2005.12.30
普段歩いている道に、ずっと前からあったのだろうが、高さ3m位のところに設置した縦1.3mくらいの看板を初めて注意して見た。
ちかんと変質者に注意
とある。ちょっと首をかしげる。
ちかんは不法行為を実際に行った者であり、たしかに罪人である。しかし、変質者はどうか?というより、変質者とそうでない者との差異は何であろう?
心理学者の岸田秀氏によると、本能の壊れた動物である人間は、基本的に全て変質者なのだそうだ。こう簡単に書くと「え~?」という声も上がりそうだが、彼の著作を読むとある程度納得できると思う。(だからこそ、彼の著作数はすごく、一応は心理学の本でありながら一時的でなく長く一般に売れる)
控えめに言っても、変質者とは一人の人間の中の変質者的要素の保有量の問題である。いずれにしても、実質的に間違いなく変質者であっても、悪いことをしなければ善人であろう。
また、「私は変質者ではない」と言い切る人間が一番危ないような気もする。
少女漫画で、可愛いヒロインに「変態!!」と言われる男の子がしばしば主役の男の子であったりし、その男の子は普通以上に正義感の強い「良い男子」であるが、女の子にいろいろ「みだらな」ことを感じるのはあまりに普通である。では、ここでいう「変態!!」とはなんであろう?女の子の照れや、あるいは逆の嫌悪感である場合もあるが、ちょっとこの言葉の意味を考えてみたい。
「犬夜叉」の登場人物である弥勒(若い男性法師)は、美しい女性や少女に会うたびに「私の子を産んではくれぬか」と言う。この言葉通りに捉えるなら、弥勒は変態ではない。種族の存続は本能である。しかし、健康的な少年が、いわゆるエッチな写真を喜んで見てたり、干してある女性用下着を熱心に見ていて、それを発見した女の子に「変態」呼ばわりされても、ある意味当然である。そういうことも普通であると思う向きもあるかもしれないが、実はこういったことは文化的に作られた人工物である。
つまりには実用性のない趣味的なスケベ心は変態であり、変態である者を変質者であると呼称するのであるが、本能の壊れた動物である人間はこういったものがないと子を作れぬものであるからもしれない。
よって、先にあげた看板を正しく書き直すならこうなる。
男のちかん行為を誘発しないよう皆が注意すべきである
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2005.12.28
小学校の教室の後ろの壁に子供たちの描いた絵が並べて貼られるのは昔も今も変わらない。
そして、それらの絵がほとんど無個性であることも同じだ。サンタクロースにしろ、こいのぼりの絵にしろ、ほとんど同じで不気味なほどだ。もちろん、よく見れば個性は認められるが、本当の意味で個性的な絵は「逸脱」とみなされ、矯正を受ける可能性が高いし、どんな絵が褒められる、もしくは、「怒られない」絵であるかの基準はあるので、子供の方でもそれに合わせるのであろう。
学校教育とは、「前になれ」が基本である。すなわち、「前に倣え」であり、前の子と同じにやるよう強制されるのであるから上記のことは当然である。
私は、以前はこういったことを批判がましく考えていたが、いまになって、果たしてそれが本当に悪いのだろうかと考えるに至った。
学校の中で本来の意味で個性的な子供というのは、極めて優秀という場合もあるだろうが、多くの場合は、極めてエゴイストな親であるとか、おかしな宗教的信念を持つ親がいるなど、家庭環境の影響である場合が多いと思う。そして、個性的な子供は学校生活で苦労するのが普通だ。学校での苦労とは、勉強ができないとかより、教師やクラスの他の子供達との関係がうまくいかないことである。そして、こういった問題には教師は全く無能である。当然であろう。教師は子供を没個性にすることで安定した平和なクラスを作るのであり、没個性化を拒む子供には手の施しようがあるはずがない。
個性的な子供であっても、何かの点で天才的であったり、規格外れに巨体で力があったり、際立った美男美女ででもあれば、楽しい学校時代を送れる可能性も少しはあるが、ほとんどの場合は学校生活の中で最後まで苦しみ抜く。
そんな子供が社会に出て成功でもすれば、「やはり個性は良いものだ」という証拠となり、竹村健一あたりが「異才時代」なんて本を出したりする(本当に出している)。しかし、実際のところは、そんな子供達は社会に出れば多少の低減はあるが、やはり同じ苦しみを続けるだけで、成功する見込みもあまりない。成功とは、仮に個人的能力が重要な分野であっても、所詮は多くの同胞を必要とするからである。また、彼らもなんとか他人とうまくやっていこうと努力する場合もあるが、事実だけを述べるとそれはかなり難しいのである。
それなら、最初から没個性であっても周りの者達と仲良くなれる方が安楽な生涯を送れる可能性が高いと思われる。不幸にして、おかしな親を持ち、学校での無個性化教育が効を奏しない場合は厳しいが、そうでないなら、おかしな個性を身に付けず、平凡ながら充実した生涯を送る方が幸せかもしれない。もちろん、それに加え、特殊な才能に恵まれ、おまけに、親が裕福であるなどの条件が揃えば、傑出した人物になる可能性は高い。
