橋戸稲荷神社(千住橋戸町)
○橋戸稲荷神社 足立区千住橋戸町25-1
「江戸名所図会 千住川」
「江戸名所図会千住川」に「いなり」(橋戸稲荷神社)が見えます。
<橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵>
鳥居左手にある説明板「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵」です。
(説明板)
「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵 登録 昭和五七年一二月
当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(一四九○)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
文禄三年(一五九四)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
文久三年(一八六三)拝殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白虎が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。
平成十六年三月 足立区教育委員会」
<矢穴の石>
江戸城石垣石によく見られる矢穴のある石があります。
<睦逎松碑>
<手水舎>
<獅子山>
獅子山の上は、神使狐です。
<橋戸神社縁起碑>
平成2(1990)年の建立です。
<拝殿>
扁額は「神威」です。
<本殿>
(説明板)
「伊豆長八作 鏝絵
橋戸稲荷神社本殿は、寺社建築では珍しい土蔵造りで、足立区登録有形文化財(建造物)である。
正面、観音開き左右の扉の内側には、伊豆長八(本名は入江長八)により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐、左扉に雌狐が子狐を抱き、背後にもう一匹の子狐と稲穂が配されている。小狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差しや優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
土蔵造りの本殿、鏝絵の図柄とも、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものといわれる。
伊豆長八は文化十二年(一八一五)、伊豆国松崎(静岡県松崎町)に生まれ、文政九年(一八二六)、郷里で左官となった。天保四年(一八三三)、江戸に出て技術を研き、明治二十二年(一八八九)、東京深川で没した。長八の鏝絵は、伊豆はもとより、関東・東海の各地に見られたというが、関東大震災などで失われたものが多く、現存する作品は貴重である。
平成二十八年三月 足立区教育委員会」
<鏝絵レプリカ>
本殿の鏝絵のレプリカが拝殿にあります。
向かって左扉の鏝絵:母狐と二匹の子狐と稲穂
向かって右扉の鏝絵:父狐と稲穂
<境内社>
拝殿左手の境内社
拝殿右奥の境内社
<橋戸稲荷神社参拝記念>
「橋戸稲荷神社縁起
この社は延長四年(九二六)に創建された。千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。
祭神 倉稲魂命 と稱し、本殿は延徳二年(一四九○)拝殿は文久二年(一八六二)に建立された。現在の本殿は土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄二匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。
「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵
当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(一四九○)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
文禄三年(一五九四)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
文久三年(一八六三)本殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白虎が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。」
「伊豆長八作 鏝絵
橋戸稲荷神社本殿は寺社建築では珍しい土蔵造りで、足立区登録有形文化財(建築物)である。
正面、観音開き左右の扉の内側には、伊豆長八(本名は入江長八)により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐・左扉に雌狐が子狐を抱き、背後にはもう一匹の狐と稲穂が配されている。子狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差し・優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
土蔵造りの本殿、鏝絵の図柄とも、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものといわれる。
伊豆長八は文化十二年(一八一五)、伊豆国松崎(静岡県松崎町)に生まれ、文政九年(一八二六)、郷里で左官となった。天保四年(一八三三)、江戸に出て技術を研き、明治二十二年(一八八九)、東京深川で没した。長八の鏝絵は、伊豆はもとより、関東。東海の各地に見られたと言うが、震災・戦災で失われたものが多く、現存する作品は貴重である。」
「江戸名所図会 千住川」
「江戸名所図会千住川」に「いなり」(橋戸稲荷神社)が見えます。
<橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵>
鳥居左手にある説明板「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵」です。
(説明板)
「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵 登録 昭和五七年一二月
当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(一四九○)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
文禄三年(一五九四)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
文久三年(一八六三)拝殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白虎が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。
平成十六年三月 足立区教育委員会」
<矢穴の石>
江戸城石垣石によく見られる矢穴のある石があります。
<睦逎松碑>
<手水舎>
<獅子山>
獅子山の上は、神使狐です。
<橋戸神社縁起碑>
平成2(1990)年の建立です。
<拝殿>
扁額は「神威」です。
<本殿>
(説明板)
「伊豆長八作 鏝絵
橋戸稲荷神社本殿は、寺社建築では珍しい土蔵造りで、足立区登録有形文化財(建造物)である。
正面、観音開き左右の扉の内側には、伊豆長八(本名は入江長八)により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐、左扉に雌狐が子狐を抱き、背後にもう一匹の子狐と稲穂が配されている。小狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差しや優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
土蔵造りの本殿、鏝絵の図柄とも、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものといわれる。
伊豆長八は文化十二年(一八一五)、伊豆国松崎(静岡県松崎町)に生まれ、文政九年(一八二六)、郷里で左官となった。天保四年(一八三三)、江戸に出て技術を研き、明治二十二年(一八八九)、東京深川で没した。長八の鏝絵は、伊豆はもとより、関東・東海の各地に見られたというが、関東大震災などで失われたものが多く、現存する作品は貴重である。
平成二十八年三月 足立区教育委員会」
<鏝絵レプリカ>
本殿の鏝絵のレプリカが拝殿にあります。
向かって左扉の鏝絵:母狐と二匹の子狐と稲穂
向かって右扉の鏝絵:父狐と稲穂
<境内社>
拝殿左手の境内社
拝殿右奥の境内社
<橋戸稲荷神社参拝記念>
「橋戸稲荷神社縁起
