。しかし、負けず嫌いの彼は、勉強をしていないふりをして、家では深夜まで懸命に勉強し、トップの成績を保っていました。
ところで、現実として、このようなことが可能かと言いますと、かなり難しいです。学習塾の指導ノウハウなら短時間で楽にできることも、いかに優秀とはいえ、小学生1人が我流で対抗できるかというと、ちょっと信じられません。
ところで、天ちゃんは、そうやってがんばりますが、お金持ちで沢山の塾に通いながら彼に勝てない子達には嫉まれたりと大変です。そして、彼がそれほどがんばって努力する大目標であった私立中学の受験の時期が来ますが、父親は回復せず、母親に私立中学を断念するよう頼まれます。それでも彼は諦めきれず、アルバイトで受験費用だけはなんとか作ると、母親には内緒で願書を出します。
まあ、実際には、こういった苦労をした経験の方が人生においてずっと役に立つのでしょうが、いろいろなことで条件が不利になる場合もあるかもしれません。
最近、塾に行けない子供のために、定年退職した教師が無料で教える「公立塾」を文部科学省が実施するという話を聞きましたが、優秀な私塾とのあまりの差は明らかとしか言いようがありません。「行かないよりマシ」程度の効果も怪しいものです。もしかしたら、「行かない方が良い」かもしれません。だって、年を取って考え方も古く、頭もボケてきているかもしれない「元」教師です。情熱もなく、我流で教え、子供たちの学力を低下させた人たちが何かの役に立つのか疑問です。定年教師の再教育や選抜に関する話もありませんので、やはりあまりに無邪気な企画というべきと思います。
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2006.06.04
これまで、夢を持つことが、さも良いことであるように思わされてきたと思う。
「夢を持つことこそ生きる証し」「夢も持たない人とは付き合わない方が良い」とまでよく言われてきた。
一方で、甘えた若者が「夢を持てないんですよ」と、世の中に文句を言ったりする。
実は、私も夢(あるいは目標)を持つことが素晴らしい人間の条件と思い続けてきた。
しかし、いったん、そんな洗脳のほころびが見つかると、そんなのは嘘であることがあっけなく明らかになる。
まず、最初に疑問を持たせてくれたのは、心理学者の岸田秀氏である。彼は「私は生きる目的なんかない」と堂々と宣言する。「なら、なぜ生きているんだ?」という愚問が当然来る。「生きるのに目的が必要なのは、不安だからだ」とあっさりと答を出す。
養老猛司氏も、生きる目的なんて馬鹿なことを考える暇があったら、身体を使って働けと言う。何にでも目的があると思うのは、人工物に囲まれて暮らしているからだと言う。
私は、ただ1つのメルマガを読んでいるが、それは、ソフトブレーンが出しているもので、内容は宋会長のお話だ。知らない人も多いと思うが、ソフトブレーンは、あのライブドアと一緒にマザーズに上場し、確か2004年に東証一部に上場した。中味の何もないライブドアと違い、しっかりとした素晴らしい技術を持つ会社だ。
著作権があるので、中味は言えないが、宋会長も、しょっちゅう「夢は何ですか?」と聞かれて困るらしい。そんなものは無いのだから。
私も同意なのだが、「成功したい」「お金持ちになりたい」というのは、夢というよりは本能、岸田秀氏らしく言えば、不安の解消、いや、不安からの逃避である。
こうなると、いろいろ思い出すことがある。ある成功した企業家は、その事業を始めたそもそもの動機は「タバコくらい吸えるようになりたい」だった。
私は宋会長にも運良く二度ほど会っているが、大人物というのは、動機というものが本当に常識的なことばかりである。
しかし、アメリカには、夢を持たせ、それを達成するための驚くべき高価な教材が沢山あり、日本にもかなり入ってきている。また、成功セミナーみたいなものは日本にも数多いが、そんなもので幸せになったという話など聞いたことがない。
最近も、変な成功屋が「目標を見つける」ための馬鹿高いプログラムを売るためにおかしな本を沢山出しているが、みなさんが騙されないよう祈るのみである。私はずっと騙され続けたのだが・・・。