思えば、社会現象にもなったアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」では、TV版と劇場版では全く別の結末があった。
TV版では、シンジは世間との妥協に成功し、いわゆる社会的自我を確立し、みんなから「おめでとう!」と祝福を受け、拍手されて終わる。シンジもうれしそうに「ありがとう」と笑う。
こちらは、シンジは無個性な凡人となり、普通の楽しい人生が用意されるだろう。
一方、劇場版では、シンジは歪んだ個性のまま、滅びた世界の中でアスカの首を絞めて殺そうとするが、それもできず、ただ泣くしかないが、顔を包帯で巻かれたアスカの片方だけ開かれた目はそんなシンジを冷たく見つめ、アスカの「気持ち悪・・・」の声で終わる。
幼い頃から歪んだ環境で育った偏執的な個性化人間シンジの哀れな結末である。
庵野監督は黙して語らずを貫いたそうだが、若者達に普通の人間になることを推奨したことは間違いあるまい。シンジに自らの姿を重ねたファンは、その意味がもし分かったらさぞパニックになったであろう。それを避けるために庵野監督は沈黙したのかもしれない。
エヴァンゲリオン終了からかなりの年月が経つにも関わらず、相変わらずヒロインのレイとアスカの人気は衰えず、ガイナックスを経済的に潤していると思うが、ファンは、健康的な可愛い少女としての彼女達が好きなのであろうか?そうとは思えない。心の中に巨大な闇を秘めた美しい外見を持つ二人のキャラクターに惹かれているのであり、もしかしたら、ガラスのように繊細な(そしてトラウマを抱えた)シンジに自分を重ねて、シンジの視点で彼女達を見ているのかもしれない。
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2005.12.26
美的感覚において、親子兄弟や同級生、あるいは、同世代の日本人同士といったところでは、あまり劇的な相違は見られないかもしれないが、(世界的な意味での)地域、時代が異なると、同じ人間とは思えないくらいそれが異なる場合も珍しくはない。
現在でも、ある未開民族では首の長い女性が美人と認識され、幼い頃から首を伸ばす首枷をして生活したり、昔の中国では足が小さいことが美人の条件であった。
また、顔の形にしても、ある時代や地域で美人と定められているものが、それとは別の時代や地域では大方の者が醜いと感じることもいくらでもある。
現在では、特に文明圏では世界的に美人と認定される基準が近いようにも思われるが、それは情報通信やマス・メディアの発達による世界の均質化傾向と思われるが、やはり顕著な違いは容易に見つけられる。
では、自分が美しいと信じている美人が本当に美しいかとなると、やはりそんなことは絶対になく、単なる好みの問題であると言わざるをえないはずだ。
そして、美醜の問題のみならず、善悪、正邪、優劣、その他あらゆる問題に関してもやはりそうであるのではないか?
B'zの昔のヒット曲「Love Fantom」で、歌が終わった後、女性の声で「いつも幻を愛している、何も分からずに・・・」という朗読が流れるが、なんとそれが人間の真実である。
ただ、重要なことは、大方の場合、人間は固定された幻を愛するのである。1つの幻から別の幻に移ることはあまりない。その幻の多くは学校教育が作るが、それ自体が悪いかどうかはなんとも言えない。人間は幻想なしに生きることはできないのである。
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2005.12.23
天才というものは、自分が天才であることを強く認めているものと思う。
天才にも、謙虚な天才と傲慢な天才があり、どちらかというと、その2極に分かれているように思う。
謙虚な天才の代表格はアインシュタインではないかと思う。物理学を自分の趣味と言い、報酬に無頓着で、女子中学生に数学の宿題の手伝いを頼まれると懇切丁寧に教え(後で知った母親が卒倒しかけた)、ヨレヨレの服を着、靴下なしで靴を履いていた。最初の奥さんは数学者であったが、二度目の奥さんは学問的には教養のない人だった。しかし、アインシュタインは「私は難しいことは苦手」と、エレベーターの操作ができる奥さんに感心していた。尚、ノーベル賞の賞金は全額、離婚した最初の奥さんに渡した(新しい妻は既にいたし、慰謝料の意味でもなかった)。
傲慢な天才の代表として思い浮かぶのはなんといっても画家のダリである。
ダリは、朝目覚めるたびに歓喜の情に満たされた。「私がダリである」という喜びに!(笑)
ダリは次第に、世の中の人間がダリであることなしに生きられることを疑問に思うようになった。
しかし、天才というものはこのくらいでなければ勤まらない(?)と思うところもある。
ダリの場合は極端であるが、天才とはこんなものなのだ。
イチローは「どういう意味で私のことを天才と呼ぶのか分からないが、私は天才ではないと思う」と言った。
ここで、「天才とは何?」ということを考える必要があることに気付く。
私の考えでは、天才とは、自分の意思が無条件で何よりも重要であると信じる人のことであると思う。すると、どんな天才のことを考えても、意外とつじつまが合うのだ。