この社は延長四年(九二六)に創建された。千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。
祭神 倉稲魂命 と稱し、本殿は延徳二年(一四九○)拝殿は文久二年(一八六二)に建立された。現在の本殿は土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄二匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。
「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵
当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(一四九○)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
文禄三年(一五九四)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
文久三年(一八六三)本殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白虎が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。」
「伊豆長八作 鏝絵
橋戸稲荷神社本殿は寺社建築では珍しい土蔵造りで、足立区登録有形文化財(建築物)である。
正面、観音開き左右の扉の内側には、伊豆長八(本名は入江長八)により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐・左扉に雌狐が子狐を抱き、背後にはもう一匹の狐と稲穂が配されている。子狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差し・優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
土蔵造りの本殿、鏝絵の図柄とも、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものといわれる。
伊豆長八は文化十二年(一八一五)、伊豆国松崎(静岡県松崎町)に生まれ、文政九年(一八二六)、郷里で左官となった。天保四年(一八三三)、江戸に出て技術を研き、明治二十二年(一八八九)、東京深川で没した。長八の鏝絵は、伊豆はもとより、関東。東海の各地に見られたと言うが、震災・戦災で失われたものが多く、現存する作品は貴重である。」
やっちゃ場/やっちゃば緑道(足立市場専用線)
○やっちゃ場
「やっちゃ」とは市場の競りのかけ声であったと言われています。
(足立区サイトより引用、写真は足立区立郷土博物館掲示より)
「千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906)年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。(以下略)」
足立区立郷土博物館に行くと、やっちゃ場の賑わっていた頃の様子がよくわかります。
・まちの歴史 千住の町並み
やっちゃ場にある、千住宿の町並みの歴史が語られている説明板です。
・昭和5年千住市場問屋配置図 足立区千住河原町27-5
昭和5年の問屋配置図があります。掃部宿憩いのプチテラスには、江戸時代の配置を示した千住図会があります。
○千住宿歴史プチテラス 足立区千住河原町21
プチテラスは平成5年に千住4丁目の紙問屋の横山家の蔵を解体移築したのものです。
<芭蕉句碑>(千住奥の細道プチテラスに移設)
千住宿歴史プチテラスの前に芭蕉句碑があります。2003年(平成15年)5月16日に建てられました。
「鮎の子のしら魚送る別哉」
<やっちゃ場追想>
大正・昭和初期のやっちゃ場のようすが描写された案内板が、千住宿歴史プチテラス隣りに設置されています。当初は手漉き和紙に墨筆だったものが、改修されています。平成18年「千住青物市場創立330年祭記念碑」が明治39(1906)年に建立されてから100年目を迎えました。「千住大賑い会・河原」は、これを記念して「やっちゃ場追想」と題した案内板を作成したものです。
○屋号
・やっちゃ場の文化人 建部巣兆
・「名人 鯉の隠居 佐可和鯉隠」「本坂川屋」
・「元果物専門問屋 水宗」と「水菓子の話」
・山柏青果物市場
・将軍鷹狩休憩所 元長床茶屋 高内長之助
・やっちゃ場と千住の彫刻家 富岡芳堂
・やっちゃ場の郷土史家 福嶋憲太郎
・やっちゃ場北詰
○大師道への道標 千住河原町21-10
「旧日光道中」「是より西へ大師道」の道標です。裏面を見ると、平成元年2月足立区が設置したもの。大師道を進むと河原稲荷神社があります。
○河原稲荷神社 足立区千住河原町10-13
<西鳥居>
国道4号線に面して鳥居があります。こちらは裏です。
<東鳥居>
大師道側に鳥居があり、こちらが表参道です。鳥居は文政13(1830)年の造立です。
<神社も由来を知らない句碑>
「句碑
誓いての 後のたのみや 夏木立
揮毫は元掃部宿対嶋薬局のご隠居さんで 雅号は冨雪
やっちゃ場の問屋四十三軒の人々が檜樹を奉納した記念に建立した。
どうして奉納したかは定かでなく、俳句の作者も不明である。
どなたかご存知の方は当神社へお知らせ下さい。
河原稲荷神社」
<足立区内最大の狛犬>
浅草神社の狛犬と同じ石工の作としか思えないとのことで、浅草神社の狛犬より大きいです。浅草神社の狛犬奉納者は江戸の火事の特に吉原再建で、かなり羽振りが良かったと思っていますが、やっちゃ場の問屋は浅草神社の狛犬よりさらに大きな狛犬を奉納できたのですから、かなり羽振りが良かったと思われます。
→浅草神社の狛犬
(説明文)
「狛犬
狛犬は高麗犬とも書くコマというのは異国を意味しているので高麗の字を宛てたようである。
狛犬は石などで造り御殿や神社の前に据え置くもの、鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。
一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。
当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽の一対。
口を開けている方が阿で雄という口を閉じているのが雌。
何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。
残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。
浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の狛犬。
台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。
皆様も是非浅草神社でご覧下さい。
河原稲荷神社」
<千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑>
明治39(1906)年建設の碑が建っています。
(説明板)
「千住市場創立三百三十年碑
明治三十九年五月二十ニ日千住市場創業三百三十年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に三百三十台の盤台を積み上げ神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り各々に大鼓を備えつけこれを打鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿と呼ばれる大神輿をニ天で担ぎ少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には四米もの記念碑を「浅草北口睦」の十七名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場、今戸、吉野、地方、今戸、日本堤などの青果商の同業組合である。
記述の頭取とは会長、組合長で伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が三軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云いお祭りともなれば当番の問屋がニ、三軒潰れた。千貫神輿は現存する。
河原稲荷神社」
<福禄寿>
千寿七福神の開運福禄寿です。
<力石>
拝殿の下に、力石が3基並んでいます。
<石燈籠>
右の石燈籠には「日露戦捷紀念」とあります。日露戦役紀年は、石碑のほかに、鳥居、燈籠、砲弾など色々です。
<天水桶>
(説明板)
「天水槽
水槽は鋳鉄製で高さ八五cm直系九八cm上部の円周二八一cm下部の円周二六二・五cmでやや下へつぼまり上部に幅六cm厚さ六cmの縁取りがある。
千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。