ある大物ミュージッシャンが、「ミュージッシャンなんて、街角でハーモニカを吹いていられたら満足なのさ」と言っていたが、道を究める人とはそういうものと思う。
久し振りのラクガキ。
クリックすると大きな絵が出ます。
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私は、多分、3つか4つの頃と思うが、世界が実際には存在していないことにうすうす気付いたことがある。それは、不意にあることをやってみた時に分かったのだが、今でもそれをすることができる。
他の人に出来るかどうかは分からない。今なら思うのだが、ある程度、希薄な、あるいは、不安定な自我の持ち主でないと難しいと思う。
これまで、それを思い出すごとにやってみるのだが、おそらく1年に1度もやらないと思う。
やり方はこうだ。なんでもいいから、注目しやすいものを見つける。私はドアノブを使った思い出があるが、何でもいい。別に綺麗なものや、神秘的なものである必要はない。あまりに集中してしまいやすいものがダメかというと、そうでもないと思うが、感じは変わるので、いろいろ試してみても良い。
その何かを見つめる。そう極度に集中する必要もない。いや、むしろ、さりげなく見た方が良いと思う。そして、それが、そこにあると自分に言い聞かせるのだ(もちろん、心の中でやれば良い)。
すると、それの存在が急に希薄になる。実際には、連続的に消滅する・・・いや、正しく言えば、連続的に生成されるのを見るのである。
自我にとって、世界が存在しないことは都合が悪いことのようだ。だから、完全に消えてしまうことはなく、自我は必死でそれを作る。実に世界を作っているのは自我だ。
自分にとって、いかに大切なものであろうと、実は存在していないことも分かる。
面白いのは、さりげなく見ながら「ある」と宣言すると、「ない」ことが暴露されかかることだ。それがなぜかは考えれば説明できるかもしれない。多分、「ある」という思いは、自我が世界を作る働きに同調し、そのためにかえって自我の魔法の綻びが見えてしまうように思う。
私は、ある時からこれを「消滅ゲーム」と名付けた。TVゲームなどのように面白いわけではないが、とても良いことかもしれない。
ただ、再度言うが、誰にでも出来るのかどうかは分からない。
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2006.06.02
私はあまり音楽の趣味は広くはないのだが、気に入ってしまえば本当に何度も聴いている。
そんな中に、KOTOKOさんの“agony”がある。聴いた回数は百回は下るまい(?)。
agony---苦痛、苦悩、断末魔の苦しみ、狂わんばかりの気持・・・という意味らしい。良い言葉である(笑)。
KOTOKOさん自ら作詞した歌詞の中にこんなフレーズがある。
「君がいるからだよ」と、闇に落ちた言葉、離れない
これは良い意味に解釈されると思う。男から女に言うと女は嬉しいと思うが、別に女が男に言っても良い。いや、この歌の因縁で言えば、女が女に言うのでも良い(笑)。
だが、芥川龍之介の短編小説「藪の中」では、まさにこの言葉が闇に落ちて離れなかった話があった。彼にとって、この言葉は最大の“agony”だった。
芥川の作品は、思いのほかきちんとしていて解しやすいので、中学あたりの教科書にもよく使われていたと思う。しかし、この「藪の中」は未来永劫、絶対に採用されないと思う。
侍とその妻が旅をしていた。
盗人の男は、その妻の顔を瞬間見ただけで一目惚れしてしまう。そして、2人を騙して藪の中に誘い込み、侍を杉の木に縛りつけ、その前で彼の妻をレイプする。
侍にとっては最大の屈辱である。しかも、盗人は侍の妻に、「こうなっては夫の元に戻りようがないだろうから、自分の妻になれ」と言っている。さらに、盗人に「俺はお前が愛しいと思うからこそ、こんな大それたマネをしたのだ」と言われた時の妻のうっとりとした顔は、その侍が見たことのない美しさだったという。
ゲオルク・グロデック(ドイツの医師。心身医学の父と言われる)は、法を犯してまで自分を求めた勇者の存在に、女が深い満足感を得ることがあると書いていた。
そして、侍の妻は、盗人の申し出を受けたのだ!