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2005.12.21
1992年のフランス・アルベールビル冬季五輪の女子フィギュアスケートは、日本の伊藤みどりとアメリカのクリスティ・ヤマグチの勝負との前評判が高かったが、その通りにヤマグチが優勝し、伊藤は銀メダルだった。
クリスティ・ヤマグチは日系の3世と聞いた覚えがあるが、容貌はほぼ日本人だった。しかし、身長145センチの伊藤みどりが小柄過ぎたこともあるが、ヤマグチは大人っぽく優美で、アメリカの新聞に「ミドリの演技は我々を驚かせるが、クリスティはうっとりさせてくれる」という、よく考えたら「ちょっと待て」と言いたくなる記事もあったようだ。
しかし、この記事の文言通り、「ジャンプの伊藤」と「表現力のクリスティ」の勝負であった。もちろん、この頃の伊藤は表現力もあり、ヤマグチの技術も高かったが、やはりこの表現がお互いの特質を表していた。
ところで、浅田真央を見ていると、伊藤みどりのジャンプとクリスティ・ヤマグチの表現力を兼ね備えているように感じる。もちろん、時代の違いもあり、さらに進化したものを併せ持っているように思う。幼く見えるが、長い手足を生かした優雅な表現力も素晴らしく、ジャンプや片手ビールマンなどの高等テクニックと併せ、ほぼ完璧な選手であると思った。
尚、米国ではフィギュアスケートの金メダリストにはCM出演依頼の膨大なオファーが来るものらしいが、ヤマグチにはあまり来なかったらしい。美形ではあるのだが、あまりにも日本人的な容貌が敬遠されたようである。バブル経済絶頂期の日本は何かと反感を持たれていたのは確かと思う。
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2005.12.20
何かと話題のフィギュアスケートですが、得点構成を見ると、技術点と演技・構成点の2つになってますね。以前は、演技・構成点のことを芸術点(アーティスティック・インプレッション)と言ってたように思いますが、アーティスティック・インプレッションってモロに訳せば、「芸術的な印象」というなんとも曖昧な言葉ですね。
実際のことは知りませんが、こんな曖昧な採点をしててはいかんということで、もっと客観的で公平な採点にしようという働きがあったのではないのかなと思います。
体操競技でも、今もあるのかどうか知りませんが、以前は「一般印象点」などといういい加減なものがあり、何度も物議をかもし出していたように思います。
だいたい、芸術に点数なんてものが付けられるのかが問題です。ある意味、芸術なんて個人的主観の世界であり、地域・時代の影響を受けるものも少なくはないでしょう。それこそ、ゴッホやセザンヌは現在では「高得点」ですが、彼らの存命中はとんでもなく「低得点」だったでしょうから。
私は、フィギュアスケートも体操競技も好きですが、どこか抵抗があるのは、こういった部分があまりにグレーだからですね。
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2005.12.16
松井、イチロー、中田といった今を輝くヒーローとは別に、実質的にはかつてのヒーローかもしれないが、カリスマ性を持った「魂のヒーロー」ともいうべき存在があるようだ。現在、庶民的にはその代表格みたいな存在がサッカーのカズと野球の清原だと思う。
そんな人物が言った言葉は記憶に残るものである。
かなり以前と思うが、清原がテレビCMで「自分を疑うんやない」と言ったのを憶えている。これは「自分を信じろ」と同じ意味であるが、では、「自分を信じる」とはどういうことか?それが分からないために、人類の大半が苦難し、凡人に甘んじている。
自分を信じるとは言っても、試験では勉強不足では良い成績を取れないし、スポーツでも実力とかけ離れた凄い成績が出るわけでもない(稀にはあるようだが)。いくら自分を信じて愛の告白をしても、相手の好みに合わないからほぼ望みはない。
「自分を信じる」というのは、乱用される割には意味が分からないし、ありがたみも薄い・・・。
しかし、最近この人ばかり引用して申し訳ないが、コリン・ウィルソンの自伝「コリン・ウィルソンのすべて」に素晴らしいヒントがあった。
ウィルソンは、24歳で「アウトサイダー」が出版されるやいなや、半ば浮浪者の生活からいきなり名士となり、連日マスコミの取材を受け、大学等で講演し、有名人のパーティーに招待されるようになる。新聞では、ウィルソンを天才ともてはやす。しかし、ウィルソンは言う。自分はすでに10代の頃から自分を天才と信じて疑わなかったと。そして、シェイクスピアなどもあきらかにそうであったと。
つまり、「自分を信じる」「自分を疑わない」とは、自分が成功したい分野で、自分の才能が天才であることを信じて疑わないことである。それがないと、困難にぶつかった時に自分が破滅することを止めることはできないのである。
また、どんな才能でも、その芽はあるものであり、伸ばしていけるものらしい。
フレッド・アステアのような人物でも、歌、ダンス、演技すべてにおいて才能無しと専門家に評されたものである。
エジソンも死んだ後にデスクを調べると「私は天才である」と書かれたメモがあったらしい。