嘉永三年(一八五○年)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。
水槽には青物問屋等の構員名が記名されている。右水槽二十九名、左水槽二十一名(重複除く)総計五十名。鋳造工らしき者二名、書は徹斎である。
御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する。
河原稲荷神社」
<社殿>
本殿裏
<神楽殿>
<神輿庫>
昭和44(1969)年の建立。金銅装神輿(通称やっちゃ場の千貫神輿)と、天保5(1834)年作の黒漆小形厨子(ともに足立区文化財)が保管されています。
(説明板)
「金銅装神輿(千貫神輿) 足立区登録文化財
金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい総高二三八・五センチ胴部高七ニ・五センチ基部方一二三・〇センチと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが実際の重量は四百五十貫でありこの大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が大勢いたので二天で担いだ神輿である。
河原稲荷神社」
(説明板)
「神道厨子
文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。昭和四十年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。祭礼の神輿が町内巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。
江戸後期の造形性がよく現れていて特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。中央に金銅扁額があり陰刻銘で表に「千住川原町」裏に「天保五甲午歳細工人錺師宮清」とある。
河原稲荷神社」
○やっちゃば緑道(足立市場専用線跡) 足立区千住河原町45-1〜千住仲町47
かつて、足立市場への貨物専用引込線だった国鉄足立市場線の跡がやっちゃば緑道として整備されています。つくばエクスプレスが後から割り込んできたため、押し出された常磐線が貨物線跡のスペースを使ったので、貨物線跡がすべて緑道になっているわけではありません。京成本線の橋下には、線路施設が残っています。足立市場の細長い建物には貨物線のプラットホームが残っています。
※やっちゃ場について、こちらに作成・アップしました。
「やっちゃ」とは市場の競りのかけ声であったと言われています。
(足立区サイトより引用、写真は足立区立郷土博物館掲示より)
「千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906)年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。(以下略)」
足立区立郷土博物館に行くと、やっちゃ場の賑わっていた頃の様子がよくわかります。
・まちの歴史 千住の町並み
やっちゃ場にある、千住宿の町並みの歴史が語られている説明板です。
・昭和5年千住市場問屋配置図 足立区千住河原町27-5
昭和5年の問屋配置図があります。掃部宿憩いのプチテラスには、江戸時代の配置を示した千住図会があります。
○千住宿歴史プチテラス 足立区千住河原町21
プチテラスは平成5年に千住4丁目の紙問屋の横山家の蔵を解体移築したのものです。
<芭蕉句碑>(千住奥の細道プチテラスに移設)
千住宿歴史プチテラスの前に芭蕉句碑があります。2003年(平成15年)5月16日に建てられました。
「鮎の子のしら魚送る別哉」
<やっちゃ場追想>
大正・昭和初期のやっちゃ場のようすが描写された案内板が、千住宿歴史プチテラス隣りに設置されています。当初は手漉き和紙に墨筆だったものが、改修されています。平成18年「千住青物市場創立330年祭記念碑」が明治39(1906)年に建立されてから100年目を迎えました。「千住大賑い会・河原」は、これを記念して「やっちゃ場追想」と題した案内板を作成したものです。
○屋号
・やっちゃ場の文化人 建部巣兆
・「名人 鯉の隠居 佐可和鯉隠」「本坂川屋」
・「元果物専門問屋 水宗」と「水菓子の話」
・山柏青果物市場
・将軍鷹狩休憩所 元長床茶屋 高内長之助
・やっちゃ場と千住の彫刻家 富岡芳堂
・やっちゃ場の郷土史家 福嶋憲太郎
・やっちゃ場北詰
○大師道への道標 千住河原町21-10
「旧日光道中」「是より西へ大師道」の道標です。裏面を見ると、平成元年2月足立区が設置したもの。大師道を進むと河原稲荷神社があります。
○河原稲荷神社 足立区千住河原町10-13
<西鳥居>
国道4号線に面して鳥居があります。こちらは裏です。
<東鳥居>
大師道側に鳥居があり、こちらが表参道です。鳥居は文政13(1830)年の造立です。
<神社も由来を知らない句碑>
「句碑
誓いての 後のたのみや 夏木立
揮毫は元掃部宿対嶋薬局のご隠居さんで 雅号は冨雪
やっちゃ場の問屋四十三軒の人々が檜樹を奉納した記念に建立した。
どうして奉納したかは定かでなく、俳句の作者も不明である。
どなたかご存知の方は当神社へお知らせ下さい。
河原稲荷神社」
<足立区内最大の狛犬>
浅草神社の狛犬と同じ石工の作としか思えないとのことで、浅草神社の狛犬より大きいです。浅草神社の狛犬奉納者は江戸の火事の特に吉原再建で、かなり羽振りが良かったと思っていますが、やっちゃ場の問屋は浅草神社の狛犬よりさらに大きな狛犬を奉納できたのですから、かなり羽振りが良かったと思われます。
→浅草神社の狛犬
(説明文)
「狛犬
狛犬は高麗犬とも書くコマというのは異国を意味しているので高麗の字を宛てたようである。
狛犬は石などで造り御殿や神社の前に据え置くもの、鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。
一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。
当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽の一対。
口を開けている方が阿で雄という口を閉じているのが雌。
何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。
残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。
浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の狛犬。
台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。
皆様も是非浅草神社でご覧下さい。
河原稲荷神社」
<千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑>
明治39(1906)年建設の碑が建っています。
(説明板)
「千住市場創立三百三十年碑
明治三十九年五月二十ニ日千住市場創業三百三十年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に三百三十台の盤台を積み上げ神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り各々に大鼓を備えつけこれを打鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿と呼ばれる大神輿をニ天で担ぎ少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には四米もの記念碑を「浅草北口睦」の十七名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場、今戸、吉野、地方、今戸、日本堤などの青果商の同業組合である。
記述の頭取とは会長、組合長で伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が三軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云いお祭りともなれば当番の問屋がニ、三軒潰れた。千貫神輿は現存する。
河原稲荷神社」
<福禄寿>
千寿七福神の開運福禄寿です。
<力石>
拝殿の下に、力石が3基並んでいます。
<石燈籠>
右の石燈籠には「日露戦捷紀念」とあります。日露戦役紀年は、石碑のほかに、鳥居、燈籠、砲弾など色々です。
<天水桶>
(説明板)
「天水槽
水槽は鋳鉄製で高さ八五cm直系九八cm上部の円周二八一cm下部の円周二六二・五cmでやや下へつぼまり上部に幅六cm厚さ六cmの縁取りがある。
千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。
