墓所・霊廟
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山崎闇斎は、人間の心(心神)は、即ち天神と同源であり同一であるとの思想から、自らの心神を自宅の祠に祀った(生祀)。社名は、闇斎の霊社号と同じ、垂加霊社。のちに下御霊神社の境内に遷座して、猿田彦神社に合祀され、現存している。 墓所は、京都市左京区黒谷町の金戒光明寺にある。
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墓所・霊廟
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京都市山科区にある「西野山古墓」は、昭和48年(1973年)に地元の歴史考古学研究家である鳥居治夫が、条里制の復元研究結果にもとづき同墓が坂上田村麻呂の墓である可能性を指摘した。平成19年(2007年)、京都大学大学院文学研究科教授の吉川真司が清水寺縁起の弘仁2年(811年)10月17日付の太政官符表題の記述と当時の地図(条里図)を基にした山城国宇治郡山科郷古図(東京大学蔵)とを照合することで坂上田村麻呂墓説を裏付けた。また山科西野山古墳出土品のうち革帯飾石は三位以上および四位参議が用いた白玉の可能性が高く、鉄鏃の出土は弓矢の副葬を意味している。また瓦硯の年代は長岡京期から平安時代初期とされている。このことから被葬者は8世紀末から9世紀初頭に死去した公卿クラスの上級貴族であり、武官であったと考えられ、位置・年代・内容のどれをとっても坂上田村麻呂と一致する。現在では西野山古墓が墓所と推定されている。 京都市東山区の清水寺本堂近くにある「開山堂(田村堂)」では、清水寺創建の大本願として堂内中央の須弥檀上の厨子内に坂上田村麻呂公夫妻の像が祀られている。 京都市東山区の東山にある「将軍塚」は、古墳時代の円墳3基からなる将軍塚古墳群のうち京を見下ろす東山の峰の華頂山に築かれた古墳であるが、いつごろからか王城鎮護の守護神とされた坂上田村麻呂のイメージが投影されて田村麻呂の塚墓と考えられ習合されるようになり、『田邑麻呂伝記』に記された国家に非常時があれば塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴るとの田村麻呂の塚墓にまつわる伝説が、中世以降に田村麻呂の塚墓と混同や同一視された将軍塚にも将軍塚鳴動の伝承として付会された。 宮城県遠田郡涌谷町の箟峯寺と宮城県石巻市の零羊崎神社には、文化7年の坂上田村麻呂没後1000年の年忌に供養塔が建立されている。 京都市山科区の坂上田村麻呂公園内にある「坂上田村麻呂之墓」は、明治28年(1895年)の平安遷都千百年祭にさいし田村麻呂の墓として整備されたが、現在では栗栖野丘陵一帯に広がる中臣遺跡のひとつで中臣氏の有力者の墓と考えられている。墓碑には丸に抱き茗荷紋が刻まれている。
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墓所・霊廟
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兵庫県姫路市の圓教寺に本多家廟屋があり、忠国の廟所は宝永元年(1704年)に建立された。
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墓所・霊廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 02:26 UTC 版)
謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られたといわれる。この遺骸は当初春日山城内の不識院に埋葬され、林泉寺に供養塔が建立された。通説では長尾上杉家の転封に伴って、若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。明治維新後は米沢藩歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。春日山林泉寺(新潟県上越市)と岩殿山明静院(新潟県上越市)と高野山と栃尾美術館の前庭(新潟県長岡市)にも供養塔が残されている。 また、江戸時代の米沢藩では謙信は藩祖として崇敬を集めた。明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に創建された上杉神社(別格官幣社)に上杉鷹山と共に祀られ、明治35年に別格官幣社に昇格し、神体は謙信一柱となった(なお上杉鷹山は、松岬神社にて上杉景勝、直江兼続らと共に祀られるようになった)。明治41年(1908年)9月9日には、従二位が贈られた。 なお、直江兼続は上杉遺民一揆の際に越後国内の旧臣らを扇動する際、「上杉謙信公の墓を守れ」という檄文を使ったとされている。
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墓所・霊廟
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雲龍寺(首塚):三木市上の丸町毎年祥月命日の1月17日には法要が営まれ、飢餓に喘いだ城兵が藁を食したという故事にちなんで藁に見立てたうどんが振るまわれる。 法界寺(霊廟、別所家菩提寺):三木市別所町東這田月命日にあたる4月17日に追悼法要が営まれており、当時の合戦の様子を語る「三木合戦絵解き」が行われている。 その他、毎年5月5日には長治を偲ぶ「別所公春祭」が催され辞世の歌碑を前にした歌碑祭の他、武者行列などのイベントが行われる。
