内藤新宿と文人
○斉藤茂吉終焉の地 新宿区大京町22-2
四谷四丁目交差点近くに、新宿区史跡の斎藤茂吉終焉の地があります。大京町PJビルの壁と柱に、プレート碑文と新宿教育委員会の説明板があります。
<斉藤茂吉終焉の地> 新宿区史跡
(プレート碑文)
「新宿の大京町と
いふとほり
わが足よわり
住みつかんとす。
茂吉
父斎藤茂吉は、空襲で南青山の自宅を喪ったあと
昭和二十五年十一月十四日この場所の新居に住み、
昭和二十八年二月二十五日に没した。
右の歌は最後の歌集「つきかげ」に収められている。
平成元年十一月 齋藤茂太」
(説明板)
「新宿区指定史跡
斎藤茂吉終焉の地
所在地 新宿区大京町二十二番二号
指定年月日 平成二十五年三月二十七日
この地は、歌人・精神科医の斎藤茂吉(一八八二〜一九五三)が昭和二十五年から亡くなるまでの約二年間を過ごした場所である。
茂吉は、現在の山形県上山市の農家の三男として生まれ、十四歳で上京後、医師斎藤紀一が開く浅草医院に間借りし、第一高等学校に学んだ。
明治三十八年(一九○五)斎藤家の女婿となり東京帝国大学に入学、卒業後は、長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て、養父が院長をつとめる青山脳病院に勤務、大正十三年(一九二四)に同病院が全焼すると、養父に代わり院長となり、その再建に尽くした。
歌人としては、大学入学前後より作歌をはじめ、間もなく伊藤左千夫に入門し「アララギ」の創刊に参加、その後「赤光」・「あらたま」・「つゆじも」など多数の歌集を発表した。
この地は、長男の茂太(精神科医・随筆家)が開業するための医院兼住居を新築したもので、妻輝子や次男宗吉(小説家北杜夫)ら、文学に縁の深い一家がともに過ごした場所であった。茂吉は既に最晩年であり、体調が優れなかったが、歌集『石泉』・『霜』を刊行し、文化勲章も受賞した。当時の家屋は昭和六十三年(一九八八)に解体されたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されている。
平成二十五年三月 新宿区教育委員会」
「斎藤茂吉肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より縮小加工)
明治15(1882)年5月14日〜昭和28(1953)年2月25日
(参考)斎藤茂吉と塩原温泉(PCサイトで記載)
○田山花袋居住の地 新宿区内藤町1
田山花袋は明治26(1893)年9月(花袋23歳)に、牛込から四谷区内藤町1番地(大木戸)に転居し、明治29(1896)年1月まで居住しました。
「東京の三十年 川そひの路」(田山花袋 大正6年 抜粋)
田山花袋が内藤新宿(大木戸)に住んでいた時の周辺の様子が記述されています。
「丁度其頃、私は毎日新宿の先の角筈新町の裏を流れる玉川上水の細い河岸に添つて歩いて行った。私は小遣取りに、一日二十銭の日給で、さる歴史家の二階に行つて、毎日午後三時まで写字をした。
私の家はその時分、四谷の大木戸に移つて住んでゐた。私は毎朝そこから出かけて、新宿の通りの大宗寺の筋向うから入つて、それから長い間細い綺麗な玉川上水に添つて歩いた。
検査日には、女郎のいやに蒼白い顔をした群などのぞろぞろやつて來るのに逢った。」
○夏目漱石と江戸六地蔵
夏目漱石は、新宿の名主であった塩原昌之助に養子に出されました(漱石の居住地 内藤新宿北町裏16 明治元年11月〜2年3月、内藤新宿仲町 明治4年6・7月頃〜6年3月)。
自伝的小説「道草」に、その時の思い出として、太宗寺の江戸六地蔵のことが書かれています。幼少期の夏目漱石は、この地蔵によじ登って、錫杖の柄へつかまったりして遊んでいます。
映画「セーラー服と機関銃」(1981年)で薬師丸ひろ子もこの地蔵に登っています。
「道草 三十八(抜粋)
彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。そ
の仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたりて、後から肩に手が届くか、
または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
○芥川龍之介
芥川龍之介は生後間もなく母が病に冒され、母の実家である芥川家に引き取られて養育されました。実父の新原敏三は、牛乳搾取販売業「耕牧舎」の支配人で、各所に支店を設け、内藤新宿(現:新宿2丁目)に牧場を営んでいました。芥川家は、明治43(1910)年から大正3(1914)年まで、牧場の一角にある実父の借家に住んでいたことがあり、芥川龍之介は、第一高等学校時代、寮から毎週土曜日に帰宅して過ごしていました。 「点鬼簿」(大正15年)にその時のことが記述されています。
「点鬼簿」(大正15年 抜粋)
「僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新しかった果物や飲料を教えたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナァップル、ラム酒、―まだその外にも
あったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の槲の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黄色を帯びた飲料だった。」
○若山牧水
若山牧水は、明治45(1912)年5月から、内藤新宿(現:新宿2丁目)の森本酒店の2階の借家で、喜志子との新婚生活を送っています。
※(参考)「若山牧水と草履」(こちらで記載)