嘉永三年(一八五○年)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。
水槽には青物問屋等の構員名が記名されている。右水槽二十九名、左水槽二十一名(重複除く)総計五十名。鋳造工らしき者二名、書は徹斎である。
御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する。
河原稲荷神社」
<社殿>
本殿裏
<神楽殿>
<神輿庫>
昭和44(1969)年の建立。金銅装神輿(通称やっちゃ場の千貫神輿)と、天保5(1834)年作の黒漆小形厨子(ともに足立区文化財)が保管されています。
(説明板)
「金銅装神輿(千貫神輿) 足立区登録文化財
金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい総高二三八・五センチ胴部高七ニ・五センチ基部方一二三・〇センチと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが実際の重量は四百五十貫でありこの大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が大勢いたので二天で担いだ神輿である。
河原稲荷神社」
(説明板)
「神道厨子
文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。昭和四十年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。祭礼の神輿が町内巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。
江戸後期の造形性がよく現れていて特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。中央に金銅扁額があり陰刻銘で表に「千住川原町」裏に「天保五甲午歳細工人錺師宮清」とある。
河原稲荷神社」
○やっちゃば緑道(足立市場専用線跡) 足立区千住河原町45-1〜千住仲町47
かつて、足立市場への貨物専用引込線だった国鉄足立市場線の跡がやっちゃば緑道として整備されています。つくばエクスプレスが後から割り込んできたため、押し出された常磐線が貨物線跡のスペースを使ったので、貨物線跡がすべて緑道になっているわけではありません。京成本線の橋下には、線路施設が残っています。足立市場の細長い建物には貨物線のプラットホームが残っています。
※やっちゃ場について、こちらに作成・アップしました。
芭蕉 矢立初の地(千住大橋)
松尾芭蕉 矢立初の地(千住大橋)
○江戸名所図会/浮世絵に見る千住大橋
「江戸名所図会 千住川/千住大橋」
「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)
「日光道中二」(広重)
「絵本江戸土産 千住川/大橋」(広重)
「日光御街道千住宿日本無類楠橋杭之風景本願寺行粧之図」(橋本貞秀 足立区立郷土博物館蔵」
徳川家康の250回忌に法会のために日光へと向かう東本門寺門跡(皇族)の一行が、千住大橋を渡っているところが描かれています。
「千住大橋吾妻橋洪水落橋之図」(歌川国明 明治18(1885)年 東京都立図書館蔵)
明治18(1885)年7月3日、大洪水で千住大橋が落橋し、流された千住大橋は吾妻橋に衝突し、2つの橋が流失しました。「千住大ハシ」と「吾妻ハシ」」が流されていく先には厩橋が描かれています。流される橋の上や岸で提灯を掲げ、半纏を着た水防組が活動しています。落橋した橋に縄をかけ岸に橋の残骸を厩橋の手前で引き寄せています。
【足立区】
○大橋 足立区千住橋戸町
「大橋舊橋」(足立区立郷土博物館蔵)
千住大橋の最後の木橋は、明治19(1886)年に架けられ、昭和2(1927)年に現在の鉄橋に変わりました。
架け替えの際、地元の有志が脚柱を譲り受け、仏像や縁起物に細工しました。
○大橋公園 足立区千住橋戸町31
「従千住花街眺望ノ不二碑」(北斎)
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。NPO法人千住文化普及会による顕彰碑が、平成28(2016)年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。
(説明文)
「冨嶽三十六景 「従千住花街眺望ノ不二」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」
・おくのほそ道矢立初の碑
(碑文)
「史跡 おくのほそ道矢立初の碑
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。」
(裏面)
「江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著わした俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている。
同書によれば、深川を舟で出発した芭蕉は、旧暦元禄ニ年(一六八九)三月二十七日、千住に上陸し旅立っていった。千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上り場であった。
千住は、寛永ニ年(一六ニ五)、三代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され、日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった。
街薄暑奥の細道こゝよりす 菖蒲園
昭和四十九年十月十二日 東京都足立区」
※菖蒲園は高浜虚子の直弟子で、やっちゃばの青物問屋の主人である為成善太郎の俳号です。
・おくのほそ道行程図
平成元(1989)年に、芭蕉が旅立ってから300年を記念して建てられたものです。
(説明文)
「元禄2年(1689)旧暦3月27日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644〜1694)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発しました。その行程は何と600里余り、日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。
この紀行が、元禄15年(1702)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。
芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かなたびに思いを馳せるよすがとしていただくため、「おくのほそ道行程図」を建てました。」
○千住大橋橋詰テラス(千住大橋際歴史資料空館) 足立区千住橋戸町31
・与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」
・千住の大橋と荒川の言い伝え
・千住の橋戸河岸
「千住の橋戸河岸」について、以下タイトルで8枚の説明板が並んでいます。
「橋戸河岸で陸揚げされた産物」「河川のうつりかわり」「潮待茶屋」「千住節(川越舟歌)」「川蒸気の登場」「千住の大橋 架橋と変遷」「明治四十三年 下町の大水害」「明治43年大洪水の写真3枚」
「川越夜舟」「千住節」「川蒸気の登場」について、こちらで別途記載しています。
・広重と北斎
右に「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)、左に「富嶽三十六景 武州千住」(北斎)が描かれています。
原典
・河番付/橋番付
隅田川は行司役、千住大橋は行司役です。
<千住大橋>
(説明板)
「千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(一五九四年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。
文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。
その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正一二年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし、震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和二年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。
町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。
その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅よりもまさる 千住の槇の杭」