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墓所・霊廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 02:52 UTC 版)
墓所 - 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている。 霊廟 - 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の久昌寺の義公廟がある。 奉斎神社 - 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀る。 瑞龍山 義公廟
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墓所・霊廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:59 UTC 版)
『本光国師日記』によると、家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言に従い、葬儀は5月17日に増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられた。この葬儀は神として祀られたため内々で行われ、諸大名の参列・香典は無用、僧も近国からのみの参集であった。 遺体は駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、遺言通り、一周忌を経て関東平野の最北部にある日光の東照社に分霊された。天海指揮による日光への改葬説が、幕府文献などにも「改葬」と記述されていたため広く信じられてきたが、近年になってその矛盾を指摘する議論・研究が盛んとなり、日光へ運ばれた「神柩」の中に遺体はなかったとする説が有力となっている。 神号は側近の天海と崇伝、神龍院梵舜の間で、権現と明神のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされた。この後、小槻孝亮が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示し、また一説によると菊亭晴季も「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した。日本大権現が有力候補であったが、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。 また、東照社は今川直房と酒井忠勝の尽力により正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。 徳川家康の埋葬地としての「墓所」は一般に、久能山東照宮の廟所宝塔(神廟)と、日光東照宮の奥社宝塔の2つとされる。徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は、「徳川家康公顕彰四百年記念事業」に際して静岡商工会議所の広報誌に連載したコラムで、「日本各地で開催された家康公の四百忌の大祭は、駿府で築かれた公の御墓所である久能山東照宮の大祭からスタートし」と書き記した。徳川将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる。 久能山東照宮の廟所宝塔 元和2年(1616年)に創建された。創建当初は木造桧皮葺の造りであったが、寛永17年(1640年)に家光により現在の石造宝塔に造替された。「神廟」ともいう。家康の遺命により西向きに建てられている。1955年6月22日に重要文化財に指定された。 日光東照宮の奥社宝塔 元和3年(1617年)4月に日光の社殿が完成し、4月8日に家康は奥院廟塔に改葬された。そして一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。奥社宝塔は「ほくしゃほうとう」と読む[要出典]。1908年8月1日に旧国宝(重要文化財)に指定された。 その他 寛永20年(1643年)、将軍家光は高野山に10年の歳月をかけて、家康と秀忠を祀る霊屋(徳川家霊台)を建てた。向かって右の建物が家康霊屋である。1926年4月19日に旧国宝(重要文化財)に指定された。 1969年4月、松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺において、松平八代墓の隣に家康の墓碑が建てられた。形は久能山東照宮の廟所宝塔にも日光東照宮の奥社宝塔にも似ているが、実際には日光東照宮の宝塔を模して制作された。 久能山東照宮の神廟 日光東照宮の奥社宝塔 徳川家霊台の家康霊屋 大樹寺の家康公墓碑
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墓所・霊廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:42 UTC 版)
兵庫県姫路市の圓教寺に本多家廟屋があり、忠政の廟所は寛永8年(1631年)に建立された。
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墓所・霊廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:42 UTC 版)
兵庫県姫路市の圓教寺に本多家廟屋があり、忠政の廟所は寛永15年(1638年)に建立された。
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