四谷四丁目交差点近くに、新宿区史跡の斎藤茂吉終焉の地があります。大京町PJビルの壁と柱に、プレート碑文と新宿教育委員会の説明板があります。
<斉藤茂吉終焉の地> 新宿区史跡
(プレート碑文)
「新宿の大京町と
いふとほり
わが足よわり
住みつかんとす。
茂吉
父斎藤茂吉は、空襲で南青山の自宅を喪ったあと
昭和二十五年十一月十四日この場所の新居に住み、
昭和二十八年二月二十五日に没した。
右の歌は最後の歌集「つきかげ」に収められている。
平成元年十一月 齋藤茂太」
(説明板)
「新宿区指定史跡
斎藤茂吉終焉の地
所在地 新宿区大京町二十二番二号
指定年月日 平成二十五年三月二十七日
この地は、歌人・精神科医の斎藤茂吉(一八八二〜一九五三)が昭和二十五年から亡くなるまでの約二年間を過ごした場所である。
茂吉は、現在の山形県上山市の農家の三男として生まれ、十四歳で上京後、医師斎藤紀一が開く浅草医院に間借りし、第一高等学校に学んだ。
明治三十八年(一九○五)斎藤家の女婿となり東京帝国大学に入学、卒業後は、長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て、養父が院長をつとめる青山脳病院に勤務、大正十三年(一九二四)に同病院が全焼すると、養父に代わり院長となり、その再建に尽くした。
歌人としては、大学入学前後より作歌をはじめ、間もなく伊藤左千夫に入門し「アララギ」の創刊に参加、その後「赤光」・「あらたま」・「つゆじも」など多数の歌集を発表した。
この地は、長男の茂太(精神科医・随筆家)が開業するための医院兼住居を新築したもので、妻輝子や次男宗吉(小説家北杜夫)ら、文学に縁の深い一家がともに過ごした場所であった。茂吉は既に最晩年であり、体調が優れなかったが、歌集『石泉』・『霜』を刊行し、文化勲章も受賞した。当時の家屋は昭和六十三年(一九八八)に解体されたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されている。
平成二十五年三月 新宿区教育委員会」
「斎藤茂吉肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より縮小加工)
明治15(1882)年5月14日〜昭和28(1953)年2月25日
(参考)斎藤茂吉と塩原温泉(PCサイトで記載)
○田山花袋居住の地 新宿区内藤町1
田山花袋は明治26(1893)年9月(花袋23歳)に、牛込から四谷区内藤町1番地(大木戸)に転居し、明治29(1896)年1月まで居住しました。
「東京の三十年 川そひの路」(田山花袋 大正6年 抜粋)
田山花袋が内藤新宿(大木戸)に住んでいた時の周辺の様子が記述されています。
「丁度其頃、私は毎日新宿の先の角筈新町の裏を流れる玉川上水の細い河岸に添つて歩いて行った。私は小遣取りに、一日二十銭の日給で、さる歴史家の二階に行つて、毎日午後三時まで写字をした。
私の家はその時分、四谷の大木戸に移つて住んでゐた。私は毎朝そこから出かけて、新宿の通りの大宗寺の筋向うから入つて、それから長い間細い綺麗な玉川上水に添つて歩いた。
検査日には、女郎のいやに蒼白い顔をした群などのぞろぞろやつて來るのに逢った。」
○夏目漱石と江戸六地蔵
夏目漱石は、新宿の名主であった塩原昌之助に養子に出されました(漱石の居住地 内藤新宿北町裏16 明治元年11月〜2年3月、内藤新宿仲町 明治4年6・7月頃〜6年3月)。
自伝的小説「道草」に、その時の思い出として、太宗寺の江戸六地蔵のことが書かれています。幼少期の夏目漱石は、この地蔵によじ登って、錫杖の柄へつかまったりして遊んでいます。
映画「セーラー服と機関銃」(1981年)で薬師丸ひろ子もこの地蔵に登っています。
「道草 三十八(抜粋)
彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。そ
の仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたりて、後から肩に手が届くか、
または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
○芥川龍之介
芥川龍之介は生後間もなく母が病に冒され、母の実家である芥川家に引き取られて養育されました。実父の新原敏三は、牛乳搾取販売業「耕牧舎」の支配人で、各所に支店を設け、内藤新宿(現:新宿2丁目)に牧場を営んでいました。芥川家は、明治43(1910)年から大正3(1914)年まで、牧場の一角にある実父の借家に住んでいたことがあり、芥川龍之介は、第一高等学校時代、寮から毎週土曜日に帰宅して過ごしていました。 「点鬼簿」(大正15年)にその時のことが記述されています。
「点鬼簿」(大正15年 抜粋)
「僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新しかった果物や飲料を教えたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナァップル、ラム酒、―まだその外にも
あったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の槲の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黄色を帯びた飲料だった。」
○若山牧水
若山牧水は、明治45(1912)年5月から、内藤新宿(現:新宿2丁目)の森本酒店の2階の借家で、喜志子との新婚生活を送っています。
※(参考)「若山牧水と草履」(こちらで記載)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
- カウンター