古川柳
東京都・足立区」
・千住小橋
平成16年(2004年)8月に大橋下をくぐる全長31m、幅員2.6mの歩行者専用「千住小橋」が作られました。橋により堤防テラスが東西で分断されていたのが通過できるようになっています。千住小橋から下流は通行止めでしたが、現在はフェンスは取り払われテラスが繋がっています。
千住小橋は、旧日光街道と江川堀の交差に架かっていた橋です。本宿と掃部宿の境である現在の大踏切通りと旧日光街道の交差点(松尾芭蕉が立っています)にありました(足立区千住1-4-16〜1-24-3)。江川掘は昭和6(1931)年頃に暗渠となり、千住小橋も撤去されました。
・木杭
高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていて千住小橋の橋上から、遺構を確認することができます。
(説明板)
「水面に浮かぶ三個のブイの謎】
それは木橋時代の橋杭が水中に三本眠っている事を示している。
千住の大橋は徳川家康が文禄三年(一五九四)に隅田川に初めて架けた橋で橋の木材は架橋を進言したという伊達政宗が腐食に強いとされる高野槇を提供したという。
昭和二年に震災復興計画で木橋より頭上の鉄橋に掛替た時に残った橋杭である。
その水中より引抜かれた橋杭を材料にして千住生まれの彫刻家冨岡芳堂(一八九○~一九三七)が恵比寿大黒天などを作っている。
これらの作品は現在も元やっちゃ場の家々を中心に千住の町家に大切に保存されている。
※戦前までは橋杭は小学校の校庭の片隅に有り子供達の遊び場だったが戦争の困乱時に鉄は供出木はかまどで灰になった。
(3本の内ぜひ1本引抜いて見たいものである)
千住大賑会・河原」
・御上がり場
千住小橋を渡ると、将軍や日光門主が利用した「千住大橋際御上がり場」があります。
(説明板)
「御上り場
将軍家日光門主(別掲参照)など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際御上り場である。
将軍家が千住近郊の鷹場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用されていた。」
「日光門主
日光門主は別名輪王寺宮上野の森宮様と呼ばれ日光山のみならず東叡山寛永寺、比叡山延暦寺の門主を兼ね、天台座主の地位を併せ持つ宗教的権威の頂点にいた人物である。 日光道中でもっとも重視されていたのは日光と江戸を三回往復する日光門主の通行である。」
・御城(江戸城)より千住大橋際御上り場までの絵図
・千住大橋之図
嘉永元(1848)年「千住大橋之図」が掲げられています。12代将軍徳川家慶の御成船が到着する様子が描かれています。千住大橋の北に、千住小橋も描かれています。
(説明文)
「千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着くようす
この図は小金原で行われた鹿狩に向かう将軍が千住に到着するようすを描いた図です。描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。当時の将軍は12代将軍の家慶でした。
「小金野鹿狩之記」(独立行政法人国立公文書館蔵)所蔵」
・千住大橋親柱
○千住奥の細道プチテラス 足立区千住橋戸町50
・矢立初の芭蕉像
・芭蕉句碑 「鮎の子のしら魚送る別哉」
・菖蒲園句碑 「街薄暑奥の細道こゝよりす」
【荒川区】
○大橋 荒川区南千住6丁目
千住大橋の右岸(南)です。千住大橋親柱、「千住大橋」東京都石碑、「千住大橋」「千住の河岸」の荒川区の案内板、「八紘一宇」の石碑があります。
・大橋
・千住大橋親柱
・「千住大橋」東京都石碑
・「千住大橋」荒川区説明板
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
千住大橋
文禄三年(一五九四)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
現在の鋼橋は、昭和二年(一九ニ七)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
千住の大はし「名所江戸百景」(荒川ふるさと文化館蔵)
荒川区教育委員会」
・「千住の河岸」荒川区説明板 荒川区南千住6-71
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
千住の河岸
江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化ニ年(一八四五)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。
荒川区教育委員会」
・「八紘一宇」の石碑
「陸軍大将 林銑十郎書」
「林銑十郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治9(1876)年2月23日〜昭和18(1943)年2月4日
○千住宿(下宿) 荒川区南千住7-16-3 説明板
こちらで記載
○熊野神社 荒川区南千住6-70
創建は永承5(1050)年、源義家の勧請によると伝えられます。千住の材木商が寄進した手水鉢、灯籠があります。説明板は門外にありますが、境内は門が施錠されているので、デジカメズームで撮影。素盞雄神社の境外社で、熊野神社例祭(10月15日)には開放されるようです。
(説明文)
「あらかわの史跡・文化財
熊野神社
創建は永承五年(一〇五〇)、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年(一五九四)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。
荒川区教育委員会」
○日慶寺 荒川区南千住7-15-4
江戸切絵会の千住大橋に、熊野神社と日慶寺が記されています。江戸時代、有名だったようです。歴代上人の墓には、葵の紋が刻まれています。
元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺が御膳所にあてられました。他の歴代将軍は、三河島の観音寺か法界寺を御膳所としましたが、鷹が逃げる鶴を捕えた場所はたいてい公春院辺りだったので、家重には障害があり移動距離が短くてすむ日慶寺を御膳所としたのかもしれません。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
日慶寺の鬼子母神
天文(一五三ニ〜五五)の頃、日慶という比丘尼(びくに)が谷中に日慶寺を草創した。その後、三代将軍家光に仕えた円心院日相尼(にっそうに)が、宝永元年(一七○四)、千住南字砂尾と呼ばれたこの土地に、当時荒廃していた谷中日慶寺の遺号を引継ぎ、当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。現存する鬼子母神像は、運慶作・家光感得といわれ、五代将軍綱吉から、開山日相尼へ下賜されたものと伝える。宝暦九年(一七五九)には、芝金杉(港区)円珠寺において、出開帳が行われている。また、区内最古で、釈迦の種子のある、正応ニ年(一二八九)四月日銘板碑を所蔵する。
元文元年(一七三六)、九代将軍家重が三河島筋で鷹狩を行った際には、当寺が御膳所にあてられている。
荒川区教育委員会」
「江戸名所図会」
「江戸名所図会」の「飛鳥社小塚原天王宮」と「千住大橋」から、日慶寺が描かれている部分の抜粋です。「千住海道」と記された「日光道中」に面した表参道の先に「日慶寺」が描かれています。
○素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1
加筆したので、素盞雄神社①と素盞雄神社②で記載しています。
○若宮八幡神社 荒川区南千住6-35-8
源義家が荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたところと伝えらています。渡裸の渡しは、現在の千住大橋のやや上流にあり、奥州古道が通っていた場所です。若宮八幡神社は、素盞雄神社の境外社となっています。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説
若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が、荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。
婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け、平成十四年に社殿の新造営が行われた。
荒川区教育委員会」
○南千住駅西口駅前広場「松尾芭蕉の銅像」 荒川区南千住4丁目
こちらに上記で作成しました。
○芭蕉は荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか?