しかも、それでも終わらない。侍の妻は、盗人に、夫を殺してくれと言う。
そして、次に言った言葉が、あの歌の歌詞とシンクロしたのだ。
「あの人が生きている限り、私はあなたと一緒になれない」
侍は、これほどの呪わしい言葉が世の中にあるだろうかと思った。いや、盗人でさえそう思ったのだ。
似たお話に、フランコ・ネロ主演の「ヒッチハイク」という映画があるが、制作者は「藪の中」を読んでいたのかもしれないと思った。
KOTOKOの歌と芥川の小説が見事に融合する体験をすることができた。ところで、KOTOKOの詩もまた見事である。
尚、芥川は、話を面白くするために、実に見事なテクニックを使っている。新潮文庫の「地獄変・偸盗」に収録されている。良かったら読んで欲しい。
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2006.06.01
人の行いの中で、最も美しいものはなんであろう?
私は「恩に報いる」ことではないかと思う。
この場合、恩を与えた方は忘れている場合もあるし、何より、恩に報いるということは、利益は先に貰っているわけであるから、それを返すだけのことであり、見返りは期待していないことになるはずだ。
こう考えると、恩に報いると言うのは非常に損な感じがするものと思う。「借りた金は返すのが当たり前」とはいえ、返さなくて済むならその方が良いのであり、貸した方は忘れているのに、わざわざ思い出させて返すようなものである。
しかし、もし人間の人格に尺度というものがあるなら、恩に報いることができるか否かではないかと思う。
仏典にこんな話がある。ある時、森が大火事になってしまう。すると、一羽のオウムが池に飛び込んでは燃え盛る火の上で羽ばたくことを何度も繰り返し、火を消そうとした。
神様が、「お前の行いは健気ではあるが、それしきの水が何の役に立つか?」と言うと、オウムは「長年、棲家を与えてくれた森の恩に報いたいのだ」と言った。感激した神様はオウムと協力して火を消した。
恩に報いようとする思いは神様をも動かすらしい。
CLAMPさん原作で、脚本もCLAMPさんが書いた「魔法騎士(マジックナイト)レイアース」というアニメがある。
敵の大ボスのザガートには、イノーバというザガートに忠実で有能な副官がいた。ザガートの配下の戦士達が次々にマジックナイト達に倒される中、イノーバは自分を元の姿に戻して欲しいと言う。イノーバはもともとは聖獣だったが、ザガートの魔力で人の形になり、ザガートに仕えていた。それがイノーバの最大の喜びでもあった。しかし、いまやザガートの危機に際し、より力を発揮できる聖獣の姿に戻りたいという。ザガートは断った。聖獣の姿に戻れば、二度と人の姿にはなれない。しかし、イノーバは引かない。ザガートは言う。「なぜお前はそこまで私に仕えるのだ?」
イノーバは「私がエメロード姫から贈られた聖獣であるという理由だけで今までお側に置いていただけた恩に報いたい」と言う。いまやエメロードはザガートの敵である。
ザガートはイノーバの望みを受け入れ、イノーバを恐ろしい聖獣の姿に戻す。
聖獣となったイノーバは強力で、3人のマジックナイト達は歯が立たず、敗れ去ろうとする。
しかし、エメロード姫がイノーバの弱点をマジックナイト達に教え、寸でのところでマジックナイトは勝利し、イノーバは滅びた。イノーバの最後の瞬間には、エメロード姫も嘆き、ザガートは動揺した。2人ともイノーバを深く愛していたのだ。
世間には、「成功する方法」だの「幸福を呼ぶ秘訣」だのを商売にする者が後を絶たない。しかし、恩に報いる心構えのない者が成功することは、ごく短期間の場合以外はないであろう。幸運の女神は律儀な人間が好きなのに違いない。
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