エジソンについて、「99パーセントの努力が大事である」とか「いや、1パーセントのひらめきがないとダメなんだ」とか言う人がいるが、最も大切なのは、彼が自分の天才を信じて疑わなかった、いや、「疑うことを自分にゆるさなかった」ことである。
脳機能的にいっても、人間である限りは天才の素質はあるものらしい。では、我々も密かに天才宣言でもいたしますか・・・。
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2005.12.14
「もっと美しいもの」というのは、ガイナックスのアニメ作品「まほろまてぃっく」の第2章の副タイトルである。これは、作品中の台詞でもある。
戦闘用アンドロイドであるまほろ(外見は美少女というのは漫画の約束事だ)は製造後、船の上で初めて海に沈む夕陽を見て、その美しさに感激して飛び跳ねる。
側にいた、地球防衛組織総司令官の美里司令は「生まれてきて良かったろう?だがなまほろ、世の中にはもっと美しいものがあるぞ」とまほろに言うが、それが何かは言わず、まほろの中に疑問として残る。
時は流れ、美里司令は死に(不可抗力ではあったがまほろが殺した)、まほろは美里司令の息子である優(すぐる)と逃亡先である異国の海岸で寄り添って夕陽を見た時、まほろは悟る。
「美里司令が言われたことが分かりました。もっと美しいもの・・・それは好きな人と一緒に見る夕陽・・・」
二人は自然に口づけをかわす。
同じような状況を簡単に表現したアニメの歌がある。
人気アニメ「カードキャプターさくら」の2つめのオープニング曲である「扉をあけて」にある(作詞はきくこ)。
なんでもない小石でさえ 不思議だよね 宝石にかわる
一緒にね 見てるだけで
以上2つは、愛する人と一緒にいる幸せが人間の精神に強く影響を与えたものである。
現象としては似ているが、コリン・ウィルソンの自伝である「コリン・ウィルソンのすべて」に実に面白い例がある。
ウィルソンがほとんど浮浪者の生活を送っていた23歳の時のことである。ウィルソンは海をぼんやりと見ていた。傍らにいた恋人のジョイがあることをウィルソンに伝えた時、ウィルソンの視界の中で海の光景が大きく変容し圧倒するような美に変わる。ジョイが何を告げたかというと、妊娠の疑いが間違いであったということだった(笑)。
ところで、1つ重要な補足をしたい。
一番最初の例で、まほろは「好きな人と一緒に見る夕陽」が「もっと美しいもの」であると思った。しかし、これには、3つめのウィルソンの例と同じ種類の状況があった。
まほろと優は、敵に追われて逃亡する危険な状態での緊張状態にあったということだ。
ウィルソンもジョイが妊娠していた場合の困難を考え、緊張を強いられていた時だった。
つまり、「最高の美」を認識するためには、精神の集中とその後の弛緩が必要であるのだ。
実は、このことがウィルソンの著作で繰り返し述べられていることであり、たとえば、ロシア式ルーレット(拳銃に弾丸を1つ込めて弾奏をデタラメに回した後、自分の頭に銃口を向け引き金を引く)をやった時に感じる強烈な至福感や、いつ捕まって処刑されてもおかしくない状況の中で感じる不思議な自由感が取り上げられている。
恋人と一緒なのに、何をやっても楽しくない、何を見ても良いと思わない最大の原因は緊張感の欠如である。弛緩しきった精神にキラメキは訪れないのである。
いや、毎日が楽しくない、幸せを感じないというのも、やはり同様なのである。
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2005.12.13
私にとって、コリン・ウィルソンほど興味深い人物はいない。
ウィルソンは英国の作家で、23歳の時に書いた「アウトサイダー」でいきなり世界的作家になった。彼の作品は純粋な小説はむしろ少なく、哲学というのともまた違い、研究報告と思索が一緒になったようなもので、テーマは「人間性の回復」である。
私はウィルソンの本に書いてあることが全部正しいとは全く思わない。特に古いものの中には明らかな誤りや、「おいおい、いい加減にしろよ」と思いたくなるような考察もないではない。
しかし、彼の天才的な洞察力や、数万冊の書物を読破した超人的知識はただものではない。
また、それだけではなく、ウィルソンの思想を構築した青少年時代がとても良い。
子供の頃から本好きではあったが、およそ二十歳そこそこまでのウィルソンはろくでなしと見なされても仕方なかった。
学校は15歳まで。進学の意思はあったが家庭の事情で断念。その後は、お手軽な仕事(簡単な事務作業、雑役等)については、すぐに嫌になって転職を繰り返し、当然お金も、固定した住居もなかった。とはいえ、こういった経験すら、彼には深く思索する材料であったと思う。いや、こんな経験こそが真の人間性の理解に役立つと思えてならない。
ともかく、こんなウィルソンが世界的作家となり、著名な心理学者エイブラハム・マスローと彼の生涯に渡り深く交流し、大学の彼の教室で講義を行った。
ウィルソンの著述分野は、「まっとうな」学者が行うような分野とも重なると思えるが、青年時代をケンブリッジで過ごした学者にはおよそ縁のない経験が持ち味となり、作品に現実味をもたせている。