・芭蕉は大橋で船から上がりました。荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか定かではありません。
・足立区は、千住大橋北詰の大橋公園内に「奥の細道矢立て初めの碑」を立て、芭蕉の壁画を描き、 「奥の細道サミット」を開催しています。
東京都中央卸売市場足立市場の一画に芭蕉の石像を建て、「千住宿奥の細道プチテラス」を整備しています。
・荒川区は、「奥の細道矢立て初めの俳句大会」、「結びの地」岐阜県大垣市の小学生を招いた「俳句相撲大会」、南千住駅に芭蕉像を建立など、巻き返しを図っています。
・芭蕉が深川の芭蕉庵を出立したのは、元禄二年(1689)の「弥生も末の七日」(陽暦5月16日)でした。
「奥の細道随行記」(曾良)では「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住二揚ル。」と記されています。
記述の相違について、出立が20日か27日かで、様々な説が出されましたが、1987(昭和62)年に芭蕉直筆の書簡が発見され、芭蕉は23日は深川にいたことが明らかになりました。
・曾良の日記によれば、3月20日朝、深川を出船して、午前11時半(巳ノ下刻)に千住に上がります。3月27日朝、千住を出立し、粕壁に3月27日夜到着します。 芭蕉と曾良の記述が両方正しいとすれば、曾良が芭蕉に先行して出発し、27日千住で合流したと解することもできるでしょう。
・出発の前に手紙を出す「飛脚問屋」などが北岸にあり、当時の船着き場は北岸でした。将軍の御成船の御上がり場も北岸です。北岸で下船したと考えるのが順当でしょう。
・さて、芭蕉は「奥の細道」で、黒羽に14日間と最も長逗留しています。旅立つ前からある程度相談されていた日程とも思われます。
黒羽では歓待を受け、高久へ向かうに当たり馬と人をつけてもらったりもしています。宿泊先は、芭蕉の門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)邸とその弟鹿子畑豊明(翠桃)邸でした。兄は桃雪(とうせつ)、弟は翠桃(すいとう)の俳号を、芭蕉(俳号「桃青(とうせい)」) から与えられています。
・黒羽藩の下屋敷は、大関横丁にありました。
曾良は千住に逗留中、黒羽藩下屋敷に行っているかもしれませんね。
・大橋の南に鎮座する素盞雄神社には、文政3年(1820年)の芭蕉忌に奉納された句碑があります。
千住河原町の青物問屋で文人の山崎鯉隠が建立したもので、句碑下部に芭蕉座像が刻まれており、「関谷の巣兆」と呼ばれた建部巣兆の筆です。
・巣兆は千住藤沢家の養子となり隠居して関谷の里に秋香庵を構えました。
江戸時代のやっちゃ場(現足立区)の住人が現荒川区に句碑を建てたわけです。当時の人々の認識は、千住は川の北も南も含めて千住と認識していたのでしょう。あるいは、南千住から旅立ったという認識があったのかとも考えられます。
・推論をまとめると、芭蕉は千住の大橋の北側で船を下りた。
江戸時代に足立区の住人が荒川区に芭蕉句碑を建てており、当時の関係者の認識は、千住は北も南も含めて千住と認識していたので、 川の北とか南とか区別していなかったと解します。
○江戸名所図会/浮世絵に見る千住大橋
「江戸名所図会 千住川/千住大橋」
「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)
「日光道中二」(広重)
「絵本江戸土産 千住川/大橋」(広重)
「日光御街道千住宿日本無類楠橋杭之風景本願寺行粧之図」(橋本貞秀 足立区立郷土博物館蔵」
徳川家康の250回忌に法会のために日光へと向かう東本門寺門跡(皇族)の一行が、千住大橋を渡っているところが描かれています。
「千住大橋吾妻橋洪水落橋之図」(歌川国明 明治18(1885)年 東京都立図書館蔵)
明治18(1885)年7月3日、大洪水で千住大橋が落橋し、流された千住大橋は吾妻橋に衝突し、2つの橋が流失しました。「千住大ハシ」と「吾妻ハシ」」が流されていく先には厩橋が描かれています。流される橋の上や岸で提灯を掲げ、半纏を着た水防組が活動しています。落橋した橋に縄をかけ岸に橋の残骸を厩橋の手前で引き寄せています。
【足立区】
○大橋 足立区千住橋戸町
「大橋舊橋」(足立区立郷土博物館蔵)
千住大橋の最後の木橋は、明治19(1886)年に架けられ、昭和2(1927)年に現在の鉄橋に変わりました。
架け替えの際、地元の有志が脚柱を譲り受け、仏像や縁起物に細工しました。
○大橋公園 足立区千住橋戸町31
「従千住花街眺望ノ不二碑」(北斎)
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。NPO法人千住文化普及会による顕彰碑が、平成28(2016)年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。
(説明文)
「冨嶽三十六景 「従千住花街眺望ノ不二」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」
・おくのほそ道矢立初の碑
(碑文)
「史跡 おくのほそ道矢立初の碑
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。」
(裏面)
「江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著わした俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている。
同書によれば、深川を舟で出発した芭蕉は、旧暦元禄ニ年(一六八九)三月二十七日、千住に上陸し旅立っていった。千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上り場であった。
千住は、寛永ニ年(一六ニ五)、三代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され、日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった。
街薄暑奥の細道こゝよりす 菖蒲園
昭和四十九年十月十二日 東京都足立区」
※菖蒲園は高浜虚子の直弟子で、やっちゃばの青物問屋の主人である為成善太郎の俳号です。
・おくのほそ道行程図
平成元(1989)年に、芭蕉が旅立ってから300年を記念して建てられたものです。
(説明文)
「元禄2年(1689)旧暦3月27日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644〜1694)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発しました。その行程は何と600里余り、日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。
この紀行が、元禄15年(1702)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。
芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かなたびに思いを馳せるよすがとしていただくため、「おくのほそ道行程図」を建てました。」
