数式なしでわかった気になれる「ゲーデルの哲学」
岩波文庫で撃沈したが、本書から攻めたらすんなり入れた。数式を使わずアナロジーを用いることで、不完全性定理のイメージを上手く伝えている。同時にゲーデルの生涯を追いながら、不完全性定理の哲学的帰結までたどっている。
哲学的帰結は以下のとおり。
この完全な理解にはほど遠いものの、感覚的に分かった。おかげで、あれほど確固なものだった「数学」が、実は「信念」を積み重ねた楼閣に見えてしようがない。わたしは、「数」を信じるように、不完全性定理を信じる。全数学を論理学に還元することは不可能である
全数学を公理化することも不可能である
■01 受験数学の呪い
「要するにどういうことか」は、理解をすッ飛ばして記憶した。数学は暗記科目――受験数学の呪いは骨の髄まで浸透している。公理と定理を暗記して、adaption パターンを習得するのが「数学」だと思い込んでいた。
そこには、自ら定理を導出する喜びや、新たな定理を発見する興奮なんて、まるで無い。「受験数学」という巨大なスプレッドシート、そこにびっちり埋まった定理・証明を、いかに効率よく網羅するかがポイントだった。
究極の数学とは、A1からIV65536の全てを定理・証明で埋めることだと思っていた――ここで止めておけばよかった。そうすれば、少なくとも数学に対する信頼感は揺らぐことはなかっただろう。
■02 第1不完全性定理のイメージ
しかし、このトシになってゲーデルに興味を持ってしまったのが運の尽き。疑うことなく信じてた(記憶した)足元がくずれはじめる。なぜなら、A1からIV65536の中に、「証明不可能」のセルがあることが分かったから。
たとえば、ゴールドバッハの予想(4以上の偶数は素数の和)、あるいは、奇数の完全数の未解決問題。これらは未だに証明も反証もされていないという。いやいや、それは人手や非力なコンピュータだったからであって、そのうち、そのセルは「証明済」になるはず。
では、じゅうぶんな時間をかけて立派なコンピュータを用いれば、全てのセルを「定理・証明済」にできるのかというと―― そいつを先回りしてダメ出しをしたのがゲーデル。
つまり、わたしが知っている数学(公理系)が、Excelシートの個々のセルに展開されるとき、証明も反証もできないセルが、必ず存在することをゲーデルが証明したわけ。これは65535行の制約を外しても、わたしの知らない数学(公理系)まで展開しても、一緒。
■03 第2不完全性定理のイメージ
ほとんど直感に近いところで理解した(つもり)。言葉をかえると、「あなたが矛盾しないことをあなたは証明できない」になる。Wikipediaはもっと精確に、次のように述べている。
自分が矛盾しているか否かは、確定された別の客体によって証明されるもの、というのは感覚的に分かる。しかし、それだけではないらしい。自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない
「強いる」と太字化したのはわたし。この一言にガッツンとやられた。いまの数学が正しいと信じていられるのは、わたしが人間だからなんだね。ん? すると数学的直感をもたらしている「外側」は、一体どこからなんだろうね? と考え始めると、薄ら寒くなって、思わず背後をふりかえる。数学的対象が、人間精神から独立した存在で、その真理性を保証しているのは「神」にしたくなる。さらに、ゲーデルは、数学が公理系によって正当化されることを認めた上で、その公理の正当性を認識するのは、「数学的直感」に基づくという新たな見解を述べている。彼は、「諸公理は、それらが余儀なく真であることを、私たちに強いるのである」という
■04 ゲーデルの哲学的見解
1960年頃に書かれた、ゲーデルの哲学的信条は、以下のとおり。
- 世界は合理的である
- 人間の理性は、原則的に、(あるテクニックを介して)より高度に進歩する
- すべての(芸術等も含めた)問題に答えを見出すために、形式的な方法がある
- (人間と)異なり、より高度な理性的存在と、他の世界がある
- 人間世界は、人間が過去に生き、未来にも生きるであろう唯一の世界ではない。
- 現在知られているよりも、比較にならない多くの知識が、ア・プリオリに存在する
- ルネサンス以降の人類の知的発展は、完全に理性的なものである
- 人類の理性は、あらゆる方向へ発展する
- 正義は、真の科学によって構成される
- 唯物論は、偽である
- より高度な存在は、他者と、言語でなく、アナロジーによって結びつく
- 概念は、客観的実在である
- 科学的(厳密な学としての)哲学と神学がある。これらの学問は、最も高度な抽象化概念を扱う。これらが、科学において、最も有益な研究である
- 既成宗教の大部分は、悪である。しかし、宗教そのものは、悪ではない
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コメント
はじめまして。
以前ぼくのブログ上で、ゲーデルの神の存在証明を、できるだけ「自然言語」に近いかたちで、かつ原証明のアウトラインをなるべく損なうことなく再現するという無謀な試みをしてみたことがあります。もしよろしければご覧下さい。
http://hblo.bblog.jp/entry/399207/
高橋さんのこのご本はかなり以前に読んだので、その細部は忘却の彼方ですが、いっぱんに知られているゲーデルのフォーマルな結果だけではなく、その書名が知らせるとおり、ゲーデルの諸結果にまつわる哲学的な考察が手際よく紹介されており、一般読者よりもむしろガチガチのロジック系の人が読むと有益なのではないだろうか、との感想を持った覚えがあります。
投稿: はやし | 2007.10.11 04:49
>> はやしさん
ご紹介ありがとうございます、リンク先読みました―― 本書を500%かみ砕いていることは分かりますが、わたしには理解できませんでした。論理を追って理解するよりも、納得できない感情にジャマされて。
も少し精進します、折にふれて読み返します。
投稿: Dain | 2007.10.12 23:54
私は、ゲーデルの神の存在証明は晩年の発狂した時点の仕事として、無かったことにしたいw
神は存在しない証明の方がたった3行でエレガントでかっちょええと思いますぅ。
投稿: goldius | 2007.10.14 09:08
>> goldius さん
そうだった、この本は、goldius さんオススメで手にしたんだった… 良い(酔い?)本を教えていただき、ありがとうございます。
不完全性定理そのものを使って神の非存在を証明するのは、スゴいですね。
まるで、格闘技のエキスパートが、相手のナイフを使って倒すみたいに鮮やか!
投稿: Dain | 2007.10.15 23:52
≪…「人はどのように数学を理解しているか」…≫を
[縁起]としの[認知科学]的展望から、[十進法の基での桁表示の自然数]が[二(多)階述語論理]を具備した言葉(言語)で[わけのわからないモノ](カオス)と[わからすモノ](コスモス)を行き来できる【数そのモノ】を呈示したのが数学共同体の[自然数]である。
従って、[自然数]には[カオス]が帯同している『縮約(縮退)自然数』である。
表象の[1]は、[カオス]の[ヒエラルキー(階層)構造]でパースペクティブ(眺望)出来よう。
[数学]は、[現象](事象)の[描像]に過ぎないと言えば言い過ぎだろうか?
投稿: 縮約(縮退)自然数 | 2019.06.15 06:30