作家だけでなく、芸術家一般においてもエリートコースを辿った者の作品は深みや「細部に宿る神」に欠け、ウィルソンのように放浪時代があるのが好ましいと思う。
ウィルソンは、日本でも、海外の作家で翻訳されている数で間違いなく最も多い一人だと思う。
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2005.12.11
来年の干支は「人類の友」ワンワンですね。
十二支は古代中国に始まったそうですが、十干(木・火・土・金・水の五行を陰陽に分けた10通り)と組み合わせて60通りが年に配されたようで、例えば、犬年の土の陽とかいうのでしょうね。
60もあれば、相性占いも豊富な組み合わせが出来るでしょうね。とは言っても、同じ年に生まれた者が同じ相性や運勢と言うのもなんですけど(笑)。
個人的には、あらゆる占いを全く信じておりません。
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「芸術は細部に宿る」という言葉は、およそクリエイターなら誰でも知っているような雰囲気はあるのですが、私は知りませんでした。
で、調べてみましたら、「・・・は細部に宿る」という言葉は驚くほど多くあります。
元々の言葉は「神は細部に宿る」(建築の3大巨匠と言われる20世紀ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉)ではないかと思いましたが、まさにこの世の真理ですね。
対極の言葉として「木を見て森を見ず」といった、昆虫的視点ではなく鳥瞰的な視点を持てという戒めがありますが、逆に「実を見て木を知る」という言葉もあり、「木を見て森を知る」といったこともあると思います。
私の専門がコンピュータシステム開発ですが、プログラミングを他者(社内の場合も社外の場合もある)に依頼することが多いですが、プログラミングコードの一部を見れば、良いか悪いかはすぐに分かります。
ハッカー(達人的プログラマ)の世界では、特に優れたプログラマをグルとか神とか言いますが、彼らの技は確かに細部に宿っているように思います。
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2005.12.09
クリスマスといえば、ある漫画で読んだ1つのシーンを思い出します。
14歳の見習いシスターの女の子と、彼女に萌える男の子の会話です。
男の子「クリスマプレゼントになにかほしいものはありますか?」
女の子「え・・・わかりません・・・もらったことありませんから・・・」
男の子「いままでいちども!?」
女の子「はい・・・わたしの家はクリスマスは毎年教会のお世話をしたりボランティアをしたりしてそれぞれすごしますので・・・」
「怪盗セイント・テール7巻」(立川恵著 講談社)より(※下の絵は無関係)
思わず私も彼女に萌えてしまいましたね(笑)。
クリスマス商戦に乗せられてしまうだけでなく(まあ、それも日本経済のために必要なのですが)、こんな人がいることを考えてみるのも良いものです。
そんなわけでクリスマス用に1枚描きました(早いか・・・)。
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2005.12.08
12年振りの来日の米国歌手マドンナであるが、10年以上前から「彼女が活躍するのも後2~3年」とか言われていたにも関わらず、いまだ人気は衰えない。現在47歳であるらしい。男性歌手なら珍しくもない年齢だが、外見や性的魅力をアピールしてこその彼女であることを考えると全くすごい。逆に、同い年のマイケル・ジャクソンはすっかり衰えた感じがする。
インタビューで「成功の秘訣は?」と聞かれたマドンナは「何に成功したいの?」と答えた。まさに的確な返答である。
もうかなり前だと思うが、雑誌でマドンナについて書かれた記事を読んだ。かなり前といっても、マドンナはすでにスーパースターになっていた時である。その記事を書いた記者にとって印象的だったのだと思うが、ビデオクリックか何かの撮影の時、バックダンサーに問題があったのだと思うが、何度やりなおしの指示が出ても、マドンナは文句1つ言わず素直に応じた。
この2つは、まさに成功のために重要なことであるに違いない。
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2005.12.07
「芸術は萌えか」というなら、「芸術」、「萌え」それぞれを定義し、その同等性を証明せよという者がいるかもしれないが(笑)、ここでは、「芸術に萌えの要素はあるか」という程度に思って欲しい。
芸術、萌えそれぞれの定義は、
芸術:あらゆる手段を用い、人間の様々な能力で美を創造すること
萌え:想像上の理想の異性と想像上の恋愛を行うこと
とする。
芸術に関しては、辞書の定義では「技巧を駆使して創造」とあるが、どうも納得いかないのでやや抽象化した。
萌えの正式な定義などあるはずがないが、本田透氏の「萌える男」(ちくま新書)が優れていると思ったのでこれに倣った。
こうしてみると、まさに芸術に萌えは存在する。