○千住大橋橋詰テラス(千住大橋際歴史資料空館) 足立区千住橋戸町31
・与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」
・千住の大橋と荒川の言い伝え
・千住の橋戸河岸
「千住の橋戸河岸」について、以下タイトルで8枚の説明板が並んでいます。
「橋戸河岸で陸揚げされた産物」「河川のうつりかわり」「潮待茶屋」「千住節(川越舟歌)」「川蒸気の登場」「千住の大橋 架橋と変遷」「明治四十三年 下町の大水害」「明治43年大洪水の写真3枚」
「川越夜舟」「千住節」「川蒸気の登場」について、こちらで別途記載しています。
・広重と北斎
右に「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)、左に「富嶽三十六景 武州千住」(北斎)が描かれています。
原典
・河番付/橋番付
隅田川は行司役、千住大橋は行司役です。
<千住大橋>
(説明板)
「千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(一五九四年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。
文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。
その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正一二年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし、震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和二年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。
町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。
その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅よりもまさる 千住の槇の杭」
古川柳
東京都・足立区」
・千住小橋
平成16年(2004年)8月に大橋下をくぐる全長31m、幅員2.6mの歩行者専用「千住小橋」が作られました。橋により堤防テラスが東西で分断されていたのが通過できるようになっています。千住小橋から下流は通行止めでしたが、現在はフェンスは取り払われテラスが繋がっています。
千住小橋は、旧日光街道と江川堀の交差に架かっていた橋です。本宿と掃部宿の境である現在の大踏切通りと旧日光街道の交差点(松尾芭蕉が立っています)にありました(足立区千住1-4-16〜1-24-3)。江川掘は昭和6(1931)年頃に暗渠となり、千住小橋も撤去されました。
・木杭
高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていて千住小橋の橋上から、遺構を確認することができます。
(説明板)
「水面に浮かぶ三個のブイの謎】
それは木橋時代の橋杭が水中に三本眠っている事を示している。
千住の大橋は徳川家康が文禄三年(一五九四)に隅田川に初めて架けた橋で橋の木材は架橋を進言したという伊達政宗が腐食に強いとされる高野槇を提供したという。
昭和二年に震災復興計画で木橋より頭上の鉄橋に掛替た時に残った橋杭である。
その水中より引抜かれた橋杭を材料にして千住生まれの彫刻家冨岡芳堂(一八九○~一九三七)が恵比寿大黒天などを作っている。
これらの作品は現在も元やっちゃ場の家々を中心に千住の町家に大切に保存されている。
※戦前までは橋杭は小学校の校庭の片隅に有り子供達の遊び場だったが戦争の困乱時に鉄は供出木はかまどで灰になった。
(3本の内ぜひ1本引抜いて見たいものである)
千住大賑会・河原」
・御上がり場
千住小橋を渡ると、将軍や日光門主が利用した「千住大橋際御上がり場」があります。
(説明板)
「御上り場
将軍家日光門主(別掲参照)など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際御上り場である。
将軍家が千住近郊の鷹場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用されていた。」
「日光門主
日光門主は別名輪王寺宮上野の森宮様と呼ばれ日光山のみならず東叡山寛永寺、比叡山延暦寺の門主を兼ね、天台座主の地位を併せ持つ宗教的権威の頂点にいた人物である。 日光道中でもっとも重視されていたのは日光と江戸を三回往復する日光門主の通行である。」
・御城(江戸城)より千住大橋際御上り場までの絵図
・千住大橋之図
嘉永元(1848)年「千住大橋之図」が掲げられています。12代将軍徳川家慶の御成船が到着する様子が描かれています。千住大橋の北に、千住小橋も描かれています。
(説明文)
「千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着くようす
この図は小金原で行われた鹿狩に向かう将軍が千住に到着するようすを描いた図です。描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。当時の将軍は12代将軍の家慶でした。
「小金野鹿狩之記」(独立行政法人国立公文書館蔵)所蔵」
・千住大橋親柱
○千住奥の細道プチテラス 足立区千住橋戸町50
・矢立初の芭蕉像
・芭蕉句碑 「鮎の子のしら魚送る別哉」
・菖蒲園句碑 「街薄暑奥の細道こゝよりす」
【荒川区】
○大橋 荒川区南千住6丁目
千住大橋の右岸(南)です。千住大橋親柱、「千住大橋」東京都石碑、「千住大橋」「千住の河岸」の荒川区の案内板、「八紘一宇」の石碑があります。
・大橋
・千住大橋親柱
・「千住大橋」東京都石碑
・「千住大橋」荒川区説明板
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
千住大橋
文禄三年(一五九四)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
現在の鋼橋は、昭和二年(一九ニ七)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
千住の大はし「名所江戸百景」(荒川ふるさと文化館蔵)
荒川区教育委員会」
・「千住の河岸」荒川区説明板 荒川区南千住6-71
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
千住の河岸
江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化ニ年(一八四五)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。
荒川区教育委員会」
・「八紘一宇」の石碑
「陸軍大将 林銑十郎書」
「林銑十郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治9(1876)年2月23日〜昭和18(1943)年2月4日
