身体のリバースエンジニアリング『人体 600万年史』
進化の光で照らした、人体の物語。
完成品を分解したり観察することによって、動作原理や設計・仕様を調査することをリバースエンジニアリングという。これを「人体」に適用したのが本書になる。
しかし人体は「完成品」ではないし、設計図からデザインされたものですらない。その時々の環境に応じて「生きる」「殖える」ことを目的とし、変化を重ねてきた。人の身体には、パリンプセストの羊皮紙のように何度も消しては書かれてきた跡が見えるという。「私たちの身体には物語がある」と断言する著者は、そうした人体と環境の変化を、ときには精緻に、ときにはドラマティックに明らかにしてくれる。
非常に面白いのは、「人の身体はなぜこのようになっているのか」というアプローチから迫ってゆくうち、「人は何のために生きるのか?」への回答がなされていること。人類の祖先との身体構造の違い―――長い脚、高い鼻、大きな頭といったパーツから始まって、なぜ食べ物を喉に詰まらせるのか(気管の設計ミス?)、こんなに太りやすいのはなぜか? なぜ身体の具合が悪くなるのか(そもそもなぜ病気は「ある」のか)……を、「わたしたちの身体は何に適応しているのか」に収束するよう巻き取ってゆく。
衝撃を受けた答えの一つは、「わたしたちの身体は、"走ること"に適応している」である。人類の進化の決定づけるものは直立二足歩行の獲得だが、さらにその先を考える。弓矢や網などの道具が発明されていない長い期間、どのように狩猟をしていたかという問いに対し、腐肉漁りだけでなく、走ってとらえていたというのだ。
狩猟者は大型哺乳類に狙いを付け、暑い日中に追い始める。もちろん四足の方が早いが、逃げ切った獲物は日陰に身を隠して浅速呼吸で体温を下げようとする。しかし狩猟者はすぐにその跡をたどって獲物に迫る(徒歩でもかまわないという)。獲物は、完全に体温を下げられないうちから逃げ出さなくてはならない。こうした追跡と追走を、歩行と走行を組み合わせて何度も繰り返しているうち、最終的に獲物は体温を致命的なレベルにまで上昇させて、熱射病を起こして倒れる。あとは洗練された武器がなくても、安全に、簡単にしとめることができる。
この狩りを可能にしている適応は、人の身体に遺されているという。二足歩行により、直射日光にさらされる表面積を減らすことができる。突き出た鼻は、鼻腔内での加湿により乾燥した空気を和らげることができる。走りを助ける重要な適応は、発汗だという。他の哺乳類との決定的な違いは無数の汗腺で、そのおかげで、浅速呼吸ではなく発汗によって体温を下げられる。
身体構造からみても同様だ。脚の筋肉と腱は、歩行よりもむしろ走行時の弾性エネルギーを効率よく働かせるために発達している。走行時の安定性を、大臀筋や項靭帯の構造、三半規管、足指、遅筋線維といった形質から解説し、人は歩くだけでなく走ることに適応したことを示す。
つまり、"BORN TO RUN"の言葉どおり、人類は唯一の長距離ランナーなのだ。ランニングのときに感じる筋肉や腱の動きや生々しい感触は、もっとプリミティブなところから来ていることを知って、嬉しくなる。生物(せいぶつ)としてよりも、生物(なまもの)としての存在を強く感じる。
もう一つ驚いた仮説は、「わたしたちの口腔は、しゃべることに最適化されている」という主張だ。もちろん、音を震わせたり区切ったりできる唇や舌や歯、トーンや音量を操る喉や頬、音程を調整する鼻、声道や肺も含めて、人の器官はしゃべることに最適化されていることは理解できる。驚くべきはそこではなく、「人体の設計ミス」と揶揄される、気道と食道の配置についてもそうだという点だ。
人以外のすべての哺乳類においては、鼻と口の奥の空間(咽頭)は、二つの管に分かれている。内側の管は空気の通り道で、外側の管は食物と水分が通る。それぞれの管は、舌の基部の喉頭蓋と、鼻腔を封鎖する軟口蓋とが接触していることで境目ができており、食物が気道に入り込むことはない。
ところが、人だけが、(おそらく)直立することで喉頭の位置を下げたことにより、軟口蓋と接触していない構造となった。これにより舌の奥に大きな共有スペースが発達し、食物と空気の両方がそこを通って食道か気道かのどちらかに入ることになった。結果として、餅や蒟蒻ゼリーが喉の裏側に入って、気道を塞いでしまうことが起こる(日本人の死因4位の肺炎のほとんどは、誤嚥により引き起こされる)。人は、食物の誤嚥による窒息が起きる、唯一の種だというのだ。もし人体が誰かの設計に基づき創造されたというのなら、この不具合はとんでもないバグだろう。
著者は人類進化の系統と照らし合わせながら、発話の解剖学的構造を解き明かす。言語というのは基本的に、加圧されながら吐き出された空気の流れになる。類人猿と比較して、人間の喉頭の位置が低いこと、声道の垂直管と水平管がほぼ同じ長さになって、喉頭蓋と軟口蓋の奥の空間が開けていることを指摘する。この空間のおかげで、音声言語が成立する前の段階で、「複雑な発声」が可能になった。窒息リスクという大きな代償を払って、より明確にしゃべることに適応したという。人を人たらしめている、発話や言語というコミュニケーション能力は、この適応に支えられている。 "BORN TO TALK" わたしたちは、コミュニケートするために生まれてきたのだ。