例えば、女性の絵画や彫刻を制作する際、たとえ現実のモデルを使ったとしても、(肖像画の場合は当てはまらないこともあるが)芸術家の精神の中で理想化され、その理想の女性との恋愛感情すら持つことは十分にありえる。いや、それだけの想像力やパッションがないといけないくらいである。
下記は、たまたま、上にあげた本田透氏の本で簡易ではあるが同様な例が述べられているが、私独自の解説である。
萌えによって生まれた芸術の良い例の1つは、文学においては、13世紀イタリアルネッサンスにおける一大抒情詩である、ダンテの「神曲」だと思う。神曲の中で、ベアトリーチェという女性が重要な役割を果たすことは有名だ。ベアトリーチェは実在した人物で、ダンテは強い恋愛感情を持っていたらしい。しかし、実際にはダンテはベアトリーチェについてさほど知らないと思う。だが、「20世紀最大の詩人」イェイツが、ルネッサンス最大の想像力の持ち主と賞賛したその想像力でベアトリーチェを理想化して登場させた。つまり、神曲の中のベアトリーチェは本当のベアトリーチェではなく、あくまでダンテの想像の産物であり、当然、ダンテはその想像上のベアトリーチェに強い愛情を感じていたはずである。まさに「萌え」そのものである。
現在、萌えといえば、アニメやゲームの美少女キャラクタに強い愛情を示すことを指す場合が多いが、実際には、萌えている者は、そのキャラクタを媒介に理想の女性を想像しているのである。彼らはさらに想像力が高まれば芸術家になれるかもしれない?
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2005.12.06
良い話を聞かせる(本当か?)。
小学校4年生の時、美術の時間で自画像を描くことになった。
鏡の持参は許可され、女子はお母さんにコンパクトを借りてきたりしていたが、嬉しそうであった。しかし、男子はほとんど鏡を持って来た子はいなかった(やる気なしか?)。
しかし、一人の男子が、大きめの鏡を持参し、熱心に描いていた。彼は、勉強は1番、スポーツも得意で、その他、オールマイティな上、性格も抜群に良く、正義感が強くリーダーシップもあるという・・・どこを叩いても欠点が無いという優等生であった。
ただ、彼には他の誰にもない不幸なものがあった。それは、顔の半分に大きなアザがあることだった。それはひどく目立ち、しかも大きいので隠しようがなかった。彼は、それは生まれつきだと言っていた。
当時は、子供でもあったし、彼は性格が明るく気に病む様子も全く見せないので、そんな彼が自画像を描くとはどういうことか、私は(多分、他の子も)あまり気にしなかった(もちろん、全くではない)。
いつも通りに、彼は熱心に集中して描き、見事な自画像を仕上げた。顔のアザもリアルに描き込んであった。
小学校の美術では、自分を絵の中に描くような課題はよくあると思う。その後、家での自分の様子を描くことがあった。例の彼は、お父さんとキャッチボールをしている様子を描いていたが、不意に私に絵を見せながら尋ねた。
「この顔の角度だと、これ見えるか?」
彼は、自分の顔のアザを指さした。
「いや、見えないよ」
私は答えた。
「ああ良かった!」
彼は明るく言った。しかし、ほっとしたという感じの「良かった」ではなかった。笑顔だった割には感情が入っていなかった。明るく言ったのは、むしろ私に気をつかったようにすら思えた。深読みをすると、わざわざ私に尋ねたのは、見えるはずなのに、自分がわざと描き入れなかったのだと思われるのが嫌だったのかもしれないと思った。
そして、このことで、本当は彼も描きたくはないのだという基本的なことが実感できたように思えた。
言うまでもなく、彼が顔のアザを気にしていないはずはなかった。しかし、実際、私には、それが彼の欠点と思えたことは一度もなかった。
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芸術が爆発であることは、理屈ではなく、体験として誰でも理解できるはずだと思う。その際、「爆発」と思うか、あるいはその他の全く別の表現の方がピンとくることもあるとは思うが、いずれにせよ「良いもの」である。
ドストエフスキーは、作品の中でではあるが「その5分間のために全人生を引き換えにしても良い」と言ったほどである。
私は、岡本太郎の言う爆発が、心理学者エイブラハム・マスローの言うPeak Experience(至高体験、絶頂体験)であると書いた。今後、とりあえず至高体験と書くが、マスローは「偉大な人間と普通の人間を区別する唯一のことが、至高体験の有無である」とすら言った。
そして、マスローは、至高体験は特別な人間にしか起こらず、それは偶然に起こると考えたようだ。しかし、コリン・ウィルソンは、「至高体験はありふれたものであり、誰でも体験している。また、意図的に起こすことも可能」と考え、これを実証した。
私が以前にも書いたように、芸術の元々の親分である宗教で、これを体験することはよくあると思う。ただ、宗教においては弊害も多い。
創造的な芸術活動を行うことにより、いや、そんな大げさな言い方をしなくても、自由に絵を描くことにより誰でも至高体験は体験できる。いまや、それは科学的にも説明できる時代である。そうなると、過去にあったように、至高体験を意味する意識状態に達するための多くの方法に潜む致命的な弊害を避けることも可能であるのだ。