○千住宿(下宿) 荒川区南千住7-16-3 説明板
こちらで記載
○熊野神社 荒川区南千住6-70
創建は永承5(1050)年、源義家の勧請によると伝えられます。千住の材木商が寄進した手水鉢、灯籠があります。説明板は門外にありますが、境内は門が施錠されているので、デジカメズームで撮影。素盞雄神社の境外社で、熊野神社例祭(10月15日)には開放されるようです。
(説明文)
「あらかわの史跡・文化財
熊野神社
創建は永承五年(一〇五〇)、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年(一五九四)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。
荒川区教育委員会」
○日慶寺 荒川区南千住7-15-4
江戸切絵会の千住大橋に、熊野神社と日慶寺が記されています。江戸時代、有名だったようです。歴代上人の墓には、葵の紋が刻まれています。
元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺が御膳所にあてられました。他の歴代将軍は、三河島の観音寺か法界寺を御膳所としましたが、鷹が逃げる鶴を捕えた場所はたいてい公春院辺りだったので、家重には障害があり移動距離が短くてすむ日慶寺を御膳所としたのかもしれません。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
日慶寺の鬼子母神
天文(一五三ニ〜五五)の頃、日慶という比丘尼(びくに)が谷中に日慶寺を草創した。その後、三代将軍家光に仕えた円心院日相尼(にっそうに)が、宝永元年(一七○四)、千住南字砂尾と呼ばれたこの土地に、当時荒廃していた谷中日慶寺の遺号を引継ぎ、当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。現存する鬼子母神像は、運慶作・家光感得といわれ、五代将軍綱吉から、開山日相尼へ下賜されたものと伝える。宝暦九年(一七五九)には、芝金杉(港区)円珠寺において、出開帳が行われている。また、区内最古で、釈迦の種子のある、正応ニ年(一二八九)四月日銘板碑を所蔵する。
元文元年(一七三六)、九代将軍家重が三河島筋で鷹狩を行った際には、当寺が御膳所にあてられている。
荒川区教育委員会」
「江戸名所図会」
「江戸名所図会」の「飛鳥社小塚原天王宮」と「千住大橋」から、日慶寺が描かれている部分の抜粋です。「千住海道」と記された「日光道中」に面した表参道の先に「日慶寺」が描かれています。
○素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1
加筆したので、素盞雄神社①と素盞雄神社②で記載しています。
○若宮八幡神社 荒川区南千住6-35-8
源義家が荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたところと伝えらています。渡裸の渡しは、現在の千住大橋のやや上流にあり、奥州古道が通っていた場所です。若宮八幡神社は、素盞雄神社の境外社となっています。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説
若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が、荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。
婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け、平成十四年に社殿の新造営が行われた。
荒川区教育委員会」
○南千住駅西口駅前広場「松尾芭蕉の銅像」 荒川区南千住4丁目
こちらに上記で作成しました。
○芭蕉は荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか?
・芭蕉は大橋で船から上がりました。荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか定かではありません。
・足立区は、千住大橋北詰の大橋公園内に「奥の細道矢立て初めの碑」を立て、芭蕉の壁画を描き、 「奥の細道サミット」を開催しています。
東京都中央卸売市場足立市場の一画に芭蕉の石像を建て、「千住宿奥の細道プチテラス」を整備しています。
・荒川区は、「奥の細道矢立て初めの俳句大会」、「結びの地」岐阜県大垣市の小学生を招いた「俳句相撲大会」、南千住駅に芭蕉像を建立など、巻き返しを図っています。
・芭蕉が深川の芭蕉庵を出立したのは、元禄二年(1689)の「弥生も末の七日」(陽暦5月16日)でした。
「奥の細道随行記」(曾良)では「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住二揚ル。」と記されています。
記述の相違について、出立が20日か27日かで、様々な説が出されましたが、1987(昭和62)年に芭蕉直筆の書簡が発見され、芭蕉は23日は深川にいたことが明らかになりました。
・曾良の日記によれば、3月20日朝、深川を出船して、午前11時半(巳ノ下刻)に千住に上がります。3月27日朝、千住を出立し、粕壁に3月27日夜到着します。 芭蕉と曾良の記述が両方正しいとすれば、曾良が芭蕉に先行して出発し、27日千住で合流したと解することもできるでしょう。
・出発の前に手紙を出す「飛脚問屋」などが北岸にあり、当時の船着き場は北岸でした。将軍の御成船の御上がり場も北岸です。北岸で下船したと考えるのが順当でしょう。
・さて、芭蕉は「奥の細道」で、黒羽に14日間と最も長逗留しています。旅立つ前からある程度相談されていた日程とも思われます。
黒羽では歓待を受け、高久へ向かうに当たり馬と人をつけてもらったりもしています。宿泊先は、芭蕉の門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)邸とその弟鹿子畑豊明(翠桃)邸でした。兄は桃雪(とうせつ)、弟は翠桃(すいとう)の俳号を、芭蕉(俳号「桃青(とうせい)」) から与えられています。
・黒羽藩の下屋敷は、大関横丁にありました。
曾良は千住に逗留中、黒羽藩下屋敷に行っているかもしれませんね。
・大橋の南に鎮座する素盞雄神社には、文政3年(1820年)の芭蕉忌に奉納された句碑があります。
千住河原町の青物問屋で文人の山崎鯉隠が建立したもので、句碑下部に芭蕉座像が刻まれており、「関谷の巣兆」と呼ばれた建部巣兆の筆です。
・巣兆は千住藤沢家の養子となり隠居して関谷の里に秋香庵を構えました。
江戸時代のやっちゃ場(現足立区)の住人が現荒川区に句碑を建てたわけです。当時の人々の認識は、千住は川の北も南も含めて千住と認識していたのでしょう。あるいは、南千住から旅立ったという認識があったのかとも考えられます。
・推論をまとめると、芭蕉は千住の大橋の北側で船を下りた。
江戸時代に足立区の住人が荒川区に芭蕉句碑を建てており、当時の関係者の認識は、千住は北も南も含めて千住と認識していたので、 川の北とか南とか区別していなかったと解します。
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