悲しいが真実なのは、進化と疾病の件だ。著者は言う、「私たちは、健康になるように進化したのではない」。健康を無条件の"善"と見なしたいわたしを見透かすように畳み掛ける。もちろん健康は望ましいものかもしれないが、健康は「目的」ではなく「手段」になる。なんのために? それは、過酷で多様な条件下で、なるべく多くの子を持てるためだという。
たとえば、人は肥満になりやすいように進化したが、それは、脂肪で健康的になるためではなく、脂肪が妊娠能力を高めるからになる。同様に、人が怖がりで、心配性で、ストレスを抱え込みやすい傾向を持つということは、危険を避けたり対処するための適応なのだ。自然選択を通じて形成される資質は、長命や幸福を促進させるようにふるまうかもしれないが、それはたまたまにすぎないという。その資質が、繁殖を成功させる(適応度を高める)ことに資する場合に限るのだ。
いっぽうで、農業革命や産業革命を通じて、人体を取り巻く環境は激変している。遺伝子や身体構造はほとんど変わっていないにもかかわらず、食べるものから体温調節方法まで、ライフスタイルのあらゆる点で、徹底的に変化している。
農業の発展は、人口密度の高い集約をもたらすことになる。井戸や灌漑用水を共有することで、規模の経済の恩恵を受けることができる。さらに、交通や交易を容易にし、経済的な利点があった。しかし、一方で、村や都市の発展は、急激に成長する人口に伴い、集約は伝染病や寄生虫の巣ともなった。
このあたりの人と疫病の距離感覚は、マクニール『疫病と世界史』[レビュー]と重なる。天然痘やチフス、インフルエンザ、マラリア、黄熱病といった感染症という観点から世界史を捉えなおし、ウィルスのミクロ寄生戦略と、征服者と被征服者のマクロ寄生関係を炙り出している。伝染病が一定の潜伏期間をもっているのは、生息環境を拡大するための生存戦略だろう。宿主がじゅうぶん遠くに行く前に発症してしまうなら、繁殖範囲を広げることができないからだ(裏返すと、移動距離の範囲=流行範囲であり、テクノロジーの発達により拡大する)。『人体 600万年史』では社会構造から演繹的に疫病の人類史を駆け足でくぐりぬけているので、『疫病と世界史』は具体的な補強例として読むことができる。。
食べ物一つとっても激変している。加工度の高い柔らかいものを、ほとんど噛まずに腹に入れることができる。ランガム『火の賜物』[レビュー]を読むと、切ったりすり潰したり、火を通すことによって、食物を摂取することに必要なカロリーと時間を節約することに成功したことが分かる。力強く噛み長時間かけて消化する他の霊長類と比べ、人の歯と顎と胃腸は小さくなった。節約できたリソースを、巨大な脳やコミュニケーション、文化や社会の構築に振り向けたのが人類になる。すなわち、人は料理で進化したのだ。
問題は、そのスピードが早すぎることにある。遺伝的には受け継がれなくても、文化的には受け継がれる。親が食べるもの、住環境、生活習慣といった環境条件そのものが、子に受け継がれる。人類史でいうなら、ほんの一瞬であるここ数千年のあいだに、人の身体はこうした文化的変化の影響を受けて、大きく変化している。成熟が早くなり、歯は小さくなり、顎は短くなり、骨は細くなり、扁平足が増え、虫歯になりやすくなった。睡眠時間は短くなり、ストレスやうつに悩まされる度合いが高くなった。
かつては適応的だった身体機能が、環境の激変により、反対に不適応となっている。このような、進化と文化のミスマッチを「ディスエボリューション(悪しき進化)」と定義づけ、どうしたらこれを解消できるか、そもそも解消「すべき」なのかを追及する。
ふつう医学は、病気という現象があることを当然の現実として受け止め、その症状の緩和や根絶を目的としている。だが、著者の提唱する進化医学(ダーウィン医学ともいう)では、病気も健康も、生物からすると一つの状態であり、善悪といった価値判断から離れたところで、「なぜその病気はあるのか?」という根源的な問いから考える。すると、感染症や遺伝病、アレルギー、中毒症状等を、進化のデザインから合目的的に説明しなおすことができる。この視点から、ネシー『病気はなぜ、あるのか』と長谷川眞理子『ヒトは病気とともに進化した』に手が伸びる。
身体をリバースエンジニアリングしながら、「人体は、何に適応してきたか?」を考えるうち、「人は、何を目的としているか」という究極の疑問にまで広がっていく。「人体」を進化・健康・疫病という観点で捉え直すと、生物学、医学、考古学、人類史を横断的に見ることになる。これまで積み重ねてきた知見を振り返り、これから知りたい世界が広がるスゴ本、それが『人体 600万年史』だ。
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