~続く~
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2005.12.04
岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言った。
そして、私は、芸術は宗教の下僕として始まったと書いた。宗教も根源的な目的は爆発であった。
岡本太郎の言葉は誤解されている。
そこで、まずは、岡本太郎自身の解説を見よう。
「歓喜」(ニ玄社)の6ページにこう書かれてる。
音もなく、おどろおどろしい残骸もなく、
ぱーっと宇宙に放射する。
無償、無目的に。色でない色。形でない形で。
全生命が瞬間にひらききることが爆発なのだ。
おそらく、何度読んでも分からないと思う。芸術の「専門家」を名乗る者にも説明できないであろう。
もちろん、理屈で説明できないという点はある。
しかし、おそよ天才作家と言われた文豪・・・ドストエフスキー、エリオット、ブレイク、ロレンス、イェイツ、夏目漱石・・・らの作品には度々登場する瞬間でもある。
あえて科学的なものから探すなら、エイブラハム・マスローのpeak experienceである。
これは心理学用語として「至高体験」と訳されている。しかし、英文学者の中村保男氏は、この訳はある意味誤訳という。そのまま「絶頂体験」と訳すのが正しいという。そして、彼は宗教臭を避けるという意味でも「絶頂体験」を採用している。
(「フランケンシュタインの城」コリン・ウィルソン著・平河出版の解説より)
しかし、その宗教すら、本来の目的はこれだったと思う。
芸術は至高体験、あるいは、芸術は絶頂体験である。
そして、根源的には、宗教は絶頂体験であり、宗教は至高体験である。
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2005.12.03
古風な少女の習作。
少し15歳の時のモナ・リザを想像して描きました(笑)。モナ・リザが誰かは不明ですが、イザベラ・デステという高貴な御婦人であるという説が有力です。
15歳といえば、あの絵の20年くらい前でしょうか?
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小学1年生の女子児童殺害事件が連続して起こり、日本中を震撼させている。
私は、これらの犯人はおそらく罪の意識などはあまり持っていないと思う。
少し前、私は凶悪事件が起こる原因は知性の低下が1つの要因と書いたが、今回もそう思う。知性と言っても、相対論を解するとか、ブレイクの詩を味わうと言うようなものではなく、自分でものを考える能力がなくなっているのである。
煙草を吸いながら道を歩いたり(それも通行量の少なくない道で)、スーパーなどで、駐車エリアでもない通り道に車を止めて平気で買い物をしたり、混雑した駅で携帯でメールしながら歩いたりというのも知性の低下であり、凶悪犯罪者と類似性が高く、犯罪者予備軍が蔓延しているように思えてならない。
考える習慣をなくせば、自分にとって一番気持ち良い方法を安易に選び、ましてや自分を客観視することがないということだ。よって、罪悪感は全くない。
少し前、駅のエスカレータで歩行者用の左側で(前には誰もいない)立ち止まって微笑ながら携帯電話を操作し、自分の後ろに渋滞を作っていた若い女性に注意したら、憎悪の顔で睨み付けられた。信号待ちの集団の中で煙草を吹かしている初老の男に「こら」と言ったら、肩を揺すって威嚇してくる(笑)。つまり、罪の意識が全くないのである。
女子生徒へのセクハラをする教師もほとんど「指導のつもり」「自然の流れ」など言い訳するが、罪の意識は全然ないであろう。そんな教師はこれからもゴキブリのごとく増ることは確実である。
罪の意識を持つだけの知性があれば、指導でなんとかなる可能性もある。しかし、それがないのであるから、歩きタバコ、歩き携帯を法的に罰則を伴った禁止をし、女子生徒には校内でも警察直通の防犯ベルを持たせるなどしか方策はなくなる。犯罪防止の意味もあるが、「それが悪いことである」と納得させる方法が他にない。
建設的には、知性復活の事業を開始する必要がある(公的機関に期待はできないので)。優れた美術教育も知性のバランスのために大切だ。
落書きはいけないが、どうせなら知性のない、単純で幼稚なものではなく、ウィットに富んだ、あるいは、うならせる落書きを見たいものである。
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2005.12.02
芸術は宗教の下僕として始まったという論があるが、これは、宗教の役割の重要な部分を芸術が受け継いだという意味で正しいことと思う。
まず、宗教の役割であるが、宗教とは決して、「あの世での幸福」「道徳を教える方便」「現世利益」といった、一般に思われていることが目的ではない。宗教の目的がこのようなものになっているから、様々な混乱や不幸が起こるのだ。正しい宗教観では、牧師や神父を神格化するようなアホなことは決して起こらない。
では、その宗教の本来の目的であるが、宗教とは次のような理由から生まれたものである。
人間というのは、頭脳の発達により、憂鬱になるという極めて珍しい能力を持つことに至った生物である。これは習慣化した論理思考によるものである。どんなに非論理的な人間でも、決まった時間に出勤したり、手順通りの仕事をしたり、生活部分では意外に筋の通ったことをするものである。
しかし、それによって、毎日の生活は味気なく、自分が無力な存在で、世界は生きるに値しないものであると感じ、すっかり憂鬱になるのである。
そのため、いつの時代でも気晴らしやストレス発散の娯楽があったが、それは一時凌ぎでしかない。
ところが、頭で考えてどうなるわけでもない儀式を荘厳な雰囲気で行うと、なぜか心が充実して力がみなぎり、世界が明るく見えることが発見され、それを神が降りた状態と考えた。
そして、芸術活動にもそのようなことが必ずある。本来、芸術は鑑賞するよりは創造するものであるが、他者の作品を見て、作者の力に溢れた体験を少しでも追体験できることはある。
これは平凡な日常では感じにくい(無いわけではない)感覚であるが、人間にとって非常に重要なものであるらしく、宗教や芸術が本来求めていたものもそこにある。
現在では、科学がこれらに加わり、ある程度は宗教や芸術の意味を理論的に解明でき、本来は、宗教や芸術の意義を増幅できるのであるが、宗教や芸術には困ったものが多くはびこり、うまくいかない場合が多い。
芸術もまた、宗教の欠点を受け継いだ。宗教的な力の充実を求めるあまりにのめり込み、現実世界から逃避することがある。「幼子のごとく」という言葉を誤解して本当に子供になってしまってはどうにもならない。そして、権威がはびこり、利権をむさぼる権威者連中により、宗教も芸術も歪められ、本来の目的を失っていくのである。
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アンデルセンの「絵のない絵本」の一番最初のお話は何度読んでも新鮮なイメージが浮かびます。
カモシカのように身軽でイブのように美しい娘・・・!
火のついた松明を河に流し、見えている間に火が消えなければ「あの人」は生きていると信じています。
ラフ画で失礼します。
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2005.12.01
日本人の知的レベルが落ちているのではないかと心配であるが、これは確実にそうであると言えると思う。
美術的に言うと、落書きの質が落ちているというニュースを見て「やはり」と思った。もちろん、公共物に落書きをしてはいけないが、以前のものは今のものよりマシで、低レベルな自己主張とはいえ、少しは思考力が見られた。しかし、いまのものは幼稚、露骨、単純で、知性のカケラも感じないらしい。
池田満寿夫さんは、自分の芸術を「便所の落書きと本質的に同じ」と言ったが、もし生きておられて便所の落書きを見たら、もうそう思わないかもしれない。
テレビCMを見ても、どこかの国の謀略ではないかと思うような知性消滅へ誘うようなものが極めて多い(具体例をあげる度胸はないが・・・)。
知性低下の大きな原因はやはり携帯電話とゲーム機だと思う。
ことに、混雑した駅などで、周りの迷惑に全く無頓着に、また、電車の中で延々とメールしてる者の姿に確信する。携帯メールなんて決まりきった単語を機械的に並べているだけで、思考することはほとんどないらしい。これは少数のパターン通りに反応するしかないTVゲーム等と同じである。別に脳機能の専門的なことを聞かなくても分かるが、思考せず単純に反応するクセが付くと、思考中枢を迂回する習慣が出来上がり、何事にも思考せずに行うようになることは十分考えられる。いや、考える能力すら失くす。
凶悪事件の多くは、この考えずに行動する習慣が現れてはいないか?
また、頻発する教師による女子生徒への猥褻行為にしても、やりたいと思うのは仕方が無いが、思考の力でとどまるはずのものが考えずにやってしまう。説明すると、良心でとどまるのが理想的だが、それは難しく、やってしまうと我が身を危うくする可能性を知的に予想して行為を控えるものだが、もはやその程度の知性も無い状態なのだ。男性教諭が女子生徒にセクハラメールを送るからという理由で、教育委員会が生徒へのメールを禁じた例が本当にある。彼らの知性は10歳児並なのである。
(※いうまでもないが、真面目な先生がほとんどであるが、「私は真面目だから」で済むことではない。ある私塾は生徒へのセクハラ行為が不可能となる体制を確立・公表し、父兄を安心させているという例がある)
個人的にはこれも美術と思うが、漫画やアニメの人物の表情にも知性が抜けてきているように思う。単純な数パターンの分かり易すぎる表情はまるで8歳の子供だ。それが巨大な力を持ったロボットを操縦したりする。いや、ひょっとしたら一部かもしれないが美術作家の知性も低下しているかもしれない。
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別ウインドウで開くタイプにしましたので・・・
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